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ビルマ

人権状況に関する国別報告書(2006年版)
米国国務省民主主義・人権・労働局
2007年3月6日

本報告書について

 米国国務省は世界各国の人権状況について年次報告書を毎年3月に刊行しています。ここに訳出したのは、2006年1月〜12月のビルマの動向を扱った最新版です。日本語にして原稿用紙百数十枚に及ぶ情報を網羅的に提供している報告書は、国連人権委員会や総会での特別報告者の報告など若干の例外を除くと存在しません。
 とはいえ、この大部な報告書をもってしても、カバーできた事例はごくごく一部です。なぜなら、こうした報告書では、記述全体の信頼性を確保するために、それが実際に起きたことが立証できない事例、すなわちある一定の基準から外れた(すなわち「立証不可能」な)事例の収録を見送るからです。
 他にビルマの人権状況を伝えるまとまった資料としては、昨年版の人権状況報告書と、事例は古くなってしまいましたが『ビルマの人権』(明石書店、2000年)があります。各方面で広く利用していただければ幸いです。なお、この翻訳は以下のPDF版(http://www.burmainfo.org/usa/usds_CRHRP2006-Burma_jp.pdf)を正本とします。

 今回の翻訳に際して、いつもと変わらずお力添えいただいた方々に対し、この場を借りてお礼申し上げます。

箱田徹(報告書翻訳担当)


目次

(目次は訳者作成)

セクション1 人としての全体性の尊重 以下の事項からの自由を含む
 a.恣意的あるいは非合法的な生命の剥奪
 b.失踪
 c.拷問、その他の残虐または非人道的、非常に侮辱的な処遇または刑罰
  刑務所と収容施設の環境
 d.恣意的な逮捕または拘束
  警察と治安組織の役割
  逮捕と拘束
  特赦
 e.公正な公開裁判の否定
  審理手続
  政治囚と政治的な理由による被収容者
  民事訴訟法と賠償制度
 f.プライバシー、家族、自宅、通信への恣意的な干渉
 g.国内外の紛争での過度の武力使用と人道法違反
セクション2 市民的自由の尊重 以下の事項を含む
 a.言論と報道の自由
  インターネットの自由
  学問の自由と文化行事
 b.平和的な集会と結社の自由
  集会の自由
  結社の自由
 c.信教の自由
  社会的虐待と社会的差別
 d.国内移動、外国渡航、移民、帰還の自由
  国内避難民(IDP)
  難民保護
セクション3 政治的諸権利の尊重:市民が体制を変更する権利
  選挙と政治参加
  政府の汚職と透明性
セクション4 人権侵害が疑われる事例に関して国際機関あるいは非政府組織が行う調査への政府の態度
セクション5 差別、社会的抑圧および人身売買
  女性
  子ども
  人身売買
  障碍者
  国籍、人種、民族に基づく少数者
  その他の社会的虐待と差別
セクション6 労働者の権利
 a.結社の権利
 b.労働者の組織化と団体交渉の権利
 c.強制労働の禁止
 d.児童労働の禁止と就業の最低年齢
 e.好ましい労働条件
日本語版付録
 地名対照表
 略号対照表(アルファベット順)

 ビルマ(推定人口5400万)では1962年以来、多数派民族集団のビルマ民族が権力を掌握する独裁度の高い軍事政権による支配が続いている。タンシュエ上級将軍を元首とする国家平和開発評議会(SPDC)が事実上の政府であり、下部組織として行政単位(管区、民族州、市、郡、区、村)毎に平和開発評議会(PDC)がある。軍人が政府のあらゆるレベルで最終的な決定権を持っていた。1990年には総選挙が行われ、民主化政党が総議席の8割以上を獲得したが、軍政はこの結果を認めていない。軍政は国内の軍事力を、若干の反政府武装組織を除き、完全に掌握している。

 政府による人権侵害は2006年に悪化した。政府は国民が体制を変更する権利を制限していた。政府は「88世代学生グループ」の民主化活動家の指導者5人を拘束した。政府は、赤十字国際委員会(ICRC)に対して、立会人なしで囚人と面会することを許可しなかった。国軍は、バゴー管区とカレン州で民族的少数者集団に属する住民への攻撃を増加させた。目的は先祖伝来の土地から追い出すことだった。さらに政府は、超法規的処刑、拘束中の死亡、失踪、強かん、拷問などの深刻な人権侵害行為を続けた。また政府は囚人や被収容者に対して、虐待を行い、大変過酷で命を落としかねない環境下で収容し、外部との連絡を絶った状態での拘禁を日常的に行い、政治目的での恣意的な投獄も行った。国民民主連盟(NLD)のアウンサンスーチー書記長とティンウー副議長の自宅軟禁は継続された。政府当局は国民のプライバシーを日常的に侵害し、強制移住をこれまでよりも頻繁に行った。政府は言論と集会、結社、宗教、移動の自由を制限した。政府は国内の人権NGOが政府からの干渉を受けずに活動することを許さず、国際NGOは敵対な環境での活動を強いられた。女性への暴力と社会的差別は引き続き存在し、女性への暴力と社会的差別、子ども兵士の強制徴用、民族的少数者への差別、人身売買、特に女性や少女の人身売買も同じく存在した。労働者の権利は制限された状態が続き、子どもを含む強制労働も存続していた。

 民族武装勢力も、国軍より小規模だったとされるが、強制労働などの人権侵害を行ったとの報告がある。いくつかの停戦組織について、自らの支配地域内で住民を強制移住させるなどの人権侵害を行ったとの報告があった。武装集団と停戦組織は共に子ども兵士の強制徴用を行った。

人権の尊重

セクション1 人としての全体性の尊重 以下の事項からの自由を含む

a.恣意的あるいは非合法的な生命の剥奪

 2006年には、囚人が拘束中に死亡した事件が複数起き、中には不審な状況下での死亡例もあった。政府は死亡事件の責任者を罰しなかった。

 1月27日、ヤカイン州アンの労働キャンプの刑務所当局が囚人一人を撲殺した。この囚人は、道路建設作業中の休憩をとがめて自分を殴った刑務官を殺害していた。

 3月17日、政府関係の「消防団」の団員と、警官のティンマウンウー、ミョウミンウーは元政治囚テッナインウーを公然と撲殺したと伝えられた。

 3月25日、マンダレー警察はウェイピョーナウン氏を薬物密輸容疑で逮捕した。氏は暴力的な取り調べを受け、翌日に留置所内で死亡した。警察は房内で縊死したと主張したが、検死結果から拷問と暴行の証拠が明らかになった。

 6月18日、バゴー管区ミョウフラ警察署のゾールウィン警部補はニョウチー氏と生後8カ月の子どもを、容疑を告げずに逮捕した。翌日、警察は子どもを夫に引き渡し、妻は心臓発作で死亡したと告げた。検死結果から暴行によって重傷を負っていたことが明らかになった。

 7月16日、エイヤワディー管区エインメ郡タークンセイッ村に住むスティンポー氏ら18人が逮捕され、カレン民族連合(KNU)のシンパと思しきある人物との接点があるとして、パテイン軍司令部に連行された。氏は7月19日に、軍事保安局長事務所(MAS)[1]が尋問中に行った拷問により死亡した。妻のフトーベーセー氏と6人の子どもには補償として40万チャット(309ドル、約3万5千5百円)が支払われたと伝えられる。同局は他の16人を釈放した。厳しい尋問を受けたため、全員がひどい心的外傷を負っていた。

 このような拘束中の死亡事件が2005年にも発生しているが、政府は責任者を処罰しなかった。例えば以下のケースがある。5月に死亡したアウンフラインウィン氏(NLD党員)。氏はタイの「非合法組織」に5年前に接触した容疑で拘束されていた。労働運動家モーナウン氏は5月、拘束後まもなくコータウンで死亡したと伝えられる。ミントゥーウェイ氏(NLD党員)は、トゥントゥンとティンムアンオーン両刑務官に教唆された他の囚人から暴行され、頭部に重傷を負ったため、モーラミャイン刑務所で5月29日に死亡した。エイヤワディー管区タワコ村に住むソー・スタンフォード氏は7月、ミャウンミャ郡の第93軽歩兵大隊所属の兵士から激しい暴行を受け、尋問センターで死亡した。マンダレー管区アウンミェイターザン郡に住むテイルウィン氏は10月、警察所内で激しく暴行され拘束中に死亡した。バゴー在住のアウンミンテイン氏は11月、インセイン刑務所で収容中に原因不明で死亡した(セクション2.a、6.c参照)。コータンタイッ氏は12月、地元の平和開発評議会の職員から激しい暴行を受けたために死亡した(セクション6.c参照)。NLD側はアウンフラインウィン氏を死亡させた責任者を訴えようとしたが、訴えは却下された。ミンフトゥーワイ氏の死亡後にNLD側が行った訴えにも当局は応答しなかった。

 第514軽歩兵大隊の指揮官が2004年に、シャン州ムンクン郡の軍検問所の前で、民間人1人を撲殺したが、訴追されたとの報告はない。同様に、マウンエイ氏が警察署で拘束中に暴行を受け死亡した2004年の事件についても進展はなかった。

 2003年、政府の関連組織はディペーイン村付近でNLD指導者アウンサンスーチー一行の車列を襲撃し、約70人を殺害したが、政府はこの件についての調査を拒否し続けており、責任も一切認めていない。同行していた31人の民主化運動支持者など、生存者の行方は不明である。

 治安部隊によって地雷除去を命じられた民間人が死亡または負傷したケースが、特にカレン州で発生したとの報告が複数あるものの、裏付けが取れていない。同州では、ビルマ国軍が民族の村への攻撃を広い範囲で行っていた(セクション1.g参照)。

 ラングーンやその他の地域で小型爆弾の爆発事件が複数あったが、被害はほとんどなかった。2005年に似たような事件が起きたときと同様に、政府は亡命組織の仕業だとしたが、裏付ける証拠を一切示さなかった。

 前年までとは異なり、武装民族組織が殺害を犯したとの情報はない。

b.失踪

 民間人と政治活動家の「失踪」が引き続き発生した。期間は数時間から数週間以上に及び、多くは二度と戻ってこなかった。こうした失踪事例の原因は一般に、当局が家族に知らせずに、尋問のために個人を拘束したり、軍がポーター(荷役労働)や関連の作業に民間人を、しばしば家族に知らせずに強制徴用したりすることにあった(セクション6.c参照)。軍当局に情報を照会したケースについてはほとんど進展がなかった。多くの事例で、尋問のために拘束された個人はすぐに釈放され、家族の元に戻された。

 国軍部隊がポーターを行わせるために拘束した人物や、労働やポーターを行わせるために移送された囚人の行方が依然不明なケースが多くあった。家族が身内の消息を知りうるのは一般に、同僚の囚人が生還し、家族に情報を伝えた場合に限られた。

 ビルマ政治囚支援協会(AAPP)が5月に発表した報告書「8秒間の黙祷:投獄中に死亡した民主化活動家たち」では、1988年後に死亡した127人の事例が詳細に記されていた。このうち15件が拘束中に失踪したケースである。同協会は、協会が把握していない死亡例や失踪例がまだ他にもあると推定していた。

c.拷問、その他の残虐または非人道的、非常に侮辱的な処遇または刑罰

 拷問を禁止する法律は存在している。しかし治安部隊が囚人や被拘束者、民間人に拷問や殴打、他の方法を用いて虐待を行ったことが報告された。治安部隊は拘束した人物に対し、脅迫と混乱をもたらす過酷な尋問技術を常習的に用いた。

 2005年12月、ビルマ政治囚支援協会(AAPP)は、軍政が政治囚に行った「残虐で組織的な」拷問についての報告書を発表した。報告書は元政治囚35人の証言に基づき、軍政が軍政に反対する活動家に行う肉体的、精神的、性的虐待を写実的に詳述し、拷問を行った人物の多くの氏名を特定した。この報告書は軍政による拷問の数々を詳しく説明している。例えば、激しい殴打(意識不明に陥ることもあり、時には死に至る)、局部を含む身体のあらゆる部分への度重なる電気ショック、肉がはがれ落ちるまで鉄棒をすねにこすりつけること、たばこやライターの火を身体に押しつけること、ロープや拘束具を首や足首につけ、最大数カ月に渡って身体を動かせないようにすること、数時間に渡って人体の同一箇所を打ち続けること、とがった石、金属、ガラスの破片が敷き詰められた場所を歩かせたり這わせたりすること、犬を用いた男性囚の強かん、女性囚への強かんの脅迫が挙げられた。

 この報告書によれば、内務、国防、外務の各大臣が3人で、国家保護法で起訴された政治囚の拘束を監督する委員会を作っている。報告書はまた、尋問の初期段階での拷問は軍保安部が主に行っていることを指摘した。尋問は特別調査局と内務省管轄下のビルマ警察特別部も行っていた。

 2006年中に少なくとも政治囚6人が拘束中に死亡した(セクション1.a、1.c参照)。

 軍は個人の所有物、現金、食糧を常時徴発し、強制的で残虐な方法によりポーター徴用を行った。ポーターやその他の労働に徴用された人は、非常に困難な状況に置かれ、殴打、強かん、食糧不足、清潔な水の不足、時には死につながる虐待に直面した。

 2006年中に、NGOやコミュニティ・リーダーから、バゴー管区、カレン州、モン州、シャン州、タニンダーイー管区で国軍が民族的少数者に対し殴打、強かん、強制地雷除去、強制労働などの虐待を続けているとの報告が出された。

 新たに国境に到着した難民や、ビルマ・タイ国境付近の国内避難民(IDP)の報告によれば、シャン州、カヤー州、カレン州の国軍兵士は引き続き、民族的少数者に属する成人女性と少女を強かんしていた。4月17日、国軍兵士はシャン州クンヒン郡に住むシャン人の未成年女性1人を集団強かんし、殺害した。クンヒン郡出身のシャン人女性(17)は、第527大隊の兵士3人から5月15日、16日の2日に渡って強かんされたと話した。ムンマイ郡出身のシャン人女性(10歳)は、8歳のとき(2004年)に兵士に強かんされたと話した。その他にも多くの女性が、2006年に、またはそれ以前に兵士から強かんされたと語った。

刑務所と収容施設の環境

 刑務所と労働キャンプの環境は総じて厳しく、命を落としかねない状態のままだった。刑務局はビルマ全土で約35カ所の刑務所と約70カ所の労働キャンプを運営していた(セクション6.c参照)。刑務所では、食糧、衣類、医薬品がかなりの程度不足していたと伝えられる。一部の刑務所では、囚人に食費の負担を強制していたとの報告があった。寝具は床の上に敷物一枚だけだった。囚人は家族(面会は月に1、2回許可される)に生活必需品を頼らざるをえなかった。囚人は何週間あるいは何カ月も起訴されずに収容されており、何らかの容疑で正式に起訴されるまでは、家族の側が面会や、非常に貴重な食糧の差し入れを行うことができなかった。刑務所内でのHIV/エイズの感染率は高い。その理由として注射器の使い回しや他の囚人からの性的虐待があると伝えられる。

 所内の医療は一般国民が受けられる医療の水準を部分的に反映していたとはいえ、政府が囚人に十分な医療措置を行わない状態が続いた。

 1月24日、ザガイン管区カレーミョー刑務所の囚人5人が刑務所長を人質に取ったと伝えられる。看守はこの5人を制圧し、激しい殴打を加えた後、独房に拘禁した。うち2人が負傷により房内で死亡した。2日後に刑務所側は他の3人を治療したが、いずれも死亡した。この他に人質事件に直接は参加しなかった囚人27人も殴打を受けた。激しい殴打された人も多かった。

 2006年には、複数の政治囚の健康状態が悪化し、所内で死亡した人もいる。1月10日、キンマウンルウィン氏(民主党党員)がカチン州のプータオ刑務所で死亡した。氏は8年間の収容中に刑務所を転々とした。氏の家族と赤十字国際委員会(ICRC)、刑務所医は氏を治療するよう重ねて求めたが、同刑務所の責任者トゥンミンテインは要請に応じなかった。3月23日、コーウー氏(タイェッ郡NLD党員)が死亡した。氏は政治囚として6年間収容されていた。様々な症状を訴えていたが、刑務所側は治療を行わなかった。5月2日、シャン人政治活動家のミンタン氏がヤカイン州タンドウェ刑務所で死亡した。氏は79年の刑で服役していた。脳卒中で倒れ、1カ月病院で収容された後に亡くなったと伝えられる。8月中旬、ニュンイン氏(ラングーン管区ティンガンジュン区在住)がインセイン刑務所で死亡した。氏は民主化運動に参加した容疑で1988年から同刑務所に収容されていた。亡くなる前に喀血したが、きちんとした治療が施されなかったと伝えられる。10月16日、学生指導者のテッウィンアウン氏がマンダレー刑務所で死亡した。氏は1998年から同刑務所に収容されていた。氏は2002年にハンガーストライキを行い、十分な医療を行わず、食事もひどい刑務所の現状に抗議したが、刑務所側は氏に十分な医療を施すことはなかった。10月26日、政治囚のマウンサンがモン州のモーラミャイン刑務所で死亡した。医療補助員が胃痛を訴えた氏を治療した直後だった。氏は正式な医師による診察を受けられなかった。

 2006年中に複数の政治囚の健康状態が悪化した。健康状態が悪化した著名な政治囚には、1990年総選挙でNLDから出馬し当選したタンニェン、メイウィンミン氏、ナインナイン氏や、ジャーナリストのウィンティン氏がいた。バゴー管区のターヤーワディー刑務所に収監されている作家のタンウィンフライン氏の健康状態は、所内の劣悪な環境が原因で引き続き悪化した。氏は腎臓病と糖尿病を患っているが、家族からの要請にもかかわらず刑務所側は治療を行わなかった。ロヒンギャの当選議員チョーミン氏と家族は、2005年に投獄されて以来、健康上の問題を抱えていると伝えられる。労働運動家のスースーヌウェ氏の健康状態も悪化し、8カ月の収容中に入院が必要だった。氏は6月6日に釈放された(セクション6.c参照)。

 政府は政治囚を一般囚と隔離していると説明する。しかし囚人からの報告によれば、当局は政治囚を頻繁に雑居房に入れており、政治囚はそこで犯罪常習者から殴打や虐待を受けていた。1月2日、インセイン刑務所の刑事囚は、政治囚であるアウンサンミャッ氏、ティハトゥン氏、ハンウィンアウン氏の3人を激しく殴打した。ウィンマウン刑務官と看守は暴行を許可し、静止しなかったと伝えられる。

 10月にモーラミャイン刑務所の政治囚2人がハンガーストライキを行い、政治囚が刑事囚と区別されず、同じ房に入れられていることに抗議した。刑務所長が2人を殴打した。他の政治囚は2人が殴打されているのを聞いて抗議活動を行い、自分の房に戻るのを拒否した。その後所長は、刑事囚に同じ房の政治囚を殴打させた。

 女性の囚人は男性と別に収容され、未成年の囚人(16歳以下)も成人とは別に収容された。マンダレー管区のメイティーラーに少年刑務所がある。少年裁判所は未成年を投獄する決定を下すことはまれで、普通はマグエー管区タイイェッとラングーン管区トワンテにある少年院に送致する。少年院は刑務局と社会福祉局(DSW)が共同管理していた。

 2005年11月以降、政府当局は、政府系大衆動員組織である連邦団結発展協会(USDA)、ミャンマー女性問題連盟(MWAF)、ミャンマー赤十字の代表者が、赤十字国際委員会(ICRC)の行う刑務所訪問すべてに同行しなければならないとした。同委員会は囚人への自由なアクセスを世界中で行っているが、これをビルマで引き続き行う許可を政府から得られなかったため、2006年には刑務所や労働キャンプを訪問しなかった。同委員会は、被収容者への医薬品や石鹸の提供など従来行ってきた業務の一部を停止した。差し入れた物品が囚人に届いているかが確認できなかったためだ。同委員会は、囚人4000人以上の詳しい状況を個別に把握することもできなくなった。中には治安上の理由で収容されている人物、未成年、外国人、病人や高齢者など特に弱い立場にある囚人がいた。

 2006年中に、赤十字国際委員会が刑務所問題についてこれまで獲得した改善点、例えば立会人なしで囚人と話す権利、必要なときに面会を繰り返し行う権利、大多数の囚人にいつでも接触する権利は停止された。接触する被収容者の数を増やそうという同委員会の試みも同様に中断した。

d.恣意的な逮捕または拘束

 拘束の合法性の司法判断についての法規定が存在せず、政府は恣意的な逮捕と外部との連絡を絶たれた拘禁を日常的に行った。法の定めるところによれば、当局は囚人が刑期を満了した後に量刑を延長することが可能であり、政府はこの条項をたびたび用いている(セクション1.e参照)。

警察と治安組織の役割

 警察は国軍の補助部隊であり、国軍将校の直接の指揮下にある。警察は主に一般的な犯罪を扱い、政治犯罪は扱わない。ミャンマー警察(MPF)は行政機構の上では内務省管轄となる。汚職と刑事免責が深刻な問題だが、これは警察に業務を自弁するよう定めた政府のやり方に原因がある。警察が犯罪捜査のために犯罪被害者に多額の金銭を要求することは日常的なことで、民間人からも金をせびることが行われた。

 軍事保安局長事務所職員とミャンマー警察特別部の職員が、政府の脅威になると判断された「政治犯罪」の容疑者の拘束を担当する。拘束が行われると、軍事保安局長事務所職員(特別部職員のこともある)が、囚人を地域毎にある軍事保安局長事務所の尋問センターに連行し、数時間から数ヵ月に渡って、被拘束者を拷問する。職員は尋問中いつでもその人物を起訴できる。政治犯として起訴されたあるいは容疑を掛けられた人物は逮捕時にフードを被らされることが多かった。

逮捕と拘束

 法によれば、捜索と逮捕には令状が必要だが、軍事保安局長事務所と警察は自由に捜索と逮捕を行う特権を有している。政府は無期限拘束を認めた緊急規定法(1950年)をしばしば適用し、民間人を逮捕し起訴せずに長期間拘束することを引き続き行った。一般刑事事件では保釈が一般に認められるが、政治囚が保釈を認められることはまずない。政府は日常的に、被拘束者が弁護士に相談する権利や、被拘束者または家族が独立の法的代理人を選任する権利を認めず、被収容者に対し、政府が指定した弁護士の選任を強要した。

 外部との連絡を絶たれた拘禁が問題となっており、被収容者の親族は当人が拘束されたことをかなり後になってから知るケースが多かった。長期の独房拘禁が囚人への懲罰として行われた。

 当局は民間人や政治活動家を拘束することを続け、失踪した者もいた。失踪が一時的であることもあった(セクション1.b参照)。

 2005年に47年の刑を宣告された「人権のための民族開発党」所属の1990年総選挙当選議員チョーミン氏と、住宅登録証の不備を理由に17年の刑を宣告された氏の妻と娘2人、息子1人は投獄されたままだった。さらに氏の義理の妹もチャウピューで2005年に逮捕された。容疑は許可なくチャウピューに旅行をしたこと、必要な滞在許可証を持たずに夫の実家に住んでいたことだった。この女性は刑期満了後に釈放された。

特赦

 当局は政治囚のスースーヌウェ氏とエイミン氏(セクション4、6.c参照)を釈放した。前年までと異なり、1990年総選挙当選議員は誰も釈放されなかった。それどころか、2006年前半に当選議員のタンニェン氏とメイウィンミン氏(ラングーン管区マヤンゴン区選出)の刑期が1年延長された。

e.公正な公開裁判の否定

 司法機関は政府から独立していない。ビルマ政府が最高裁判事を指名し、最高裁判事が下級裁判所の判事をビルマ政府の承認を得て指名する。そして全国の裁判所は、ビルマ政府が布告した命令(事実上の法的効力を有する)に基づき裁判を行う。郡、区、州、全国それぞれのレベルに裁判所がある。

審理手続

 政府は命令による統治を引き続き行い、公正な公開裁判あるいはその他の権利を保障する憲法上のどの規程にも拘束されなかった。英領時代の法制度の名残が形式的にはあるが、裁判制度と裁判の進行については、特に政治関係の事件の判断に際して深刻な欠陥があった。包括的な規程を持つ法律(緊急規定法、非合法結社法、常習犯法、破壊分子の危険から国家を守るための法など)が乱用され、政治目的のために裁判制度が自由に操られたことで、民間人は依然として公正な裁判を受ける権利を奪われ、平和的な反体制運動を封じ込めていた。汚職の蔓延が司法制度の公正性の低下に拍車を掛けた。

 一般刑事事件と政治事件の審理手続には根本的な違いがある。弁護士に代理される権利など、一部の基本的な法の適正手続は刑事事件ではおおむね尊重されたが、政府が特に敏感だと判断した政治事件では尊重されなかった。刑事事件では、被告側弁護人は公判準備に15日の猶予を与えられるのが一般的で、証人を呼んだり反対尋問したりできる。また公判準備のために期日を15日先送りすることが認められることもある。しかし弁護人の第一の役割は依頼人の無罪を証明することではない。通常、有罪判決が出ることは最初から決まっているので、判事と交渉して被告人の刑罰をできるだけ軽くすることが弁護人の役割である。信頼できる報告によると、政治事件については、政府上層部が証拠や法を検討することなく、判決を直接決定していた。政治事件の審理は非公開である。

 2003年5月のディペーイン襲撃事件に関連して逮捕されたNLD党員や民主化運動支持者153人のうち公開裁判を受けたものは一人もいない。

 NLD党員は、弁護士側が逮捕される心配をせずに、弁護士を雇うことが通常は可能であるようだった。しかし、弁護士側は常に裁判の開始日を告知されるわけではなかった。14人前後の弁護士が2006年末時点で投獄されていた。1998年以前に判決を下された人が大半だった。

政治囚と政治的な理由による被収容者

 2005年末時点で、約1300人の「治安上の理由で収容されている人物」が存在した。これには政治囚(約1150人)、武器商人、治安法令の違反者、宗教騒乱扇動の容疑をかけられた者が含まれる。ビルマ政府は通常、政治囚を刑事犯罪で訴追しており、政治囚の収容を一切否定している。

 2月7日、NLD党員のコーコーミン氏とテインゾー氏はアヘン所持容疑で7年の刑を裁判所から宣告された。アヘンは当局側が逮捕の口実に用意したと見られる。コーコーミン氏はこの3カ月前に5年の刑期を満了したところだった。またヤカイン州当局は、NLD党員のサンシュエトゥン氏とアウンバンタ氏を2005年7月に外為法違反で逮捕した。この件では当局が2人の自宅にバングラデシュの通貨を忍ばせていたとされる。3月にシットウェー裁判所は2人に不法通貨を流通させたとして3年の刑を宣告した。地裁と州裁は2005年6月[原文ママ。詳細不明]に出された告発を却下していた。

 3月25日、当局はアウンテイン氏(元ラングーン管区タケタ区NLD支部党員)ら5人を逮捕した。衛星電話で国外の反体制活動家と接触していた容疑だった。その後、アウンテイン氏には20年、テインウー氏には25年、アウンモー氏には15年、カインマーソー氏には15年、キンマウンウィン氏には3年の刑がそれぞれ宣告された。

 7月31日、マンダレー当局はニェインマウン氏を逮捕した。氏は連邦団結開発評議会(USDA)の圧力を受け、マンダレー管区マダヤー郡NLD支部組織委員会を6月に辞任していた。氏は郡判事のキンマーイ氏の夫をののしったとして1年の刑を宣告された。

 9月27日、警察はミンコーナイン氏、コーコージー氏、テイチュエ氏を逮捕した。いずれも元政治囚で88世代学生グループの活動家である。9月30日、警察は同グループの活動家2人ミンゼーヤ氏、ポンチョー氏を逮捕した。ポンチョー氏の弟テッウィンアウン氏も政治囚だったが、10月16日にマンダレー刑務所で死亡した(セクション1.c参照)。2006年末時点でこの5人の政治囚は起訴されずに拘束されていた。法によれば、裁判所は起訴のない状態で2週間(さらに2週間延長が可能)拘束を行うことが認められており、当局はラングーン周辺の別々の裁判所で拘束されていた5人について拘束期間の延長を続けた。

 88世代学生グループはアウンサンスーチー氏と全政治囚の解放を求める全国的な署名運動を行い、50万筆以上の署名を集めた。10月5日、USDAメンバー(警察ではない)はバゴー管区レッパダン郡でNLDボランティアのウィンコー氏を逮捕した。氏はモンヨー郡にある1つの村全体から署名を集めていた。レッパダン郡裁判所は、証拠のないまま氏を非合法宝くじへの参加と公務執行妨害で有罪とし、3年の刑を宣告した。11月12日、裁判所はウィンコー氏と仲間のピョーゾーラッ氏に対し、詐欺と詐欺の共謀を行ったとして追加で14年の刑を宣告した。2人に法的代理人は認められず、裁判は非公開だった。2006年末時点でウィンコー氏はバゴー管区のパウンデ刑務所に収監されていた。

 クントゥンウー氏(シャン諸民族民主連盟=SNLD議長)とサイニュンルィン氏(同党書記)、およびシャン人指導者8人が2005年2月に拘束され、2006年末時点で全員が僻地の刑務所に収監されていた。弁護士は2月後半に控訴したが、裁判所側は理由を説明せずに控訴をただちに棄却した。SNLD指導者に対する秘密裁判がインセイン刑務所で行われ、国家転覆罪の他、外貨取引規制違反など8つの政治および経済犯罪の容疑が挙げられた。クントゥンウー氏には終身刑2回と53年の刑が、ソーテン将軍には終身刑3回と46年の刑が、サイニュンルウィン氏には終身刑3回と25年の刑が宣告された。

 1990年総選挙当選議員のチョーキン氏(NLD所属、タウンジー選出)は2005年2月25日に逮捕され、学生仲間にアウンサンスーチー氏の受賞歴のリストを渡したとして、14年の刑を宣告され、2006年末時点で投獄されていた。

 シーポーのサオウーチャ氏(シャン州諮問会議委員)は2005年に国家中傷罪とホテル・観光法違反で13年の刑が宣告され、2006年末時点で投獄されていた。

 大学生のジャノー氏が2005年8月にカチン州モーマウッ郡で逮捕され、投獄されたままだった。同僚のウィンモー氏、ブランアウンサン氏は、ジャノー氏と共に逮捕されたが、2週間後に釈放された。3人が逮捕時に所持していたのは、アムネスティ・インターナショナル発行の人権教育用CD-ROM、サルウィン川水力開発計画に反対する書籍、反薬物教育用の教材だった。

 上記の他にも、タイの亡命組織と「違法に連携」したとして、2004年に7年から22年の刑を宣告されたNLDマンダレー管区支部の党員11人など、投獄されたままの政治囚がいる。以下、事例を挙げる。タンタンテイ氏(NLDマグエー管区・郡支部執行委員)、ティンミン氏(同ラングーン管区・郡支部執行委員)は2004年に、信頼できる証拠がないにもかかわらずNLD党員1人と共に7年の刑を宣告された。イェイェウィン氏、サンヤ氏、イェテッ氏(共にNLDモン州テインザヤッ郡支部党員)は2004年に、タイの複数の亡命組織と接触した容疑で7年の刑を宣告された。NLD党員5人が冊子「大衆への呼びかけ」を所持、配布していたとして、2005年に終身刑を宣告された。NLD党員チョウスウェ氏は2004年に、未登録オートバイの所持と公務執行妨害で2年の刑を宣告された。

 政府は破壊分子の危険から国家を守るための法に基づき、刑期の延長を日常的に行っている。内務大臣は刑期を6回、2カ月ずつ(合計1年)独断で延長する権利を有する。国家平和発展評議会議長タンシュエ上級将軍は刑期を5年追加することができる。前年までと異なり、政府は同法違反で拘束されている囚人を一人も釈放しなかった。

 アウンサンスーチー氏(NLD書記長)は起訴も裁判もされないままに自宅軟禁されていた。1990年総選挙でNLDが勝利した記念日にあたる5月27日、政府は氏の拘束を1年延長した。住み込みの家政婦2人(敷地内からの外出を禁じられている)を除いて、氏は依然として外部から隔離されている。ティンウー氏(NLD副議長)も裁判のないままに自宅軟禁されていた。2月14日、政府は氏の自宅軟禁を1年延長した。この他ディペーイン襲撃事件の発生中か直後に151人が拘束されたが、2006年末時点で全員が釈放されていた。

民事訴訟法と賠償制度

 民事訴訟法と賠償制度は、法規の上では存在するが、現実には原告が公正な審理を受ける保証はない。アウンサンスーチー氏は、国家を妨害あるいは破壊しようとする人物から国家を保護する法律に基づき拘束されているが、2005年には複数の弁護士がこの命令の撤回を求める訴訟を提起した。法は政府の命令に対する申立を直接内閣にすることを許しているが、内閣はこの訴えを無視した。

f.プライバシー、家族、自宅、通信への恣意的な干渉

 撤廃された1974年憲法にプライバシー権の規定はなく、当局は常時民間人のプライバシーを侵害している。諜報組織のネットワークと行政手続を通して、政府はすべての民間人の移動を組織的に監視し、多くの民間人、特に活発な政治活動で知られる人物の行動を綿密に監視した。

 裁判所の命令なしでの強制立ち入りは合法である。登録した居住地以外の場所で夜を過ごす場合は、法により事前に警察に連絡するよう定められている。居住者以外を宿泊させる場合、法により、その家は客のリストを作成して警察に提出しなければいけない。この法律は選択的に執行されていたが、2005年にラングーンとマンダレーで爆弾事件が発生した後に執行件数が増加した。区平和開発評議会の当局者は、未登録訪問者がいないかどうか調べる夜の抜き打ち検査の回数を増やした。2006年には、ラングーン管区当局は各世帯に対し、政府当局者が夜間の住民点呼時に用いる、「家族写真」の撮影を命令し始めた。各世帯は、通常よりかなり高額な写真代の負担と、登録住民が映ったこの写真を室内に常に掲示することを求められた。

 公安職員は私信や電話、電子メールの内容を恒常的に検査していた。

 当局は民間人が外国の出版物を直接定期購読するのを妨害することが多かった(セクション2.a参照)。

 政府はあらゆる双方向電子通信機器の使用許可と調達を綿密に管理・監視し続けた。未登録の電話機やファックス機、パソコン用モデムの所持は投獄の対象となる。未登録のコードレス電話機を国内で使用していると、最大3年の刑と多額の罰金を科せられる。

 私的所有権が弱く、土地所有に関する記録が整っていないことが、政府による個人の非自発的移住を容易にした。法は土地の私的所有を認めず、土地使用権の諸形態を定めるのみで、その多くは自由に譲渡することができない。植民地期以後の土地法は、土地への私的権利は土地の生産的使用を条件に許可されるという植民地期以前の伝統を復活させた。

 地方での強制移住は2006年に増加した。報告によれば、強制移住の際には強かん、処刑のほか、住民や国軍部隊が使用するインフラ整備目的での強制労働への徴発が行われた(セクション1.c、1.g、2.d参照)。歴代軍事政権は過去数十年に渡り、民族武装勢力への支援を妨害する目的で、民族的少数者集団への強制移住作戦を行ってきた。

 都市部での強制移住の報告は減少が続いた。しかし伝えられるところによれば、政府は「治安」を理由に住民の強制移住を引き続き行った。ラングーンでは、商業目的に利用可能な土地にある住宅や住居に住む人々が強制退去の対象となった。補償がほとんど支払われなかった事例もあった。バゴーの行政当局は、都市開発事業を行うため住民を強制的に退去させた。接収された土地は事業に不向きなことが判明したが、元の住民が帰ることは禁じられた。2005年11月、政府は、大半の公務員に対し、新行政首都ネイピドー(マンダレー管区ピンマナ近郊)へ単身赴任を命じ、移動する代わりに退職することを認めなかった。2006年末時点で、ネイピドーには家族向け住居と学校がないため、ラングーンに住む家族と離れて暮らす公務員が多かった。

 国軍兵士によって強制移住させられた住民や、家を留守にしていた住民の財産と所持品が略奪、没収されたとの多数の報告があった。押収物は軍施設の建設に使われることが多い。外交団の報告によれば、軍やVIPの移動に民間所有の自動車が徴発され、所有者には一切補償が支払われない事件が全土でごく日常的に発生している。中でもシャン、カヤー、カレン各州と、モン州とバゴー管区の一部でこの事例が多発している。

 これらの地域ではまた、民間人が数千人単位で昔から暮らしている集落を追われ(元の集落は跡形もなく焼かれてしまうことが多い)、ビルマ政府の戦略圏内にあり、国軍部隊が厳重に管理する場所へ移住させられた。元の集落を追われた住民が森に逃げこむ場合、避難先が、十分な食糧、安全、基本的な医療がなく、地雷が多数敷設されている地域であることが多い(セクション1.g参照)。

 強制移住は、近隣国や政府の支配が及ばない地域への難民の大量移動を頻繁に引き起こした。政府が元の住民を移住させた後で、そこにビルマ民族を住まわせた地域もあった。カレン州では、国軍部隊がカレン人を民主カレン仏教徒軍(DKBA)の支配地域へと強制的に移住させた、あるいはさせようとした事例もあった。

 政府は補償を払わずに土地を没収する権利を有する。こうした没収が全土で行われていたとの信頼できる、しかし未確認の報告が複数存在する。伝えられるところによれば、12月、ヤカイン州ポンナジュン郡当局は、軍が穀物栽培をするために、5000エーカーの土地を地元農民から接収した。西部方面司令部のネウィン大佐が指揮したと伝えられる。

 国軍兵士も家畜、燃料、備蓄食糧、養魚場、アルコール飲料、自動車、金銭を恒常的に接収していた。こうした乱用は広範に見られた。地域レベルの司令官が民間人に対して金銭、食糧、労働、建設資材を徴発することが全土で行われた(セクション1.c、6.c参照)。

 国軍兵士と反政府武装勢力は国際人権法に違反し、子どもを含む兵士の強制徴用を行った(セクション1.g、6.c参照)。

 政府職員は政党への加盟や支援が一般には禁じられた。しかしこの措置の運用は選択的だった。政府はほぼすべての公共セクターの被雇用者と学生など多くの人々を、強制的に、または脅迫によって、政府系の大衆動員組織である連邦団結発展協会(USDA)、ミャンマー女性問題連盟(MWAF)、ミャンマー母子保健協会(MMCWA)に加盟させ、政府支持の集会に出席させた(セクション2.a参照)。政府はまたNLDなど反政府政党の党員を辞任させるため、買収や強要を行った。また強制的に辞任させた事例を国営メディアで報道した。

 女性市民と外国人の間の結婚は公式には禁止されていた。政府は地元の弁護士に対し、こうした結婚では証人とならないよう命じた。しかし禁止措置は実際には執行されていなかった。

g.国内外の紛争での過度の武力使用と人道法違反

 いくつかの民族武装組織が、自治または独立を目指して政府と戦闘を継続していた。こうした組織には、シャン州軍・南部方面軍(SSA−S)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、カレン民族連合(KNU)の軍事部門のカレン民族解放軍(KNLA)などがある。カレン民族連合はビルマ政府と2003年に停戦合意に至ったものの、2006年には、2005年9月にバゴー管区で始まった戦闘がカレン州北部の多くの地域に広がった。

 カレンNGO筋によると、バゴー管区ニャウンレービン付近およびカレン州北部タンダウンとパプン付近、カヤー州モーチ周辺で国軍兵士が大量に展開し、軍事行動が1月から7月にかけて増加した。休戦期間である雨季が過ぎると、軍政はこの地域のカレン人民間人への攻撃を再開した。軍事行動は深刻な人権侵害を引き起こした。推定2万5千人が自分の村を捨て、国内避難民となって森に逃れた。約3千人がタイ側の難民キャンプで食糧と住居の提供を受け、2千人がサルウィン川近くの一時避難キャンプで野営した。この他にも軍政支配地域に住む親戚のところに身を寄せる人もいたと伝えられる。タンダウンとモーチ付近の一部住民は国軍から市場に行くことを禁じられたため、農産物の販売や米の購入ができなかった。信頼できる筋によると、モーチとタンダウン周辺の村全体が深刻な食糧不足だった。また、国軍兵士がタンダウンより奥の「マイル20」にある25件ほどの集落をすべて焼き払い、住民全員を殺害したとの複数の報告があった。

 ビルマ政府は、カレン民族連合がカレン人の村を攻撃し、住民を避難に追い込むことで、この問題の責任をビルマ政府に転嫁しようとしていると主張した。しかし、タイに逃れたカレン難民は、自分たちの村を攻撃し、大砲の砲弾など重い荷物を運ぶよう定期的に命令し、避難せざるをえない状況を作り出したのは、カレン軍ではなく国軍兵士だったと話している。また避難した後で、国軍兵士が自分たちの家や穀物庫を焼き、家畜を接収したことを知ったという。こうした難民や国内避難民によれば、兵士は村を略奪し、火を放った後で、住民が戻って来られないように地雷を敷設することも多い。国軍兵士が、元の村に財産や所持品を取りに帰ろうとしたカレン人の住民に発砲し、射殺することもあった。

 11月、国軍部隊はカヤー州モーチ郡にあるカレン人の村、テーサーペ村を攻撃した。1人が死亡、もう1人が重傷、家7軒が焼失した。近くのヘドーカー村では教会を除く、25軒すべてが焼かれた。2006年末時点で、元の住民は周辺の森に避難していると伝えられる。

 シャン州中部と南部では、治安部隊が引き続きシャン州軍-南部方面軍と交戦状態にあった。国軍はこの地域で住民の強制移住を引き続き行っており、殺害、強かんなどの民間人への人権侵害が付随して発生したことが伝えられた。

 カレン人NGOの消息筋によれば、和平交渉が断続的に行われていたにもかかわらず、2006年にはカレン州での人権侵害は増加した。報告によれば、バゴー管区タウングー郡西部とニャウンレービン郡内でビルマ国軍とカレン民族解放軍との戦闘が発生した。タウングーの東を走る道路は「マイル13」より先が9月中数週間に渡って閉鎖された。相当数のカレン人の村が襲撃・放火され、住民数百人が限られた物資だけを手に森に避難した。2006年末時点で、ビルマ軍は「マイル13」より奥への食糧供給を禁止していた。

 伝えられるところによれば、2006年には国軍は地元住民を強制的に動員し、村付近の線路の夜警をさせた。バゴー管区の線路付近とタウングー町での小型簡易仕掛け爆弾による爆発が発生したと伝えられてから後のことだ。

 ビルマ政府が、カレン人住民に対する数多くの殺害や負傷、破壊事件の責任者を特定し、処罰することについて、調査を実際に行った、あるいは行おうとしたとの報告は一切なかった。こうした事例には、タニンダーイー管区パラウ郡沖の島内の森で、潜伏して生活していたカレン人住民27人が虐殺された2005年7月の事件、カヤー州モーチに近いゲーゴーベー村の26戸が燃やされ、住民610人が避難した、2005年12月の事件、バゴー管区ニャウンレービン郡とシュエジン郡の複数のカレン人の村を国軍が襲撃し、民間人4700人以上が国内避難民となった2004年の事件、モン州内とバゴー管区ニャウンレービン郡北部の住民に対して国軍が強制労働を命じた、2004年から2005年にかけての事件などがある。

 2006年末の時点で、ビルマ国軍部隊は、バゴー管区タウングー県とカレン州北部パプン郡に逃れたカレン人の国内避難民の追跡を続行したと伝えられる。

 紛争地域やその他の民族少数者の居住地域で発生した過去の強かん事件について政府が調査を行ったという報告は一切なかった。これらの事例には、モン人コミュニティの指導者が2005年に当局に告発したビルマ国軍兵士による強かん事件4件、ヤカイン州ポンナジュン郡の女性(24)が、チャヌンタウン警察署のシュエエイ署長に強かんされた2005年の事件、ヤカイン州ミェボン郡の小学校教諭がチャウンタヤ海軍基地のテインシュエ上級曹長を強かんしたとされる2005年の事件、2004年にタイ国境付近でシャン人女性が集団強かんされ、シャン人の少女(8)がビルマ軍兵士に強かんされた事件、モン州南部で軍関係者が起こした2003〜04年の強かん事件などがある。

セクション2 市民的自由の尊重 以下の事項を含む

a.言論と報道の自由

 法は政府に言論の自由と報道の自由の制限を許しており、実際に政府は2006年中にこれらの自由を厳しく、組織的に制限し続けた。政府は、現体制を批判する政治的意見を表明したとして、また反体制的な見解を掲載した出版物を配布または所持したとして、民間人を逮捕、拘束し、起訴した上で有罪を宣告し、投獄することを引き続き行った(セクション1.d、1.e参照)。治安機関も反体制的な意見を持つと見られる人物を監視し、嫌がらせを行った。

 国内全域で、政府は1990年総選挙国会議員当選者などあらゆる人が、また政党指導者が、人々の前で行おうとする政府批判の一切を封じ込めるために暴力を引き続き用いた。政府は、これまでほぼ例外なく一貫してこの政策を維持している。

 3月29日、バゴーの軍政当局は、アウンタン、ゼーヤアウン、アウンアウンウー、セインフラインの4人を、詩「闘う孔雀の力」を発表したとして逮捕した。闘う孔雀は民主化運動の象徴である。6月9日、これらの青年には「重反逆罪」で7年から19年の刑が宣告された。

 NLDは政治改革のための実質的な対話を求め続けており、反体制派の投獄など、政府の政策や行動を公に批判した(セクション1.a、1.d参照)。しかし、2005年に公務執行妨害罪に問われて2年の刑を宣告された父子に関する事例を除き、裁判所はNLDの行った訴訟をすべて略式で退けた。

 政府は日刊紙全紙および、国内のラジオとテレビの全放送設備を所有、管理している。これら政府メディアは政府のプロパガンダ装置となっており、政府に反対する意見については、それを批判する場合以外に報道することはなかった。

 民間メディアは存在したが、政府の報道審査委員会がすべてのメディアと出版物を厳重に統制しており、ニュースに独自の解釈やコメントを付け加えようとするあらゆる動きに対して介入を行った。情報省は、民間出版社に対して、政府が認めた記事だけを印刷する場合に限り、ライセンスを発行している。民間メディア向けに発行されたライセンスの3分の1を、政府関係者か支持者が持っていると思われる。海外通信社は特派員を国内に駐在させておらず、現地のレポーターに情報を依存していた。通信社の支局長がジャーナリストとして査証を発給されて入国することは非常にまれだった。ビルマ政府が国民会議を取材させるために招請した場合が例外だった。

 3月24日、タウンセイン氏とモートゥン氏が新首都ネイピドーにある建物の写真を撮ったとして3年の刑を宣告された[2]。現地での写真撮影は公式には禁じられていなかったが、2人は許可なく映像関係の仕事をしていたとして訴追された。

 多くの著名な作家やジャーナリストが、政治的意見の表明を理由に投獄されたままだった。NGO「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)によれば、2006年末の時点で少なくとも7人のジャーナリストが投獄されていた。投獄されているのは、ミャッスウェ(サニースウェ)氏と父親のテインスウェ氏(2人は英語とビルマ語で発行される週刊ミャンマー・タイムス紙の共同所有者)、タウントゥン氏、タンウィンフライン氏、モンユワアウンシン氏、ネーミン氏がいる。この他、ハンタワディー・ディリー紙の元編集長ウィンティン氏の投獄は16年以上も続いている。氏は最も長期収容されている政治囚と見られていた(セクション1.c参照)。政府検閲委員会は獄中者の著作について、出版と配布を禁止している。

 投獄されていたジャーナリストの釈放が2006年中にあったかどうかは不明である。

 民間の出版物はすべて政府検閲委員会による出版前検閲の対象となったままだった。同委員会の承認に時間が掛かることが一つの理由となり、民間の定期刊行物は週単位で刊行されることが多かった。

 政府は民間が発行する定期刊行物に対し、外国大使館に関して、NLD本部を訪問し、学生指導者と会見していることを非難する記事や写真を掲載するよう命じた。こうした政策によって自己検閲が促進され、出版物は通常、国内の政治ニュースや、経済や政治に関するデリケートな話題を扱わなかった。

 輸入出版物は、政府検閲委員会による配布前検閲の対象となっており、同委員会が承認していない出版物の所持は引き続き重大な法律違反とされた。審査対象のデリケートさに応じて、当局者は一部の本の輸入を許可することを見返りに賄賂を受け取ることが多かった。また政府は外国で発行されたニュース雑誌の合法的な輸入を制限しており、外国の定期刊行物の購読を妨害していた(セクション1.f参照)。しかし、外国の新聞はラングーンで購入することができた。外国語の新聞と雑誌の一部は検閲なしで流通していた。ただしビルマ政府は、政府を批判する記事が掲載された直後、5月から8月にかけて輸入を禁じた。

 政府は外国人ジャーナリストへの査証の発給をほとんど行わなかった。しかし10月10日の制憲国民会議の再開時には外国人ジャーナリストに査証が発給された。政府は何度か記者会見を開き、最近の政治的話題についての見解を述べた。国際的な報道団体の代表者と外交官が招待された。

 貧困が蔓延し、識字率が高くないこと、またインフラ整備が遅れていることから、ラジオが最も重要なマスメディアであった。ニュースを伝える定期刊行物が都市部以外で流通することはまずなかった。政府は引き続き、2局ある国内ラジオ局を独占し、管理下に置いていた。外国放送局にはラジオ・フリー・アジア(RFA)、ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)、英国放送協会(BBC)、ビルマ民主の声(DVB) が検閲を受けない情報の主要な情報源だった[3]

 2006年末時点で、NLD党員フラミンタン氏と他8人には、8年から25年の刑で投獄されたままだった。9人は2005年に「非合法組織」との接触と衛星電話の所持、タイへの非合法出国で有罪判決を受けていた(セクション6.a参照)。

 政府は国内テレビ放送をすべて独占し、厳しい管理下に置いている。チャンネル数は国軍放送1チャンネルを入れて3つだけである。一般人は高い手数料を支払えば衛星テレビ放送の受信装置を登録することができた。非合法な衛星放送も利用可能だが、貧困にあえぐ国民の大部分には高価すぎるものだった。

 国家検閲委員会の承認を受けていないビデオの公開、配布、所持は法によって犯罪とされている。2006年中に政府は未承認の外国製ビデオとDVDの取締りを引き続き行ってはいたが、海賊版を路上で簡単に入手することも可能だった。

インターネットの自由

 インターネットによる通信の監視に関する、またはインターネットを用いて表現の自由を行使することを罰する法律や規則は存在しない。しかし、ビルマ政府はインターネットによる通信内容を監視しており、個人は自由にインターネットを用いることができなかった。

 インターネット・ユーザーが1つのウェブサイトを長時間閲覧したとき、警察は、当該サイトが国家に関わる問題に触れていると判断すれば、アクセスを遮断した。送信された電子メールが受信者の受信箱に手元に届くまで数日かかることもあり、その場合は添付ファイルが削除されていることが多かった。一般市民は、電子メールの送受信を特別警察が監視しているからこうしたことが起こるのだと考えていた。

 ビルマ政府は、現体制とその行為に批判的なウェブサイトはすべて禁止した。当局はまた、ヤフーやホットメールなどの無料電子メール・サービスへのアクセスを定期的に全面遮断した。またGoogle トークとスカイプが遠隔地間の通信手段として広く用いられるようになってからは、政府の電話料金収入が減ったため、情報逓信省は2006年6月に、Gmail、Google トーク、スカイプが提供するインターネットを用いた通話サービスを禁止した[4]

 ビルマ政府は、疑わしいと判断した単語を含む、大半サイトへのアクセスを禁止した。該当するキーワードは「ビルマ、薬物、軍事政権、民主主義、学生運動、8888、人権」などだった。ビルマ民主の声(DVB)やBBCビルマ語放送のホームページを閲覧することが可能な場合もあったが、それでもサイト上の記事を読むことはできなかった。ビルマ政府は、検閲対象となるキーワードをソフトウェアが検知したために、教育関係などのウェブサイトを誤ってアクセス禁止とすることが時折あった。

 電子メールを含む電子会議室内で政治的あるいは宗教的、反体制的見解を平和的に表現したとして、逮捕または罰せられた事例はなかった。

 インターネット・カフェはすべての店舗で、政治とポルノに関するサイトへのアクセスを禁止するとの断り書きを掲げているが、具体的な処罰の内容については書かれていない。

学問の自由と文化行事

 政府は学問の自由を制限していた。大学の教師と教授には、言論の自由、政治活動、出版について他の国家公務員と同じ制限が引き続き加えられていた。教育省は教員に対し、政府批判を行なわないよう常時警告するとともに、政治問題を職場で話題にしないよう指導し、政党への加盟や支持、政治活動への参加を禁止し、外国人と会う際には事前に許可をとることを求めた。すべての国家公務員と同じく、教授と教師は政府の大衆動員組織である連邦団結発展協会(USDA)への加盟を求められた。すべての教育機関の教員は学生の政治活動への責任を引き続き負わされた。外国人は事前の許可なしに大学構内に入ることはできず、卒業式など学生が参加する式典には一切参加できなかった。

 近年、政府は学生運動が起きる可能性を低くするための様々な措置を講じてきた。学部教育用のキャンパスは郊外に移転させられた。教師と生徒は、騒乱を起こせば厳しく対処すると警告され、大学内の寮は大半が閉鎖された。教育の質が著しく低下したため、自宅学習や家庭教師 や私塾による講義を選ぶ学生が多くなった。政府は、開校している大学以外の学校の周囲を厳重に警備しており、その措置は夏期休暇中も続いた。

 国内の私立教育機関は数が限られているが、政府は学校とその教育内容を厳しく管理した。仏教の僧院学校、キリスト教神学校と日曜学校、マドラサ(イスラム神学校)にも同様の管理が行われた。政府は2006年には私塾を取締り、営業活動そのものを禁止しようとした。塾講師でNLD支持者のアウンペ氏の投獄が続いており、健康状態が悪いと伝えられていた。氏は塾法違反で3年の刑を宣告されて服役中だった。

 ビルマ政府はあらゆる文化行事を監視し、内容を検閲した。5月には、軍政を風刺したために投獄されたことのある、有名なコメディアンのザーガナ氏は、ステージに立つことと、新しい映画の宣伝および上映を行うことを禁止された。映画はラングーンの社会生活を風刺するものだった。

b.平和的な集会と結社の自由

集会の自由

 法は集会の自由を制限しており、政府は実際に規制を加えた。5人以上が許可なく屋外で集まることを禁じる法令が一応存在しているが、常に適用されたわけではなかった。NLD事務所はラングーンの党本部以外は、すべて政府の命令により閉鎖されたままで、NLDは党本部の建物の外で政党活動を行うことができなかった。NLD以外で合法的に登録されている9つの政党については、党員が参加する集会を行う際には政府に許可を申請することが求められた。NLD党員も参加する非公式の集会がNLD党本部外で行われた(例えばNLD女性部が毎週火曜日に行うシュエダゴン・パゴダへの礼拝)。しかし公安職員はこうした活動を厳しく監視しており、政府は参加者に対して、政治的な絵柄やスローガンの入った缶バッジ、記章を身につけること、上着やシャツを着ることを禁じた。

 政府は1990年総選挙の結果に基づく国会召集を引き続き阻止した。政府は1月31日に制憲国民会議を中断し、その後10月10日〜12月29日まで再開した。この会議は1990年総選挙の結果を「無効」とし、新しい憲法を承認する「民主化ロードマップ」の一環である。政府は参加者をすべて自ら選んだ上で、会議について自由に話すことを禁じ、会議や憲法草案を批判すれば厳罰に処すると脅した。自由な議論が行われないことを理由に、NLDは1995年から続けている国民会議のボイコットを続けた。

 政府は宗教団体の集会を妨害することもあった(セクション2.c参照)。

結社の自由

 政府は結社の自由を、特にNLD党員、民主化支持者、亡命組織と接触した人物に対して制限していた。6月9日、詩「闘う孔雀の力」を発表したとして逮捕された4人(セクション2.a参照)のうち、アウンタン氏とゼーヤアウン氏は、緊急規定法(1950年)違反にも問われており、「非合法組織」と接触し、不法に国境を越えた(タイに行った)として19年の刑を宣告され、2006年末時点でインセイン刑務所に収監されていた。

 ここ何年もの間、政府はNLD所属の国会議員当選者を始めとする同党党員に対して役職の辞任を強要した

 政府は公務員を連邦団結発展協会(USDA)に強制加盟させていた。政府は中高生に対し、履修登録時または試験直前に協会への加盟を強要した。また熟練労働者や職能団体の構成員にも協会への加盟を強要した。ミャンマー女性問題連盟(MWAF)、ミャンマー母子保健協会(MMCWA)は女性に対し、自らが主催する会議に参加すること、また組織に加盟することを引き続き強要していた。11月には、郡当局の指示により、マグエー管区アウンラン郡シュエバンドー村落区内のすべての村の住人に対し、連邦団結発展協会の会員を新規で5人ずつ獲得せよとの命令が出された。同様に、アウンラン郡当局はンガピン村に対し、連邦団結発展協会とミャンマー女性問題連盟の会員をそれぞれ5人獲得せよと命じた。

 一般的に、結社の自由を認められたのは政府が認可した組織、例えば産業団体や職能団体、連邦団結発展協会などだけだった。非宗教的な非営利団体はほとんどなく、存在する団体は政府の方針に沿った行動をとることに特別な配慮をした。合法的に登録された10の政党があるが、ほとんどが消滅寸前の状態だった。2006年中に当局は、国軍の支配に反対する反政府政党3党への嫌がらせと脅迫を行った。その他の合法7政党は、嫌がらせと脅迫を受けない代わりに政府の政策を支持した。

c.信教の自由

 信教の自由を保障する憲法上の規定はない。国教はないが、政府は実際のところ、多数派宗教である上座部仏教を優遇してきた。宗務省は「仏教振興宣伝局」を独立した部局として設けており、ラングーンとマンダレーの国家仏教学大学への補助金支出を続けた。登録を行っている宗教の信者のほとんどは、自らが選んだ宗教をおおむね自由に信仰することができる。しかし政府は一部の宗教行為に規制を課し、仏教を他の宗教よりも奨励した。政府は人権や政治的自由を擁護する仏教僧侶の活動も規制した。

 事実上すべての団体が、宗教団体かどうかを問わず、政府への登録を義務づけられている。政府の命令によって「純粋な」宗教団体は登録を免除されていたが、実際には登録された団体だけに財産の売買や銀行口座の開設が許されていた。したがって大半の宗教団体が政府への登録を行っている。

 2006年中には、政府や政府職員による宗教団体への暴力事件は報告されなかった。

 政府は仏教僧団(サンガ)[5]を管理する努力を続けた。「仏教と矛盾する有害な活動」を行ったとして僧団の成員(=僧侶)を裁判に掛け、僧団に行動規範を課し、違反すると刑事罰を与えた。ビルマ政治囚支援協会(AAPP)の推計によれば、2006年末の時点で投獄されている僧侶と見習い僧の数は85人である。政府は、反政府的な僧侶をためらうことなく逮捕、投獄した。政府はまた僧団に対し、表現の自由と結社の自由に関する特別な規制を課した。僧団の成員には、政治的な話題を含めた法話を行うことが禁止されていた。また仏教に関する講義では、政治的見解を反映する言葉、文句、逸話があってはならないとされた。僧団の成員は、政治や政党、政党の党員と距離を置くことが義務づけられている。政府は、国家サンガ大長老委員会(SMNC)の権威に従属する公認僧団9宗派以外の仏教僧侶の組織を禁じた。政府はすべての聖職者に対して、いかなる政党の党員になることも禁じた。

 8月13日、当局はラングーン近くのマギン僧院でHIV/エイズ活動家11人を逮捕した。HIV/エイズ患者・感染者のための儀礼を準備しているところだった。また8月には、マグエー管区イェナンジャン郡のマハーシーイェイッタ僧院のエインタリャ師は、HIV/エイズ患者・感染者への支援を止めるようにと、地元当局から高圧的な脅迫を受けた。

 8月13日、ヤカイン州トウングッ郡当局は、ブシュエモー村僧院の僧侶5人と在家信者15人を逮捕した。住民が村長らの腐敗のひどさを村落より上のレベルの当局に訴えたところ、村長側は報復として、僧院がNLD党員に会合の場所を提供していると主張した。2006年末時点でこの20人は投獄されたままだった。

 政府は、少数派の宗教団体による宗教的建造物の建設を引き続き規制し、宗教教育や改宗に関する活動を制限した。特に仏教徒の改宗に熱心なキリスト教とムスリムの組織が対象となった。政府はまた宗教施設や宗教学校の破壊を許可した。

 8月、ラカイン州のムスリム系の情報筋によれば、ビルマ政府の国境警備隊(ナサカ)がラテーダウン郡のロヒンギャ住民に対して宗教施設の閉鎖を命じた。閉鎖命令は8カ村にあるモスク5カ所、イスラム神学校(マドラサ)4校、神学校の準備学級18校、コーラン朗唱センター2カ所が対象となった。2006年末時点で神学校2カ所の再開が許可されていた。2006年を通して、国境警備隊はヤカイン州北部で恣意的な「査察」を行い、モスクの管理者側に対し、運営許可証を見せるよう求めた。許可証が提出されないと、警備隊当局者は信徒組織に対しモスクの破壊を命じた。2006年には、ブティーダウン郡では7つの、マウンドー郡では2つのモスクが強制的に破壊させられたとの報告があった。

 2006年には、ラングーンの純福音アッセンブリー教会は、教会指導者が区当局者から教会側の責任を指示された後に、活動を再開した。2005年9月、当局は同教会の信徒組織に対し、教会は住宅地内にあるので以後礼拝はできないと通告した。だが、チン人が大半を占めるこのグループは、10年以上に渡って何のトラブルもなく礼拝を行った実績があった。

 国内のほとんどの地域で、キリスト教徒やムスリムの団体が、大通りから一本入った通りなどの目立たない場所に小さな礼拝所を建てようとする場合、建設を進められることも時にはあったが、それも地元当局の非公式な許可があったときに限られた。こうした団体の報告によれば、正式な申請を行うと長期間待たされた上に拒否されることが多く、上部機関で決定が覆される可能性もあった。

 政府は国内に張り巡らされた治安機関によって、ビルマ政府は宗教団体を含む、ほぼすべての組織の集会や活動への潜入か監視を行っていた。宗教に関わる活動と組織は、表現と結社の自由に対する規制の対象となっていた。

 政府は上級公務員の扱いに関しても非仏教徒を差別していた。国軍や官庁内での昇進は、候補者が仏教徒であるかどうかで決定されるのが一般的だった。国家平和開発評議会と閣僚、国軍の現役の将官クラスに非仏教徒は一人もいなかった。政府はムスリムの国軍への入隊を積極的に妨害しており、少佐以上の昇進を望むキリスト教徒かムスリムの軍人は仏教への改宗を勧められた。民族的少数者の居住地域の一部、例えばチン州では、ビルマ政府が、報償金や昇進での優遇措置を用いて、国軍兵士がキリスト教徒チン人女性と結婚し、その女性にビルマ語を教え、仏教に改宗させるように奨励したとの報告が複数あった。

 当局は強制改宗作戦はやめたようだが、非仏教徒を仏教に改宗させるその他の手法が用いられていることを示す証拠が引き続き存在した。キリスト教チン人は仏教学校や僧院に行くよう圧力を掛けられ、仏教への改宗を勧められた。チン人キリスト教徒の報告によれば、地元当局は仏教徒の学生だけを対象とした高校を運営し、卒業生に対して政府関係の仕事を与えると約束した。キリスト教徒がこの学校に通うためには仏教徒に改宗する必要があった。また亡命チン人権団体は、地元当局者がチン人キリスト教徒の子どもたちを仏教の僧院に通わせて仏教の教えを学ばせ、親の認知も同意もないまま仏教に改宗させたと主張した。政府がザガイン管区のナガ人を似たような方法で仏教に改宗させようとしたことを示唆する複数の報告があった。

 政府はあらゆる聖職者による改宗行為を妨害した。キリスト教の一部宗派やイスラムなど福音伝道型の宗教はこうした政府の規制に最も大きな影響を受けた。政府は1960年代中頃 に外国人宣教師をほぼ全員国外に追放し、私立学校や病院をほぼすべて国有化して以降、外国の伝道組織が国内で布教活動をすることを通例許可していない。

 仏教の教義学習は、全公立小学校が準拠する国定の教育指導要領の一部となったままだった。履修しないことも可能であり、実際履修していない生徒もいた。しかし全生徒が毎日仏教の祈りの文句を唱えることが義務づけられている。祈りの間に部屋を出ることがムスリムの生徒に許されている場合もあるが、仏教徒ではない生徒に仏教の祈りを唱えることを強制する学校もある。

 国民と永住者には国民登録証の常時携帯義務が課せられていた。登録証には宗教と民族が記載されていることが多い。登録証に宗教を記載すべきかどうかを定める一貫した基準はないようだった。国民にはまた、旅券申請時など一部の申請書類に自分の宗教を記入することが求められた。

 政府は、ムスリムがメッカに、仏教徒がインドのブッダガヤーに巡礼するのを認めたが、巡礼者数の制限を行っていた。推定でムスリム約4千人がメッカ巡礼を申請したが、11月末の時点で査証を受け取れたのは3千人だけだった。官公庁がネイピドーに移転したことによって申請手続の煩雑さが増したためである。推定で仏教徒2千人〜2千5百人がブッダガヤーに巡礼した。

社会的虐待と社会的差別

 2006年2月には、マグエー管区でムスリムと仏教徒の暴力的な衝突が発生した。シンビュキュン町の近くで1人の仏教徒女性が複数のムスリム男性に強かんされたとの噂が立ち、ビルマ民族がムスリムとインド人の家屋や店舗、モスクを破壊し、放火した。暴動と略奪はチャウッ郡とサリン郡にある周辺の町にも拡大した。地元の治安部隊は当初介入しなかったが、しばらくしてから、暴力行為がさらに拡大するのを防ぐために複数の町について厳しい夜間外出禁止令を出した。信頼できる情報筋によれば、当局はシンビュキュンで17人を、チャウッで55人を逮捕しており、その大半がムスリムだった。非公式な消息筋によれば、暴動の最中に3人が死亡し、10人が負傷した。イェナンジャン、チャウッ、サグにあるモスク3カ所が暴動によって破壊されたと伝えられる。当局はモスクを立ち入り禁止とし、この報告が対象とする時期の最終時点でも、ムスリムがモスクを再建することを許可していなかった。当局は一連の暴力行為に対する公式な調査を行っていない。

 前年までとは異なり、ラングーン管区とヤカイン州でのムスリムと仏教僧侶との衝突は報告されなかった。

 ラングーン市内にはシナゴーグ(ユダヤ教会)が1カ所あった。地元の8家族のみが参加して礼拝が行われている。反ユダヤ的行為の報告はなかった。

 詳しい情報については、2006年版の「世界各国の信教の自由に関する年次報告書」を参照のこと。

d.国内移動、外国渡航、移民、帰還の自由

 政府は移動の自由を制限しているが、大多数の国民は国内を移動することができた。ただし、ヤカイン州を出入りし、同州内を移動するムスリムや、反対政党の党員の一部のような例外はあった。しかし国民の移動は厳しく監視されており、地元当局に所在地を告げることが義務づけられていた(セクション1.f参照)。武力紛争地帯では移動は制限された。国民は一方的に居住地の移動を命じられることがあった。当局は、首都ラングーンでの党行事に参加するために上京したNLD党員に対し、ラングーンでの宿泊を禁じた。

 政府はNLD指導者アウンサンスーチー氏、ティンウー氏を引き続き自宅軟禁とし、他の反対政党指導者についても移動の自由を厳しく制限した(セクション1.d参照)。政府はほとんどの民族指導者の移動に厳しい制限を引き続き課し、国内移動時には毎回政府の許可を求めるように命じた。

 民族的少数者が住み、以前は紛争の影響を受けていた地域、例えばエイヤワディー管区に広がるカレン人の居住地域では、引き続き個人の移動に厳しい制限が課された。多数の検問所が設置され、軍事保安局長事務所(MAS)による監視が行われた。国境地帯の検問所では賄賂が徴収された。ヤカイン州では、多くの検査や検問所がムスリム住民のみを対象としていた(セクション5参照)。

 政府はムスリム系住民のロヒンギャ(国民と見なされていない)について、特にバングラデシュ国境のブディーダウン、チャウトー、マウンドー、ラテーダウン各郡での移動を厳しく管理していた。政府はまた、その他の国民以外の人々(多くが南アジア系か中国系)に対し、国内移動の際には事前に許可を取得することを義務づけていた。しかし、中国やタイ、バングラデシュ、インドとの国境は監視が行き届いておらず、非正規移民や商人が頻繁に行き来している。

 普通の国民が国外に移動するには3つの書類が必要となる。すなわち内務省発行の旅券、財務歳入省発行の収入証明書、移民人口省発行の出国申請書である。人身売買問題への対応として、政府は書類の申請手続を厳しくし、女性、特に25歳以下の女性の国外渡航を妨害または制限した。

 政府は旅券所持者全員について、予定されている国外渡航を入念に精査していた。旅券と出国査証の発給に関する管理は厳しく、汚職の蔓延を引き起こした。申請者は賄賂として最大230米ドル(30万チャット、約2万6千5百円。給料1年分に相当)を強制的に払わされた。政府は旅券発給を政治的理由で拒否することもよくあった。旅券を取得した大卒者は(一部の国家公務員を除いて)教育に掛かった費用を政府に返還するため、手数料を払うことを求められた。いまだ旅券取得には数カ月はかかることが多い。早く処理してもらうための賄賂を申請者が払おうとしない場合には特にそうなる。

 合法的に国外移住した国民が親族訪問のために帰国するのは一般的に許可されており、国外に非合法に居住し、外国の市民権を取得した人物についても一部は帰国が可能だった。

 政府はラングーンで生活する外交官と国連の外国人職員に対して、指定された観光地を事前許可なく訪れることは許可したが、その他の国内移動は事前許可制としており、許可を出さないこともよくあった。赤十字国際委員会(ICRC)職員については事前許可を不要とした。政府はビルマ在住の外国人および市民全員(外交官を除く)に対し、出国許可を申請することを義務づけた。

 居住してない外国人が国内の一部地域に移動する際の規制は緩和された。政府はまた団体旅行者について「到着時査証発給」制度を開始したものの、取得にはインターネットで事前に申請しておく必要があった。大使館は有効期間1カ月の観光査証を申請から24時間以内におおむね発給している。しかし、いくつかのカテゴリーに属する申請者、例えば人権活動家、ジャーナリスト、外交官、政治家については、政府が容認するスポンサーの後援があるか、政府が認めた目的での渡航でない限り、入国査証を一様に拒否される。

 撤廃された1974年憲法には国外追放の規定はなく、政府は国外追放処分を通例行わなかった。しかし6月には、亡命反政府活動家であるチン人のサライトゥンタン氏の旅券を取り消して、氏の帰国を阻んだ。

 政府は他国から送還されたビルマ国民を受け入れる法的手続を確立していない。しかしこれまでにも政府は、タイと中国から送還された非合法移民数千人を受け入れている。

 嫌がらせ、弾圧の恐れ、社会経済状況の悪化によって、多くの国民が近隣国やそれ以外の国へと引き続き出国した。民族的、宗教的少数者の多い国境地帯では、政府は強制労働の徴用、土地の接収、食糧や金銭の強制提供、強制移住を引き続き行った。2006年には、治安部隊がバゴー管区、カレン州、カヤー州で複数の村を燃やし、住民の帰還を阻止したとの信頼できる報告が数多くあった(セクション1.g参照)。

 こうした一連の政策によって、1984年から2006年末までにタイ、インド、マレーシア、バングラデシュなど近隣国に数十万の難民が生まれた。

 ヤカイン州に帰還したロヒンギャ・ムスリムはビルマを出国したことを非難されることはなかったが、ロヒンギャだという事実によって差別を受けていた。帰還者は、移動の範囲、経済活動への従事、教育機会のほか、出産や死亡、婚姻の登録について厳しい制限を受けていた。ヤカイン州出身のムスリムの若者で、州外の大学や医科大学への入学許可を得た者は、移動規制のために入学できなかった。

国内避難民(IDP)

 タイ側のNGO筋によれば、2006年末時点で国内に50万人以上の国内避難民(IDP)が存在した。

 ビルマ国軍は、特にバゴー管区、カレン州、カヤー州、シャン州で行われた軍事作戦(セクション1.f参照)で、大量の地方住民を虐待し、自らの住居を捨て避難せざるをえない状況に追い込んだ。タイ側のNGOの報告によれば、2006年にはカレン人約2万5千人が国内避難民となった。

難民保護

 1951年の難民の地位に関する条約と1967年の同議定書に沿って庇護や難民の地位の付与を定める法はない。政府は難民を保護するための制度を設けていない。2006年に同国へ正式に亡命を申し出た人物についての報告はない。強制送還についての報告もなかった。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は2006年を通して、「住居を奪われたことで被害を受けた共同体」と協力するための許可を求めて交渉を続けた。政府は同事務所に対し、政府が国民と認めていないヤカイン州北部のロヒンギャに対する人道援助の継続を許可した。

 2006年4月、UNHCRは国境地帯発展および諸民族・開発問題省との間で合意書に調印した。内容は、それまで同事務所の立ち入りが禁止されていたカレン州とタニンダーイー管区などビルマ南東部について、同事務所がインプリメンティング・パートナー(業務委託先団体)と活動するのを許可するものだった。合意書の下、同事務所の外国人職員が当該地域での活動を監督することが許された(セクション4参照)。

セクション3 政治的諸権利の尊重:市民が体制を変更する権利

 国民には体制を変更する権利がなかった。1947年憲法には、国民に選挙で選ばれた議員をリコールする権利を認める条項があった。1974年憲法にも類似の条項があったが、実際に適用されたとの記録はなかった。しかしビルマ政府は1990年総選挙に基づく国会召集を引き続き拒否していた。軍政は組織的な弾圧や脅迫を続けることで、国民が体制を変更する権利を否定した。

 1962年以来、現役の国軍将校が中央政府と地方政府の要職を占めており、ビルマ政府はほぼすべての省庁の最高幹部クラスに現役または退役将校を配置していた。2006年末の時点で、首相、ラングーンとマンダレー、新行政首都ネイピドーの市長職を含む33の大臣級の職のうち30を現役または退役将校が占めていた。

選挙と政治参加

 1990年総選挙でNLDが勝利して以来、軍政は選挙結果に基づく国会召集を拒否し、国会議員当選者の多くを資格剥奪、拘束または投獄してきた(セクション1.d、1.e参照)。2005年と2006年中に脱出した国会議員当選者はそれぞれ1人だけと見られる。2004年には少なくとも4人のNLD所属国会議員当選者がビルマから脱出した。

 1998年、NLD執行部は他の民主化政党と共同で、残存する1990年総選挙の国会議員当選者の過半数の委任状に基づき、国民議会代行委員会(CRPP)を設置した。同委員会は、自らを国会召集まで国会を代行するものだと見なした。政府は報復を行い、NLDを公的には禁止せずに破壊するための、持続的で組織的な作戦を開始した。当局はNLDの党員や各地の党役員など数千人に脱党するよう圧力を掛け、全土で党事務所を閉鎖した。2006年中には少なくとも国会議員当選者5人が投獄された。2006年末の時点で、当選者12人が政治的な理由で収監されていた。中には1990年代前半から過酷な条件の下で投獄されている人もいる。

 1990年総選挙ではNLD党員392人が当選した。このうち128人が有効な当選者として残存していた。その他は亡命(20人)、死亡(74人)、強制辞職もしくは強制的な不信任決議による当選無効(170人)である。強制辞職または当選無効の理由は様々だった。例えば、連邦団結発展協会(USDA)は一部の国会議員当選者に対する「不信任」集会を行った。同協会と政府当局者は本人だけでなく家族にも圧力を掛けた。

 政府は2006年10月10日に、1月31日から休会中だった制憲国民会議(初招集は1993年)を再開した。当会議は、1990年総選挙の結果を無効にし、新憲法制定を目指す7項目「民主化ロードマップ」の一環だった。政府は制憲国民会議を自ら指名した1000人以上の代表で構成しており、その中には17の停戦組織の代表も含まれた。だが政府は、新憲法草案作成についての自由な討論を禁じ、憲法制定プロセスを批判すれば、5〜20年の刑に処すと警告した。自由な討論に対する規制があるため、NLDはこれに参加しないとの1995年の決定を踏襲した。制憲国民会議は12月29日に再び休会した。

 国連の政治局事務次長であるイブラヒム・ガンバリ氏が2006年5月と11月にビルマを訪問し、タンシュエ上級将軍、アウンサンスーチーNLD書記長の他、NLD幹部とも会談した。ガンバリ氏は政府に対し、懸念される人権問題への対処と反政府勢力の指導部との対話の拡大を求めたが、2006年末の時点で政府はこの要請を実行していない。

 タン・ラザリ・イスマイル国連事務総長特使は2006年1月に辞任した。ニャンウィン外相が2005年7月にラオスで開かれたASEAN(東南アジア諸国連合)地域フォーラム会期中にラザリ氏との会談を拒否した後のことだった。

 女性は、政治の場では指導的地位から排除されていた。国家平和開発評議会、内閣、最高裁に女性または民族的少数者は1人もいない。

 一部の少数者集団の成員は、完全な市民権と、政府や政治で役割を果たすことも否定されていた(セクション5参照)。

政府の汚職と透明性

 汚職が政府と社会のあらゆるレベルで蔓延していた。経済学者と経営者層は、これをビルマに投資し、ビジネスを行う際の最大の障壁の一つと捉えていた

 複雑で頻繁に変わる規制のあり方が汚職の温床となった。当局が汚職取締法を適用することはほとんどなく、適用自体にも一貫性がない。同法が適用されるのは往々にして、政府の面目が潰されるような類の目に余る汚職を行った職員について、軍政指導部が対策を講じようとした場合に限られた。2006年7月以降に政府は税関職員100人以上を汚職容疑で逮捕した。被逮捕者には税関局長のキンマウンリン大佐もいた。国立防衛大学校の校長と副校長も汚職容疑で辞職に追い込まれた。

 政府は大半の公的書類の閲覧を許可しなかったし、閲覧を許可する法もない。政府のデータの大半は機密扱いか、政府の管理下に置かれている。政策決定過程は透明性を欠き、意志決定ができるのは政府上層部に限られていた。新しい政策が公表されたり、一般向けに説明されたりすることはなかった。

セクション4 人権侵害が疑われる事例に関して国際機関あるいは非政府組織が行う調査への政府の態度

 政府は、国内人権団体の独自活動を認めなかった。また人権状況に関する外部の調査には依然として一般的に敵対的な態度をとった。

 赤十字国際委員会(ICRC)や複数の国連機関以外に、約35の非政治的な国際人道NGOが国内で活動している。この他にも2、3の団体が、常駐して活動を始めるために必要な長期に渡る交渉をしながら暫定的な拠点を設けている。多くの国際人道NGOや国連機関が、政府による活動制限への圧力が強まっており、外国人職員の現地入りがより難しくなったと報告している。

 政府は2月に、人道団体の活動を管理するためのガイドラインを発表した。しかしビルマ語版は、英語版よりも厳しい制限事項を含むものだった。2006年を通して、国連機関とNGOは2006年を通じてビルマ政府と交渉し、双方に受入可能なガイドラインについて合意を形成する努力を行った。ビルマ国内で既に活動している団体からは活動に関して以前とほとんど変わりがないとの報告があった。またエイズ、結核、マラリア問題に取り組む多国間の枠組みは交渉を通して個別の取り決めを結んだ。

 政府は、外国人ジャーナリスト(セクション2.a参照)、NGO職員、国連職員の一部、外交官に対し、一部地域内での移動制限を引き続き行った。人権活動家は、政府が認める保証人の後ろ盾があり、政府が認めた目的での渡航でない限り、入国査証の発給を一様に拒否された(セクション2.d参照)。政府は外国人の動向を監視し、外国人と接触した国民を頻繁に尋問し、国民の表現と結社の自由を規制し、政府の人権侵害に関する情報を外国人に提供した国民を逮捕する。こうしたことすべてが、人権侵害に関する情報収集と調査を行う上での障害となった。人権侵害についての報告は、特に刑務所内や民族的少数者の居住地域で起きた場合には、事件があったとされてから何カ月あるいは何年も後でなされることが多く、立証不可能な場合がほとんどだった。

 国際NGOと国連機関の一部は、現地訪問の際に、政府側代表者を当該団体の負担で同行させることを求められた。しかしこの規則は必ず適用されるわけではなかった。(セクション1.f参照)。外国人職員はプロジェクト実施地への渡航許可を得るのに苦労した。

 赤十字国際委員会(ICRC)は2005年の後半に、刑務所訪問事業の中止に追い込まれた。ICRCが行ってきた囚人との個別面会のための訪問許可を取り消したためだ(セクション1.c参照)。ICRCは民族的少数者の居住地域での活動も停止した。これは紛争地域への移動が制限されたため、通常の独立した人道支援活動が不可能となったことが理由である。ビルマ政府は11月に、パアーンとケントゥン、マンダレー、モーラミャイン、タウンジーのICRC現地事務所の閉鎖を命じたが、後になって、閉鎖ではなく、現地で行っている保護、基礎衛生、保健を含むすべてのプログラムについて、新たな指示があるまで一旦中断するようにと、以前の命令の「意味を説明」した。政府は、パアーンとマンダレー、タウンジー、政府の義足センターでICRCが行っている地雷被害者のための義足提供事業については継続を許可した。

 UNCHRは2006年4月、国境地帯発展および諸民族・開発問題省との新たな合意に基づき、ビルマ南東部でのインプリメンティング・パートナーとの事業を再開した。また同事務所の外国人スタッフがモニタリングのための訪問を行った。政府は2005年4月に、同事務所について当該地域への訪問許可を取り消していた。

 弁護士のエイミン氏は7月、国際労働機関(ILO)のビルマ政府への圧力が功を奏して釈放された(セクション6.c参照)。氏は2005年10月に、当局から土地を接収された農民に対し、ILOと接触するよう助言したとして、7年の刑を宣告されていた。氏は2003年にはILOと接触したとして逮捕され、死刑判決を受けたものの、2005年1月に釈放された。

 度重なる要求にも関わらず、政府は国連の人権状況に関する特別報告者のビルマ訪問を、2006年中には許可しなかった。

 政府はILOから強制労働に関する違反行為があったとの告発を受けており、調査を行っていると発表した。2005年1月には複数の職員が強制労働に関する違反行為で逮捕、訴追されており、数カ月投獄された後に釈放された(セクション6.c参照)。しかしILO連絡官は2005年4月、強制労働の告発を政府に通達することを停止した。当局が告発した人物を逮捕すると脅したためである(セクション6.c参照)。

セクション5 差別、社会的抑圧および人身売買

 ビルマ政府は命令による統治を引き続き行い、差別に関する憲法上のいかなる条項にも拘束されなかった。

女性

 女性へのドメスティック・バイオレンス(配偶者からの虐待を含む)が問題となっていた。しかし、配偶者からの虐待やドメスティック・バイオレンスに関する統計を政府が発表していないため、その程度を判断することは難しかった。他人の身体に危害を加えることに関する法律はあるが、配偶者からの虐待やドメスティック・バイオレンスを禁止する特定の法律はない。政府系組織のミャンマー女性問題連盟(MWAF)は、警察など地元当局に働きかけ、配偶者による暴力を含むドメスティック・バイオレンスの事例を調査するよう求めることがあった。同連盟は軍政首脳の妻が支配しているため、警察は、同連盟が告発したドメスティック・バイオレンス事件については捜査を行うことが多かった。

 強かんは違法である。しかし配偶者による強かんは、妻が14歳以下でなければ犯罪ではない。被害者が14歳以下であれば、同意の有無にかかわらず強かんとされ、懲役10年から終身刑の判決が下される。女性が12歳から14歳の間に配偶者から強かんされた場合、刑期は最長2年であり、12歳以下だと刑期は10年から終身刑となる。既婚女性は拡大家族と同居することが多く、その社会的圧力が妻を虐待から守る傾向があった。政府は強かんに関する統計を発表しなかった。しかし政府は、強かんは人口の多い都市部ではそれほど発生しておらず、地方でよく発生していると述べた。にもかかわらず、日没後に男性の付き添いなしで女性が移動するのは危険だというのが一般的な見方であり、一般に雇用者は女性を夜間に安全に帰宅させるために、バスかトラックを手配しなければならなかった。夜間のタクシー利用は、特に女性にとっては、強かんや強盗のリスクがあるために危険だと考えられていた。夜間に移動する売春婦(原文ママ)は総じて、タクシー運転手に高額な追加料金を払わなければ、強かんや強盗の被害に遭う、または警察に引き渡される恐れがあった。NGOや外交官筋からの信頼できる報告によると、警察に拘留された売春婦は、警官による強かんや強盗の被害を受けることがあった。紛争地帯や民族的少数者の居住地域での強かん事件が引き続き発生していた(セクション1.g参照)。

 売春は法によって禁止され、3年の刑が科せられる。しかし最近になって都市部、特に首都ラングーンの「ボーダー・タウン」や「ニュー・タウン」と呼ばれる地域の一部で売春が著しく増加している。この地域の住民の大半は、市内の旧地区から強制移住させられた貧しい世帯が占めている。

 セクシュアル・ハラスメントを禁止する法はない。

 伝統文化に従い、女性は結婚後も元の名前を名乗り、家計を切り盛りすることが多い。しかし女性は、伝統的に男性が従事してきた職業の大半で働くことがまだまだ少なく、国軍将校などいくつかの職業については実質的な排除が続いていた。女性は男性よりも貧困による影響を受けやすかった。女性には同一価値労働同一賃金が常時支給されていたわけではなかった。法によれば女性には最大26週分の妊娠・出産支援策を受ける権利があったが、実際には給付されていないことが多かった。

 女性の権利を擁護する独立した団体は存在しないが、政府と関係のある団体は複数存在した。ミャンマー女性問題連盟は、2003年12月に結成され、首相のソーウィン将軍の妻が会長を務めており、女性の権利擁護に取り組む有力な「非政府」組織だった。同連盟は国内14の州と管区すべてに支部があり、女性の利害を擁護する最大の政府系組織だった。ミャンマー母子保健協会(MMCWA)も政府が管理する団体で、女性と子どもへの支援を行っていた。こうした組織は政府と密接な関係にあり、政府の意図を推し進める活動を行っていた。また女性実業家の職業団体である「ミャンマー女性企業者協会」は、起業する女性に融資を行っていた。

子ども

 18歳以下の子どもは人口の約4割を占めた。極貧の両親によって学校を辞めさせられ、物乞いをさせられる、あるいは工場や喫茶店で働かされる場合があったため、子どもは大きな危険にさらされていた。孤児院に預けられる子どももいた。技能をほとんど、あるいはまったく身につけていない状態で、インフォーマル経済や街頭での労働に従事する子どもが増加しており、そうした子どもは職場で薬物、軽犯罪、逮捕の危険、性的虐待、搾取、HIV/エイズの危険にさらされた。

 適切な児童保護制度や少年司法制度は存在しなかった。この分野に関する取り組みは、リソース不足によって厳しく制約されていた。社会福祉局(DSW)が担当となって、社会福祉サービスをわずかながら供給しているが、行政が任命するソーシャル・ワーカーはわずか数人だった。

 政府は公教育に対し、相変わらずほんのわずかなリソースを割り当てるに留まった。2006会計年度(2006年4月〜2007年3月)に関する政府の公式数値によれば、一般教育全体への公的支出の国家予算に占める割合は1.9%だった。公教育は10年生(16歳頃) まで名目上は無料とされた。しかし公立学校の教師の月給は平均で4米ドル(5,300チャット、約460円)に過ぎず、最低生活賃金よりも低いため、多くの教師が離職するか、教え子に追加負担を求めざるえない状況に置かれていた。したがって多くの家庭が子どもの学校教育について、初等教育の段階ですら、金銭を負担する必要に迫られた。カチン人女性団体によれば、カチン州内の世帯は、子どもを10年生に通わせるために年間230米ドル(30万チャット、約2万6千5百円)もの負担を求められた。これはビルマの平均年収を上回る額である。家庭が非公式な支出を負担できない一部の地域では、教師が教壇に立たなくなっていた。政府が対策を講じていないために、民間団体が、私立学校の運営が法で禁止されているにも関わらず、教育支援に着手していた。

 学校は4年生までが義務教育である。国連児童基金(ユニセフ)の報告によれば、小学生の5割が4年生終了以前に退学していた。学校の出席率は低下したが、大きな原因は経済的苦境の深刻化であり、生徒が家政婦や都市部の喫茶店で接客係として働き口を探さざるをえなかったためだ。NGO側の推計によれば、全国で約100万人の1年生が登校していなかった。男女間で学校の出席率に差はなかった。

 政府は地方で仏教僧院学校を推進しており、ラングーンとマンダレーの仏教大学に補助金を支出した。民族的少数者の居住地域では、政府は現地語による教育を禁止することが多かった。

 政府は国連子どもの権利委員会に協力した。ユニセフの報告によれば、同基金は社会福祉局および教育省と実務上の緊密な関係を築いており、初等教育と、5つの少数言語での児童書作成について支援を行った。宗教的な社会活動団体や仏教僧侶、女性出家者、地域で活動する民間団体も、教育などの分野で子どもへの援助を行った。

 政府による医療の提供が相当立ち後れていることも、子どもに悪影響を与えていた。政府の公式数値によれば、2006年度の保健省予算の国家予算に占める割合はわずか0.8%だった。

 政府が小児医療の提供に関して男女差別を行っているとの報告はなかった。5歳以下の1000人当たり乳幼児死亡率は、推計で66(ミャンマー保健省、2003年)〜109(国連開発計画=UNDP、2004年)の開きがあった。このうち約4分の3が生後1年以内のもので、1000人当たり乳児死亡率は50〜77だった(典拠は同上)。幼児死亡例の多くは生後1カ月以内のものだった。本報告が参照したデータはいずれも、地方の死亡率が都市部に比べ、少なくとも25%は高く、特に丘陵地帯と中央平原地帯で最も死亡率が高いと推計している。ユニセフによれば、生後6カ月〜59カ月の乳幼児の死亡原因の最大56%が、栄養不足と感染症である可能性があった。ビルマ全土では体重不足と成長阻害が死因の32%、体力の消耗が同8.6%だった。2005年に世界食糧計画(WFP)の代表が行った推計によれば、シャン州と中央乾燥地帯では「労働の対価としての食糧援助(フード・フォー・ワーク)」[6] が行われているにもかかわらず、子どもの33%が慢性的な栄養失調だった。

 法によって児童虐待は禁じられている。政府は、児童虐待は深刻な問題ではないと主張した。国連子どもの権利委員会は2004年に、同委員会は依然として「子どもに対する肉体的、性的虐待と養育放棄を含むドメスティック・バイオレンスを予防し対策を講じる適切な処置やメカニズム、リソースが不足していること、虐待を受けた子どもへの対策が限定的なものであること、また以上の事項に関するデータが不足していることに重大な懸念を抱いている」との結論を発表した。

 子ども買春と買春目的の少女の人身売買が、特にタイに送られる、または誘い出されるシャン人の少女に関して、依然として大きな問題だった(セクション5「人身売買」の項を参照)。ラングーンとマンダレーについて、外交官による代表団は、10代前半と思われる女性売春婦の雇用が拡大していること、彼女たちに大きな需要があると伝えられることを指摘した。さらに一部の売春宿は、10代の若い女性の「処女」をかなり高額の追加料金で客に提供していた。

 国軍への入隊開始年齢は18歳と定められている。政策のレベルでは、子ども兵士の徴兵は 行っていないというのが政府の見解だが、採用担当者はこの方針をたびたび無視していた。2004年、政府は「子ども兵士徴兵防止委員会」を設置し、同委員会が子ども兵士を徴兵した者を罰する新しい規則と規制を公布したとされている。2006年8月22日、軍政第一書記のテインセイン中将は、同委員会に対し、年齢を偽ったり、国軍に入隊したことを親に告げなかったりなど未成年者自身に責任があるとした。同中将は、未成年者である息子の親が子どもの身柄を引き取りに来れば、調査の後で親元に戻されることが多いと述べた。また、発育不良の兵士は前線には送らず、基地内で軽作業をさせており、読み書きができない若者については軍の学校で教育を受けさせていると主張し、国軍には子ども兵士がまだいることを暗に認めた。

 防衛省によれば、国軍は2006年2月から5月の間に兵士55人を除隊させ、うち4人が未成年だった。外務省は11月に、9月の時点で国軍は新兵16人を除隊させ、うち4人が未成年だったと発表した。10月24日、政府は赤十字国際委員会に対して、子ども兵士の採用に関する17件の告発のリストを提出し、すべての事例は解決済であるとした。

 国軍は子ども兵士の強制徴兵を依然行っていた。国軍兵士は2006年3月21日、ラングーン管区ターケイタ郡のマウンハンゾー氏(17)を拘束した。数日後、両親が息子を連れ戻すためにピンマナ近郊のヤイニにある第五軍事教育学校まで出向いた。責任者のエイティット大尉は親子の面会を許したが、帰宅を認めなかった。

 2006年5月に第365軽歩兵大隊の一部が、テイントゥン曹長の指揮下で、チン州ティディムのミョーマ区の孤児院にいたチン人の子ども11人を勧誘したと伝えられる。カレーミョー空港で強制労働をさせた後、兵士たちはこの11人を兵士にするために、サガイン管区カレーミョーの基地に移送した。脱走しようとした年長の2人は捕らえられて処罰され、カレーワ基地に送られた。そのうちの1人ヴンキタン君はわずか15歳だったと伝えられる。

 マンダレー管区メイクティーラの警察は2006年8月3日、窃盗容疑で15歳の子ども3人(タンナインエイ、リンリン、ヤンリンマウン)を逮捕したと伝えられる。8月22日、警官のミンアウンテインはこの3人を、マンダレーにあるタウントンロン新兵募集所に50米ドル(6万5千チャット、約5千8百円)で売ったとされる。

 過去には国軍が、表向きは完全志願制とされる国軍の定員を充足させるために子どもを採用作戦の標的としていたが、断片的に伝えられるところによれば、こうした活動は以前ほど一般的ではなくなっていると見られる。

 政府はユニセフに対し新兵募集所の視察を提案したが、ユニセフ側は政府が企画した視察には大した意味がないと判断してこれを拒否した。ユニセフは政府に対して、除隊した子ども兵士の社会への再統合支援と、新兵採用者を対象として、国際人権法と子どもの権利条約、ビルマの児童関係法令とHIV/エイズへの自覚を促すワークショップの開催を提案した。ビルマ政府からの公式な返答はなかった。

 民族的少数者の停戦組織と反政府武装勢力、なかでもワ州連合軍(UWSA)が子ども兵士を強制徴兵していた。現地を視察した人の報告によれば、ワ軍にはどう見ても未成年だという兵士が大量に目撃された。武装勢力の支配地域には近づけないため、民族武装勢力でこの問題がどのくらいの広がりを見せているかについては、信頼できるデータを収集することが難しかった。

 2006年1月、ビルマ政府は、投降したシャン州軍・南部方面軍兵士の中に未成年者が数人おり、最年少のサイイ二等兵は13歳だったと発表した。しかし同軍司令官のヨートスック大佐は、18歳以下の兵士は同軍には一人もいないとした。

 2006年には、民族反政府勢力であるカレン民族同盟(KNU)とカレンニー民族進歩党(KNPP)の代表団が、ユニセフとUNHCRの代表団とタイで会談し、子ども兵士を採用している組織のリストから自軍を削除してほしいと要請した。KNU報道官は、2000年までは子ども兵士の採用が行われていたことを認めた上で、現在は子ども兵士を徴兵しない方針を採用していると主張した。しかしこの報道官はまた、現地の下士官レベルでは子どもの採用が続いている可能性があることも認めた。KNUは7月31日、子どもと武力紛争に関する国連事務総長特別代表に書簡を送り、子ども兵士を使用する武装組織のリストからKNUを除外するよう求めた。KNUはこの中で、子ども兵士の徴兵は自らが定めた方針に反しており、未成年者をKNUの軍事部門に徴兵した人物は処罰の対象とすると述べた。KNPP報道官は、未成年者の志願者は学校に通わせていると述べた。

 「子ども兵士禁止のための世界連合」(CSUCS)の報道官は8月、ビルマ政府は子ども兵士徴兵問題について依然秘密主義的だが、KNUとKNPPは率直な議論に応じていると述べた。また、この2つの武装組織にいる子ども兵士は50人未満との推計を明らかにした。

 複数の国際NGOと国際機関が子どもの権利を擁護する活動を国内で行った。赤十字国際委員会(ICRC)、ワールド・ヴィジョン、セーブ・ザ・チルドレン英国支部、ケア(CARE)、国連児童基金(ユニセフ)、国連開発計画(UNDP)と外国政府である。

人身売買

 子ども買春と子どもポルノの取締りに特化した法があるが、効果的な運用はなされなかった。ビルマ国内では、子どもを含めて人身売買の問題が引き続き存在しているが、その広がりを示す信頼できる統計は存在しなかった。政府の統計によれば、人身売買被害者は主にタイに送られており、タイと比べればごく少数の人々が中国、マレーシア、バングラデシュ、韓国、マカオに直接送られていた。

 成人女性と少女が売買される先はタイのほか、中国、インド、バングラデシュ、パキスタン、マレーシア、日本、中東諸国で、その目的は性的搾取や工場労働のほか、召使いにさせることだった。こうした人身売買も問題だった。シャン人などの民族的少数者の成人女性と少女は、ビルマ北部で国境を越えて売買させられ、カレン人とモン人の成人女性と少女は南部で国境を越えていた。国内での人身売買も行われており、一般的な人の動きには、貧しい農村地帯や都市中心部から、買春が盛んな地域(物流ルート、鉱山地区、軍基地)に向かうものと、タイ、中国、インドの国境地帯に向かうものがあることを示す証拠もあった。伝えられるところによれば、成人男性や少年も性的搾取や就労のために、外国へ売買されていた。ほとんどの専門家はこうした被害者を少なくとも年間数千人と捉えていたが、信頼できる推計値は存在しなかった。

 2005年5月に発行された報告書で、タイ・カチン女性協会(KWAT)は、カチン人の少女と成人女性の中国への人身売買の状況を文書化した。女性たちは、就労のため中国に入ったことになっているが、実際には強制売春させられるか、地元で結婚相手が見つけられない中国人男性の花嫁として強制結婚させられていた。拘束先からの脱出に成功したカチン人女性85人へのインタビューによると、10%がビルマ国内に売られており、約5割が中国人男性の結婚相手になっていた。中国東北部まで連れて行かれて結婚させられたケースもあった。

 大半の人身売買業者は組織には属せず、小規模に活動している模様だった。業者は村のつてをたどって、より力のある人身売買の「ブローカー」に被害者を引き渡していた。ブローカーは基本的に外国人だが、ビルマ人もタイと中国で活動していた。

 女性、子ども、青年の人身売買への処罰は10年から終身刑である。男性の場合は5年から10年の刑となる。人身売買目的で詐欺を行うと3年から7年の刑、人身売買被害者をポルノに用いると5年から10年の刑、組織犯罪集団と人身売買を行うと10年から終身刑、人身売買に関連した重大犯罪については10年から終身刑または死刑、人身売買法に関する捜査で金銭を受け取った公務員には3年から7年の刑が下される。これらすべての刑罰については罰金を支払うという選択肢がある。

 政府は人身売買に関してわずかな成果しかあげていない。政府によれば、2005年には203件について人身売買を行った68人に有罪判決を下した。量刑は5年以下がほとんどだったが、2006年には2人が終身刑を宣告された。政府は人身売買を行う者と密輸人との区別をしていないため、有罪判決を下された人身売買を行う者の数は、実際にはもっと少ないだろう。

 昨年と同様に、政府の執拗な治安管理措置、情報の自由な流通への様々な規制、そして透明性の欠落は、ビルマ国内での人身売買の実態を包括的に把握する障害となった。同国からの人身売買が相当な規模である点で専門家は一致するが、政府を含めた一切の組織には被害者の人数を推計する能力も、意志もなかった。

 当局者は国外への人身売買の防止と人身売買業者の訴追の重要性を認識していた。しかし政府は国内での人身売買については対策をほとんど行わず、強制労働については何ら対策をとらなかった。政府は「人身取引に関する国連機関間プロジェクト(UNIAP)」と協力し、全国、州、管区、地方レベルの下級職員を対象としたセミナーを開催し、「アジア地域人身売買プロジェクト(ARTIP)」のトレーニングを受けた。2006年初めに発行された政府の新指針によれば、人身売買で活動する団体も含めた多くの国際NGOは、プログラムを実施しモニタリングする能力を制限された。しかし多くの活動の継続が許可された。政府は1月に、「犯罪に関するASEAN相互協力協定」に調印した。取締りと送還に関してタイと中国との協力は増加していた。

 国連機関とNGOは、ビルマ政府が国外への人身売買に取り組む政治的意志を示し、国際社会との協力態度にも改善があったことを評価した。政府の人身売買対策班の人数は40人から65人に増加した。

 2006年に政府は、全国、州、管区レベルの関係省庁の職員を対象にセミナーを行い、2005年9月に施行した人身売買取締法の内容を周知させた。政府はまた、この法律を反映させるために、全国行動計画の見直しを始めるワーキンググループを設置した。

 内務省は、政府関係者は人身売買に一切関与していないとの立場だが、地方政府の当局者には汚職が蔓延していた。NGOの報告によれば、政府関係者の人身売買への関与はあるが、それは土地や地方の当局者が人身売買を見て見ぬふりをする程度に限られていた。またNGO筋は、警官が個人のレベルで、経済移民や、その他の出国する人々から金銭を恐喝しているらしいと報告した。

 政府は職業訓練センター4カ所と、女性の人身売買被害者の住居として家一軒を運営している。男性の被害者は職業訓練校内で一時的に生活する。政府は送還された被害者をセンターで1カ月を過ごさせたが、この処置は被害者保護に関する国際基準に反している。警察の報告によれば、2006年には、政府は274人を処罰し、被害者419人を帰宅させた。

 ミャンマー女性問題連盟(MWAF)と社会福祉局(DSW)は、家族の元に戻る前の人身売買被害者に対し、ある程度のカウンセリングと職業訓練を提供した。

 しかし政府がこれらの事業に拠出した金額は非常に少なかった。

 近年、政府は女性が人身売買の被害者として海外に流出するのを防ぐことを名目として、独身女性の旅券取得や外国人との婚姻に規制を加えている(セクション1.f、2.d参照)。さらに規制によって、25歳以下の女性は後見人の同行なしに越境することが禁止されていた。しかし人身売買された女性のほとんどは、旅券なしでタイ側に越境していた。

 内務省は人身売買取締りのための部局を人身売買の多い9カ所に配置した。国際NGOの支援を受け、政府はトレーニングとアドヴォカシーのためのワークショップを行い、テレビとラジオを使った全国向けの広報と、州と管区での資料配付も許可した。

 複数のNGOが人身売買対策として貧困改善や教育を目的とする事業を行った。これらの事業は一定の成果を収めたと伝えられている。

障碍者

 政府は障碍者について、雇用、医療へのアクセス、教育、その他の国家によるサービスの提供に関する積極的な差別を行わなかったが、障害者支援のリソースはほとんどなかった。建物や公共交通機関、政府施設でのバリアフリーを義務づける法は存在せず、障碍者は社会的差別に直面していた。いくつかの小規模な国内外のNGOが障害者支援に取り組んでいたが、ほとんどの障碍者は自らの生活を家族に全面的に依存せざるをえない状況にあった。

 傷痍軍人は優先的な便宜供与を受け、健常者と同額の給料となる公務員職に就くことが多かった。原則的には、軍人以外の障碍者への公的支援は、一時的障碍については1年以内に限り収入の3分の2が補償され、恒久的障碍については年金(免税対象)が支払われることになっていた。しかし政府は障碍者となった人に対し、民間部門での就労保障を行わなかった。

 保健省が障碍者の医療面でのリハビリを担当し、社会福祉省が職業訓練を担当している。政府は盲学校3校、聾学校2校のほか、リハビリ施設については成人用と子ども用を各2校運営していた。しかし政府は障碍者の学校と事業内容に対して不十分な予算しか拠出しなかった。国内NGOが盲学校4校を運営していた。

 赤十字国際委員会(ICRC)は地雷被害者へのリハビリ事業を引き続き行った。民間人か軍人かを問わず、地雷によって手足を失った人を対象とした。カレン州パアーンで整形外科のリハビリ施設を運営するほか、国境の奥まった村にいる、弱い立場に置かれた地雷被害者を特定し、同委員会による義足事業を受けられるようにするアウトリーチ事業に積極的に取り組んだ。

国籍、人種、民族に基づく少数者

 少数者に対する政府による差別、社会的差別が様々な領域で依然として続いていた。国内の民族的少数者の多くと、独立以来今日まで政府と国軍を支配してきた多数派ビルマ民族との対立は、依然として武力紛争の原因となっており、これによって2006年にも深刻な人権侵害が生じた。伝えられるところによれば、侵害行為の内容は殺害、殴打、拷問、強制労働、強制移住、強かんであり、チン、カチン、カレンニー、ロヒンギャ、シャン、モンやその他の民族集団に対し、国軍兵士が行ったものだった。民族武装勢力が人権侵害を行った可能性もあるが、ビルマ国軍と比べると非常に小規模だった(セクション1.a、1.c、1.f、1.g参照)。

 一族が長年ビルマ国内に住んでいることを証明できる人にのみ完全な国籍が与えられた。ビルマに生まれたが、原住民族とはされない人々(中国系、インド系、ベンガル系)には完全な市民権が与えられず、公務員になることができなかった。ヤカイン州のムスリム少数者であるロヒンギャに属する人々は国民とは見なされず、引き続き過酷な法的、経済的、社会的差別の対象となっていた。政府はロヒンギャの大半に国籍を与えることを拒んでおり、その理由として彼らの先祖が、英国統治が始まった1824年の1年前の時点で国内に住んでいなかったことを挙げた。これは極めて厳格な国籍法によって国籍取得要件と定められている。

 ロヒンギャ・ムスリムは公立学校には初等教育までしか通学できなかった。政府が中等教育の対象者を国民に限定していることがその理由だった。こうして排除された人々は大半の公務員職に応募することもできなかった。

 完全な市民権のない人には国内移動に制限が加えられていた(セクション2.d参照)。また医学や技術分野では大学での応用レベルのコースの一部を受講することができなかった。

 民族的少数者集団は家庭内では自らの言語を用いることが一般的だった。しかし政府の管理下にある国内の全地域でもれなく、民族的少数者の居住地域を含めて、授業では、依然としてビルマ語の使用が義務づけられていた。民族的少数者の居住地域であっても、大半の初等・中等教育機関では、民族的少数者が用いる現地語での教育は行われていなかった。少数言語で書かれた国内出版物はほとんどなかった。

 政府は、ヤカイン州やその他の地域での「モデル村」を建設しており、ビルマ民族を各地の民族的少数者の居住地域に移住させていた(セクション1.f参照)。カチン州とカヤー州からの報告によれば、民族的少数者の居住地域での政府関係の仕事(教員など)に占めるビルマ民族の割合が急増していた。

 ビルマ民族と非先住民族集団との間には民族的緊張があった。こうした集団には南アジア系住民(多くがムスリム)と、人口が急増中の中国系住民(大半が中国雲南省からの移民)が挙げられる。中国系移民は上ビルマの経済への支配を強めていた。

その他の社会的虐待と差別

 同性愛者を軽蔑する国民は多い。刑法は「性的にアブノーマルな」行為を禁止する条項があり、好意的でない関心を向けられたゲイやレズビアンに適用された。とはいえ、同性愛者は社会的な伝統によって、ある程度の保護を受けていた。トランスジェンダーの芸人が伝統行事で舞台に上がることは一般的だった。一部は精霊(ビルマ語で「ナッ」)信仰のシャーマンであり、そのために社会的に特別な立場についていた。こうした人々は、マンダレー近郊で一週間に渡って毎年行われる極めて有名な祝祭行事に参加する。この行事は宗教的なものと考えられており、性的な差別や行為とは関係なく、政府からも公式に認められていた。この行事には、軍や警察なども含めどこからの干渉もなかった。

 HIV患者・感染者は差別を受けているが、活動家筋は、一般向けの啓蒙活動の効果もあって差別と悪いイメージは薄らいだと報告した。しかし、患者・感染者を治療する医療施設に行くと、自分も感染しているのではないかと思われることを恐れて、当該施設に行かない人もいたと伝えられる。

 8月に、マグエー管区イェナンジャン郡のマハーシーイェイッタ僧院のエインタリャ師は、HIV/エイズ患者・感染者への支援を止めるようにと、地元当局から高圧的な脅迫を受けた。僧侶の行動としてふさわしくないというのがその理由だった。郡僧侶統括委員会から、逮捕するとの脅しも受けた。しかし圧力は宗教的なものというより政治的なものだった。というのもエインタリャ師は、政府がHIV/AIDS患者・感染者に対する有効な対策を一切行っていない中で、HIV/エイズプログラムを支援するNLD活動家と協力関係にあったからだ。

 8月13日、当局はラングーン近郊のマギン僧院で、HIV/エイズ活動家11人を逮捕した。HIV/エイズ犠牲者のための儀礼を準備しているところだった。活動家らはNLDや88世代学生グループとつながりがあるが、当局は僧院で宿泊することを規定どおりに申請していなかったとした。また、当局は僧院に対しても圧力を掛け、軍政により協力的な僧院長を指名するよう要求したと伝えられる。被逮捕者は全員、8月14日に不起訴となり釈放された。

セクション6 労働者の権利

a.結社の権利

 法によれば、労働者は政府の事前同意を条件に労働組合を結成することができる。しかしビルマに自由な労働組合は一切存在していなかった。

 国内の組合および国際組合の支部は結成が禁止され、個人としての加盟も禁止されている。政府は、船員雇用管理局を通して外国船籍での職を見つけた船員に対し、国際運輸労連(ITWF)との接触を禁止していた。また政府は、国外にいる船員への証明書類の発給をたびたび拒否した。適切な書類がない場合、船員は国外で正規雇用職を見つけることができなかった。

 政府はタイに拠点を置くビルマ自由労働組合連合(FTUB)を「テロリスト団体」と呼び、同労連との接触を犯罪としていた。政府は、同労連に接触した容疑で2005年7月に逮捕した(セクション1.a、2.a参照)9人に対して、同年11月、8年から25年の刑を宣告した。2005年11月には、被逮捕者の一人アウンミンテイン氏が拘束中に死亡した(セクション1.a、1.d、2.a、2.b、6.b参照)。

b.労働者の組織化と団体交渉の権利

 政府は、労働者が団結することや団体交渉を行うことを認めていない。政府の中央調停委員会は、かつて大きな労使紛争の仲裁手段として機能していたが、1988年以降は休眠状態であり、以降は労働局がいくつかの労使紛争について仲裁役を果たしたと伝えられている。郡レベルの労働監督委員会が小規模な問題に対応した。2006年には、当局は小規模なストライキに介入し、労使間の平和的解決のための仲裁役を務めた。

 政府は公共部門の賃金を一方的に決定した。民間部門では市場での需給が賃金をおおむね決定していた。しかし政府は政府との合弁事業に対して、労働者の賃金を大臣や政府高官の俸給よりも高い水準に設定しないよう圧力を掛けていた。このため一部の合弁企業は賃金を抑える代わりに、追加の手当や特別のインセンティブ制度を設けた。外国企業は一般的に国内の民間部門に近い水準に賃金を設定するが、追加の手当や報奨金を支給する合弁企業の例にならっていた。

 法によれば、労働者はストライキを禁じられているが、2006年には多くの大工場の労働者が非公式なストライキを行い、多くの場合賃上げを勝ち取った。ほとんどのストライキには政府からの介入を経ずに解決したが、当局が労使に対して、解決に至るよう圧力を掛けたケースもあった。経営者側はストライキ指導者の多くを解雇した。

 輸出奨励地域の設定はされていない。しかし国軍が所有する工業団地が存在した。例えばラングーン近郊のピンマビン工業団地には外資が入っている。また2000エーカー(約8094平方メートル)の敷地を持つ、ラングーンのフラインターヤー工業団地では、複数の企業が操業していた。ビルマの労働法は全工業団地および全産業に適用されることになっているが、すべてについて施行されているわけではない。

c.強制労働の禁止

 法によれば、他人に強制労働を課した人物は処罰される。しかし政府と軍による強制労働は依然として広範に存在する深刻な問題で、特に民族的少数者が標的とされた。国外の専門家は、ビルマ全土で、政府が道路や建築、その他の補修工事について、民間人の強制労働を依然として恒常的に用いていることを確認した。民間人はまた、国軍が所有する工業団地でも労働を強制されていた。

 国軍部隊の駐屯地や軍事作戦の支援を目的とした政府による強制労働の使用は、民族的あるいは宗教的少数者の居住地域で依然として深刻だった。信頼できるNGO筋の情報によれば、住民は軍の駐屯地内のインフラの建設や補修作業のほか、駐屯地内で歩哨などの業務を行うように命じられた。またこの消息筋によれば、住民は、軍施設の建設や補修のために製材を自己負担で持参するよう命じられた。

 ILOは、ヤカイン州での深刻な強制労働に関する報告の事実関係を確認しており、政府に対し、強制労働の使用停止を引き続き求めた。地元当局は、期限内に公共事業を完成させるために、強制労働の使用を続けている。

 信頼できる消息筋が5月に行った報告によれば、ブティーダウン郡とラテーダウン郡のチャウパンドゥ、タウィンチャウン、インディン、ムリンルウェッ、アトゥィンビン、チュッビン、オーティマ、テインダウン、タウンモー各村の住民が、マユ山脈を越える18マイル(約28.8km)の道路建設に強制動員された。この道路は「モデル村」[7]であるラテーダウン郡のタジンミン村と、マウンドー郡のチャウパンデュー村を結んでいる。当局は労働者に0.38米ドル(500チャット、約44円)の日当を約束したが、支払いは行われなかった。住民が途中で作業を拒否すると、当局は銃で脅して強制的に作業を行わせたと伝えられる。

 2005年9月にアムネスティ・インターナショナルは報告書を発表し、反政府武装闘争が弱体化し、ビルマ国軍が以前は敵地だった地域を拠点化するにつれ、ポーター(荷役労働者)徴用は減少していると述べた。しかしアムネスティは同時に、ポーターへの需要が減少するのと引き換えに、兵舎の新設やその他のインフラ整備などポーター以外の強制労働が増加しているとした。この報告書はまた、カレン民族解放軍(KNLA)と民主カイン仏教徒軍(DKBA)は共に、ビルマ国軍とまったく同じ人権侵害行為をしていることがあるとした。例えば、両軍の兵士から米や家畜、その他の貴重品を強制的に供出させられているため、既に栄養状態の悪い住民から食糧をさらに強制的に没収する行為が行われていた。バゴー管区とカレン州、カヤー州ではカレン人住民に対する軍事作戦が行われているが、2006年には、NGO側からは、この軍事行動に際して、国軍がポーターとしてカレン人を徴用することが増えていることを示す信頼できる証拠が示された。

 近年、国際労働機関(ILO)などの国際機関は、政府が強制労働を徴用する手法に変化が生じていることを確認してきた。ILOの報告によれば、国軍部隊は強制労働を命じる文書を村長に発行することはやめ、口頭で命令を伝えるように変わってきた。また、政府は強制労働の代わりに、資材や食料、金銭を強制的に徴収したとの事例も報告された。2006年を通して、国軍兵士が民族的少数者の村落に対して、米やその他の日用品の提供を強要しているとの報告が頻繁かつ広範に寄せられた。ILOは、政府は強制労働に対して賃金を支払うこともたまにはあるが、その額は一般的な賃金水準からかけ離れたものであることが多いと報告した。

 ILOの報告によれば、2002年以来、懲役刑を宣告されていない囚人が、民間人の代わりとして強制労働に動員される機会が増えている。これは民間人を使わないよう求める国際的な圧力が背景にあるための可能性がある。労働キャンプの新設が報告されたが、多くは一時的なもので、工事終了時には畳まれるものだった。2006年に、国軍はビルマ全土の刑務所から囚人を移送し、バゴー管区とカレン州、カヤー州で行っているカレン人住民への軍事作戦に、ポーターとして利用した。囚人たちは、食糧が不十分で医療がまったく提供されないなかで、地雷や銃撃の犠牲になる危険に直面していた。

 2006年中に、村落での小規模な事業に強制労働が用いられているとの報告が、全国から絶えず寄せられた。当局はまた全国で強制労働を引き続き用いて、既存の民間インフラ(交通網、灌漑設備等)の整備を行った。当局は世帯や個人に対し、金銭や食糧の供出と引き換えに、インフラ事業での労働を免除することをしばしば認めた。しかし地方では貧困が常態化しているため、大半の世帯は労働の供出を強いられる。両親は、世帯に課せられた強制労働のノルマの完遂を子どもにも手伝わせた(セクション6.d参照)。

 政府が行うバイオ燃料生産拡大キャンペーンの一環として、当局は、民間人に対して公有地と私有地に南洋アブラギリの栽培を強制しているとの報告が、ほぼすべての州と管区から行われた。

 5月に商人の消息筋が伝えたところによれば、ビルマ軍第141軽歩兵大隊と北部方面司令官オーンミン少将が、カチン州のインナピンロン、ミンター、マンキン、シュエニャウンピン、フカッ、タカッ、ンガピョードーの各村のカチン人住民に対して、シンボー―ミッチーナ間の道路改良工事を強制的に行わせた。住民は給与の支払いを受けなかっただけでなく、食糧と寝る場所を自弁しなければならなかった。働くことのできない人は、代理を連れて来るか、罰金15.4米ドル(2万チャット、約1800円)を支払わなければならなかった。

 2005年11月、ヤカイン州ポンナジュン郡タラッチョー村の男性が、国軍による強制労働が原因で、深刻な体調不良で帰宅した2日後に死亡した。ビルマ軍第550大隊は基地建設の支援のためにこの男性を強制的に徴用した。この件について進展はなかった。

 2005年12月、エーヤーワディー管区ンガータインジャウン郡ミョーティッ村の平和開発評議会当局は大工のコータンタイッ氏を逮捕し、同評議会事務所に拘束して、激しく殴打した。当局は氏を、道路建設のための木材伐採をする非自発的労働を提供せず、村の民兵訓練に資金を供出しなかったとして非難した。家族は現地の病院に氏を入院させたが、激しい殴打が原因で氏はまもなく死亡した。イェイチェイ警察暑は、暴行に関与した村落平和開発評議会の複数の職員を逮捕した。逮捕者にはアウンミンテイン議長が含まれた。

 2004年12月にマグエー管区で強制労働中に死亡したウィンルィン氏の件で、政府は補償金の支払いを拒否した。

 2004年は民間人が自ら国際労働機関(ILO)に人権侵害の告発を行った最初の年だが、以降2005年9月までに同ラングーン事務所は、調査の必要な、強制労働に関する102件の告発を受理した。ILOはうち59件を政府の強制労働委員会に転送した。委員会はすべての事例に返答し、全部で10人が有罪となり、刑を宣告された。同委員会は強制労働事件を報告、調査および訴追する適切なメカニズムを運用していなかった。

 2005年5月にILOは告発の受理を停止した。政府が、強制労働に関する訴えのうち自らが「虚偽」だと判断したものについては、その訴えを提出した人物をすべて訴追する意向を示したためだ。しかしILO連絡官(リエゾン・オフィサー)の元には、2006年を通して強制労働に関する信頼できる報告が送られ続けた。

 6月にジュネーブで開かれたILO総会で、ILOの構成員は、ビルマ政府が強制労働問題で進展を見せないことに留意し、強制労働廃止の取り決めを遵守させるための追加措置を議論した。加盟国は2つの事項の履行に関して期限を設定した。1つは7月末までに、強制労働を訴えた人物の訴追を、現在投獄中の人物と審理中の事例も含めて、一旦停止することである。もう1つは10月末までに強制労働に関する告発の処理メカニズムの策定で合意することだった。政府は6月6日、2005年から獄中にあった労働運動家のスースーヌウェ氏を釈放した。氏はラングーン管区コーフム郡の当局者を強制労働に関する容疑で告発することに成功したために投獄されていた。政府はまた2006年中にもう一人の著名な労働運動家を釈放し、9月20日に住民3人に対する訴訟を取り下げた。しかしILOが憂慮するその他の事例については解決策を講じなかった。

 ILOの構成員は11月の会合で、さらに取りうる措置について、国際司法裁判所の照会を含めて検討した。ILO理事会は11月17日、強制労働に関する告発の処置に関してビルマ政府が合意しなかったことに「大きな不満」を表明し、ILOとの合意締結を可及的速やかに行うよう求めた。

 兵士の強制徴用は広範に行われていた(セクション5参照)。

 法は子どもの強制労働と債務労働を特定して禁止してはおらず、子どもの強制労働は引き続き深刻な問題だった(セクション6.d参照)。

d.児童労働の禁止と就業の最低年齢

 法は子どもが就業する最低年齢を13歳と定めているが、実際にはこの規定は履行されていなかった。児童労働が広範に存在し、顕在化していた。働く子どもの姿が目につくのは都市部であり、小企業か家族経営の企業で働く場合が多かった。地方の子どもは、家族が営む農業関係の仕事をしていた。ラングーンやマンダレーの都市インフォーマル・セクターで働く子どもは、幼いときから働き始めることが多かった。都市部では、働く子どもの大半が、食品加工業、路上の物売り、ゴミ拾い、軽工業のほか、喫茶店の店員に従事していた。

 法は子どもの強制労働を禁止してはおらず、子どもは強制労働をさせられた。伝えられるところによれば、当局はラングーンとマンダレーで10代の子どもを検挙し、強制的にポーター労働や軍役に動員した(セクション5参照)。

 社会福祉局(DSW)は、孤児や何らかの事情で家族と別居する子どもたちを少ない人数ではあるが支援し教育を受けさせた。支援の目的の一つには、子どもたちに、搾取されにくい能力を身につけてもらうことにあった。

 児童労働に関する法を執行する特定の政府機関はなかった。12月にユニセフは、1923年から93年までの間に施行された10の労働関連法規の中に存在する、働く子どもに関する条項についての検討を終え、こうした子どもたちの保護に向けた多くの勧告を行った。

e.好ましい労働条件

 公務員と少数の伝統産業の被雇用者のみに最低賃金条項が適用されていた。公務員については4月に大幅な賃上げが行われ、公務員の最低月間賃金は11.50米ドル(1万5千チャット、約1300円)で、一日の労働時間は8時間だった。最低日払い賃金は0.38米ドル(500チャット、約44円)に上がった。様々な補助や手当がこれに追加された。最低賃金でも高官が得る比較的高い賃金であっても、労働者と家族が適切な生活水準を確保することはできなかった。公的部門での実質賃金の低さによって、汚職と欠勤が常態化していた。民間部門では、都市労働者の収入が一日0.38〜0.75米ドル(500〜1000チャット、約44円〜88円)だが、地方の農業労働者の収入はその約半分だった。民間部門の労働者の中にはこれよりかなり多い収入を得ているものもいた。民間部門の雇用者によれば例えば熟練工の収入は一月当たり19米ドル(2万5千チャット、約2200円)だった。

 労働力が余り、経済に活気がなく、政府による保護が行われていないことが引き続き原因となり、低水準の労働環境が維持されていた。公共部門では週5日35時間労働、民間企業と国営企業では週6日44時間労働と定められており、それ以上の労働には残業代が支払われることになっている。法によれば、1週当たり24時間の休憩時間が定められており、労働者は年間21日の有給休暇を取得することができる。しかし実際にはこうした規定の恩恵を受けたのは、国内労働人口のごく一部に過ぎなかった。労働人口の大半は地方の農業かインフォーマル・セクターに就業していたからだ。これらの法は政府部門ではおおむね適用されていたが、民間企業では違反が横行していた。

(訳、箱田徹。協力、秋元由紀)

訳注

[1]軍事保安局長事務所(Military Affairs Security: MAS)はビルマ軍政の諜報機関。諜報機関のトップで強力な権限を有していたキンニュンが2004年に失脚した後、2005年10月に戦略研究室(Office of Strategic Studies)と防衛諜報本部(Directorate Defence Service Intelligence: DDSI)が廃止され、軍事保安局長事務所が新設された(以下はすべて訳注)。

[2]実際は同時にビデオカメラによる撮影も行っていた。

[3]RFAは米国議会が資金提供する民営ラジオ局(媒体は短波およびインターネット)。VOAは米国政府が運営する海外向け放送局(同上)。DVBはノルウェーのオスロを本拠とする独立系の放送局で、亡命ビルマ人が運営する(短波、インターネット、衛星テレビ放送)。

[4]原文ママ。実際にはGmailはGoogleの電子メール・サービスであり、同社のインスタント・メッセンジャー(IM)兼通話サービスがGoogleトークである。

[5]僧侶の全国組織で日本仏教の宗派別組織に類似

[6]同基金のWebサイトによれば「地域社会の自立を促すことを目的としたプロジェクト」であり、「生活するうえで必要な農地や社会インフラを整備するプロジェクトを受益者参加型事業として実施し、その労働の対価として基本的な食糧を支給」する事業。

[7]軍政が建設した村で、ビルマ民族を住まわせるために元の住民を強制的に退去させるなどの行為がなされていることが多い。

出典:'Burma,' Country Reports on Human Rights Practices – 2006, The Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor, United States Department of State, March 6, 2007, at