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不穏な動きシャン州東部でのワ人移住事業(1999年〜2001年)ラフー民族発展機構(LNDO 日本語訳:秋元由紀、箱田徹(ビルマ情報ネットワーク: BurmaInfo) Original Title: © 2002, Lahu National Development Organization (English
Original) © 2004, Yuki Akimoto and Tetz Hakoda (translators); ラフー民族発展機構についてラフー民族発展機構(LNDO)は、ケシ栽培に代わる発展の道を切り開くことを含め、ラフー人の福祉と幸福とを推進することを目的として、1997年3月、著名なラフー人民主化活動家らによってタイのチェンマイで設立された。 LNDOの目的は以下の通り
連絡先: 日本語版について日本語版の作成許可と、地名の日本語への転写に関する援助を与えていただいたラフー民族発展機構(LNDO)と、連絡の仲介をしていただいたチェンマイのビルマ救援センター(Burma Relief Center- Chiang Mai)に感謝します。 訳出は秋元由紀と箱田徹が担当しました。日本語版に関する問い合わせは、ビルマ情報ネットワーク(BurmaInfo)までお願いします。 ビルマ情報ネットワーク(BurmaInfo)の連絡先: Acknowledgements for Japanese translationThe translators would like to thank the Lahu National Development Organization for the permission to translate the report, and for providing the transcription of proper names that appear in the text. We also would like to thank the Burma Relief Center- Chiang Mai for additional assistance. About Burma Information Network – JapanBurma Information Network – Japan (BurmaInfo) is the leading online resource library for information on Burma in Japanese. Our goal is to raise public awareness in Japan of the situation in Burma through providing reliable information in Japanese. BurmaInfo is at: www.burmainfo.org. The website contains over 500 documents in Japanese, 60 annotated external links, and weekly digest of news (“Burma Today Weekly Japanese Edition”). It also lists current information on lectures, meetings and workshops on Burma that take place in Japan. The accompanying listserv has more than 700 subscribers. BurmaInfo has three program officers who translate, produce and update the resources as volunteers: Tetz Hakoda, Yuki Akimoto, and Schu Sugawara. Tetz Hakoda is the general coordinator and web weaver. Contact address for BurmaInfo is: . 目 次
ラフー民族発展機構による序文2000年1月16日、ワ州連合軍の渉外担当のキンマウンミン氏は、ワ軍指導部が支配下の住民5万人を北の中国国境地方から南のタイ国境周辺まで移住させる3ヵ年事業を始めたと発表した。 この第一報に注目したメディアもあったが、今日まで続くこのワ人移住事業について国際的な報道はそれ以来ほとんどない。シャン州東部はビルマの他の国境地帯と同様、外部からほとんど隔離された状態にあり、その結果、この大規模な人口移動とそれに伴う人権侵害とは事実上秘密裏に行われてきた。 本報告書は、移住事業によって、移住したワ人と、移住先のシャン州南部の住民とが受けた影響を明らかにしようとするものである。 移住がワ人と、ラフー人、アカ人、シャン人などシャン州東部のワ人以外の先住民との間の民族的緊張を高めることになったのは明らかだ。本報告書の目的はこの緊張を高めることではなく、現在起きている問題を浮き彫りにし分析することによって、様々な民族が平等かつ平和に隣人として暮らすことができるような政治的解決策の必要性を強調することにある。 本報告書は、2001年6月から12月にかけて行われた、タイ・ビルマ国境沿いに住むワ人、シャン人、アカ人、ラフー人に対する多数のインタビューに基づいている。ワ軍の指導部から正式なデータが発表されておらず、移住が今も続いているため、この報告書は不完全であらざるを得ない。しかし、何が起きているのかを外部に知らせる必要が緊急にあったため、今あるデータを使って報告書を出版することを余儀なくされた。 本報告書作成にあたり、支援をしてくれた様々な個人や団体に感謝する。 ラフー民族発展機構 ワ民族機構議長による追加序文この報告書は、シャン州東部のシャン人、ワ人、ラフー人、アカ人、パラウン人、リス人、そしてカチン人が直面している苦難への洞察となるものである。ビルマ軍事政権は、報道の自由や移動の自由を認めていないため、シャン州東部で実際に何が起きているのかを知るのは難しい。ある民族集団が別の民族集団を抑圧している限り、真の平和が決して訪れないことは明らかである。真実がビルマ国民、そして世界の人々に示されて始めて、人々の苦しみを取り除く方法を見つけることができるようになる。私はこの報告書が、諸民族が平和に共存する道を探す重要な第一歩であると思う。 ワ民族機構(本部:タイ・ビルマ国境)サオ・マハサン議長 報告書の概要本報告書は、1999年末以来、ワ人総人口の4分の1以上が、住んでいた中国国境付近からシャン州南部へ強制的に移住させられたと推定する。ワ州連合軍の政治部門であるワ州連合党(UWSP)は、ビルマ軍事政権から許可を得た上で、トラックや徒歩で約12万6,000人の男性、女性、子どもを400キロメートル以上も南のタイ・ビルマ国境付近に移動させたのだ。UWSPとビルマ軍事政権(国家平和発展評議会:SPDC)双方の公式見解によれば、この大量移住事業には、ワ人にシャン州南部のより肥沃な土地での代替作物栽培を可能にし、アヘン生産を撲滅するというねらいがある。しかし、移住した人々がSPDCやUWSP関係者の支援を得ながら新たにケシを植えていることが、本報告書で明らかにされている。 この移住事業が麻薬撲滅とはほとんど関係がないことは明らかだが、移住事業の真の動機はまだ確認されていない。本報告書は、UWSPがタイ、ラオスとの国境貿易による地理的・経済的利益を得るために移住事業を実施したと推測する。また、SPDCが常套手段である「分割統治戦略」をとったのだという。つまり、ワ人内部を分裂させることはもちろん、UWSPとシャン州南部のシャン人反政府勢力とを対立させたり、近隣国に対してUWSPを自らの代わりの武装勢力として立てたりするのである。ワの情報筋はまた、SPDC幹部が金銭的便宜を得たことが移住事業の実現を助けたとも述べている。 移住事業の真の理由がどうであれ、本報告書には移住が強制的だったことや、移住者だけでなく、移住者の流入のせいで土地を失ったシャン州南部の住民に対する悪待遇がはっきりと記録されている。移住させられたワ人の出身地はワ州(シャン州のワ人地域は一般に「ワ州」と呼ばれる)北部の6郡だけでなく中国雲南省まで広がる。移住の前に一切の予告も受けなかった人もいる。全員が所有物のほとんどを置いてこなければならなかった。大部分はトラックで南に向かったが、山の中を2ヵ月以上もかけて歩かされた人も多い。道中で死亡した人もいる。 シャン州南部に着いた移住者は、国境を挟んでタイのチェンマイ県、チェンライ県と向きあうムンサ(ムンサート)郡、ムントゥン(ムントーン)郡、ターキーレック(タチレク)郡内の元からある村々の周辺に住まわされたケースが多い。到着した移住者にはUWSPから米が支給されたが、新しい環境に慣れないため、病気になる人が多かった。マラリアなどの病気で2002年だけで4,000人以上が死亡したと推定されている。 移住先の地域に元から住んでいた、主にシャン人、ラフー人、アカ人の生活も大きく混乱させられている。土地や所有物は移住者に奪われ、SPDCやUWSPの部隊による人権侵害を受けている。本報告書の推定では、移住事業によって地元住民を約48,000人が影響を受けた。このうち少なくとも4,500人がシャン州の他の地域に逃げ、4,000人がタイに逃げたと推定される。これらのシャン、ラフー、アカ人住民は難民キャンプに入れないため、保護や人道的援助を受けることができずにいる。
ワ人とワ州の概要
ワ人の元来の居住地域は、北はティン川、南はカ川(両方ともサルウィン河の支流)、東は中国、そして西はサルウィン河に囲まれた地域で、面積は約3,750平方キロメートルと、シャン州全体の約10分の1を占める。標高は600〜3,000メートルの山岳地帯だ。 地形は荒々しく、土壌は一般にやせている。平地はほとんどない。通り抜け不可能なジャングルも一部にはあるが、長年の焼畑耕作と、ケシ栽培が強制されたことで、大部分の地域では森林がすでに丸裸になっている。山々の斜面が急なため、移動には困難を伴う。 人口および民族構成ワ州連合党(UWSP)指導部によると、ビルマ国内のワ人の数は1994年で50万人だった。長年に渡る戦渦のため、男女比率は1対3となっている。15歳未満の子どもが人口の3分の1を占める。年間の出生数は11,000人だ。 ワ州の人口の70%がワ人で、ワ人のほかにはラフー人、シャン人、カチン人、漢人、アイネー人、リス人、メオ人(自称はモン人。タイではミャオ)、パラウン人、フェ人、ペン人、プラン人、アカ人、ミエン人(ヤオ人)、カレン人そしてラオミア人がいる。 現在、同党が指定している公用語は北京語とワ語である。ワ人のほとんどはワ語を話すことはできるが書くことができない。シャン語を話せる者は多いが、ビルマ語がわかるのは非常に少数である。 宗教大部分の人は精霊崇拝者(アニミスト)だが、仏教徒やキリスト教徒もいる。ワ人は1973年になるまで首狩りを行っていた。狩られた人の首は、悪霊を遠ざけ豊作をもたらすために村の入り口の柱に飾られていた。ほとんどの人は教育を受けておらず、どの言語についても読み書きができない。しかし90年以降、中国語とワ語を使った正式な初等教育システムが作られた。中国語教師のほとんどは中国側からやってきている。 農業のようすワ人は焼畑農業で陸稲を作る。収穫した米だけでは家庭の一年の自家消費量の半分しかまかなえないので、残りの期間の米の代金は、主にケシ収穫の収入に頼っている。土地に適した作物はほかにほとんどない。ワ州の森林の大部分がケシ栽培のために伐採されたので、深刻な土壌浸食が起きている。 政治的背景1968年にビルマ共産党(CPB)が入ってくるまで、この地域は藩王が直接統治する多数の藩に分かれていた。藩は州と呼ばれ、かなり小さいものもあったが、1,000平方キロメートルの大きさに達するものもあった。 ワ人はイギリスからも日本からもほとんど触られずにいた。ワ州は英領シャン州に含まれてはいたが、1922年に英国が設立した34州からなるシャン連合州には含まれなかった。第二次世界大戦後、ワ州北部ではワ人とムスリム系漢人との間で、南部ではワ人同士の間で戦闘が起きたところへ、中国本土から追い出されてきたばかりの国民党軍が侵入した。ワ州から国民党軍が一掃されたのは54年になってからで、ワ州とすぐ北のコーカン地域とが特別行政区として再編成され、ホーパンが首都、ムンマイ(ムンモー、ムンマオ)とパンヤン(パーヤン)が副首都に指定された。
ワ人指導部はビルマ軍事政権と交渉を始め、同党の声明などによると、1989年5月18日に停戦協定が結ばれた。 同年には、シャン州南部のドイラン−ムンヨーン地区の支配権をめぐって、麻薬王クンサーの率いるムンタイ軍(MTA、ムアンタイ軍とも)との戦争が始まった。この地区は反乱によって打撃を受けたMTAが96年1月にビルマ軍に降伏したため、ワ人の手に落ちた。しかし降伏を拒否したシャン軍部隊はシャン州軍−南部(SSA−South)として再編成され、シャン州南部で今も反政府武装勢力として活動している。 UWSAの兵力は2万人以上とされ、ビルマ軍以外の武装勢力としては最大規模を誇る。中国政府とも良好な関係にあると言われている。 行政
1996年にMTAから奪ったタイに接するムンサ(ムンサート)郡内の一部も、飛び地の南部地区とされた。 一方ビルマ軍政は、ワ州にホーパン、ムンモー(ムンマオ)、パンワイ、マンパン、ナーパン、パンヤン(パーヤン)の6郡のみを認めている(本報告書では、便宜上この6つの郡名を使用する)。 大移動移動正当化の論理1999年に始まったシャン州南部へのワ人大量移動の真の理由をめぐっては様々な憶測がある。ワ人指導部の公式の説明は、外部に対しても支配下のワ人に対しても同じで、次のようなものだった。96年に「2005年までにワ州を発展させ麻薬栽培をなくす」という発表が行われたが、その通りにするのは不可能に近く、大変な努力を要する。だがワ人には96年のクンサー降伏に伴い)州南部に勝ち取った肥沃な土地がある。その土地に行けばよりよい暮らしができるだろう、というものだ。このほかにも、ワ軍の司令官が次のような理由を述べるのを住民が耳にしている。
国連薬物統制計画(UNDCP)は現在ワ州北部(ムンポ付近。訳注:日本政府の「人間の安全補償基金」の支出先リストでは「モング・パウク」と表記)で麻薬撲滅事業を進めているが、この移住計画に直接に関与してはいないようだ。しかし1998年の国連主導のマスタープランである「コカ及びケシ削減戦略」(SCOPE)に、ケシ栽培者を非栽培地域に移住させることが含まれているという説もある。この計画は2008年までの麻薬関連作物撲滅を目標としている。さらに、移住には次のような政治的・戦略的理由があったのではないかという見方がある。
移住対象の村の選択方法1994年にUWSPが作成した移住対象住民のリスト、99年から2000年に実際に移住させられた村のリスト、そしてLNDOよるインタビューなど様々な証拠から、対象になったワ人のほとんどは中国国境に最も近い地域に住んでいたことがわかる。 次表は1994年にまで遡る移住対象にされた住民のリストである。移住対象者がもっとも多いのはイチェーン、コンミンシャン、クーマーの各区で、この3区はみな中国に接している。
LNDOの情報によると、1999年から2001年の間にワ州北部の区から南に移住させられた村の数は次の通りである。
上の表と次の地図は移住させられた村を示す。対象となった村の割合がもっとも大きいのは、ワ州内の中国国境に接する北端部の郡であることがわかる。
中国国境沿いの地域から高い割合で住民が移住させられたことは、ワ軍指導部が中国側(ワ人)住民を移住させる計画を立てていたという推測を裏づけるものである。 しかし北部から高い割合で移住が行われたもう一つの理由は、シャン州南部に拠点を置くUWSA指導者のうち、もっとも影響力の強い2人が北部地域の出身だからであるようだ。ウェイ・シューカン(UWSA第171師団長)は北部のムンマイ郡の出身で、ウェイ・サイタン(別名タ・タン、UWSA第894旅団長)はパンワイ郡のクーマー区の出身だ。この2人が南部の支持基盤を強化するために、出身地から自分たちに忠実な住民を連れてきたがったのだと推測されている。 シャン州北部から南部に住民を移住させた公式の理由は、北部の土地がやせていて、アヘン以外に栽培できるものがないというものだったが、移住させられた住民が住んでいた地域には、実際にはかなり肥沃な土地もあった。例えば、北部国境地帯のムンマイ郡は土地が豊かなことで有名だった。LNDOがインタビューしたワ人の1人によると、当局は地域の天然資源を開発するために周辺住民を立ち退かせるのに乗り気だったと言う。 「ムンマオ区のヨーンプリ村とアイスァイ村では、私たちの村よりもたくさんアヘンがありました。そこではワ州の中でもっとも多量のアヘンが生産され、ほかの作物もほとんどのものを作ることができました。ワ軍指導部と中国政府はその地域で銀を採掘したかったので、1万人の村人を移住させました。私たちが(シャン州南部に向かって)歩いていると、トラックに乗せられたヨーンプリ村とアイスァイ村の住民に追い越されました」(インタビュー#2、全文は巻末に掲載) 移住対象とされた住民のほとんどはワ人だったが、わずかながらラフー人も含まれていた。 ワ州内の住民以外にも、中国側の住民が南部に移住させるためにビルマ国内に連れてこられたという一貫した報告がある(LNDOがインタビューした中の一人によれば、人数は25,000人に上る)。LNDOは中国国内から移住させられた人々の出身地を正確に把握できていない。 移動の準備ある報告によると、ワ当局は住民に対し、最長で6ヵ月も前から南部への移住について知らせていた。 「ある日、パンサンの本部であった会議から戻ってきた民兵隊隊長のンガォカットが、村の住民全員がまもなくタイ・ビルマ国境に引っ越さなければならないと言ってきました。そこには肥えた土地があり、新しい畑を作れるし、いくらでも土地をもらえ、いつまでもいることができる、と言われました。タイに近い所なので、鶏や豚、水牛、牛などを良い値で売ることができるということでした」(インタビュー#1) 住民たちは、移住について選択の余地がないことをわかっていた。 「ワ人は、共産党の支配下にあった時代から、命令への服従に慣れているので、あえて抗議する人はいませんでした」(インタビュー#3) 「私たちは皆、ワ軍指導部からの命令に従わなければ殺されるとわかっていました」(インタビュー#1) だが移住を命令された人たちは複雑な思いを抱いている。南部での新しい生活を楽しみにしたらしい人も多かった。 「家族のほとんどは移住するのを喜んでいました。惨めな暮らしから逃れたがっていた上の二人の娘は特にそうでした」(インタビュー#1) しかし、先祖から受け継いだ家や畑を離れるのが嫌がった人もいる。 「新しい土地のことを何も知らなかったので嬉しいとは思いませんでした。(……)妻には農地やアヘン畑を離れるのが嫌だと話しました。それが本当の思いでした。でもほかの誰にも、引っ越したくないとは言いませんでした」(インタビュー#1) 一部の人が移住するのに乗り気でなかった理由には、シャン州南部の温暖な気候への恐れもあった。シャン州南部ではマラリアが風土病として残っていることを知っていたせいだ。1990年代中頃には、シャン州南部のタイ国境でMTAのシャン人部隊と戦っていた北部出身のワ人兵士が多数、マラリアで命を落としていた。 「(移住の)知らせを聞いて、喜んだ人もいれば悲しんだ人もいました。悲しんだのは、かつてタイ・ビルマ国境のドイロイランでクンサー軍を相手に戦った人たちでした。当時、仲間の兵士の多くがマラリアで死んだのです」(インタビュー#1) 当局は移住対象者をあらかじめ指定していたにもかかわらず、移住の当日まで一切何も知らされなかった人もいた。 「6ヵ月前から移住することを聞いていた人たちもいました。事前の知らせを一切受けなかった人もいました。ヨークロという村の場合、村にあった230世帯のうち100世帯が移住の命令を受けていました。ところが、移住するその日には150世帯が移住を命令されました。(命令を受けていなかった人たちは)無差別に追い立てられたのです。移住を望まず家から密かに逃げだした子どもたちが取り残された家族もありました。このように、移住によって家族が散り散りになってしまいました」(インタビュー#6) 移住しなければならないことを前もって知っていた人にとっても、移住の日は急にやってきた。 「ある晩、(……)本部から兵士が20人来てこう言いました。『明日の朝早く、笛が鳴るのを聞いたら、皆起きて朝食を作り、速やかに食べろ。2番目の笛の音で、村を出ろ。鍋、皿その他の所持品を持つことは禁じる』」(インタビュー#1) 家財道具の持参を禁じる命令を聞いて、移住を命令された人たちはますます悲しくなった。 「何年もかけて必死に集めた持ち物をすべて残してこなければなりませんでした。牛や水牛を何頭も置いてこなければならなかった家もありました。誰も持ち物を残していきたくはありませんでした。指導部からは置いてきた分については補償金をもらえると言われました。それを信じようと信じまいと、命令に従う以外になかったのです」(インタビュー#2) シャン州南部への旅移住対象者は様々なルートでシャン州南部に向かった。大部分の人はまず、村からもよりの町まで歩き、そこからトラックで運ばれた。主な集合地点は州都パンサンと、UNDCPがケシ代替作物開発事業を行っているムンポだった。そこから人々は約160キロメートル南方のムンピン(ムンペン)、さらに約154キロメートル南方のムンサ(ムンサート)まで連れて行かれた。ムンサから同郡の南部や東部、さらには南西のムントゥン(ムントーン)郡まで連れて行かれた。 トラックでムンヤーン、ムンカ(ムンカーク)、チェントゥン(ケントゥン、チャイントゥン)、ターキーレックを経てムンサまで行く人たちもいた。
2001年の雨季には、ターキーレックの北東、メコン河沿いのパーレオ−チェンラップ一帯も移住対象となった。さらに同年末の報告によると、ムンピン(ムンペン)郡でも1〜2万世帯が移住対象に指定された。 移住者の多くは自動車に乗ったことはおろか、見たことさえなかった。 「5日間歩いた後、遠くから音が聞こえてきました。強い風とか雷のような音でした。妻と子どもたちが何の音だと私に尋ねてきましたが、わかりませんでした。兵士の1人に聞いて初めて、それが自動車の音だということを知りました。それまで自動車を見たことはありませんでした。村のほかの人も誰も見たことがありませんでした」(インタビュー#1)
「500人が大きな六輪トラック9台に分乗するように命令されました。皆大急ぎでトラックに乗り込みました。するとトラックが動き始めました。たいして行かないうちに、老人も子どもも皆、気分が悪くなり、泣いたり叫んだりしはじめました。トラックに乗っていた人たちの中には、降りて歩いて行かせてくれと懇願した人たちもいました。(……)トラックの荷台には覆いがかけられていました。そのため夜のように暗くなり、私たちはどこに向かっているのかも見えませんでした。(……)あんなに気分が悪くなったのは生まれて初めてでした。地獄で罰を受けているかのようでした。妻に、次の人生では2度と自動車に乗らないですむように祈ったと話しました。あんなに苦しむよりは殺される方がましでした」(インタビュー#1) シャン・ヘラルド・ニュースは、車でムントゥンに向かっていたワ人2人が2001年11月30日に死亡したと報じた。 「2人とも女性で61歳と69歳だった。2人が乗っていた中国製の六輪トラックは防水シートで覆われていたので、2人は窒息死したにちがいない」(シャン・ヘラルド・ニュース「南へ移動中のワ人が死亡」、2001年12月4日) 移住者の中にはトラックに乗らず、移住先までの全行程を歩いた人たちもいた。ある移住者は「貧乏人がほとんどだったので」、歩いて行かされた一団に自分たち一家も加わったと話した(インタビュー#2)。とはいえ、トラックで行った人々の多くも貧しかったので、全行程を歩かされたのも、貧しさが主な理由だったのではないとみられる。 ワ州北部からシャン州南部までの徒歩の旅には数ヵ月かかった。小さな子どものいる家族には大変な負担だった。 「家族の着替えは全部1つのかごに入れてありました。妻がそのかごを背負い、1歳の娘を抱いていました。私は別のかごの底にアヘンを約1.6キログラムと現金150元(1900円)を入れ、その上に米の入った小さいかご6つと穀物と載せて運びました。3歳の息子がこのかごの上に乗りました。上の娘は皿や食料を持ちました。次女が5歳の弟の手を引きました。道を歩くときもあれば近道をすることもありました。道はとても荒れていて、山をジグザグに登ったり下りたりしなければならないこともよくありました。(……)私たちの一団には子どもがたくさんいたので、時には一つの所で2、3泊することもありました。着くまでに69日掛かりました」(インタビュー#2) 移住後の村々移住事業のために人々が去った後ワ州北部の村々がその後どうなったのか、LNDOはその様子を実際に見て証言できるワ人に今のところ直接インタビューできていない。しかし、国境を隔てた中国から住民が移されてきたという話を人づてに聞いた何人かから話を聞くことができた。 LNDOへの情報提供者の1人は、2001年5月にワ州北部からムントゥン(ムントーン)郡に移住させられた73歳のワ人と話をした。この老人は、彼よりも後に移住してきたワ人たちから、彼の家には中国側から来たばかりの人たちが既に住んでいると聞いたと述べた。 移住者の到着移住場所下の表は、1999年から2001年末までにワ州北部からシャン州南部に移住させられた人たちのおおまかな内訳と移住場所とを示す。表中の合計数のうち、約5万人が1999〜2000年の乾季に、残りの大部分の人は2000〜2001年の乾季に北部から連れてこられたと推定されている。
この表から、移住者の大部分がムンサ(ムンサート)郡に連れて行かれたことがわかる。UWSAが南の飛び領地でタイ国境上にあるムンサ(ムンサート)郡南部のムンヨーンでの基盤を固めたかったことは明らかだ。四方を山に囲まれたムンヨーン渓谷は、今でもUWSAの戦略基地である。3万人近くの市民をムンヨーン内に定住させたのとは別に、UWSAは移住者の残りの大部分をムンヨーンの北、北西、北東そして西に配置した。言い換えれば、UWSAは支配地域を拡大し、拠点であるムンヨーンを囲うように戦略上の防壁を形成したのである。
同じように、UWSは2001年半ばにも移住者をターキーレックの東、ラオスと向き合うメコン河西岸のパーレオ−チェンラップ地域に送りこむようになった。メコン河沿いのこの地域を、タイと中国南部とを結ぶ主要な貿易・観光ルートにしようという計画がある。 2001年にUWSは、ムンピン(ムンペン)郡のノンヨン(ムンプーロン)地域にも移住者を送る準備を始めた。この地域はムンピン(ムンペン)とムンサ(ムンサート)の町を結ぶ道に沿っており、この路線はワ州の南北を結ぶ主要なルートのひとつである。このためノンヨン(ムンプーロン)地域への移住は、最終的にワ州の南北の支配地域を結ぼうという段階的な拡大政策の一環とも言えるだろう。しかしUWSAがこの地域で金の採掘権を持っていることからすれば、移住者の配置が経済的権益にも関連しているのは明らかである。 ほとんどの場合、移住者は山間盆地を通る道(新造のこともある)のそばの、たいていは元からある村の近くに作られた、新しい村に定住させられた。だがワ人は伝統的に山間盆地で生活してきた人々でないことに触れておくべきであろう。 新しい定住地大半の移住者が、新しく連れてこられた土地は慣れない所ではあったが、土壌は北部の故郷よりも肥えていることを認めた。どこに定住したかを問わず、移住者たちは到着後ただちに家を建てたり畑を作ったりして働き始めた。 「皆、最初の一ヵ月は新しい畑を作るので忙しく過ごしました。皆、一生懸命でした。私は32ピーの稲を植えましたが、土が良かったので2,048ピーも収穫できました。(……)故郷にいたときよりも境遇が良くなったと私たちは感じました」(インタビュー#1)
ワ人が移住してきた地域から逃げ出してきた住民の中には、ワ人にはUWSAから一世帯に一丁ずつライフル銃が与えられたと報告する人もいた。 新移住地にはいくつか学校も建てられたが、すべての子どもが教育を受けるには足りなかったようだ。たとえば、ムンサ(ムンサート)郡東部のムンカーン地域から逃げてきたあるシャン人によると、この地域に18,000人以上の住民が新しく入ってきたが、UWSPはたった2校しか学校を建てなかった。学校には中国人の教師がおり、中国語、ビルマ語、ワ語が教えられていたと報告された。 新移住者には主にUSAの衛生兵を通して医療が提供されていたほかは、ムンカーンなどに小さな病院がいくつか設立されただけだった。 ケシ栽培住民を南に移住させたことについて、公式の理由が、住民がケシ栽培をやめられるようにすることだったのは皮肉なことだ。移住先となったタイ国境の地域も、アヘン生産でよく知られているからだ。 移住した人たちは、移住先ではケシを育ててはいけないと言われていたが、いざ到着してみるとまったく逆のことを言われた。 「私たちのいる地域はケシ栽培にとても適しています。ワ軍は移住者に、3年間はケシを作ってもよいと言いました。SPDCもまた『額の上(よく見えるところ)ではケシを作ってはいけないが、首のつけね(見えないところ)では作ってもよい』と言いました。こういうわけで、新しく来たワ人はケシを大規模に栽培しました。ワ人はアヘンを自由に販売することができ、タイ向けに出荷することも許されていましたが、元々のこの土地に住むラフー人、アカ人、シャン人はアヘンを自由に売ることはできませんでした。アヘンを直接ワ軍に売るように命令されており、命令に従わないと逮捕され投獄されました」(インタビュー#6) 「ワの指導ウェイ・シューカンは私たちにこう言いました。『金が必要ならアヘンを作ってよい。われわれはSPDCと合意を結んでいる。3年間はアヘンを作ってもよいし、税金を払う必要もない』」(インタビュー#1)
アヘン栽培とは別に、覚せい剤の取引に関与しはじめた移住者もいた。 「新居地に来る前は、『ヤーバー』(覚せい剤のタイ語名称)という名前を聞いたことがあるだけでした。見たこともありませんでした。ここにはたくさんありました。まる一日かかりますが、タイに運んでいけば1万バーツ(3万円)ももらえました。身体に障害がなければ私もきっと運び屋の仕事をしていたと思います。運び屋をした人たちは多額の金を稼ぎ、見たこともないものを買ってきました」(インタビュー#1) 病気と死気候が温暖なシャン州南部に着いてまもなくすると、移住者の多くがマラリアなどの病に倒れるようになった。 「ワ人が到着してまもなく、マラリアにかかって死ぬ人が出始めました。次から次へと死んでいきました。1日に10人が亡くなることもありました。そんなことは生まれて初めてでした。ワ人の医者も何人かいましたが、病人を救うことはできませんでした。遺体は村の外に埋葬しました。1人を埋葬し終えると、すぐにまた別の人が死ぬといった具合でした。男性、女性、子ども、一世帯まとめて死ぬようなこともありました。家族の中に死者が出始めたので逃げ出そうとした人もいましたが、見つかると逮捕され、殴られました。逃げ出そうとして殺された男性も何人かいました」(インタビュー#5) 恐怖にかられたワ人たちは、伝統療法での治療を試みたがうまくいかなかった。 「ワ人たちは呪術や伝統薬で病気を治そうとしました。鶏や豚、犬、そして10頭以上の水牛を殺して精霊に捧げましたが、病気はよくなりませんでした。毎日3、4人が死にました。嘆く声や泣き声があまりにもひどいので、ここは生き地獄かと思うこともありました(……) 「上の娘が病気になり、アヘンを薬として与えました。娘の体は火のように熱くなっていました。夜になると下痢をしました。アヘンの効果もなく、娘は翌朝早くに死にました。2日後、妻も下痢をして死にました。私は悲しみにくれ、どうしていいかわかりませんでした(……) 「その当時、新しく所に越してきた人たちも死にました。隣に住む家族5人が全員亡くなりました。2週間で計50人が死にました。故郷では、病気になると呪術医に頼んで治してもらっていました…。霊媒によれば、南部の精霊は北部の精霊とは違うのだそうです」(インタビュー#1) ワ人移住全体での死数についての公式な確認作業は行われていない。ムンサ(ムンサート)郡とムントゥン(ムントーン)郡の住民の話を総合すると、移住1年目には4,000人、2年目の2001年には1,000人の死者が出たと推定される。しかし2000年9月にはAFPが、タイ軍情報筋の話として、2000年の雨季には1万人ものワ人が死んだと報道した。 中国との関係LNDがインタビューした人は全員、移住者に漢人も混じっていたことを確認した。ただ人数は地域によって異なっていた。 ワ人の移住によってムンサ(ムンサート)郡南部から追い出されたアカ人は、ワ人から漢人を見分けるのは簡単だと述べた。 「(ワ人の移住者の中には漢人も混ざっていました。漢人は店を出して色々な食べ物を売っていました。とうもろこしから蒸留酒を造ってもいました。ワ軍と一緒に漢人の兵士や将校がいるのも見ました。彼らはワ軍の制服を着ていましたが、ワ人よりも色白だったのですぐに見分けがつきました。言葉は中国語以外できませんでした」(インタビュー#5) ムンサの東のムンカーン村に住んでいたシャン人は、ムンカーン村に移り住んできたワ人300世帯の中に、漢人が30世帯含まれていたと述べた。 漢人が特に多く集中したのはムンサ町の南方にあるバーンホーン村だった。 「ウェイ・シューカンが率いるワ軍第801大隊は、私が住んでいたバーンホーン村に基地を置いていました。ここには兵士の家族が約2千世帯住んでいました。軍の基地には漢人地区があり、250世帯1,000人余りが住んでいました。この漢人はウェイの軍事、経済関係の仕事にかかわっていました」(インタビュー#3) 既存の住民への影響ワ人の移住先に近い村の住民は、まもなく新しい隣人の存在に苦しむようになった。 「ワ人が入ってきて、元からいた住民が植えた果物や野菜を許可もなく取って行きました。畑の所有者が、取らないように丁寧に頼んでも、無礼な返事をし、首を切るぞという身振りをしました。妻や子どもたちは畑や庭に出て働くのさえ怖がるようになりました。家の豚、鶏そして犬までワ人に盗まれました。牛や水牛も消えていきました。ワ人は武装していたので、誰もこの盗みに対して文句を言うことができませんでした」(インタビュー#4) ワ人によって収穫物や家畜だけでなく、住民の畑や家も奪われた。ムンサ(ムンサート)では、約230世帯が住むビルマ軍退役兵用の居住地までもが没収された。 「北部のワ軍指導者のウェイ・シューカンが、ムンサ付近の一番良い土地5000エーカー(2000ヘクタール)以上をビルマ政府から買い取りました。この土地は、シャン人やラフー人、アカ人、パラウン人が何世代にも渡って米やかんきつ類、お茶、にんにく、唐辛子、サトウキビなどを育ててきたところでした。森も、野生動物のすみかも、精霊の社も、ワ人はあらゆるものを取っていきました。北部から来たワ人には、ほしいものは何でも与えられました」(インタビュー#3) 地元住民には、所有物を取られたことを訴える場がまったくなかった。 「びた一文の補償すら支払われていません。ビルマ軍政当局に抗議するのは無駄でした。ワ軍当局に抗議しても、すべてキンニュン中将(軍政第一書記、当時)から買い取ったのだ、と言われるだけでした。相談する先がありませんでした」(インタビュー#3) 土地を失ったことについて抗議したため、ワ軍当局に罰された人もいた。 「抗議した人は例外なく(ワ軍に)逮捕されて『牢屋』(地下壕)に入れられました。足を鎖で縛られ、1日に1回だけの食事で、ワ人のために畑を耕す作業をさせられました。」(インタビュー#5) 地元住民が語る別の問題は、ワ軍当局による税の徴収だった。これは、ビルマ軍政に払う税金に加えて納めなければならないものだった。 「ワ人はほしいもの全部を私たちから取っていきました。税金の支払いも求めてきました。一世帯につき1年に250バーツ(750円)をワ軍に払わされました。これが払えないと、人を1人ワ軍に渡さなければいけませんでした。ワ軍は、7歳以上なら子どもでも受けつけました。私は幸い、鶏などの家畜を売って現金を支払うことができました。このほか、ワ軍には田んぼ1枚につき米を10バスケット納めなければいけませんでした。ビルマ軍に納める米に加えて納めなければならなかったのです」(インタビュー#5) この結果、複数の地域で住民は故郷を離れざるを得なくなった。LNDOがインタビューした人たちの出身地はさまざまだが、ワ人が移住してきた地域では元の住民の大部分が家を捨てたと語った。 「この地域(ムンサのこと)では、元々住んでいたラフー、シャン、アカ人がワ軍とビルマ軍から痛めつけられています。金を無理やり取られ、ほかにもいろいろな虐待を受けます。ワ人からのこうした虐待に耐えられず、土地を去った人が大部分です。村に残った人はほとんどいません」(インタビュー#3) 「この(ワ人移住の結果、1年以内に元の住民のほとんどが農地や収穫物を捨て、別の場所に引っ越しました」(インタビュー#6) ワ軍当局は、自宅を去る住民が持ち物を持っていくのを許さなかった。 「村を出るとき、数枚の毛布以外には何も持って行けませんでした。親豚1匹、子豚7匹、鶏70羽を置いていきました。ワ軍が毛布以外を持ち出すのを許さなかったのです。私が村を出たときには、村には既にラフー人は1人もいませんでした。皆逃げ去り、ワ人が空いた家に移り住んだのです。村を出ると皆、いろいろな地域に散らばりました」(インタビュー#5) 地元住民に対するワ人による虐待の様子は、移住先の各地域を通じてほぼ一貫しているが、地域を離れる地元住民の割合や移動先は、主にその地域の戦略的重要性や人口密度、国境からの距離などによって異なる。 以降のセクションでは、ワ人が移り住んだシャン州南部の地域のそれぞれの状況と、それによって地元住民が受けた具体的な影響とを簡単に分析した。 ムンサ(ムンサート)郡
ムンサの町は、同郡内の多くの山並みの間に見られる、いくつかの肥沃な山間盆地の一つに位置している。人口は約4万、そのうち75%がシャン人、残りの大部分はビルマ人とラフー人だ。郡内の盆地にはシャン人が、丘陵地帯にはラフー人やアカ人が住んでいる。 盆地では主に米や唐子、タバコ、にんにく、パイナップルが栽培されている。唐辛子とにんにくはタイなど他の地域に出荷される。丘陵地帯ではケシが作られている。 ムンサの町には1954年まで中国国民党の雲南省反共救国軍の本部があった。町の飛行場からC-47輸送機でアヘンがタイや台湾まで運ばれていたという。 1950年代以降、ムンサ郡の丘陵地帯や国境地帯で様々な民族武装勢力が活動してきた。90年代からはシャン軍(最初はMTA、後にSSA)とワ軍とが主要な勢力となっている。 ビルマ軍事政権も郡内に駐留する部隊の数を増やし、現在では4つの大隊を置いている(第49、333、528および278大隊)。 ムンサ郡南部(ムンヨーン)ムンヨーン区は肥沃な山間盆地で、周りを囲む山々には元々24ほどの村があり、主にラフー人が住んでいた。1996年のクンサー降伏後、UWSAは北部から徐々に部隊や一般市民をこの地域に連れてきた。ムンヨーンの村は拡大し、99年には人口1万人もの町になった。 大規模移住計画が始まった1999年には、北部から新しく来たワ人移住者たちは、主にヨーン川やコック川に沿った谷間に、約60〜100世帯ずつの集落を作って定着した。2000年に入りワ人の多くが病気になり死亡したのを受け、マラリアを逃れようとして(盆地より標高のある)周辺の丘陵地帯に移り住むワ人も出た。 ムンヨーン区は元々、ウェイ・シューカンが率いるUWSA第171大隊とタ・タンが率いる第894旅団の両方の指令下にあったが、ウェイ・シューカンの部隊は2000年に退き、ムンサ郡内のほかの地域やムントゥン郡、ターキーレックに移った。 1999年よりも前に北部から連れてこられた移住者の多くは、ワ州北部のパンヤン(パーヤン)区出身で、ウェイ・シューカン指揮下の民兵組織に入っていたラフー人だった。ウェイがムンヨーン区から退くと、民兵組織もムンヨーン区からの退去を命じられた。同時にムンヨーン区に元々住んでいた約2,100人のラフー人も退去を命じられた(UWSAに対するラフー人の忠誠心の度合いが疑問視されたため)。 これらのラフー人はムントゥン郡へ、町の南から国境に通じる道路の西側に移住するよう命じられた。つまり、南部のUWSAの主要な支配地域の外に出されたのだ。命令どおりこの地域に移住したラフー人も確かにいたが、もっと北のムンピン(ムンペン)郡に移住した人たちもいた。これらの人々はほとんどが既存のラフー人村に定着した。ほんの一部(約50人)はタイに逃げたことがわかっている。 2001年6月にムンヨーン区から逃げた、バンカム 村出身のシャン人住民によると、ワ人は移住直後には問題を起こさなかったが、00年に元の住民の土地を占領し始めた。01年には、村の土地の約4分の3をワ人が占領していた。 しかし、まとまった数のシャン人がタイに逃げ始めたのは2001年12月になってからだった。当時、ムンヨーン区の2つの仏教寺院がワ軍によって破壊された。破壊の理由は迷信だったらしい。この事件がシャン人社会に衝撃を与え、多くの人がタイに逃げ込むようになった。同年12月の終わりには、地域内のシャン人の約40%(約150人)が地域を去り、主にタイのチェンマイ県メーアイ郡に移動した。 ムンサ中部(サイカオ、コーンムタン、タンチェーン村落区)ムンサの町の東と南東部にあるこれら3村落区のうち、サイカオとコーンムタンには元々、シャン人の村が12あり、タンチェーンにはラフー人とアカ人の村が17ほどあった。最も大きい村はムンサの南東8キロにあるシャン人の村バーンホーンで、約200世帯が暮らしていた。同村は1997年にUWSA第171師団司令官ウェイ・シューカンの本拠地となった。99年にこの地域に移住してきた何千人ものワ人を受け入れるため、ウェイはムンサの南東の農地の大部分を、ビルマ軍政幹部のキンニュン中将(当時)から直接購入したとされる。新しく来たワ人たちは、伝統的に栽培されてきた米などの穀物の代わりに、ライチ、ロンガン、みかんなどの果樹を主に植えたと報告されている。 バーンホーンの村は違えるほど変貌したといわれている。ワ軍指導部はレンガやコンクリートの家を建てた。また、大きくて近代的な「デパート」も建て、地元住民がその近辺で店を出すのを禁じた。 ワ人が流入し、元の住民の土地や、場合によっては家も取り上げたため、この3村落区にある村の住民の約25%(6,200人中の1,550人程度)が別の場所に移ったと推定されている。 家を追われた住民の大部分はムンサの町の北東地域に移ったと報告されている。ワ人の流入のためにタイに逃げたという住民の話は出ていない。これは、ムンサ周辺の土地の人口密度がかなり低いため、家を追われた住民が新しく移り住むことが可能だったのが原因であるようだ。また、ワ人が移住したほかの地域に比べてタイ国境から遠いということもある。 ムンサ東部(ムントゥン)チェンライ県北部メーファールアン郡に向き合う、メーサイ川沿いの肥沃な山間盆地には、シャン人主体の村が6村ほどあり、約1,200人が住んでいた。住民は米、大豆、豆などを栽培して自家消費をする一方、国境のタイ側で作物を販売していた。この渓谷は主にムンサから来るシャン製品をタイに運ぶ貿易ルートとして使われていた。
周辺のシャン人住民はこの戦闘の間、ビルマ国軍と同軍を支援していたUWSAとのためにポーター(荷物運搬人)として無償で働かされた。ビルマ軍は、シャン人反政府勢力と接触した疑いのあるシャン人の村長や住民を拘束し拷問し始めた。 「タイ・ビルマ国境のパンヌンでシャン軍とビルマ軍との戦いが(2001年2月に)始まると、ビルマ軍部隊が村に入ってきました。 私は拘束され、村の住民全員を集めるように命令されました。村に戻ってくるのを怖がり、森に隠れた住民もいました。するとビルマ軍はそうした人をシャン人ゲリラと接触したと咎めました。 私は頭にぬれた毛布をかぶせられ、気を失うまで何度も竹の棒で殴られました。(……)一晩中殴られ、やっと解放されました。兵士たちの所属はムンサの第221連隊でした」(インタビュー#4) 2001年4月までに500人以上がタイ国境に逃げた。避難した人々の大部分はムンカーンの山間盆地に住んでいた。12月には、避難した住民の数は倍になった。住民らは国境のタイ側での難民キャンプ設置をタイ政府から禁じられているため、シャン州内の国境のすぐそばに集落を作って暮らしているが、安全が確保されない状態が続いている。2001年12月末には、ムンカーンの元の村に残っている住民は、元々住んでいた人のうちの2割ほどに過ぎなかったと推定されている。 ムンカーン地域は、今ではワ軍によってヨーンカと改名されている。この地域は2001年末に、タイ政府が出資予定の麻薬撲滅開発事業(費用2,000万バーツ、6,000万円)の実施地域に指定された。 ムンサ南西部(サンカン村落区)
この地域内にあった22のラフー人やアカ人の村々から、元の人口の約30%(3,700人のうち約1,100人)が、UWSAの圧迫を受けて他の地域に逃げ出したと推定される。住民全員が逃げ出し、村全体が完全に捨て去られたところもある。UWSAは元の住民に対し、この道路の南側の領域はすべてワ人のものだと宣言したため、逃げた住民はムントゥン―ムンサ間の道路の北側に移住したと報告されている。ムンサ郡中央部の場合と同様、ムンサ郡北部に土地があったことと、タイ国境から遠いことから、避難した住民のうち、タイに逃げた人はほとんどいない。 ムントゥン(ムントーン) 郡
ムントゥン郡は、チェンマイ県にあるビルマとの北部国境からシャン州中央部に伸びる幹線道路に沿っている。越境地点であるノーンウ からの道はまっすぐ北に延び、約100キロメートルに渡り、ホン川沿いの、幅が広い、荒れた渓谷部を通ってムントゥンに着く。道はムントゥンから西に曲がり、約50キロメートル先のターサンでサルウィン河を渡る。橋の向こうはムンパン郡である。 村のほとんどは、肥沃なホン川の渓谷を通るこの道沿いにある。村では主に米、唐辛子、にんにくを育てている。 ムントゥン(ムントーン)郡東部と南東部(ホーパン、メーチェン、パチェック村落区)UWSAは1994年に、ムントゥン郡東部にあるホーヨとホーパン両村の近くに基地を設立し、以来この基地はタ・ルンが率いるUWSA第214旅団の拠点となっている。1999年以降、ワ州北部の住民がこの地域の広い範囲に移り住むようになった。ワ人はナムハン渓谷にあるメーチェン村落区周辺にも移住してきた。 これらの地域の大部分では、ワ人が地元住民の土地を直接接収することはないようだが、既存の村にある空き家を占拠することはある。家人が畑仕事に出かけていて一時的に空き家になった家も占拠されることがある。新しく来たワ人はまた、地元住民が植えた竹林を切り倒し、住民の既存の畑と畑の間の狭い所に唐辛子やライチの木を植えておいて、木が傷んだり枯れたりしたら罰金を取るぞと脅したりしている。このような脅迫行為や土地の侵害行為のせいで、これまでに既存の住民の約15%(約8,700人のうち1,300人)が村を去った。村を去った住民のほとんどは、タイに避難してきたシャン人だと報告されている。 ムントゥン郡南部(ムンホン、ホイオー(ファイオー)、ブンパーケム村落区)この地域には元々、タイ国境に通じる幹線道路に沿って23のシャン人、ラフー人、アカ人、リス人の村々があった。豊かな地域で、住民は水稲やにんにく、大豆を育てていた。茶の栽培も行い、取引用に大量の水牛や牛を飼育していた。 ウェイ・シューカン率いるUWSA第171師団が、タイ国境に通じる幹線道路沿いのホイオーに基地を1つ設置した。UWSAはまた、この地域から西の、タイのチェンマイ県のピァンルァンという公式な越境地点に通じる道沿いのムンチョにまで部隊を展開させている。 この地域には2000年12月以降、一般のワ人が移住させられはじめている。ムントゥン郡の東部、南東部と同様、ワ人移住者は既存の住民の土地の周りに住みつき、侵害行為をしている。広い範囲の土地を切り払い、果樹を植え始めている。既存の住民のうち約15%(11,000人のうち1,600人)が村を出て、タイに避難しにきたと推測されている。そのほとんどがシャン人だ。 ターキーレック郡
ターキーレック郡は、ビルマ、タイ、ラオスの国境が接する黄金の三角地帯にある地域としてよく知られている。伝統的に郡内の山間盆地には主にシャン人、山の中には主にアカ人やラフー人が住んできた。 ターキーレックの町ターキーレックの町は、タイのチェンライ県にある国境の町メーサイの向かい側にある。国境貿易やビルマや中国からの人の密輸(トラフィッキング)によって、ターキーレックの町はかなり繁栄するようになった。10年前の人口は約2万人だったが、2001年には10万以上になり、ビルマの他の地域から来ている人も多い。5つの主要銀行の支店や、複数の民族武装勢力の事務所や会社があることからもターキーレックの経済的な重要性がうかがえる。 2000年12月、ターキーレックに国境貿易監視を名目にナサカ(国境警備隊)が配備された。ナサカはビルマ軍政のキンニュン中将(当時)の直接の指揮下にある。 これまでのところ、ターキーレックの町周辺に移住させられたワ人の数は少ない。町の西でアカ人住民の畑を奪って果樹を植えたワ人移住者もいるが、それ以外に土地の占領はしていない。したがって逃亡を余儀なくされた地元住民はまだいない。地元住民の話によると、ワ人の数が増加したことによる主な影響は、UWSAの勢力が増したことと、麻薬が広まったことである。また、UWSAから「許可証」を得た貿易業者や運転手は、ビルマ軍政の(国境の)チェックポイントを素通りすることができる。 ターキーレック郡東(パーレオ−チェンラップ)ターキーレック郡東はメコン河に沿った豊かな農業地帯で、1961年1月までは国民党軍の拠点があった。同じ月に中国が人民解放軍の部隊2万人を送り込み、国民党をこの地域から追放した。ラオスに接するこの地域ではその後、シャン人を始めとしてさまざまな民族武装勢力が活動した。 2001年半ばからWSPがパーレオ付近の土地数区画を管理し始めた。UWSPは部外者がこの土地に入ることを禁じる看板を立てた。占拠された土地は、以前は飛行場だった土地も含めて、それまでビルマ政府所有の空き地だった。したがって、この地域から追い出された住民は今のところいない。しかし地元住民は、新しいワ人移住者が大規模な養豚、養鶏事業を行っているため、周辺地域の豚や鶏の値段が下がる可能性があると訴えている。 メコン河流域開発計画が進むにつれ、地元住民はワ人が地域で影響力を増し、地元住民を追い出し始めるのではないかと懸念している。 ワ人移住の影響を受けた人の数シャン州南部の、ワ人が移住させられた地域に住んでいた住民の合計数は以下のようにまとめられる。
タイ政府の現行政策によると、タイに一時的に避難することが認められるのは、戦闘を直接逃れてきた難民だけである。従って、ワ人の強制移住事業の影響を逃れてタイに来た難民は難民キャンプに入ることができず、タイ国内では不法移民として生き延びようとするしかない。不法移民には、法的保護や国際援助機関からの人道援助を受ける権利がない。 結論と勧告LNDOは、ワ人の強制移住事業が、移住対象となった約12万6,000人の住民だけでなく、移住先の地域の住民約48,000人の人権を深刻に侵害したという事実を見出した。移住対象となった住民は移住を断ることができなかった。年配の人にとっては特に、先祖から受け継いだ土地や慣れ親しんだ生活を離れることは、大きな打撃となった。移住を強制されただけでなく、事前に一切の予告も受けなかった人もいる。この結果、必要以上に苦しみが増え、家族の離散にもつながった。また、移住した人は皆、所有物をほとんど残していかなければならなかった。 住民は集団的にトラックや徒歩で移住させられたため、身体の痛みや病気を訴える人だけでなく、死者も発生した。シャン州南部に着いた移民には、生きるために必要な基本的な物資が支給されたが、マラリアを予防したり治療したりするための適切な措置は取られず、多くの人が亡くなった。医療や教育の施設はいまだに不十分なままだ。また注目すべきは、ワ当局によってアヘン栽培が許されているだけでなく、奨励までされていることである。強制移住を正当化した理由がアヘンの撲滅だったことを考えるといかにも皮肉な成り行きだ。 移住者が入っていった地域に元から住んでいた人々は、土地や所有物を不法に占領されている。恣意的な課税などの人権侵害にも直面し、以前のようには暮らすことができなくなった人も多い。この結果、8,000人以上の人がシャン州の他の地域に移り住んだり、難民としてタイに逃げ込んだりせざるを得なくなった。タイでは、現行の政策の下ではこれらの人々に保護や人道的援助を受ける権利が認められていない。 人権を尊しないやり方でこのような移住事業が実施できた主な要因が、ビルマ全土、特に諸民族が多く住む国境地帯での民主主義や法の支配の欠如にあることは明らかである。 以上のことからLNOは、ビルマ軍事政権が、民主主義やビルマの諸民族の自己決定を迅速にもたらすために、民主化勢力と民族勢力との三者対話を直ちに始めるよう、軍政に対する国際的圧力をかけ続けることを呼びかける。またLNDOは次の3点を要求する。
日本語版追加資料ワ人の強制移住が再開(2004年2月6日、シャン・ヘラルド・ニュース)今季は1万人が目標との観測も シャン・ヘラルド・ニュース(SHAN) タイ・ビルマ国境のラフー人とシャン人の消息筋によれば、2002年5月以降一時中断されていたシャン州北部から南部タイ国境へのワ人の強制移住事業が、ワ軍当局の言質とは裏腹にすでに再開されている。1999年から始まったこの計画は、2002年2月に発生したシャン州軍(SSA)とビルマ軍との短期間の戦闘を受けて中断されていた。 ワ州では、2005年までにけし生産を全廃するという計画(期限は2007年に延長された)の一環として、ワ人をシャン州南部の5郡(ムントゥン、ムンサ(ムンサート)、ターキーレック(タチレク)、ムンピァン、タンヤーン)に移住させている。 しかしこの移住事業は2003年9月に、NGO「トランスナショナル・インスティテュート」(TNI、本部=アムステルダム)の「薬物と民主化プログラム」が、ワ州連合軍(UWSA)の首都パンサンでワ人指導部と会見した直後から再開されたとみられている。ワ軍中央委員会は12日にTNIに対し「現時点では大規模な移住計画をこれ以上行う予定はない」と述べていた(Drugs and Conflict in Burma (Myanmar): Dilemmas for Policy Responses, Amesterdam: Transnational Institute, Dcember 2003, p.4.)。 しかしこの発言とは対照的に、内部の消息筋によれば、シャン州北部の中心地ラシオから130kmほど南のタンヤーン郡に1,500人が、タイ国境、チェンマイ県のビルマ側の3つの町に1,500人が移住させられている。タンヤーン郡はワ軍司令官ウェイ・シューカンが2001年に、キンニュンから2000エーカー(280ヘクタール)の土地を譲り受けた地域である(地図参照)。
移住したワ人の間ではマラリア、下痢などの患者が急増し、2003年10月後半から12月5日までに計147人の死者が出た。このため移住計画は一時中断していた('Sickness and death hit Wa - again', Shan Herald Agency for News, December 7, 2003.)。 だが2003年12月末以降、ビルマ軍の6輪および4輪トラックが国境の町や村で毎日見かけられるようになっているという。地元のシャン人筋は「普通なら1日3台が通るところだが、1月28日には12台、30日は10台だった」と述べた。 一方、ラフー人筋は12月30日に40台のトラックが通るのを目撃したと話している。そのほとんどがムンチャ方面へ向かっていた。ここはワ軍が2003年3月に敵対する民兵組織から奪った新しい町だ。その後に一帯では「よそ者」が排除されたが、実際には、こうした人々は移住計画が再開されるはるか以前にやって来た人々だった。ナコーンムーからの情報によれば、ムンチャに近い田んぼのうち村人4人分が7月10日に整地させられた。 ワ軍に近いシャン人商人は、今季は1万人が目標とされるだろうと話している。 ラフー民族発展機構の報告書『不穏な動き』(2002年)は、強制移住対象となった男女、子どもの人数を12万6,000人程度と推計している。しかしワ軍最高司令官のパオ・ユーチャン(タ・パン)によると、ワ人総人口の2割近い10万人を対象とする計画全体のうちで、2002年までに移住したのは約65,000人だ。ジェーン・インテリジェンス・レヴューは2003年1月に「移住は2、3年以内に終えるつもりだ」という氏の発言を伝えている。 2003年12月29日付のバンコク・ポスト紙も、チェンライ県メーファールァン郡のビルマ側、ムンサ郡のヨーンカで行われているタイ王室主導の「ドイ・トゥン開発プロジェクト」の責任者ディットナット・ディットクン氏が、「ワ州でも代替作物事業を行う予定なので」、ワ側とビルマ側にワ人のタイ国境への移住計画を中止するよう要請していると報じた。(Wassana Nanuam, 'Rangoon asked to scrap relocation plan Moving Wa 'could revive drugs threat'', Bangkok Post, December 29, 2003.) こうした動きを、チェンマイ県ファーン郡のある消息筋は「タイ側が何を言っても、ワ側はまったく気に留めていない」と評した。 (訳・編集=箱田徹) 出典:'No stopping the Wa exodus', Shan Herald Agency for News, February 6, 2004. 付録付録1:ワ州連合党が1994年に移住対象としたワ州北部の地域
出典:ワ州連合党の内部資料 付録2:1999年から2001年までシャン州南部に一部または全体が移住した村の一覧概要
ホーパン郡(イチェーン区、ナウィ区)対象村落数:23 Hopang, Namting, Xinle, Kawnkaw, Bantun, Yianchan, Kawnshan, Shanton, Ranghsin, Monglingtaung, Panglong, Jongwo, Gaungyia, Kawnpyak, Ban Gang, Na Wi, Pangkho, Kyinchan, Kawngriti, Luhpa, Hokho,Manhseng,Pinglong ムンモー郡(ムンマオ)(コンミンシャン区、ゲロンバ区)対象村落数:59 Tatin, Yawng Htang, Yawng Rieng, Yongkalo, Yawng Hpre, Konglai, Manshu, Sa U mantai, Monle, Yawng Gala, Kansay, Mongtong, Ngaikat, Ngai Bruk, Loihin, O Mawe, Phanlai, Lon Khwa, Wo Yiao, La Ru, Ngai Brai, Tota, Ong Pun, Mawsho, Man Ping, Gong Ming, Man Carroo, Kong Pi, Yawng Pian, Man Phin, Kong Kyi, Mong Lelong, Namkonglong, Man Hoang, Kong Kyo, Yawng Palong, Yawng Tek, Gong Er, Man Tong, Man Kwelong, Man Kha, Man Ta, Mong Mao, Kut Hi, Gong Nen, Jong San, Yawng Naung, Monglelykwa, Gelong Ba, La Shui, Gelon, Kaitin, Pang Thu, Ming Rai, Htang Htin, Mongloo, Kin San, Yawng Palao パンワイ郡(クーマー区、ワンリァン区)対象村落数:59 Sao Hpang, Changyin, Ngalai, Shan Ken, Tom Poung, Kong Ru, Mong Nong, Yawng Hok, Pang Nong, Yawng Kai, Yawng Kong, Hpa Ha, Yawng tiya, Man Pang, Pingkalun, Yawng paray, Own Karet,Yawng Gong, Kawn Na, Yawng Rai, Yawng Long, Da Ganlo, Yawng Ngai, Yawng Rai, Sikara, Yawng Parai, Za Hai, Da Puhai, Yawng Nong, Chon Pai, Laitiya, Kun Ma, Yawng kalot, Yawng Parun, Yawwng Nu, Kong Ki, Yawng Rong, Jong Lei, Kawn Lun, Yawng Kalu, Ok Siyee, Ngelai, Yawng Kha, Yawng Lon, Wang Lin, Ro Simout, Tong Kara, Ni Mei, Man Maw, Moe Tara, Jong Ba, Yawng Pa, Yawng Yang, Pang Pi, Yawng Sing, Ngai Moe, Lalai, Ngai Hot, Khon Ru マンパン郡対象村落数:36 Man Hpang, Kawn Ta, Mong Salong, Nong Chet, Kong Pa, Kekalong, Mot Hpraw, Um Khram, Nang Ni, Nong Sawk, Man Kha, Ka Sit, Man Noi, Kom Pei, Mot Hsi, Man Phan, Nawng Kham, Kong Vot, Pang Kaw, Loi Sim, Jong Mei, Yawng Bang, Man Ket, Pang Hpeung, Yawng Ka, Lien He, Nawng Ket, Yo Yansen, Man Ping, Maw Pala, Man Hog, Ma Mungseng, Ong La, Ye Song, Pang Kaw, Nge Ka, Pang Pia ナーパン郡(イーパン区)対象村落数:71 Napharn, Ai Kyin, Suramun, Kati, Ha Khon, Pala, Mau Pha, Hpa Maw, Ying Fang, Yawng Lai, Sa- U, Yin Pan, Jong Ba, Yawng Palin, Kong Nge, Kong Kara, Pa Htang, Yawng taung, Taung Rao, Tu Lai, Ba An, Man Sa Mu,Kon Roon, Man Vei, Pang Yon, Si Saw, Mon Lie, Man Naung, Hpang Ling, Kut King, Mo Lai, Ma De, Kang Pha Ya, Na Lai, Man Loi, Sa Khu, Pala, Hpankaru, Pang Long, Pa Ton, Nam Sin, Man Kang, Yawng Lek , Yawng Mot, Man Cawn, Yawng Lao, Om Phram, Pang Sai, Yawng Met, Mon Parai, Loi Hta, Sao Kyen, Man Kawn, ThuSei, Tha Wa, Yawng Mu, Man Ha, Pang Long, Pang Yong, Loi Ling, Yawng Kawn, Mon Moe, Cu Phan, Man Nao, Kong Kin, Su Lon, Man Naung, Kong Phan, LaiLin, Hpa Song, Nang Kang-O パンヤン(パーヤン)郡対象村落数:58 対象村落の全世帯数:5,655、うち移住対象世帯数:2,323(平均41%) Yawn U, Yawn Pang, Ban Vin, Kawn Hong, Khan Khi, Yawn Pang, Yawn Shai, Yawn Aawn, Tang Mang, Ban Ngeng, Nawn Pang, Mung Khun, San Khen, Yawn U , Mang Seng (1), Mang Seng (2), Ban Vin, Nam Pha, Nam Ling Su, Yawn Ting, Su Hpeung, Teung Nawn, Bang Vin, Hong Voi Lon, Hong Voi (1), Hong Voi (2), Su Lo, La Ka, Vin Kao, Nam Tong, Maw Ngek, Bang Ngek, Bang Ven, Tong Nawn, Bang Nawn, Nawn Eu, Pang Yang, So Lo, Bang Kawn, Pang Pawn, Pang Kawn, Nawng Aung, Ngek Pha, Pang Kham, Nam Khan Va, Vin Ngeu, Vin Ngeu Lon, Mung Terng, Thun Nawn, Khan Po, Cu Phan, Bang Cawn, Nawn Caw, Bang Nawn, Nawn Kaw Law, Tho Kaw Law, Pu Pa Ra, Nong Pa 付録3:シャン州北部から移住したワ人のシャン州南部での分布ムンサ(ムンサート)郡ムンサ郡南部(ムンヨーン)
ムンサ郡中部(サイカオ、コーンムタン)
ムンサ郡中部(タンチェーン)
ムンサ郡東部(ムントゥン)
ムンサ郡西部(サンカン)
ムントゥン(ムントーン)郡ムントゥン郡南東部(ホーパン、ホイオー(ファイオー))
ムントゥン郡南部(ブンパーケム、ムンジョー(ムンチャ))
ターキーレック郡
付録4:ワ人移住地域に住んでいた住民の構成ムンサ(ムンサート)郡
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