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辺境から見えるビルマ
山本宗補* * やまもと・むねすけ フォトジャーナリスト。1953年、(長野県)御代田町生まれ。ビルマのほかフィリピンの先住民族などを取材。国内では「老い」「戦争の記憶」をテーマに撮影・取材している。写真集に「ビルマの大いなる幻影」「また、あした 日本列島老いの風景」など。共著に「フォトジャーナリスト13人の眼」、「見えないアジアを歩く」(2008年4月刊)。 (上)反軍政カギ握る人物失う マンシャー書記長の暗殺
山本宗補 二月十八日、ビルマ(ミャンマー)の少数民族解放組織、カレン民族同盟(KNU)のマンシャー書記長(64)の火葬が、タイ国境に近いKNUの解放区で執り行なわれた。書記長はその四日前の十四日、タイ側の町メーソットにある自宅兼仕事場の二階ベランダで、イスに座って休んでいたところを、胸と腹部に銃弾を三発浴び、暗殺された。 ビデオジャーナリスト長井健司さんの射殺事件以降、ビルマの軍事政権が長年、辺境地野の少数民族に対して、その生活基盤を破壊しつくす軍事作戦を行なってきた実態にもようやく関心が向けられつつある。マンシャー書記長は、軍政に抵抗する少数民族最大の勢力で、国外で活動する民主化勢力とも共闘するKNUの、実質的なトップだった。 書記長の暗殺事件当時、敷地内での建築工中のため、ふだんは閉じている鉄製の門が開いていたという。車で乗り付けた男二人は開いた門から入り、階段を上がった。果物かごを手にした一人が「ハラゲー(こんばんは)とカレン語であいさつし、至近距離から書記をピストルで二発撃った。その後にもう一人の男が発砲したという。二人は、エンジンをかけたまま駐めてあった車で逃走した。書記長は即死だった。 殺害現場を見せてもらうと、イスの緑色の背もたれに、貫通した銃弾による穴が一カ所空いていた。 マンシャー書記長は、私が二十年前にカレン民族解放闘争を取材し始めた頃からの知人でもあった。暗殺現場となった家は、二年前の取材時にも泊めてもらい、書記長やKNUの若者たちと一緒に食事をした。「政治的な問題は政治的な方法で解決したい。武装闘争は自衛の手段にすぎない」。番記長は口癖のようにそう語っていた。 暗殺の実行犯はカレン民族の男性で、KNUから分派し、軍政側に投降したグループに属す兵士または元兵士と見られている。一見、内部抗争にも思える構図だ。しかしKNUや民主化運動の関係者は、暗殺事件を、KNUの内部分裂を工作してきた軍政が仕組んだ政治的事件と見ている。書記長の死が軍政を利するのは明らかだからだ。 書記長と私が初めて会った一九八八年、民主化運動に対する国軍の武力弾圧で、ビルマ人学生や市民、僧侶数千人が、タイ国境のKNU解放区に逃げ込んでいた。ラングーン大学を卒業し、当時、ボーミャ議長(二〇〇六年死去)の秘書を務めていたマンシャー氏は、民主化運動の学生活動家や政治家とKNUが共闘するための潤滑油の役割を果たしていた。マンシャー書記長はまた、クリスチャンが指導層を占めるKNUのなかで、数少ない仏教徒でもあった。 二年前、マンシャー書記長が「いまの若い(民主化運動)世代は連邦国家制に賛同している。少数民族の自決権も平等権も賛同してくれている。だからいまは、カレン民族にとっても、良い状況だ」と話していたのを思い出す。 暗殺事件直前の今年二月九日、軍政は、八八年に停止した憲法に代わる新憲法草案を五月に国民捜索にかけると、突然発表した。それによって軍政は、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝した九〇年の総選挙結果を、完全に反故にしようとしている。自宅軟禁下にあるアウンサンスーチー氏は昨年十一月、国道のガンバリ特別顧問に託した声明のなかで、「少数民族の意見を考慮することはとりわけ重要だ」と述べた。政治支配の恒久化を狙う軍に対し、民主化運動と少数民族のさらなる結束が目指されていたまさにその時期に、暗殺事件は起きた。 葬儀には、二十年前、学生活動家としてKNU解放区に逃げ込み、その後、タイのチェンマイを拠点に母国の民主化運動に関わり続けるアウンナインウー氏の姿もあった。彼はマンシャー書記長の死をこう惜しんだ。「意見の異なる幅広い層をまとめ、反軍政の闘いを進めていくためのカギを握る人物だった。野蛮な連中のせいで、彼の命がむなしく失われたことは、カレン民族だけでなく、ビルマ人にとっても悲しむべきことだ」。 【写真】カレン民族解放戦線の兵士が警備するなか、荼毘に付されるマンシャー書記長の遺体=2008年2月18日、タイ国境のカレン民族同盟(KNU)解放区 撮影:山本宗補 (中)やまない弾圧 続く闘い 国外に逃れた僧侶・市民
山本宗補 カレン民族同盟(KNU)のマンシャー書記長が暗殺されたタイの町メーソットは、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権に抵抗する少数民族の活動拠点であるとともに、二十年前の国軍による民主化運動への武力弾圧以降、国外に脱出した民主化活動家らの拠点となってきた。今年二月に訪れた際、昨年九月の反軍政デモに対する弾圧で、国境を越えメーソットへ逃れた三人に、デモ当時の状況を聞いた。 モーチョー(44)は、四年間の獄中生活と秘密警察による二度の拘留を経験している元学生活動家。ビデオジャーナリストの長井健司さんが射殺きれる前日の九月二十六日、僧侶による連日の抗議デモの出発点となったシュエダゴン・パゴダ(ヤンゴン市内にある仏塔)の手前で、バリケードを挟んで治安警察と対峙した。 デジタルカメラを持った友人と一緒にいた彼は、治安警察の司令官が「カメラを持つ者は誰でも撃て」と拡声器で指示するのを聞き、写真を撮った友人とすぐにその場から逃げた、と語った。警察による自宅での尋問を偽の身分証明書で免れ、その日のうちに国境を目指した。カメラマンのラエーソー(38)は九月二十七日、国軍の兵士にかなり接近して撮影する長井さんの姿を、遠くから見たと言う。ラエーソーが撮影しインターネットで配信した、若い僧侶が托鉢用のの鉢を裏返して高く掲げる写真は、軍からの寄進を拒否する抗議行動の象徴として、世界の人びとの目に触れた。彼は、治安警察に三度捕まりそうになり、カメラも奪われそうになったため、逃げるしかなかったと語った。 ウー・パータカ師(47)は、僧侶による抗議行動を組織したリーダーの一人、軍政による昨年八月の燃料代の値上げに真っ先に抗議した、八八年の民主化運動世代の元学生活動家たちと連携し、全ビルマ青年僧侶連盟(ABYMU)を結成。議長として活動を指揮し、全国の僧侶の四組織による統一行動をまとめた。軍政は、その宣伝機関である国営新聞紙上で、「デモを指揮した、元犯罪人の偽僧侶」として、ウー・パータカ師を含め七人の僧侶を名指ししている。 師は、その身を追われた八月末から五カ月間、国内四十カ所を転々とし、農民や漁民、時には中古車販売業者になりすまして潜伏。地下活動を続けていたが、親族や信徒までが連行されるようになったため、今年一月にメーソットに逃げ込んだと言う。 なぜ僧侶は抗議行動に立ち上がったのかという問いに、ウー・パータカ師はこう答えた。「人びとが生活に困り、苦しんでいることを、彼らに代わって政府に訴えた。政府はそれを政治運動だと非難した」。 ウー・パータカ師の正式な僧名は、ウー・ピンニャゾータ。二十五歳で仏法を説く資格を取得した後、僧院で若い僧侶の教育にあたり、二十年前の民主化運動にも関わった。僧侶の組織を結成したことや、学生活動家らとの関わりから、何度も拘束されて拷問を受け、二度の投獄で合わせて十年を獄中で送った「闘う僧侶」だ。二〇〇四年に二度目の刑期を終えて釈放されてからは、(ヤンゴン市内のマッギン)僧院で教えながら、軍政下で放置されるエイズ患者やHIV感染者に対する医療援助にも取り組んできた。 一九八八年以来の、僧侶の大規模な抗議行動に対する弾圧は激しく、昨年九月末以降、ウー・パータカ師の僧院を含め全国五十六カ所の僧院が治安警察に急襲され、多くの僧侶が逮捕、投獄された。また、師が把握する限りで、僧侶二人が殺害され、十二人が行方不明になったという。師の僧院は昨年十一月末、当局により閉鎖された。 メーソットには、師を含め二十四人の僧侶が逃げ込んだ。だが、国外から、軍政との闘いは続く。ウー・パータカ師は日本に対して、「軍政下、人びとが声を上げることさえできない状況に置かれていることに目を向け、人びとの側に立ってほしい」と語った。 【写真】僧侶の抗議行動を組織したウー・パータカ師は、長井健司さん射殺事件後も軍政への外交方針を変えない日本政府に「失望した」と語った=2008年2月、タイ・メーソット 撮影:山本宗補 (下)帰還の見通しないなかで 海外への再定住進む難民
山本宗補 軍事政権下のビルマ(ミャンマー)から逃れたカレン民族などが暮らすタイ国内九カ所の難民キャンプから、第三国への再定住が進み始めている。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、二〇〇五年から〇八年一月末までの約三年間で二万二千二百七十七人が、米国をはじめカナダ、ノルウェー、スウェーデンなど十カ国へ移住した。米国は昨年一年間に一万人以上を受け入れ、〇八年は一万七千人程度を受け入れる予定だという。 二十年前、国軍が全権を掌握した時点で、一万八千人のカレン民族が難民としてタイに逃れていた。タイ国境に接するカレン州などの少数民族地域で繰り返される軍事掃討作戦によって、その後、難民は増え続けた。昨年、九カ所の難民キャンプの人口は一時、十五万人を超えた。 難民条約を批准していないタイ政府は、ビルマ難民の第三国への移住を認めてこなかったが、増え続ける難民が国境地帯の不安定要因となり、財政の負担も増すなかで、〇五年に方針を転換。UNHCRなどと協力して、再定住を進めることに合意した。 この二月にメーソットを訪れたとき、八階建ての病院の駐車場に仮設されたテントの下で、海外への移住を申請した難民たちが血液検査やレントゲン撮影などの健康診断を受けていた。南へ九十キロほど離れたウンピァン難民キャンプから来た人たちだった。 青検査服に着替えていた家族は、二十一歳の長女を頭に、二十歳、十六歳、十三歳の子ども四人がいるマン・チョーチョーさん(47)と妻のチーウィンさん(46)。カレン民族同盟(KNU)の解放区だったカレン州コーカレイク地方の出身で、七年前から難民生活を送っている。マン・チョーチョーさんは「アメリカに行って、子どもたちに教育を受けさせたい」と言った。 難民キャンプに暮らす若者たち、キャンプで生まれた子どもたちに、将来の展望はない。キャンプ内のハイスクールを修了しても、進学、就職の道はなく、軍政が続く限り、帰還の見通しは立たないからだ。健康診断を受けていた人たちに、海外への移住を希望する理由を尋ねると、「子どもの教育のため」という声が一番多かった。「ビルマを逃れてここに来ても、自由も身分証明もない」と語る人もいた。 メーソット郊外には、UNHCRによって難民の一時宿泊施設が建てられ、海外移住を希望する難民は健康診断や面接を受ける間、ここに泊まる。フェンスで仕切られた隣接地には米国の専用施設があり、米国土安全保障省の担当官による面接が実施されていた。 十歳で難民になったドソーさん(19)は、キャンプで結婚した妻(18)の間に、生後三カ月の赤ちゃんがいる。「子どもに良い教育を与えたいし、自分も勉強したいからアメリカに行きたい」と彼は言った。 二歳の女の子がいるチョウツーラさん(29)も、米国への移住を希望している。カレン民族の彼の右腕には、「KAREN」の文字と、民族の象徴とも言える「カレン太鼓」の絵が入れ墨されていた。国境から歩いて数日かかるカレン州の平野部の村の出身で、妻のレレウインさん(28)はビルマ民族だ。「一九九九年に軍に襲撃されて家畜を盗られ、村を逃げ出した。村には帰りたくない。両親はもういないし、家も仕事もない」とチョウツーラさんは語った。 ビルマ難民の再定住の受け入れについて日本政府は、昨年十一月に来日したグテーレス国連難民高等弁務官に、「検討する方向」と回答した。その後、野党議員二人がそれぞれ難民キャンプを視察したが、政府・与党の動きはない。メーソット周辺三カ所の難民キャンプを管轄するUNHCRメーソット事務所の所長、税田(さいた)芳三氏は「UNHCRはできる限りの協力を惜しまない」と話す。しかし、「民間の人権団体は調査に来るが、日本政府からの協力要請も現場視察の問い合わせもない」。 日本政府は軍政下のビルマへの人道援助を続ける一方で、難民への援助には冷淡だ。少数民族や民主化運動への弾圧が続くビルマの民主化を支援する意志は、ここでも見えない。 【写真】米国への移住を希望し、健康診断を受けに来ていたマン・チヨーチョーさん一家。7年前からタイで難民生活を送っている=2008年2月、タイ・メーソット 撮影:山本宗補 |
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