ビルマでの強制労働に関する国際労働機関(ILO)への報告書
(2001年6月)

先日、ビルマ(ミャンマー)の国営新聞New Light of Myanmar に、「日本では住民が地区の掃除に強制的に参加させられ、参加しない場合には金を払わされることがある」という、日本で強制労働が行われていることを示唆するような内容の記事が掲載されました(7月27、28日付)。これは町内会や子供会などが行う清掃日のことでしょうか。確かに地区の公園や道路の清掃に住民が参加を促されることがあります。参加する代わりに費用を集める会もあるのかもしれません。しかし、このように住民が住民のよりよい暮らしのために率先・協力して行う清掃活動と、ビルマで今日も行われている強制労働とでは、規模や内容の点で雲泥の差があります。ビルマでの強制労働は軍事政権と軍隊が指揮する組織的なもので、その地域の住民には少しの利益にもならない作業(軍の陣地の設営や荷物運搬人としての戦闘地への随行など)を軍の一方的な都合により、ときには何日にもわたって強いるものです。拒否して多額の罰金を課されるだけならまだよい方で、暴力をふるわれることも頻繁にあります。強制労働中に暴行を受けたり死亡したりすることも珍しくありません。
地球の権利インターナショナル(ERI)は2001年6月、ビルマで起きている強制労働に関する報告書を国際労働機関(ILO)に提出しました。ILOは以前からビルマでの強制労働問題に懸念を表明しています。2000年11月には加盟国政府・使用者・労働者に対し「ビルマでの強制労働を助長する可能性のあるプロジェクトを再検討する」ことを求める決議を採択し、ビルマを事実上の除名処分にしました。今回のERIの報告書では、このようなILOの努力にもかかわらずビルマの軍事政権(国家平和発展評議会:SPDC)が依然暴力で労働を強いて、人々を恐怖に陥れている実状が明らかにされています。
報告書本文より
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・「タイに来るほんの3日前に、私は(軍の)陣地の柵を張らなければなりませんでした」(インタビュー番号11) ・「柵を張る仕事には月に一度行かなくてはなりませんでした」(インタビュー番号32) ・「働きに行かなければならない日数は月に10日以上で、時にはほとんど月全体がつぶれてしまうこともありました」(インタビュー番号2) ・「5日ごとに、私たちの村の2人の村人が順番に(兵士たちについて)行かなくてはなりませんでした」(インタビュー番号38)
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報告書中のインタビューは、シャン州とテナセリム管区で2000年12月から2001年の春にかけて行われた強制労働に重点を置いて行われました。インタビューはERIの職員及びERIによる訓練を受けたビルマの人々が行いました。安全面への配慮から、人名など個人情報は伏せてありますが、強制労働などの人権侵害が起きている地域がわかるように、町や村の名前は掲載しました。ERIは今後とも状況を監視し、ILOへの情報提供を続けて行きます。
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地球の権利インターナショナルについて 地球の権利インターナショナル(EarthRights International:ERI)は、法の力と人々の力とを合わせて人権と環境を守る民間団体です。1995年以来、ERIはビルマ軍事政権の政策・動向や国内の人権侵害・環境破壊の状況を監視し、集めた情報を国際社会に発信する活動をしています。
ERI 米国事務所 2012 Massachusetts Ave. NW Suite 500 Washington, DC 20036, U.S.A. Phone/Fax: +1-202-466-5188/+1-202-466-5189 Email: infousa@earthrights.org 日本語連絡先:yakimoto@law.gwu.edu URL: www.earthrights.org
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インタビュー番号1
カレン人農婦
ビルマ、テナセリム管区イェピュー郡
・・・いまのところ兵士のために無償で行わなければならない労働は、薪割り、水汲み、それにポーターとして毎日一人が「スタンバイ」することです[インタビューは2001年1月に行われた]。私自身は働きに出なかったので、夫がかなり頻繁に働きに行かなければなりませんでした。もし誰も行かなければ、一日最低150チャットを支払わなければいけません。お金がなかったので、毎回私たちは自分で働きに出かけていました。
インタビュー番号2
カレン人農夫
ビルマ、テナセリム管区イェピュー郡
・・・現在私たちが兵士のために行っていることの大半は、竹を切り、前哨地の周りに柵を張り巡らすことです。軍が柵を二重にしたいと言ってきたからです[インタビューは2001年1月に行われた]。兵士が命令を村長に伝え、村長が村全体に命令を伝えました。
村には現在、大隊の基地があり、6、7人の兵士と指揮官が駐屯しています。第282軽歩兵大隊の兵士のために働きに行かなければならない日数は月に10日以上で、時にはほとんど月全体がつぶれてしまうこともありました。昨年[2000年]の8月には、竹を切り、柵を張り、道路を直す作業に丸々一月も掛かりました。私たちはローテーションを組んで働かなければなりませんでした。・・・前哨地の掃除、薪割り、水汲み、竹割りは毎日の日課になっています。一世帯から一人ずつを働きに出さなければなりません。我が家では私が高齢のため働きにいけないので、息子が家を代表して働きに出ています。彼をこれ以上学校にやることはできません。そのためのお金を稼ぐ時間もありませんし、そもそも家に当番が回ってきたら息子が必ず働きに行かなければならないからです。
私はここに来る前、橋の建設のために働きに出なければならず・・・、一世帯に一人ずつ人を出さなければなりませんでした。私の村には約100世帯が住んでいて、橋の建設が終わるまでに5日ほど掛かりました。
インタビュー番号3
カレン人農夫
ビルマ、テナセリム管区イェピュー郡
村には200世帯ほどが住んでおり、ほとんどが農業を営んでいます。村は1995年〜1999年まで線路敷設のために働き手を出さなければなりませんでした。村民はこの期間中に交代で建設現場で働かなければなりませんでした。他の仕事は、軍の陣地の設営や、雨季明けの線路補修、軍隊が求めるときにポーターとして随行すること[などです]。線路敷設工事に従事させられていたときには、50人を供出しなければならず、住民200人を4つのグループに分けてローテーションを組んでいました。・・・この労働に一切賃金は支払われませんでした。線路敷設工事の時に比べ、現在は労働供出を求められることは少なくなりました。今では軍は時々ポーターとして随行するよう村民に命じ、食料と物資を3日間運ばせます[インタビューは2001年3月に行われた]。ポーターとしての随行に対する賃金は一切支払われていません。
インタビュー 番号4
カレン人 農夫
ビルマ、テナセリム管区タヴォイ郡
[最後の2段落は2001年に起きたことに関する。ほかの部分はそれ以前5年間の強制労働の様子を述べている。]
私は2001年1月に自分の村を離れました。・・・[そしてそれ以前に私がその村に住んでいた]5年間、私たちは軍隊のために以下のような仕事をしなければなりませんでした:
・伝令員(一日2人)
伝令員の2人は伝令をするだけではなく、それぞれ50本の竹を切らなければなりませんでした。この竹は軍が歩兵大隊用の資金を得るために売るのです。
・ジャングルを切り払う(村民が切り払わなければならなかった)
この仕事のためには一世帯から男性が一人ずつ行かなければなりませんでした。1999年まで、毎週2度ジャングルを切り払うように求められました。
・「ローアーペー」ポーター[強制労働を意味する最も一般的な言葉]
軍はポーター費として各世帯に5000チャットずつ払うよう要求しました。村民たちは、ポーターを出すことができない場合にはビルマ軍に言われた額を払わなければいけませんでした。その額が払えないとポーターとして働きにいかなければなりませんでした。軍は村長に無理な要求を出し、村長は村民に、自分が罰を受けるのはかなわないのでその額が払えない者がいれば軍のところに行かせる、と言いました。軍隊に命令されたので私は行かなければなりませんでした。それが軍が課す規則なのです。
・軍の陣地の建設
村民たちは歩兵大隊二つ用の陣地を敷設しなければなりませんでした。・・・毎回約50人ずつの兵士が私たちの村に来て暮らしました。兵士たちが来て暮らすときには、村民たちは自分の家族のために働く時間がありませんでした。兵士用の居住地を建てなければなりませんでした。これはほとんど毎年のことでした。
2000年から今まで、村民たちは200から250チャットを橋の建設のために払わなければなりませんでした[インタビューは2001年4月に行われた]。軍は橋の建設のために数多くの村に資金を求めました。橋は1999年に架けられました。木でできていて、毎年雨期になると水で壊れるので毎年架けなければならなかったのです。軍は毎年一回橋を架けるための金を要求しました。そのお金が十分でないと、再び求めにきました。
2001年1月に軍は各世帯につき500チャットのポーター費を要求しました。ポーター用のお金を毎月要求するのです。私の友達は、ビルマ人兵士たちが、お米や・・・他に必要な食料をなんでも出すように村民に求めるつもりだと言ったと話していました。
インタビュー 番号6
タヴォイ人 村民
ビルマ、テナセリム管区タヴォイ郡
2000年11月から、タヴォイ郡では・・・地区平和開発評議会が村民に対し、ポーターを「ヘルパー」と呼ぶよう命令を出しました。もし「ヘルパー」のことをポーターと呼んだ場合には罰が課されるのです。
2001年2月にはビルマ軍の沿岸軍隊司令部(CMC)と軍戦略第一司令部(MSC1)とが4つの郡からヘルパー(ポーター)を要求しました。それぞれの地区で、MSC1は400人のヘルパー(ポーター)を要求したので、ポーターの合計人数は1600人でした。この中には私の村からの25人も含まれていました。私の村から行った人たちは軍にヘルパー(ポーター)として雇われていました。それぞれ3万チャットで雇われていたのですが、このお金は村民のものでした。[個人が自主的に有酬で働きに行くこともでき、この場合はポーターとして働く順番が強制的にまわってきた場合や、働きにいかないと料金を課さらる場合と区別される。軍がボランティアに支払うお金は軍が村民から集めた資金から出される]。各世帯が3000チャットをポーター費として払わなければなりませんでした。ポーター費を払えない場合には罰として自らがポーターに行かなければならず、その上軍に1万チャットを課されました。
私の村では毎月5人のポーターを出さなければなりませんでした。軍が「軍事行動」ポーターを要求する場合にはいつも[「軍事行動」ポーターというのは実際に戦闘に関わっている部隊について働くポーターのことを言う]、各世帯に対して1500チャットのポーター費を出すように求めました。・・・軍事行動ポーター費が払えない人は自らが軍事行動ポーターとして行かなければなりませんでした。
インタビュー番号7
カレン人 農夫
ビルマ、テナセリム管区タヴォイ郡
私は3日前に自分の村を出てきました[インタビューは2001年4月に行われた]。・・・2001年にはポーターとして働きに行きませんでしたが、2000年には行かなければなりませんでした。
私のおじが2001年3月にポーターとして働きに行かなければならず、彼は一週間行っていました。軍はこのポーターの仕事を、兵士たちの案内をする仕事だと言いました。軍が人を必要とする度に村から3、4人が軍と一緒に行かなければなりませんでした。毎回順番で行かなければならず、一回一週間かかりました。このポーターの仕事はローアーペー・ポーター[強制労働を意味する最も一般的な言葉]と呼ばれていたので報酬はありませんでした。ローアーペー・ポーターたちは道を案内するほか、兵士たちに運ぶように言われた物資を運ばなければなりませんでした。ローアーペー・ポーターを要求した軍の部隊は第374軽歩兵大隊、第25歩兵大隊、第104軽歩兵大隊、そして第280軽歩兵大隊でした。軍は村長にポーターを要求し、村長がそのことを村民に伝えました。
インタビュー番号8
タヴォイ人 村民
ビルマ テナセリム管区イェピュー郡
私は、ポーターとして働きに行くことに耐えられず、またポーター料も支払えなくなったので、1週間前の2001年5月に村を出ました[インタビューは2001年5月に行われた]。村では働く時間がなかったので、タイに仕事を探しに来ました。2001年に入って、私は約10回ポーターとして働きに行かされました。ほとんどのポーターは、第282軽歩兵大隊と第273軽歩兵大隊のためのものでした。彼らはパイプラインの警備をしていて、私たちはその食料や燃料を彼らの必要に応じて運ばなければなりませんでした。村ではローテーションを組んでこのようなポーターの仕事に応じています。
2001年1月、私は軽歩兵大隊273に3日間ポーターとして随行しました。彼らの食料だけでなく、自分たちの食料も運ばなければなりませんでした。15人のポーターが3日間随行しなければなりませんでした。私たちは夜間に歩かなければならず、懐中電灯を使うこともできませんでした。重荷に耐えられない者も多かったので、私たちは互いに助け合わなければなりませんでした。・・・ジャングルの中にもついて行かなければなりませんでした。パイプラインの警備のために時には20人、多いときには50人の兵士がいました。ポーターをしているとき、私は兵士に叩かれたりもしました。私が歩くのがのろいというのです。私は村を出る前、22歳の村民がポーター中、私たちの村のすぐそばまで来たときに、死んだのを見ました。・・・
ガスパイプラインの仕事をしている外国人は私の村にもよく来ていました。第282軽歩兵大隊と第273軽歩兵大隊とはパイプラインの警備をしているわけですが、これらの大隊に私たちがポーターをさせられていることも外国人は知っています。彼らは警備をしている兵士たちにポーターがついていることには何も言及しませんでした。これらの兵士たちにポーターとして随行したことへの賃金は支払われませんでした。ポーターとして働くときには自分の食料も持参しなければなりませんでした。他の村でも・・・私たちのように、第282軽歩兵大隊と第273軽歩兵大隊のためのポーターを出さなければなりませんでした。自分の番が来たときにポーターをしたくなければ、2500チャットを支払わなければなりませんでした。お金がなければ断ることはできませんでした。ここに来る前、私は代わりにポーターをしてもらうために4回、人を雇わなければなりませんでした。
インタビュー番号9
カレン人 村民
ビルマ、テナセリム管区イェピュー郡
私は一週間前に国境に来ました[インタビューは2001年5月に行われた]。私は第104軽歩兵大隊のポーターでした。私は2001年4月にポーターをさせられました。日にちは覚えていません。6日間の行程でした。車道で兵士が一人殺されてから、約70人の兵士がその地域をパトロールしていました。第104軽歩兵大隊からは2つのグループが来ており・・・3つの村から18人のポーターが集められました。兵士たちが2つのグループに分かれていたので、私たちポーターも2グループに分かれました。私がいたグループには8人のポーターがいて、兵士たちの食料や調理具などを運ばなければなりませんでした。彼らのパトロールについて食料を運ぶときには、自分の食料も持参しなければなりませんでした。
[4月に6日間]ポーターに行く前、兵士たちが来て、別の村まで彼らの荷物を運ぶために、約20人の村民を拘束しました。彼らは朝出発し夕方戻ってきました。彼らは兵士がパトロールするのについて食料を運ばされました。翌日、兵士たちはポーター10人を求めてきましたが、5人だけが与えられ、私はその5人のうちの一人でした。村からポーターに行くよう呼ばれたとき、私は村を歩いていました。はじめ私は逃げ出すつもりでしたが、母に止められました。母は私が行かないことによって、村長に迷惑がかかるようなことにはなって欲しくなかったのです。その時は父が家にいなかったので、私が行かざるを得ませんでした。
最初の日、私たちは村を出て半日歩きジャングルの中で寝ました。2日目と3日目は一日中歩き、またジャングルの中で寝ました。4日目は3時までパトロールが行われ、私たちは別の村に着きました。翌日、私たちはその村からまた別の村まで歩き、6日目の夕方、私たちは家に帰ってよいと言われました。その日の朝、ポーターのうちの一人が、兵士にまだ何日も先があると言われて逃げ出しました。彼は朝逃げ出し、私たちは夕方には帰ることが許されたのでした。
村はまた、車道の両側を50フィートずつ整備するためにも無償で労働を提供しなければなりませんでした。兵士の一人が殺されてからは整備する範囲が増やされ、車道の両側それぞれ100フィートまで整備するよう命令されました。つまり、合わせて車道の両側150フィートずつを村民が整備しなければならなかったのです。私が国境に来る前も、車道の整備は続けられていました。
インタビュー番号11
シャン人 農夫
ビルマ、シャン州ロイレム郡
ビルマでは食料が十分にありません。・・・私たちは[政府に]毎月150チャットをポーター料として払わなければなりません。・・・私には面倒をみなければならない大きな家族があります。政府に金を払う上に、私は自分の家族のニーズにも応えなければなりません。食料不足に苦しんでいたので、村を去ることにしました。
[2000年12月に]タイに来るほんの3日前に、私は[軍の]陣地の柵を張らなければなりませんでした。・・・私たちは軍から報酬を支払われたことは一度もありません。・・・柵を張ったり畑仕事をしたり、どんな仕事をしても報酬を得たことはありませんでした。自分たち用の竹を持っていかなければならないこともありました。私は行きたくありませんでした。[しかし]軍に「みな命令に従っている。おまえだけが拒否しようとしている、とにかく仕事をしろ。あまり口をきくな。・・・」と言われました。
その時点[村を去る3日前]では27人が[軍のために働いて]いました。・・・私は仕事場にナイフを持っていきました。軍が村民からただで得た竹が山と積んであるのを見ました。私たちは竹を割り、陣地の柵を張りました。16、7歳の少女を含めて10人くらいの女性もいました。・・・私たちは割った竹を針金の柵の合間に組みこまなければいけませんでした。・・・兵士たちは村長に命令を出し、村長が村民に伝えました。私は行きたくありませんでした。
インタビュー番号25
シャン人 農夫
ビルマ、シャン州ナムザン郡
私は年をとりすぎているのでビルマ人兵士のために働きに行くことができませんが、私の親戚が行きました。彼は私の家族の中で唯一の男性だったので、ビルマ人兵士のための労働のく命令が下りると彼が行かなければなりません。私たちの村には2000年4月から2001年1月の終わりまで軍の部隊が来ていました。私の家族はポーターに行くようにとの命令を4度受けました。命令が来ると私の親戚が行かなければなりませんでした。[2000年9月に]彼はビルマ人兵士に捕まって拷問を受けたのですが、それまでに2度ポーターに行きました。2度とも、パトロールをしていた部隊のために食料や武器を運ばなければなりませんでした。・・・
ビルマ人兵士から拷問を受けて以来、私の親戚は彼らを大変怖がるようになり、ビルマ人兵士のことを聞いただけでとてもおびえるようになりました。私の家族がポーターに行く命令を受けても彼は行きませんでした。そのため私は毎回、代わりに行く人を3500チャットで雇わなければなりませんでした。最後は、タイに来る8日前のことでした。私は2001年1月にタイに来ました[インタビューは2001年2月に行われた。]ポーターに行く命令を[村の長老から]受けました。・・・村民たちは交替の人たちが来るまでの4日間行かなければならず、それから家に帰ることを許されました。ポーターに行く義務を拒否すると、村から出るポーターの数が足りなくなります。そうするとビルマ人兵士たちは村に来て誰がポーターをしたがらなかったのか尋ねます。村が行きたくなかった[村民]が誰であるかを教えると兵士たちは[その村民を]罰するかもしれません。そのため[村民たちは]行きたくないのですが、命令に従う以外になにもできることがないので、行かなくてはいけません。
インタビュー番号28
シャン人 村民
ビルマ、シャン州ムンパン郡
村民たちによると、今はもはや「ポーター」はなく、代わりに[軍は]別の呼び名を使っているそうです。今では軍は「ヘルパー」という意味の「アクアニー」を要求してきます。軍がこれを要求する場合、村民が一人、道案内係として5日間軍に随行しなければなりません。軍はよくこれを要求してきます。
町を含むすべての村が[道路の整備をしなければなりませんでした]。お金がある人たちはビルマ人を雇って代わりに道路の整備をさせました。私たちにはお金がありませんでした。そのため私たちは自分たちで道路の整備をしなければなりませんでした。ひとつの世帯が7日間働き、それから交代の人たちが来ます。私の番は15日から20日前のことでした[インタビュー回答者は2001年1月末から2月初めにビルマを逃れ、インタビューは2001年2月初めに行われた]。命令の文書が町から来ました。それには、一人一人が道の整備を7日間しなければならないと書いてありました。道路の整備は終わることがありません。何度も何度も整備しなければなりません。私は1日行って、代わりの人を雇って帰って来ました。私はこの「ローアーペー」[強制労働を意味する一般的な言葉]をやりたくなかったのと、今年はお金を稼ぐのがとても大変だったので[タイに来ました]。葉巻きたばこを買うお金さえないこともありました。
インタビュー番号32
シャン人 農夫
ビルマ、シャン州ムンカン郡およびケセー郡
2000年12月、ビルマ人兵士が来て村にいた人々を捕らえました。3人が、彼らのためにポーターをさせられました。この兵士たちはパトロール部隊でした。・・・彼らは複数の村を強制移住させ、一つの村に統合しました。さらに、彼らはポーターにするために人々を拘束したのです。ポーターにする村民を捕らえに来たとき、彼らは村長には何も通告をしていませんでした。私はちょうど起き出したときでした。彼らが到着して、村全体が起こされました。彼らは、「来い!来い!」と呼び、村の男性を全員集めました。彼らは、「道案内」が必要だと言いました。私たちはそのような人手はない、と言いましたが、彼らは3人をポーターとして連れていきました。私は連れていかれませんでしたが、私の息子が連れていかれました。
私の番は後で回ってきました。村にいると、第99歩兵大隊の兵士たちが来て、捕らえられました。私は5人から7人の人たちと一緒でした。私は一日中、兵士の服を運ばなくてはなりませんでした。彼らが到着したとき私は起きたばかりでした。彼らは私たちについて来るように言いました。「お願いですから連れて行かないでください、私たちには働き手がありません」と言いましたが、「だめだ!おまえたちみんな来い。話がある」と言われました。私たちは、反逆者を見たかどうか尋ねられました。見ていないと答えました。私は彼らについて行きたくはありませんでした。しかし彼らに、行かなくてはならない、と言われました。すぐに終わるから、と彼らは言いましたが、結局まる一日かかりました。報酬を与えられることはありませんでした。
私たちは、彼らの基地の周りに柵を張り、農業用水路の整備をしなければなりませんでした。柵を張る仕事には月に一度行かなくてはなりませんでした。私がタイに来る前、最後に柵を張りに行ったのは、[2000年]12月か[2001年]1月でした。村長が私たちに知らせるのです。村長は、軍の基地で働く番が来た、と言いました。朝7時か8時から、終わるまでずっと働かされました。兵士たちは食べ物も水もくれませんでした。彼らはただ来て、私たちがどのくらい仕事をしたか尋ねたり様子を見たりするだけでした。そしてそれをノートに書き留めました。決められた量の仕事を終わらせなければ罰すると言いました。一世帯につき2列の柵を立てなければなりませんでした。私たちは[柵に使う]竹を自分たちで購入しなければなりませんでした。1竿が約150チャットでした。2列作るには、2、3竿が必要でした。私たちはまた、1竿約50チャットする別の種類の竹も約7竿使わなければなりませんでした。つまり柵を2列作るには竹代が700から800チャットかかったということです。どの世帯も働きに出なければなりませんでした。2列の柵を3日間以内に仕上げなくてはなりませんでした。そうしなければと罰せられるのです。誰も拒否できませんでした。誰も行きたくありませんでした。多くの人が軍のために働かなくてはなりませんでした。牛車も含め、村全体がです。老いも若きも含め大勢でした。あまり大勢だったのでどんな人がいたかよく思い出せません。
[2000年]12月か[2001年]1月頃、私は兵士に一晩拘束されました。尋問も受けました。そして翌日、私はある村への道案内として連れて行かれました。そこで解放されました。[また別のところへ]道案内として一泊二日で連れて行かれました。彼らに随行しなくてはなりませんでした。道中、ビルマ人兵士は人々を捕らえ、彼らを反逆者だと言って責めました。彼らと一緒にいる間、私は恐ろしい思いをしました。解放されるとき、「帰って家にいろ」と言われました。私はそれからタイに来るまで約一カ月間、家にいました[インタビュー回答者は2001年初めにビルマから逃れた]。
インタビュー番号33
シャン人 村民
ビルマ、シャン州ムントン郡
・・・村民たちは雨季から夏を通して道路脇のやぶを切り払わなければなりません。雨季から夏を通してというのはつまり一年中ということです。[村民たちは]川の近くの5マイルと、谷間、そして道路の両側をきれいにしなければなりません。川の西側では、川岸のやぶを滝のところまで切り払いました。村民たちはそこに2泊3日しました。東側では1日だけ働かなければなりませんでした。村民たちは12月7日・8日に道路を整備しなければならなかったと私に話しました。ビルマ軍の第294軽歩兵大隊が川の両側を切り払う命令を出しました。・・・
インタビュー番号36
シャン人 農民
ビルマ、シャン州ナムザン郡
シャン州ではビルマ軍がいつも私たちの邪魔をするので、私は2001年2月にタイに来ました。私たちは自分の農場で十分な仕事をすることができませんでした。彼らは私たちの牛や他の動物を撃ちました。時には、人間も撃ちました。私には食べ物さえ十分にありませんでした。・・・
村には兵士たちがよく現れ、3日毎に部隊が交代しました。兵士たちは村民に、陣地や道路で働くよう求めました。私は何度も兵士たちのために働きに行かねばなりませんでした。兵士たちに何度も殴られ、他の村民が何人も殴られるのも見ました。私は荷物があまりにも重く、動くのが遅すぎたために殴られました。私が最後に彼らのために働いたのは2001年の1月でした。その月に私は3回働きに行かされました。村民のほとんどが同じくらいの仕事をさせられていました。
大隊の陣地にいる兵士から道路で働くように求められました。彼らは村長に手紙を送り、村長が私たちを働きに出したのです。各世帯から一人ずつが行くように命じられました。道路の長さはそれほどでもなく、約300ヤードでしたが、その両側を約100ヤードに渡って整備をしなければなりませんでした。私は見通しをよくするために、木や茂み、草を切り倒したり切りそろえたりしなければなりませんでした。兵士たちは時々自転車でやってきて私たちの仕事を見回り、陣地に戻っていきました。私はこの労働をしたくありませんでしたが、兵士に逆らうことはできませんでした。もし断ったら、彼らは、村長が持っている、働きに行った者のリストを見て、私が断ったことを知ることができます。[しかし]もし村長が[私が働きに行ったと]うそをつけば彼が兵士たちに殴られますし、兵士たちは誰が強制労働に行かなかったかをも調べて、結局その人をも殴るのです。
ある女性が、牛車を取りに親戚の家に行っていて、道路整備の命令に従いませんでした。彼女が家に戻ると、皆はもう現場に行った後でした。彼女は5000チャットを課された上、兵士に殴られました。私は彼女が殴られるのを見ました。村長は村民に、行かない者は誰でも罰せられる、と話していました。その女性が働きに行かなかったために、兵士と村長は私の家の近くにあった彼女の家に来ました。彼女が泣いているのが聞こえたので行ってみると、兵士たちが彼女を殴っていたのでした。後で村の会議があり、村長が、彼女は強制労働に行かなかった者がどうなるかの例である、と説明しました。
[同じく2001年1月、]私は12日間ポーターをしなければなりませんでした。他の村民が家を建てるのを手伝っているときに、兵士たちがポーターを集めにに来たのです。兵士は私たちを追いかけて捕らえ、強制的にポーターにさせました。私は行きたくなかったのですが、拒否すれば殴られるので拒否できませんでした。荷物を一日中運ばされました。昼食休みはありましたが1時間に満たないこともありました。月が明るければ、私たちは泊まれる村に着くまで夜も歩き続けました。普通、ポーターたちの食事は昼の一食だけでしたが、兵士は3食食べていました。食事は兵士たちから与えられました。時にはおかずなしのご飯、時にはバナナの茎、時には肉が出ることもありました。米は軍用のもので、あまりおいしくはありませんでした。
私は弾丸の入った箱と兵士の服を運びました。荷物は、20ビス(約32キログラム)以上の重さでした。私たちのグループには、3、4人のポーターと約100人の兵士がいました。大隊の番号はわかりません。長い一日の歩行時間と重荷とで私の足は腫れましたが、靴もはいていませんでした。荷物が重すぎて、肩の皮がむけてしまった者もいました。到着するやいなや、私は大隊から逃げ出しました。入り口を見張っていた兵士が眠っていたので、私たち3人は彼らの脇を忍び足で抜け出し、自分の村に戻ったのでした。私たちは、兵士たちを避けて這ったりしながら静かに移動し、その村から逃げ出しました。それから、私たちは3日かけて自分の村に戻りました。どの村に入るのも怖かったので、帰り道には何も食べませんでした。
私が戻って10日後、兵士が村にやってきて村長に話をしました。村長から、各世帯から1人ずつ、700人から800人が、大隊の陣地の敷設に行くように言われました。50歳になる老人も、11歳や12歳の少年少女もいました。女性は男性ほど多くはいませんでした。大隊は、私たちに新しい陣地を敷設させました。私は屋根を葺くための竹を村で切り、陣地に運ばねばなりませんでした。柵も張らなければなりませんでした。私は自分のナイフを持参しなければならず、労働は困難で、報酬はありませんでした。食事も自分で持参しなくてはなりませんでした。午後6時頃に仕事を終えましたが、陣地はその日のうちには完成しませんでした。しかし15日後に私がタイに向けて村を出るまでには、改めて働きに来いと言う命令は下りませんでした。
シャン州に平和が訪れ、妻も戻りたいということであれば、私は村に戻るでしょう。兵士たちには、元いたところに戻って欲しいと思います。彼らが去れば、これまでのようなシャン人に対する弾圧はなくなるでしょう。
インタビュー番号37
シャン人 農夫
ビルマ、シャン州ムンカン郡
シャン州の私が住んでいたところにはビルマ人兵士がたくさんいたので、2001年2月にタイに来ました。食料と働き手とを出すよう求められました。私たちは報酬を得ることはなく、また私たちが畑で何か育てていればSPDC(国家平和発展評議会=ビルマ軍事政権)の兵士はそれを勝手に取っていきました。私たちは強制的に移住させられ、元いた村に戻るとSPDCの兵士に殺されるのです。兵士たちは私たちの農場の回りの柵を壊したので、家畜(水牛や牛)が畑に入って作物を食べてしまいました。・・・
5分ほど離れたところにビルマ軍の大隊が駐屯していました。兵士たちは村民に強制的に竹割りや陣地に柵を張るなどの労働をさせました。私たちはその200人から500人の大隊がいるところまで行かなければなりませんでした。私は約3回、大隊のために働かなければなりませんでした。たいていほかの100人から200人の人と一緒に、まる一日働きました。この労働に対して賃金は一度も支払われませんでした。一年前、強制労働をしている最中に私は兵士に殴られました。大隊の陣地の草刈りをしていたのですが、兵士は私が満足な仕事をしていないと思って私の背中を3回殴りました。兵士がなにを言っているのか私にはわかりませんでしたが、私の仕事に満足していないというのは理解できました。女性を含めてほかの村民も殴られました。
私が強制労働をしたのは二カ月前の2001年1月が最後です。2日間働きました。村にいるとき、SPDCの兵士たちが村域の長に手紙を渡し、彼がさらに村長に渡したのです。私はその手紙を村長の家で見ました。手紙はビルマ語で書いてあり私には読めませんでしたが、村長が翻訳してくれました。それには、次の日に全世帯が大隊の陣地に働きに行かなければならないことと、自分たちの食料や陣地の柵を張るのに必要な道具を持って行かなければならないということが書いてありました。
私たちは午前11時に集合するように命じられました。村長が働きに行くよう村民に命じ、約200人が働きました。最年長は80歳、最年少は10歳でした。7、80人の子どもと、約30人の老人がいました。労働者のうち約半数が女性で、明らかに妊娠している女性も約10人いました。私は働きに行きたくありませんでしたが、断ることはできませんでした。村長によれば、兵士たちは断った者に対して殴る、罰金をとる、家畜や米を取り上げるなど様々な罰を用意してあるということでした。私は強制労働に行くのを拒否して一人一万チャットの罰金を課された村民たちのことを聞いたことがあります。
村民は各々が自分で集めるか買うかした竹を牛車一台分、持参しなければなりませんでした。私は別の村民から500チャットを借りて竹を買い、自分の牛車で運びました。その竹は集合時間までに割り、先端を尖らせて準備しておかなければなりませんでした。私たちは午前11時から午後5時まで働きました。仕事は困難でした。大小の木を切り根っこを掘り出さなければなりませんでした。それからその場を完全に整備し、周りに柵を巡らさなければなりませんでした。その日私は20ヤード分の柵を張らなければならなかったのですが、終わらなかったのでもう一日仕事を続けなければなりませんでした。村長など学校で習ってビルマ語を話せる村民たちは兵士たちと話をすることができました。兵士たちは陣地での労働を監視しました。棒を持って監視し、村民がしている仕事が気に入らないとその村民を殴るのです。柵の張り方がよくなかったので3人の村民が殴られました。兵士たちはその上、仕事のやり直しを命じました。
私の村の状況が改善され、内戦が終われば村に戻りたいと思います。食べ物が十分にあり満足いく暮らしができ、お寺に寄付できるくらいの収入があるようにしたいのです。
インタビュー番号38
シャン人 農夫
ビルマ、シャン州ムンナイ郡
私は2001年4月に村を出て、その後まもなくタイに着きました。タイに来たのは食料が足りなかったためと、ビルマ軍のためにかなり働かなければならなかったためです。2001年2月には、ビルマ軍兵士を彼らが道路建設の警備をしているところまで案内しなければなりませんでした。その場所までは村から歩いて一日かかります。第246軽歩兵大隊からの命令文書に従って、村長が私たちに行くように命じたのです。私はその手紙を見ました。道案内2人を求める内容と、待ち合わせの場所と時間が書いてありました。私たちの村域から5日ごとに2人が順番で行かなければなりませんでした。
私は自分の食料、米、調理油、塩、豆の揚げ物となべや皿を持っていきました。建設現場では、兵士たちのために水や薪を運ぶよう命じられました。彼らの許可なしには休むことはできませんでした。道路建設を約100人の兵士が警備していました。私は道路を建設しているトラクターを一台見ました。また、3、4日に一度、チーク材を運ぶトラックが5台、道路を通りました。・・・
2001年3月には軍のために10本の竹を割る仕事を一日中しなければなりませんでした。軍からの命令文書に従って村長が私たちに行くよう命じたのです。私たちの村域からは、各村から10本ずつ合計50本の竹を出すように命じられました。私たちはその竹を2台の牛車で大隊のところまで運びました。大隊は私たちの村に駐屯していました。私たちは自分たちの食料と仕事道具を持っていかなければなりませんでした。私たちの村に新しい大隊の陣地が敷設されるのだと聞きました。
私は軍のために働きたくはありません。誰にも拒否する勇気はありません。働くのを拒否する者は道路を掘らされたり牢屋に入れられたりして罰せられると軍は警告します。これは村長に渡される手紙に書いてあります。もし自分が行けなければ、一日150から200チャットで[ほかの村民を]雇わなければなりません。去年、誰かが軍の命令に従わなかったので地下の穴に閉じ込められたと聞きました。・・・
インタビュー番号39
シャン人 農婦
ビルマ、シャン州ムンナイ郡
[ビルマ]軍のための労働が多かったので、私はタイに来ました。彼らは私たちに陣地の敷設、陣地内や滑走路の雑草取り、陣地の周りに柵を立てるなどの労働を命じました。もし自分が行けなければ別の人を雇って行ってもらわなければなりませんでした。これには多くのお金がかかります。
2001年2月に私は、村の近くにある古い村に駐屯する予定の新しい大隊のために、ある区域の整備をしなければなりませんでした。軍が村長に手紙で命令を出し、村長が私たちに行くよう命令しました。大隊の番号はわかりません。私たちの村から行った10人のうち6人は女性でした。全員30歳から40歳の中年でした。私たちの村域から約30人が交替で行くよう命令されました。労働は午前10時から午後3時までのまる一日でした。私は食料と道具を持っていかなければなりませんでした。約20人から30人の銃を持った兵士に見張られました。兵士たちが私たちの仕事に満足しないと、村長は改めて村民に働きに行くよう命令しなければなりません。区域は荒地だったので仕事は大変困難でした。私たちの村は10ヤード四方を整備しなければなりませんでした。兵士たちは水をくれました。彼らは小屋をつくってそこで寝ていました。
働きに行くのを拒否することはできません。ビルマ人兵士たちは、拒否した者は1000チャットの罰金か調理油1・6キロを課されると発表しました。行かないと殺されるかもしれないのにも関わらず、村民が行きたくないと言って村長と口論することもありました。結局、村長がビルマ軍に報告すると言ったので彼らも行かざるを得ませんでした。私は軍のために働きたくはありませんでしたが、お金がないので[代わりの人を雇う]お金を使うのがこわかったのです。一人の人を雇うには一日200チャットかかります。[駐屯する]大隊が交代すると、式典の費用のために各世帯が200から500チャットを払わなければなりません。
陣地の整備は月に二度、柵の建設は年に一度しなければなりません。私は去年、陣地の柵を張りに行かなければなりませんでした。ビルマ人兵士は村民に道案内をするように命じます。村民は荷物も運ばなくてはいけません。荷物が重くて動けなくなり殺された道案内もいる、と言われています。誰も道案内にはなりたくないのです。[自分の代わり行くように誰かを]雇う場合、5日間で1万チャットかかります。私の家では去年、病気だった夫に代わって別の人に道案内として行ってもらうために1万チャット払いました。