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その他の寄稿

根本 敬(上智大学外国語学部教授)「おいしいトマトジュースの理由[わけ]」
2014年1月9日配信 雑誌『青淵』(公益財団法人 渋沢栄一記念財団 発行)第778号 所収

ビルマ留学

 いまから28年前、1985年10月から2年間、私は日本の文部省の奨学金を得て、ビルマ連邦社会主義共和国(現ミャンマー連邦共和国)に留学した。ラングーン(ヤンゴン)大学の教員寮に住みながら、国立外国語学院(IFL、現国立外国語大学UFL)に開設された留学生用のビルマ語学科で学び、語学力がついた2年目からは国軍の公文書館に通って史料調査をおこなった。また全国各地をまわって、英領植民地期や日本占領期を経験した人々(特に独立運動関係者ら)への聞き取り調査もおこなった。

 留学中は老若男女を問わず、さまざまなビルマ人と付き合い、多くの友人や知人を得ることができた。そしていろいろな場面で彼らに助けられた。聞き取り調査が比較的順調におこなえたのも、こうした人々のおかげである。2年間の留学中、私は一度もビルマ国内から出ることなく、インターネットのない時代、日本のニュースも日本大使館のほうから1カ月遅れでまわってくる新聞を通じて知るだけで、ほとんどビルマ人とだけつきあう生活を送った。途中、インフルエンザやアメーバ赤痢で1-2週間寝込むこともあったが、いつもビルマの友人たちが助けてくれた。


留学最後の苦労

 1987年10月に入り、帰国まであと10日間という時期になると、私はビルマの役所相手の面倒な手続きや、荷物の整理、友人や知人たちへの挨拶、そしてフェアウェル・パーティーへの出席に忙しい日々を送った。そのときの心理は、「やっと日本に帰れる、うれしい」という気持ちが半分と、ビルマでの生活に慣れ、多くの友人に恵まれ、ビルマ語もほぼ不自由なく使えるようになった自信があったため、「もっとビルマに残りたい、残念」という思いが半分ずつだった。両者が心のなかでせめぎあっていたといえる。とはいえ、じっくり考える暇などなく、毎日やるべきことに専念し、夜は疲れてぐっすり寝るという感じだった。

 この段階で一番苦労したのは、留学中に入手した600冊を超える本や資料の日本への持ち帰り方法だった。すべてビルマ国内で合法的に出版(印刷)されたもので、貴重な資料が数多く含まれ、帰国後の私の研究に大いに役立つはずだった。ところが、これらを船便で送るとなると、当時のビルマ政府が課した煩雑な手続きを克服する必要があった。まず、内務省や教育省など4つもの役所に、600冊すべての題名・著者・出版社・出版年・1-2行程度の内容紹介を記した詳細なリストをあらかじめ提出しなければならなかった(これだけでもため息が出る)。そのうえで数カ月間の審査を経て、4つの役所すべてがOKと認めた本のみ、日本への発送が許可されるという制度だった。「認定基準」は厳しく、ビルマ国民文学賞を獲得した現代文学の作品でも、内容が社会主義リアリズムに基づいて当時のビルマ社会の負の側面をとりあげていれば、「外国人が読む必要のない本」という理由で却下される可能性が高かった。

 幸い、ある日本人のご厚意により、その方が日本に帰国される際の船便に300冊ほどまぎれこませていただくことができた。しかし、残り300冊については良い方法がなく、悩みに悩んだ。そのとき大活躍してくれたのがビルマ人の親友たちだった。彼らは「直接飛行機で持って帰るしかない」といって、なんと空港の税関職員と私抜きで事前に「話し合い」の場を持ち、「ジョニ黒6本の供与」で当日の「税関通過OK」という確約をとってくれたのである。私は半信半疑のまま、当時ビルマで「全能」といわれたジョニーウォーカー(黒ラベル)を半ダース購入し、親友に手渡した。出発前日のことである。


最後の日、空港で

 翌日、留学最後の日、すなわち私がバンコク行きの飛行機に乗る日、寮の部屋に親友たちが朝から来てくれ、最後の作業を手伝ってくれた。昼前には外国語学院のビルマ語学科の先生方もわざわざ来てくださった。午後早めに親友らと車に乗って空港へ向かうと、そこでは彼らを含む計9人のビルマ人に加え、日本人8人、フランス人と韓国人の留学生各一人の総勢19人が、見送りに来てくださっていた。この数には本当に驚いた。2年間の留学の日々が走馬灯のように思い出され、感謝の気持ちに満ち溢れ、涙がこぼれそうになった。

 出国手続きをはじめると、ビルマ人の親友が突然、「君には負けたよ」と言ってきた。何のことかわからず、「えっ、何で?」と聞き返した。彼いわく「2年間、君はいっさい女遊びをしなかった。私が知る独身男の日本人で初めてだ。いつかは遊ぶだろうと確信し、いろいろ誘ってみたのに、ついにその日は来なかった。私の負けだ」。

 私はどのように返答して良いか困り、適当に笑ってごまかした。確かに私は「女遊び」はいっさいやらなかった。そういうことが好きでないからだ。しかし、それをビルマの親友にほめられたことが不思議でならなかった。もしかしたら、ビルマ人の女性を「モノ扱い」することのない「良い日本人」とでも思ってくれたのだろうか。「私の負けだ」というビルマ語表現を実際の会話のなかで聞いたのは、いまのところ、これが最初で最後である。

 いうまでもなく、空港で親友たちが一番心配してくれたのは、例の大量の本のことだった。「ジョニ黒効果」が本当にあるのか、私も非常に心配だった。彼らから「出国手続きの際、向こうから何か聞かれない限り、けっして口を聞くな」と固くいわれた。税関審査の場所まで進んで、ジュラルミンのトランク4個をはじめとする計7個の荷物を恐る恐る審査台に乗せると、職員が私のパスポートを開いた。すると表情も変えず、「中身は本だけだね」と聞いてきた。私は「はい」と答えた。それだけだった。荷物はすべてフリーパスとなった。荷物を開けてもいないし、こちらから説明もしていないのに、事前に先方が中身を知っていたということは、「ジョニ黒の力」恐るべしである。

 ちなみに、友人たちは出発の際、私が乗るタイ航空バンコク行きのカウンター職員とも「話し合い」の場を持ち、制限量を超えた私の荷物の追加料金を成田まで無料扱いにするよう交渉してくれた。その結果、バンコクまで無料となり、そこから成田まではラングーン支店の職員に権限がないため、全額を支払うことになった。こちらは「ジョニ黒不要」だった。


そして機内で

 いよいよすべての手続きを終え、飛行機のタラップを登って機内に入る時、私は後ろを振り向いて、見送ってくださる19人の方々に大きく手を振った。このときも涙がこぼれそうになったが、こらえた。

 日本の文部省が成田までの航空券を正規のエコノミー料金で購入して送ってくれたので、タイ航空の判断でビジネス・クラスに乗ることができた。文部省に感謝である(いまは絶対無理だろう)。窓側の座席に座り、もう一度空港の建物に目をやると、多くの人々がこの飛行機に向かって手を振ってくれていた。涙がますますあふれそうになったが、今度もかろうじてこらえた。

 そのとき、キャビン・アテンダントがウェルカム・ドリンクを何種類か持ってきた。私は迷うことなくトマトジュースを手にとった。ビルマ留学中の2年間、大好きなトマトジュースを飲む機会に一回も恵まれなかったので、ごく自然に手が出たのである。

 ひと口飲むと、その「文明の味」のおいしさに、私の肉体と魂は激しく揺さぶられた。「やっと帰国できる!」という喜びが「もっとビルマにいたい」という気持ちを一気に上回り、私の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。もはやこらえることはできなかった。「この涙は2年間の留学への感謝の思いなのだ」と言い聞かせつつ、実際はトマトジュースのおいしさに全身で感激したためにあふれ出る涙を、私はとめることができなかった。