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その他の寄稿

神崎 平自 「2008年5月サイクロン・ナルギス襲来のこと」
2010年12月10日配信 ビルマ情報ネットワーク

2010年8月までビルマ(ミャンマー)に住んでいらした神崎平自(かんざき・へいじ)さんが、2008年5月のサイクロン「ナルギス」襲来時の状況について、エッセイを寄稿してくださいました。

 あのときは5月2日の夜9時頃であったかろうか、知人Nから携帯のメールにサイクロンがまもなくヤンゴンを直撃する、という連絡が入った。Nは幼少時父親の赴任先である日本へ付いていったので、大変日本語は達者であった。それで通訳もかねてもらって、たびたび一緒に調査旅行した仲であった。しかし最近はだいぶ疎遠になっていたこともあり、私の方はなんでわざわざメールを、という受けとめ方であった。

 じつはこの鈍い反応は、サイクロンというものがどんなものかぴんと来なかったということと、さらに日本なら台風の接近にともないあるはずの、断続的に風雨が強まるなどの前兆が少しもなかったことから来ていた。私のビルマ人の妻もヤンゴンではサイクロンの経験はないからであろう、いたって私同様のんびりしたものであった。

 そんなわけでその夜は普通に11時過ぎ就寝したのだが、2時頃暴風雨のどよもす音に目が覚めて、恐る恐るマンションのベランダに出てみた。すでに全面停電――それから三週間続くことになるが――、見上げる空は真っ暗ではあるが、なにかしきりにモノが飛び交っているような気配であった。向かいのマンションの屋上にあった10機ほどのパラボラ・アンテナは、とうに吹き飛ばされているようであった。

 横なぐりの強風雨に、これではなにかモノが飛んできて直撃されては危ないと思い、早々にベッドに戻った。そして不気味な高低のリズムのある音が窓ガラスを強く叩くのを耳の先に感じながら、明け方までうつらうつらした。

 翌日の朝、やや遅い目覚めで8時過ぎ起き抜けに外に出てみた。周りを見て一瞬、ぼう然とするようなサイクロンの爪跡であった。周辺の光景は一変していた。道路という道路は、根元から引き抜くようにことごとくなぎ倒された街路樹でふさがれていた。屋根から剥ぎ取られたトタン板や店の看板などが、無数にあたりに散乱していた。多くの家屋では屋根が吹き飛ばされて、雨水が屋内水びたしにしていた。みなが最初のショック状態から立ち直り、なんとか家の周りを片付け始めたのは昼近かったように記憶する。

 ヤンゴンは開発の遅れもあってか、すばらしい豊かな緑に恵まれた南国の都市である。高いビルの上から見ると高層ビルというものがないこともあり、町全体が濃い緑の雲海に埋もれている印象を持つ。十数年前ヤンゴンにきてすぐにビルの屋上から見たこの風景に、心を躍らせたことを憶い出す。

 ところがサイクロンのためにこの市内の緑の半分が失われてしまったのだ。さらに倒木を免れた木々も、強風雨に枝葉の大半を引きちぎられて、枯木立ちのように坊主になったものも多かった。ただ椰子類や竹だけが、被害を免れていた。日本風に言えば、柳に雪折れなしで、幹の柔軟性が嵐の圧力をやり過ごしたのである。イラワジ・デルタでも椰子の幹にすがりついた人だけが、助かったらしかった。

 一夜にしてまったく見慣れぬ町並みが現出した感じであった。町を歩いていても、どこがどこやら分からなくなるほどであった。もともと熱帯の樹木は、地中に養分が少ないため――高温のため、有機物の分解が速く進み、地中に保持できない――、根の張り方が浅い。私は一度アウンサン通りで人待ちをしているとき、通りを吹き抜けるスクォールの鉄砲風に、大並木がドミノ倒しのようにバタバタなぎ倒されていく光景を見たことがある。 

 ともかくヤンゴンに来襲したサイクロン・ナルギスは、それ以前にイラワジ・デルタを総なめにし、死者・行方不明13万人以上、被災人口240万人、家畜、家屋、作物、防波堤等被害総額はGDPの4分の1に達するという未曾有の大災害となったのである。史上最悪といわれた昭和34年9月の伊勢湾台風の死者が5000人であったことを思えば、必ずしも人口周密といえないイラワジ・デルタの被災規模がいかに大きかったかが分かる。両者とも同じ高潮による被害が中心であった。

 ヤンゴンでも高潮の被害を受けたのは、ヤンゴン河に接するラインタヤ地区であった。ここは90年代初め、軍政が都市基盤をまったく整備せず――つまり上下水道、電気、街区道路、学校、商店等のいっさいない湿地帯のまま――になかば強制的に住民を移動させてつくったスラムであった。スラムは一向に改善されず、その一方近年ここに国際級の豪華なゴルフ場と高級住宅地が開発されたので、まさに貧と富の鮮やかなコントラストが否が応にも目に入ってくるようになった。サイクロンに富の側はびくともせず、貧の側は浸水や家屋の倒壊によって致命的な打撃を蒙った。社会的弱者がいちばん災害弱者になりやすいという社会法則の、絵に描いたような実例であった。

 さて、サイクロンの襲来した5月初めはビルマの暑季にあたり一年中でもっとも暑い季節である。連日40度を超える暑熱にビルマ人ですら、日中は直射日光を浴びて体力の消耗するのを極力避ける。

 通常でも5月下旬の雨季の到来を、(おそらく私だけでなく、ビルマ人も)いまかいまかと指折り数えて待つほどである。

 したがってこの時節に電気が来ないということは、冷房も効かず、水道も使えないことを意味する。通常でもヤンゴンでは本管に水が供給されても――これすら平時でもときどき断水する――、水圧が弱いのでいちいちモーターでポンプ・アップしなければ、個々の家庭では水は使えない。じっとしていてもじっとりと汗がにじんでくるこの季節に、洗面器一杯の水すら確保できなくなるのである。健康な私でも、夜30度を大きく越えるなかで冷房なしで寝ていると、なんだか意識朦朧、窒息死するような気分に襲われることもある。まして乳幼児や老人をかかえるご家庭では、その苦労たるや並大抵ではなかったろう。

 もともとヤンゴンでもこの季節は電力の供給はせいぜい半日であるので、少々の停電では市民は動揺しない。その点先進国からきたひ弱な人間は、電気も水もない生活は一種のカルチャー・ショックを起こさせるもので、パニック状態の後脱力感無力感に襲われ、なにもする気がしなくなる。

 私はたまらず知人の旅行社になんとか頼み込んで、ホテルを2日だけ確保した。どこのホテルも難を逃れた富裕層で満杯であった。テレビや映画で見る俳優や歌手も少なからずいた。ホテルの部屋に入って、さあ水浴びをしようと、嬉々としてバスタブ用の蛇口を思いっきりひねった。すると、さあどうであろう、薄汚い緑がかった水が出てくるではないか。草の茎のようなものも浮かんでいる。後で聞いた話では、小魚が吐き出されたところもあったという。明らかに本管が断水になったため、自前の井戸では水の足りないホテルは、窮して市内の池の水を汲んできて、いっさいの手を加えることなくそのまま宿泊客に供していたのである。それでも質はともかく、流せる水があるだけよしとするべきか。

 ヤンゴンの一般家庭の多くは、エレベーターなしの十階建程度の集合住宅に住んでいる。ここでは水が来なければ、たちまち水洗トイレは使用不能となる。強いて用を足そうとすれば、どこからかバケツで水を調達してきて、七階なり九階なりに持って上がらなければならない。この状態がサイクロンのあと、ヤンゴン中心街でも3週間ばかり続いたのである。不便さに加え、衛生状態の悪化が懸念される事態であった。

 しかし逆に飲料水業者にとっては千載一遇の機会、20リットルタンク入りの清浄水がバカ売れに売れたはずである。焼け太りというか、他人の不幸がビジネス・チャンスになる人もいたのである。近年市供給の水道水の水質劣化や健康意識の向上もあって商売繁盛、いまではある飲料水業者はミャンマー商工会議所の有力メンバー企業のひとつになっている。神が公平にあたえたはずの水が、利潤活動のネタになるというのはやや納得がいかないが、そのうち空気業者も商工会の有力メンバーになるのであろうか。

 …そう、水で思い出したが、この問題でも先ほどのラインタヤのスラム地区と国際級ゴルフ場とのコントラストは鮮やかだ。一般に熱帯モンスーン地帯にあるゴルフ場は、雨が一滴も降らない乾季には芝の維持のため何千世帯分もの水を毎日必要とするという。他方隣接するスラム地区の方は、最低限の生活用水を確保するのに汲々とする毎日。新鮮な水が確保できれば、劇的に乳幼児の死亡率は改善されるという。おしなべて欧米人よりも、同胞たるアジア人の方にゴルフ・マニアが多いが、この問題どう考えたらいいであろうか。

 しかしそれにしてもヤンゴンっ子の忍耐強さは並大抵のものではない。パニックも暴動も起きないのである。状況が悪くなれば、それに応じて生活水準を臨界点まで下げることができ、だれにも不平不満をぶつけることもない。私の友人の国連の医務官は、イラワジ・デルタの救援から戻ってきて、私に感慨深げにこう告げたものである。「ミャンマー人って、怒らないんですよね」

 たしかに怒らないこと、忍耐強いことは美徳ではある。しかしアリストテレスが強調したように、真の道徳は中庸にある。程度が過ぎれば、悪徳にもなる。
私はこの医務官氏にこういった。「仏教では憎しみや怒りを悪とみますから。でも怒りを私憤と公憤で区別する必要があります。公憤というのは正義の怒りであり、これは悪を退治するために必要なものです」

 それはあるが、見ていて民衆のたくましさを感じたのは、壊れた水道本管から水が溢れ出している道路上で、何人もの主婦たちがもろ肌脱ぎでアスファルトにドカッと腰を下ろし、衣類をたたきつけてビルマ式洗濯をやっている姿であった。この迫力に自動車も自発的に徐行である。私は歩きながらこの光景を見て、なぜだか愉快で頼もしい気分になった。ビルマ人は、じつに受けには強いのである。

 翌々日だったか、道で近所のムスリム系ナンバーワンの喫茶店の店主に会ったので、軍はまだ出動しないのだろうかと訊くと、やつらはヘリコプターを一度とばしたきりさ、いつでもこうだ国民のことなど後回しさ、と吐き捨てるように言った。たしかに軍が出動して道路の倒木を除去し始めたのが、確か数日たった昼間から、それも政府要人の住むエリアが優先された。私の住むヨーミンジ地区は比較的早いにしても、1週間くらいしてからであったろう。電動のこぎりや重機類は、おそらく市役所にはなく、軍のみが保有しているのであろう。あるいは災害出動については軍の指令なしには、役所は勝手に動けないのかもしれない。あれこれ考えて、そのときハタと気付いた。近年日本からブルドーザーやクレーン、パワーシャベルなどの重機類は大量に輸入されている。ところがそれらのほとんどは新首都建設のために、ネーピードウに集中投入されているのだ。だからヤンゴンでは出動しようにも、機材資材が足りないのだ。この国の縮図だ、絶対的にモノがないわけではない、庶民の必要に応じて公平公正に分配されていないだけなのだ、と。

 私の住むヨーミンジ地区は富裕な華僑や印僑が多くいるところであるが、ただ不思議に思ったのは、軍が出動するまで住区の住民たちは、自分の家はともかく町の復旧に一切手を貸さなかったことである。日本であれば、災害復旧のために役所や自衛隊はもちろんであるが、住民みずからも町内会なり消防団なりのかたちで協力し合い汗を流すであろう。最近では遠くからボランティアまでやってくる。ましてここの人びとには、その日暮らしの余裕のない貧困層ではないのである。それなのに手出し無用、いったい「わが町」という意識はないのであろうか。かってはあったが、住民の横の連帯を嫌う為政者がそれらを根絶やしにしたのであろうか。政府と国民との深い溝、それだけでなく住民同士もお互いに無関心に近い姿に、私はこの国の病める縮図を見たような気がした。

 しかしそうはいっても、個々のビルマ人の親切さは、文句なく天下一品。私のマンションの1階に住む管理人は、性格の悪さで皆から嫌われていた人である。しかしこの人、たしか4日目だったか、私が勤めからくたくたになって帰ってくるや、水があるからバケツを持って来なさいと言う。向かいのマンション住民は、皆でお金を出し合って発動機を購入したので、いまポンプ・アップして水がもらえるという。わずか3、4杯の水だが、2日ぶりの水浴びである。

 しかし一杯目の水を全身に浴びたときのなんという心地よさ、思わず「極楽、極楽!」とつぶやいてしまった。しばらく目をつぶって心地よさをかみしめ歓喜にひたった。そして人間の欲と満足との関係について、哲学的思念?にふける余裕すら出てきたのである。たった一杯の水で。

 この管理人氏、翌朝私がモヒンガーを外で食べた帰り、マンション下で会うと、いきなり洗面道具を用意しなさいと言う。さっそく用意して下に下りると、付いて来なさいといってスタスタ歩いていく。どこへ行くのかいぶかしく思っていると、5分足らずで大きな立派な僧院に着いた。そしてここで水浴びをしなさいといって、中庭にある水場に案内してくれた。

 私はビルマ式水浴び法で、ロンジーをはいたまま水浴びをした。しかしまわりにはもの珍しそうに何人ものお坊さんたちが、私の方を見ているではないか。上半身裸の私を見て、たぶんなんて青っちょろい肌をしているんだろうと思っているだろうな、と多少のはずかしさで大きな身体を小さくして身体を洗った。

 しかしそれにしてもタイル貼りの大きな水槽を満たしている水の、なんてきれいなことよ。おそらく役所の水道水ではなく、井戸水を汲み上げて使っているのであろう。水を使わせていただいて有難いという気持ちと、この緊急時一杯の水にもこと欠く多くの人びとにも使わせてあげればいいのにという思いとが交錯した。

 サイクロンの襲撃から10日ほどして、沖縄から知人が救援に駆けつけた。このころはまだ国連はじめ海外からの救援隊は現地に入れないでいた。勇敢にも(へたをすると、逮捕の危険もある)知人は、現地のNGOに紛れ込んで現地へ物資を持って行くという。私はヤンゴン郊外の川向こうのラインタヤというところまで見送りにいった。そのとき目にした壮観な光景は、忘れることはできない。イラワジ・デルタへの一本道は、はるか地平線の向こうまで延々と救援に向かう車列で埋まっていた。むろん政府やヤンゴン市が命じたわけでなく、自発的な救援である。イラワジ・デルタに家族や親類のいる人間がいる多くの職場では、カンパを募り物資をもてるだけもたせて本人を現地に向かわせた。電話は不通、道路も寸断、マスコミ情報も不十分ななかで、しかし現地の惨状はあっという間にヤンゴン市に伝わって、おそらく空前絶後の大ボランテイア輸送隊の自主的な編成となったのである。

 強制されたものは、人間を心底から変えることはできない。しかし今度ばかりはビルマ人は、同胞の惨状に無関心ではなかったどころか、政府のありうべき干渉も恐れずに、自発的に救援活動にまい進した。ヤンゴンっ子の思いもよらぬ潜在力をみせつけたのである。これは新しいすばらしい発見だった。

 ただヤンゴン市内でも住宅の被害は甚大だった。修理需要で資材と大工の手間賃は高騰した。中産者層でも修理代金の負担は重かった。そのためナルギス以後、国内の消費を始めとする経済状況は一気に冷え込み、二年経ったいまもまだ回復してはいない。
しかしそれにしてもヤンゴンで十年以上暮らしていて感じるのは、この国での命の軽さ、安さである。災害の被害だけではない。一週間前に元気で酒を飲み交わした若者が、姿が見えないので知人にどうしたかと訊くと、ああ、3日前にマラリアで死んだとあっさり答える。あまりのあっけなさに言葉を失う。

 そういえば、こういう話があった。国による人権感覚の違いである。

――ドイツからの委託加工をおこなう縫製工場、その工場長を勤める韓国人K氏の話。当日工場が心配で朝7時にサイクロンの風雨が残るなか、ラインタヤの工業団地にある工場へ点検に駆けつけた。翌日K氏は得意げにこのことを注文主のドイツ人に告げたという。ところがこれに対し予期しない反応が返ってきた。

 ドイツ人いわく、壊れた工場は修理すれば元に戻るが、失われた人命は取り返せない、ばかなことをするでない、と。

 日本人も戦争中は命は一銭五厘、鴻毛のように軽かった。命が地球ほどに重いことに気付くには、敗戦の苦い体験と民主革命が必要だった。同じように、自由の権利を邪険にする政治家や、命や人権重視はコスト増になると考える企業家が支配するこの国、ナルギスでその片鱗をみせたあの潜在力を組織の力に変え、いよいよ大仕事に着手すべきときに来ているのである。

                   (かんざき・へいじ 2010年8月までヤンゴン在住)