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その他の寄稿

根本 敬(けい)(上智大学外国語学部教授):「馬車運」の悪い留学生
2010年11月28日配信 雑誌『青淵』2010年12月号(発行:公益財団法人渋沢栄一記念財団)

 馬車は日本ではもう過去の乗りものである。しかし、東南アジアの多くの国々では、いまでも地方都市や農村において現役の交通手段として活躍中である。私が歴史研究の対象とするビルマ(ミャンマー)でもそうである。最大都市ヤンゴンこそ馬車は過去のものとなって久しいが、地方都市や田舎へ行けばまだまだ普通に見かける。1985年から87年にかけて私は日本の文部省アジア諸国等派遣留学生としてビルマで生活した。滞在中、国内あちこちを旅行し、その際、行った先で馬車に乗ることが3回あった。だが、いずれも大変な目に遭い、私は「馬車運」の悪い留学生にちがいないという確信を抱いた。そこまでに至る顛末を紹介したい。

第一話 馬車と共に沼地に転落

 留学して3ヶ月目の1986年1月、私はビルマ教育省から公式の旅行許可を得て2週間弱の国内旅行に出た。同行者は先輩格にあたる日本人留学生Sさんとビルマ人の友人4人の計6人。ビルマ東北部のシャン州をはじめ、中央平野部の古都マンダレーやパガンをめぐる旅であった。歴史好きの私はマンダレーに滞在中、教育省が許可した旅行範囲から逸脱することを知りながら、日帰りでマンダレー北方にあるビルマ最後の王朝(コンバウン朝)発祥の地シュウェボウに行こうと提案、みんなの快諾を得た。

 特急と称するトラック改造型のバスに揺られて2時間20分、着いたシュウェボウは冴えない田舎町で、乾季だったこともあって街中がほこりっぽく、どう見てもコンバウン朝最初の都があったところとは思えなかった。それでもさっそく付近の「観光名所」をまわろうと馬車を一台雇いあげた。Sさんが馬を見て「弱そうに見えるけど大丈夫?」と御者に確認したが、「大丈夫」という自信に満ちた返事があったのでそのまま6人で乗った。小さな馬車に御者を含め7人、それもSさんは身長180センチ・体重100キロ弱、私も身長192センチ・体重80キロの「巨漢」だったので、馬車は男が8人乗ったのと実質同じだった。

 馬はどうみても老馬で、平地の道をのろのろと進んだ。それでも坂のない町だから大丈夫だろうと安心し、ゆったりした移動を楽しもうと心がけた。しかし、悲劇はすぐに起きた。町のなかに運河が流れており、そこにかかる橋を土手から曲がって渡ろうとしたときである。橋に上るわずかな坂で老馬が力尽きて止まってしまった。御者が老馬の背中を激しく鞭で打ちはじめたが、馬はうめき声をあげるばかりで何もできず、馬車のほうはずるずると後ろに下がり始めた。後ろの端に乗っていた私は土手のすぐ下に沼地が広がっているのを見て思わず「わーっ」と大声を出した。

 その直後、馬車は真後ろに土手からその沼地に転落した。私は投げ出され、体の半分が沼の中に埋まった。Sさんやビルマ人の友人たちに助け起こされ、幸い私を含め誰にもけがはなかったが、泥だらけになってしまったため、土手に這い上がり、運河に降りて服を洗いはじめた。まわりから多くの人々が私たちを見にやってきて、純朴な彼らは泥にまみれていた私に新しいロンジー(ビルマ人が着る巻きスカート風の着物)を手渡してくれた。これはとても助かった。一段落して事故現場を確認すると、馬車は沼地に落ちて崩れており、哀れな老馬は倒れて意識を失っていた。足を折ったのかもしれない。ひどいことに御者は現場から逃げだしてしまっていた。

 旅行を終えてヤンゴンに帰り2週間がたったころ、私は留学先のヤンゴン外国語学院の校長に呼び出された。許可範囲を逸脱してシュウェボウに旅行したことがばれてしまったのである。官僚的な口調で厳重注意を受けたが、校長がシュウェボウでの「事件」を知った経緯は、同地の人間がヤンゴンの当局に「事件」を通報したからだということが示唆された。「馬車運」の悪さのはじまりだったが、まだそういう認識はなかった。

第二話 御者にビルマ人の知り合いブチギレ

 同じ1986年の4月、今度は一人でマンダレーを再訪した。現地に住む知り合いの女性公務員Mさんが市内を案内してくれるというので楽しみにしてやってきた。ホテルから電話をするとMさんが妹を連れて来てくれた。気温が40度を超える酷暑のなか、一緒にホテルを出ようとしたが、ホテル内に潜んでいた公安刑事が玄関口でMさんを呼び止め、「日本人と一緒にどこへ行くのか」と威圧的に聞いてきた。美しい顔立ちながらも性格の強いMさんは、「日本の留学生に古都マンダレーの文化を見せてどこが悪くて?」とぴしゃりと答えたので、公安は何も言わずホテル内に戻っていった。呆然と見守る私だったが、Mさんはこの件で気分を害し、それまでの微笑みがすっかり消えてしまった。公安はMさんを売春婦だと誤解したのだろう。失礼な話である。

 そのとき、ホテルの前を馬車が通った。Mさんはそれを呼び止め、行き先を言って値段交渉に入った。御者が最初にいくらと言ったのかは聞きそびれたが、その後のことは一生忘れられない。公安の件で機嫌を損ねていたMさんが激怒したのである。「ふざけないで!こんな短い距離、5チャットに決まってるでしょ!」。彼女の大声がホテル前の歩道に響いた。当時の5チャットは日本円になおせば30円程度、御者はおそらくその2倍以上をふっかけたのだろう。結局、7チャットで乗ることになったのだが、彼女の怒りはおさまらず、その日は一日中、私をあちこち案内してくれながらもご機嫌ななめだった。馬車に関する2度目の「不運」と直面した私であった。

第三話 カーチェイスならぬ馬車チェイス

二度あることは三度ある。留学生活も終わりに近づき、あと一か月半ほどで日本に帰国するという1987年9月初旬、今度は上述の二話とは異なるスリリングな馬車体験をした。

 その日、高原地帯のシャン州からバスで平野部のマンダレーに降りてきた私は、同行者のビルマ人弁護士T先生と共に、市内のホテルに移動すべく馬車に乗った。客は我々二人だけ、馬車は快適に走りだした。ところが様子がおかしい。どんどんスピードをあげていくのである。T先生が「スピード上げすぎだぞ」と叫んでも御者は無言だった。車輪が外れるのではないかと思うくらいにスピードが増し、いよいよ危険を感じたので、二人で御者に「止まれ!」と絶叫したが止まらない。そのうち、急に道を曲がったり、ホテルと関係のない方向に走り出したので、完全にこの馬車はおかしいと確信、恐怖心が高まるなか、ふと後ろをみたら、なんと警察の車がこの馬車を追跡しているではないか。そう、これはカーチェイスならぬ馬車チェイスだった。

 最後にあきらめて止まった馬車だったが、御者は実は指名手配犯で、警察に気付いたため我々を乗せたまま逃走を開始、しかし力尽きたのである。我々の目の前で逮捕劇が演じられたあと、弁護士のT先生は警官が事情聴取のため我々を警察署に連れて行こうとするのを強引に断って、現場を通りかかったタクシーをつかまえ、無事ホテルに着くことができた。T先生にとってこの「事件」は想定外のできごとだったようで、その後もよく話題にしていた。

 ビルマ留学を終えてから23年がたつ。その間、14回同国を再訪しているが、幸い(?)馬車に乗る機会はなく、「馬車運」の悪さが今もつきまとっているのかどうかはわからない。しかし、留学していた2年間、私の「馬車運」はまちがいなく悪かった。そのことだけは確かである。でも、それはいま、ほほえましい思い出に変わりつつある。