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その他の寄稿

根本 敬 「ビルマ留学の残照 -ウー・サーミー父子の思い出-」
2006年10月1日配信 『青淵』2006年10月(第691号)

 「1枚、2枚、3枚‐‐‐全部で14枚。1枚1チャット、よって値段は14チャット。」
 依頼した洗濯物を丁寧に仕上げ、寮の部屋に持ってきてくれたウー・サーミーが、ぶっきらぼうな声で、枚数と値段を確認する。私は「ありがとう」と言ってお金を払う。何もいわずに出て行くウー・サーミー。いまから20年ほど前、1985年から87年までの2年間、私が日本の国費派遣留学生としてビルマに留学していた頃の話である。

 ラングーン大学の前にある大学教員寮の20号室という部屋が私の住処であった。2人で一室を利用するのが原則なのだが、外国人留学生ということで特別扱いされ、ひとりで一室を使うことが許されていた。12畳くらいのコンクリートむき出しの床に、小さな机とベッド、そして本棚。そのほかに電球と蛍光灯と天井の扇風機。それ以外は日本から持ち込んだ小型冷蔵庫が唯一のまともな家電製品で、広さだけが取り柄の殺風景な部屋だった。扇風機や冷蔵庫にしても停電が頻繁に起きたので、役にたたないことが多かった。水道も、午前と午後にそれぞれ2時間しか供給されず、その時間帯に合わせて顔を洗ったり水浴びをしたりする必要があった(ビルマの「お風呂」は水をそのまま浴びる)。今となってはなつかしく貴重な留学の日々だが、日本の都会生活に浸りきっていた当時の私にとっては不便な毎日であった。

 ウー・サーミーはこの寮に3人いた警備兼雑用係のひとりで、当時のビルマの下級公務員として、劣悪な給料のもとで働いていた。典型的なインド系ビルマ人男性で、背は高く、細身で、顔立ちは彫が深く、つやのある肌はふつうのビルマ人より黒かった。ウー・サーミーが警備のほかに担当していた雑用は、この寮に住む大学教員(約30人)の洗濯で、彼にとって日本円換算で3千円にも満たない給料を少しでも増やしてくれるのが、この洗濯業だった。私は下着類こそ自分で洗っていたが、ワイシャツやTシャツ、そしてロウンヂー(ビルマの男女が着用する巻きスカートのようなもの)については、いつもウー・サーミーに洗濯をお願いしていた。服や生地の種類を問わず、彼はいつも「1枚1チャット」で引き受けてくれた。

 チャットはビルマの通貨単位で、インフレの進むいまでは、1チャットは紙くず同然である。しかし、1980年代半ばにあっては、日本円で7円程度の価値があった。私は日本政府から月額10万円をもらう、一般ビルマ人から見れば「裕福な」国費留学生だったので、ウー・サーミーによって洗濯物「1枚1チャット」の「値段表」を適用されたが、同じ教員寮に住むビルマ人の先生たちはそれより安い「値段表」が適用されていた。大学教員たちも下級公務員より幾分マシとはいえ、政府から安い給料しかもらっていなかったので、「1枚1チャット」ではウー・サーミーに洗濯を依頼する人がいなくなる恐れがあったのだろう。

 ビルマでは洗濯業の人をドービーと呼ぶ。その多くはインド系ビルマ人である。インドからビルマに移住してきたときのカーストが関係しているようだ。ウー・サーミーをはじめ、彼らドービーたちの洗濯の仕方は、洗濯石鹸を使って、洗い場のコンクリートの床にひとつひとつの洗濯物をたたきつけながら汚れを落とすやり方である。そのあとよく絞り、そのまま芝生や土の地面のうえに広げて乾燥させるのが常で、最初は土や泥が洗濯物についてしまうのではないかと心配したが、そのようなことはほとんどなく、乾いたあとは炭火を使ったアイロンを丁寧にかけてたたんでくれるので、完成品は日本のクリーニング店に頼むのと(少なくとも見た目は)変わらなかった。

 ウー・サーミーの年齢は50代だったように思うが、確認はできなかった。無駄口をいっさいきかない彼は、いつもぶっきらぼうで、洗濯の「副業」がないときは、寮の玄関の入り口で警備をしていた。警備といっても、玄関を入ったところに置いてある来客用のいすに座って、外の風景を哲学者のように眺めているだけである。もちろん来客があると対応し、客人の告げる教員の部屋に呼び出しに行くのだが、その際のやりとりもぶっきらぼうだった。にもかかわらず、ほかに2人いた警備員と比べて、彼にはどこか風格があり、信頼感があった。住人の教員たちも、ウー・サーミーにより多くのことを頼っていた。私もビルマ語の練習を兼ねていろいろな話をした。あまりにぶっきらぼうなので、会話は1分と続かないのだが、それでもこちらが嫌な気分になることは一度もなかった。ウー・サーミーは不思議なオーラを持つ男だった。

 彼にはひとり息子がいた。名前は忘れてしまったが、年齢は10代半ばくらい、いわゆる「知恵遅れ」の少年だった。目は純真に輝き、いつもにこにこして、寮の内外でひとり遊びをしていた。寮の賄いのおばさんが私に何度となく「ウー・サーミーの息子は頭がダメなのよ」と、指で自分の頭の上をくるくる回して「説明」してくれたが、なぜか、その言い方やしぐさに何の「悪気」も「差別」も感じられなかった。とてもあっけらかんとしていた。寮の先生たちも、ときどきウー・サーミーの息子をからかっていたが、双方共に楽しそう遊んでいるかのように私には映った。少なくとも、そこに「いじめ」のような陰湿なものを感じさせるものはなかった。

 しかし、ウー・サーミーにとって、このひとり息子の将来は、実に気がかりだったのではなかったかと思う。ときどき、父子2人だけで何事かを話しているところを見かけた。何をしゃべっていたのかは、ついにわからなかったが、2人が話をしているそのときだけは、息子は笑顔を見せていなかった。そして父親も、このときだけはぶっきらぼうな感じには見えず、何かを必死に伝えているように感じられた。

 ウー・サーミーは安月給だったとはいえ、「裕福な」外国人留学生である私に物をねだるようなことはしかなかった。しかし例外的に欲しがったものが2つあった。日本の合成洗剤とハンガーである。洗剤のほうは、私が日本から来る知り合いにお願いして「ザブ」のようなものを持ってきてもらうと、その10分の1くらいを分けてあげた(もっと分けてあげれば良かったと思うが、自分で洗濯する下着に洗剤はどうしても必要だったので、たくさん分けてあげようという気持ちになれなかった)。ハンガーについては、私が2年間の留学を終えていよいよ日本に帰るというときに、部屋にやってきて、ここでもぶっきらぼうな言い方で「ハンガーをくれないか」と頼んできたので、「全部持っていっていいですよ」と言って渡した。その際、かすかな笑顔を見せてくれたが、私が覚えているかぎり、それが最初で最後の彼の笑顔だった。

 日本に帰国後、翌1988年にビルマでは激しい民主化運動が起きた。その年の7月、1週間だけラングーンを再訪した私は、すぐさま大学教員寮を訪問した。玄関でウー・サーミーが出迎えてくれた。笑顔もなく、いつものぶっきらぼうの彼であった。なぜかほっとした。しかし、それから2年おいて1990年の8月のある夕方に再訪したとき、玄関で出迎えてくれた警備の人はウー・サーミーではなかった。非番なのかと思って、「ウー・サーミーは元気?」と尋ねたら、帰ってきた返事は「去年、死んだよ」という言葉だった。病気に倒れ、そのまま他界したとのことであった。

 ウー・サーミーはもういない。あのひとり息子はどうなったのだろうか?寮にいた数人の先生に聞いたが誰も知らなかった。悲しいものを感じながら寮の外に出ると、雨季の真只中で雲が空を覆いつくす日であったにもかかわらず、このときだけ夕日が少しだけ姿を見せていた。まるで、私の留学の残照であるかのように---。

<追記> ビルマ人の名前に苗字はない。ウー・サーミーの「ウー」は、ビルマ語で成人男性につける敬称である。よって本人の名前はサーミーである。しかし、もちろん、親しみと尊敬をこめて、私はウー・サーミーと呼ぶ。

(上智大学外国語学部教授)
*執筆当時は東京外国語大学教授