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その他の寄稿

根本 敬 「あるビルマ人弁護士の思い出」
2008年9月1日配信 『青淵』2008年9月(第714号)

サヤーの死

 長年のつきあいのあったビルマ人弁護士のT氏が亡くなった。今年6月のことである。享年74歳。私にとっては常に「サヤー(先生)」の敬称でお呼びする大切な知り合いだった。今から22年前の1986年4月19日、当時、日本の文部省の奨学金でビルマに留学していた私が、同国東北部シャン州のヘーホー空港でマンダレー行きの飛行機を待っていたとき、先方から突然声をかけられたのがその後の長い交流のきっかけとなった。

 気さくで驚くほど人脈の広いサヤーは、私がビルマの日本占領期(1942-45年)の歴史を研究していることを知ると、その時代を生きた有名無名の関係者を次から次へと紹介してくれ、国内あちこちを一緒に回って私の聞き取り調査を助けてくれた。サヤーが住む高原の町タウンジーの自宅では、私が訪問するたびに夫人が私の大好物であるシャンカウスエ(シャン風そば)をつくって歓待してくれ、それを私がいつも4杯、5杯と喜んで食べるものだから、すっかり気に入られ、2人の娘と3人の息子たちとも仲良くなった。実際、夫人のつくってくれたシャンカウスエはビルマで一番おいしかった。

 留学後もビルマを訪問する際は、できるかぎりタウンジーに出向き、サヤーと会った。今から6年前、2002年8月にタウンジーを訪ねたとき、サヤーは糖尿病を患ってやせ細っていたが、自宅の小さな黒板にこちらが恥ずかしくなるような大げさな歓迎の言葉をビルマ語で書き連ね、私を笑顔で迎えてくれた。このときも夫人手作りのシャンカウスエを4杯食べ、会話は大いに盛り上がった。でも、これがサヤーと会った最後となってしまった。

「弁護士業」の中身-ビルマの実情

 サヤーの出身地はビルマ中央部のカター市で、上座仏教徒の両親のもとで育てられ、その後、1950年代にマンダレー大学で文学と法律を学び卒業、弁護士資格をとって開業した。夫人と結婚後、1960年代初頭に涼しい気候を求めて標高1000メートル級の山の上にそびえるタウンジーに家族全員で移動し、以後そこで暮らした。

 1934年生まれのサヤーは、ビルマで5つの「時代」を生きた歴史の生き証人でもある。幼少時代は「英領植民地期」、8歳になる頃、日本軍が侵入してビルマを占領し3年半の「日本占領期」を経験、11歳のとき英国がビルマに復帰、14歳(1948年)で国家が独立、「議会制民主主義期」の下で青春時代を送る。弁護士として活動をはじめて間もない28歳のとき軍がクーデターで政権を奪取(1962年)、閉鎖的な「ビルマ式社会主義期」に突入、その体制も54歳のとき(1988年)全国規模の民主化運動の発生で崩壊、しかし軍によって運動は弾圧され、その後は亡くなるまで現在の「軍政期」を生き続けた。

 声が大きく、弁がたつサヤーは、弁護士に向いていたといえるが、私から見ればビルマの社会的・政治的事情が彼の弁護士としての才能の開花を邪魔したとしか思えない。留学中の1986年8月のある日、私はサヤーの自宅兼オフィスで、訪問してきた女性クライアントとサヤーとのやり取りを聞かせてもらったことがある。女性が弁護を依頼したい件について説明したあと、サヤーがおこなったアドヴァイスに私は唖然とした。

 「事情はよくわかった。この件、法廷で××が裁判長なら、彼は私の弟子だから絶対に勝てる。でも○○なら特別の面識がないから勝てないかもしれない。それでも相手方の弁護士△△は私の親戚だから、最悪でもこの件は和解に持ち込んで有利な解決ができる。安心して私に任せなさい。」

 これではコネによって「法の正義」が決められるも同然で、まともな裁判とは思えないので、女性が帰ったあと私はサヤーに真意を聞いてみた。すると「ビルマでは民事裁判は半分以上がこんなもの。正義とか法律解釈とかはあまり関係ないんだよ」とあっけらかんと語ってくれた。

 より深刻だと私が感じたのは刑事裁判の弁護の場合である。サヤーは刑事裁判をあまり引き受けなかったようであるが、一般刑事事件でも政治がらみの思想事件でも、判決は最初から国家(政府)のほうで決められている場合が多く、裁判長はよほど勇気のある人間を除き、上が定めた判決をそのまま受け入れるだけなのだとサヤーは語っていた。したがって刑事裁判の場合、弁護する意味がないので、やる気が起こらないらしい。

軍政下の獄中体験

 司法がまともに機能しないビルマで弁護士業をしていたサヤーは、一方で、ペンネームを使ってビルマ古典文学の解説書をまとめたり、風景写真を撮って絵葉書にして売ったりして、弁護士以外の活動で自己の才能を発揮していた。旅行も好きで、海外に出ることが簡単ではない国であるにもかかわらず、インドやタイなど近隣の国々に出かけることがあった。しかし、そのようなサヤーの生活をとんでもない事件が襲う。

 サヤーが1990年末にシンガポールへ旅行したときのこと、現地で日本製の子供向けビデオを1本、孫のみやげに買って帰国した際、国際空港のヤンゴンでは何も問題にされなかったのに、国内線で降りたマンダレー空港の税関で「無許可ビデオ」とみなされ没収されてしまった。サヤーは子供向けビデオの所持がビルマのどの法律にも触れないことを熟知していたので、空港で税関職員と激しくやりあったが、袖の下を渡すことを拒否したので負けてしまった。

 ここまでならビルマでよくある「ひどい話」で済む範囲なのだが、その後の展開が悲劇的だった。サヤーは憤懣やるかたなく、国営新聞の投書欄に「法律の知識もなく、袖の下ばかり要求して子供向けビデオまで取り上げる職員たちを、当局は取り締まるべき」という主旨の文章を投稿した。その投書は内容を大幅に削られて掲載されたが、直後に軍の情報部が自宅にやってきて、削られた部分が国家の権威を侮辱しているという理由で逮捕・連行され、裁判もなしに24日間、マンダレーの監獄に入れられてしまったのである。サヤーが後日いわく、

 「人生であんなひどい日々はなかった。与えられたのは毛布一枚だけ。食事もひどく、蚊に刺され放題。誰とも会えず、家族からの差し入れも一部しか渡してもらえなかった。下痢に苦しんで体重も減ってしまい、まるで別人のような容姿になって自宅に帰った。この国の政府が弁護士という職業を敵視していることがよくわかった。もう弁護士は廃業だ。」

 1994年1月に会ったとき、確かにサヤーは弁護士業の看板を下ろし、自宅も市の中心部から少しはずれたほうへ移し、文筆業のかたわら写真家として生計を立てていた。すでに子供たちも独り立ちして仕事で成功していたので、サヤーがあくせく金を稼ぐ必要もなかった。そのころから糖尿病を患ってやせ細ってしまったが、私が訪問するたびに、大きな声で歓待してくれた。

来世も弁護士?

 私の研究上の恩人であるサヤーは、一方で俗人らしいところもあり、外国人である私にいろいろな物をおねだりした。私が持っているカメラが気に入ると「くれないか」と平気で言うし、別れ際には必ず次回日本から私が持ってくる「べき」ものを伝えた。それはカメラの部品だったこともあれば、電気製品だったこともある。不可能な依頼には「だめですよ」とはっきり断ったが、できる限りサヤーのおねだりには応じた。「ください(・・・・)病だ」と揶揄するビルマ人の友人もいたが、私には憎めない性格だった。

 上座仏教の信仰では、人は死とともにその魂が肉体から離れ、来世に続くと信じられている。サヤーが来世で、司法が普通に機能している国に生まれ変わり、弁護士として活躍されることを祈ってやまない。先生、本当にお世話になりました。

(上智大学外国語学部教授)