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その他の寄稿

ビルマの国民民主連盟(NLD)本部にアウンサンスーチーさんを訪ねて
1999年3月9日配信 岩田澄江 NCCキリスト教アジア通信

かっと南国の陽が照りつける戸外からNLDの本部の中に入り、薄暗い中で目がなれてくると、何人かの女性が出迎えてくれているのが分かった。そこに、その人はいた。アウンサンスーチーさんが一瞬にこやかな微笑みを浮かべて、ほっそりと優雅なたたずまいでそこに立っていた。「日本からいらしたのですね」と親しみをこめた眼差しと優しい声がこちらに向けられ、私はすぐにくつろいだ気持ちになれた。

招きいれられた奥の部屋は、大勢の母子で一杯だった。子どもたちは痩せていて元気がない。母親たちも疲れているようだ。一番奥にはボランティアの女性たちが並んで立ち、一人がマイクで名前を呼ぶと、前に出た少女や母親にビタミン剤と、お米の包みらしいものが手渡される。脇にいる女医さんに子どもを診てもらう人、スーチーさんに相談をする人と、様々な活動がなされているのだが、人々がこんなに沢山いるにしては不思議なほど一種シンとした中で、マイクの声だけが大きく響く。一寸高い所にプラスチックの洗面器に入った水が置かれていて、そこにそえたスプーンで子どもたちがすくって飲んでいるのは、聞いてみると塩水だった。

同行した日本の仏教者の馬島さんと、タイとノルウェーの女性に私の四人、それとは別に先着のデンマークの記者らしい二人も、人々の間をかいくぐって、話を聞いたり写真を撮ったりで忙しい。スーチーさんはその間、手際よく私たちをNLDの幹部であるウーティンウー氏とウールンイン氏にも引き合わせてくださる。一寸腰掛けてこの方たちと話をしたり、差し出されたタピオカと色鮮やかに黄色いさつまいもの入った、甘い一碗をすすったりする。おそらくとってもお腹がすいている、こんなに大勢の子どもたちの前で、どうして食べられようかと思うのだが、だれひとりとして見つめたりする人はいない。

母親たちとの話がひとしきり終わると、スーチーさんも私たちのそばにきて座り、女医さんも交えて気軽に質問に答えてくださる。ボランティアの女性たちは年代もさまざまで、ひとり若い女性が常にスーチーさんから尊敬の眼差しを離さず、この人にとって彼女は大切な先輩の役割モデルになっているのだということが痛いほど分かった。このような若い人も、貧しい母親たちも、そしてNLDの同僚たちも、皆がスーチーさんをこんなに必要としており、そして幼子たちの中に佇むマザー・テレサのような姿に接して、彼女がこの場を拾てて英国に帰ることはありえないということが、心から納得できた。日本の雑誌にも散見する、スーチーさんもいつまでも突っ張っているのは止めたらとか、彼女は自分が汚れたくないのだ、などという中傷が、いかに彼女の置かれている状況を理解していないところから出ているかが分かっただけでも、ここに来てよかったと思った。日本の財界人の中には、軍事政権(SPDC)の大物たちに接待を受けて帰り、(頼まれてきた?) 心ない感想をジャーナリズムに流す人もいるのである。

やがて、潮が引くようにして人々が去ってボランティアだけになった頃、まず先のデンマークの二人が二階でスーチーさんと話し合うことになり、私たち第二弾は階下で待った。結局二階に上がってからは、ノルウェーのVOICE OF BURMA(短波放送)から来た人が、ノーベル平和賞候補者のことなどを殆どしゃべりづめだったので、私たちは時間切れになってしまった。でも、NCCキリスト教アジア資料センターで一年以上続いている、スーチーさんの読書会のメンバーからのメッセージ・カードを手渡すと、スーチーさんは開いて眺めてから大切そうにカバンにしまった。

スーチーさんをも含めてのNLDの幹部からこの日聞いたことは、ほぼ以下のようなことである。

・ この母子のクリニックは毎週火曜に開いて、現在約三百人が登録しているが希望者はもっと多い。ラングーン(ヤンゴン)外のかなり遠い所からもくる人たちがいる。

・ 協力者の女医さんの父上(ソウムラアウン博士)も、八十歳をこえた高齢であるにもかかわらず、最近まで無料で貧しい人々に医療を行っていたが、現在は拘留中である。

・ 日本のビジネス関係者には、すべてがおかしくなっている、このような苛酷な社会で、投資が成功するはずがないということを伝えてほしい。あるとしても、一時的な浅い成功しかありえない。

・ 食料の値段が高騰しており、米もだが食料油が特にひどく、この二、三週で一ケース630チャットから680チャットに上がった。露天商は一日働いても米が買えない。

・ 93年、94年に経済は頂点をきわめ、それからしばらく平坦な時期を経て以後は下降線をたどり続けている。

・ 今、開発というとき、人間的開発ということか言われるが、ビルマでは国民の教育と医療に関して国は予算の5~6%しか支出しない。この数字はベトナムよりも低い。おまけに病人は入院する時に薬を自分で持参しない限り、何も投薬してもらえない。また良心囚は病気になると、例えばインセイン刑務所では囚人用の店でアスピリンなどを買わねばならず、その値段は市販の三倍もする。

・ 外国人や外国の団体からNLDに対する資金、献金は全て断っている。それにもかかわらずNLDは外国から支援を受けていると軍政は中傷している。(スーチーさんがはっきりと献金を断るところを私たちは偶然この目で見た。それは実に毅然とした態度であった。)

・ スーチーさんの夫であるマイケル.エアリス氏が重い病気で、スーチーさんに会うことを希望してビザの発給を申請しているが、これを軍政は彼女を英国に帰すよい機会と考えて出し渋っている。彼女にはビルマを離れるつもりはない。

・ 1989年に軍政が国名をビルマからミャンマーに変えた。NLDが「ビルマ」を用い続けているのは、それが民意を問うた上での変更でないからだ。もし国民が投票などでミャンマーを国名とすることに賛成するのなら、それを用いることに問題はない

・ つい最近、軍政は大量の麻薬を公衆の面前で焼却してみせたが、それは1989年中にビルマで生産された麻薬のほんの1%にすきない。

これ以上のことを二階で話せるかと思ったのに、話せすじまいに終わったが、それも仕方がないことだった。片々たる知識よりも、生活に疲弊した母子たちの中にいるスーチーさんと、その場に共にいたこのひとときこそが、私にとっては何よりも大きな意味があった。なぜなら、それこそが彼女か著書の中で繰り返し語っている、彼女にとってごく自然な、「正しさ」を追い求める生き方を、目の前で見せてくれたからである。眼前の人の華奢な体には、鋼のように強靭な意思がピンととおっていたが、そこに悲壮感はなく、あるのは、自分に与えられた人生を受け入れて、慈悲(メッタ)をもって生きる人の、穏やかな微笑みだった。スーチーさんか無言のうちに差し出した何か大切なものを、私はそっと抱きしめて帰ってきたような気がする。

今回の旅は極秘のうちに、ある国際NGOによって準傭されたものであったが、いくらか心配はあったものの無事に帰ることができた。9日朝、NLD本部のそばまで行ってみたときには、兵士を満載したトラックが一台止まっており、沿道にも警察の車が何台も駐車していて恐ろしげであった。

一緒に行った馬島浄圭さんは、続いてチェンマイに飛び、少数民族の人たちに会いに行かれたが、かれらの苦しみにはラングーンの人々以上の、はるかに厳しいものがあると思う。

スーチーさんは「またお会いできることを願っています」と言われたけれど、この「再び」は重く、私に何ができるかをずっと考え続けている。帰国して二日後に、池袋で「第十回ビルマ人権の日」の集まりがあり出掛けた。在日のビルマ人たちが、自国の人権侵害を次々に訴えた。数年間インセイン刑務所に拘禁されていた人も何名か、その苛酷な体験を語った。一人の青年は昨年3月に来日して難民申請をしたところ、ただちに入管の収容施設に入れられ、一年後の3月4日にやっと仮放免されたばかりだという。このような冷たい仕打ちをする日本政府を恥じる。かれらは口々に、ビルマに民主主義と人権が実現する日を願って、団結して闘っていこうと言っていた。私の今回の経験も、いくばくかの元気をかれらに与えることができたようなのが、嬉しかった。