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田辺寿夫(シュエバ)

もっと日本で学びたい
2010年10月27日配信 

うらやましい!

10月15日、私が講師をつとめる中央大学経済学部「人権論」の授業にビルマ(ミャンマー)南部モン州イエ(Ye)出身の在日ビルマ人、モン民族のミン・ミョウチッ(Min Myo Chit)さんを招いた。ミン・ミョウチッさんはモン民族の輝かしい歴史、軍事政権下で受けている人権侵害の数々を話してくれた。授業の最後に彼は学生たちに向かってこう話した。

……この教室に来てみなさんにお話ししながら、私はうらやましいおもいでいっぱいです。みなさんは、生まれてからずっと使っていることば、両親や友だちと話していることばで授業が受けられ、勉強ができます。しかも自分が希望する学問を自由に勉強できる、それがとってもうらやましい……

 日本の学生たちにとっては唐突に聞こえる言葉だったかも知れない。ビルマ連邦モン州に生まれ育ったミン・ミョウチッさんが物心ついて最初に口から発したことばは両親やまわりの人たちがふつうに話しているモン語だった。しかし学校に行くようになるとモン語を学ぶことも話すこともできなくなった。どの教科も教科書はすべてビルマ語で書かれ、教える先生もビルマ語を使った。モン語・モン文化について学ぼうとすれば、当局の目を盗むようにして僧院に行き、モン人僧侶に教えを請うしかなかった。長じて、ミン・ミョウチッさんは民主化、モン民族を含めた諸民族平等の連邦国家をめざす「反政府」活動に身を投じ、当局から目をつけられるようになる。逮捕・拘束の危険を察知し日本へと逃れてきた。日本では在日モン民族の団体PMNS(PUNNYAKARI Mon National Society-Japan)のリーダーとして母国民主化と諸民族平等の連邦国家の実現、それにモン語・モン文化の継承・発展をめざして活動をつづけている。日本の大学で学ぶような機会はなかったがモン民族の歴史などについては自分なりに勉強をしてきた。在留資格を得たのち、妻と娘を呼び寄せた。日本での生活はすでに20年近い。長く焼肉店で働き今は「板長」だという。今、シンガポールで高校まで終えて日本へやって来た娘の大学進学の道をさがしている。
 日本の学生が日本語で、関心のある科目を学ぶのはあたりまえのこと、なんの不思議もない。それはしかし、ビルマのような軍人が権力を握りつづける中央集権的な多民族国家のなかで、自分のことばをしゃべる機会、学びたい学問を学ぶ権利を奪われて育ってきた少数民族出身の人たちにとってはとてつもなく「すばらしく」、「うらやましい」ことなのである。

学ぶ喜び

 10月16日土曜日、東京・青山にある国連大学のホールを借りて「共生社会の実現に向けて~その現状と課題~」と題する集会が開かれた。主催は社会福祉法人「さぽうと21」、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が共催団体として加わっていた。「さぽうと21」は日本に住む外国人(難民資格、在留特別許可を得た人たちが多く含まれる)、インドシナ難民、中国残留孤児の子弟らの自立支援を行なっている。「さぽうと21」の母体は1979年、日本政府のインドシナ難民(ボート・ピープル)への人道的な対処を求めて設立された「難民を助ける会(AAR=Association for Aid and Relief, Japan)」である。AARはミャンマーでも2008年5月、イラワジ・デルタを襲ったサイクロン・ナルギスによる被災者の救援活動、それに障害者の自立を助けるための職業訓練事業を展開している。このように近年AARは外国での活動に重点を置くようになってきた。そこで手薄になった日本国内での活動を受け持つ団体として1992年に「さぽうと21」が誕生した。二つの団体は同じビルに事務所を置き、メンバーの交流も頻繁である。
 この日のプログラムは二部に分かれていた。第一部は「学習支援室受講生による発表」、そのあと受講生とボランティアによる合唱があり、第二部はパネルディスカッション「学習支援室をめぐって」である。学習支援室とは「さぽうと21」が事務所を置く目黒駅前のビルの一室で毎週土曜日、朝十時から午後六時まで開いている教室のこと。今年度は毎週50人ほどの外国人が集まってくるという。彼ら、彼女らの年齢、国籍はさまざま、初級から上級にいたる日本語、パソコンなどをマンツーマンで学ぶ。教えるのは「さぽうと21」のメンバーとボランティアの人たちである。
 第一部の司会をつとめたジャファ(Ja Pha)さんはビルマ国籍のカチン人である。学習支援室に通って学んだという日本語はなかなか見事なものだった。かつて、不法滞在を理由に広島刑務所に収監されていたご主人(チン民族)に面会に行く弁護士に同行したことを思い出した。たしかその時、生まれたばかりのかわいい赤ちゃんの写真の差し入れしたのだった。その赤ちゃんも大きくなったことだろう。
 最初に発表したのはビルマ人女性ミィンミィンキン(Myint Myint Khin)さん。いつも一緒に活動しているビルマ市民フォーラム運営委員マイケルさんの奥さんである。子どもが大きくなったので時間ができ、「さぽうと21」の学習支援室に通ってコンピュータ操作を学んだ。その知識を生かして自分のプログを作り、さまざまなビルマ料理とその作り方を日本語で載せているとのこと。スクリーンにそのブログ「Burmese Traditional Foods」が映し出された。会場からはほうーっというため息とともに「おいしそう!」という声もあがった。日本語で発表する彼女は輝いていた。会場には息子さんも来ていた。かつて人気のあった味噌のテレビコマーシャルに出てくる子役そっくりのくりくり坊主姿でみんなに親しまれた坊やもすでに小学校三年生になったとのこと。ミィンミィンキンさんが日本でマイケルさんと結婚したとき、池袋のエコトシマ(豊島区生活産業館)で開かれた披露宴で私はお祝いの言葉を述べた。そうか、あれからもう十年たったのか……。
 学習支援室での勉強の成果を発表した5人のうち4人はビルマ国籍者だった。チン民族のカムカントン(Kam Khan Thawn)さんは「父から子どもたちへの手紙」というタイトルで子どもたちに父母の分までしっかり勉強し、日本とビルマをつなぐような人間に育ってほしいと願う手紙を読み上げた。キンカラヤーウィン(Khin Kalyar Win)さんは「日本語学習により広がった手芸の世界」と題して発表した。学習支援室で日本語を学んで、もともと好きだった手芸の本が読めるようになり、本を参考にして刺繍やパッチワークを楽しんでいるという。自分で作った作品を見せながらの発表を大拍手で迎えられた。最後にチョーモウティン(Kyaw Moe Tint)さんが達者な日本語で「あなたは何のために生きていますか」と呼びかけた。かつての成人の日に毎年開かれていた「NHK青年の主張」思い出させる語り口がほほやましかった。
 ビルマからやってきた人たちが苦労の末に在留資格を取得し、決して楽ではない生活のなかでそれぞれに学ぶ機会を見つけ、忙しい仕事のなかで時間をひねり出し、学ぶことに執着している。彼ら、彼女らは日本人の協力を得てがんばっている。聴いていてうれしくなった。発表をする人たちの顔には「学ぶ喜び」があふれていた。

教える、教えられる

 第二部のパネルディスカッションでは「さぽーと21」の学習支援室コーディネーターをしている女性が司会をつとめ、ボランティアの日本人男性と支援室で学んだ経験を持つ人たち三人が加わった。日本人と離婚したというフィリピン人女性、インドシナ(ベトナム)難民の第二世代で現在は日本国籍を取得している女性、現在も日本語を学んでいるビルマ国籍のチン人女性チンカイ(Lia Mang Ching Khai )さんの3人。ディスカッションは日本語で行われた。私は会場を見下ろせるブースに入り、ビルマ語への同時通訳(日本ではじめて?)にあたった。在日のビルマの人たちが聴衆として大勢参加していたからである。ビルマ語と日本語は語順が同じ、それにこうした話題は私自身ふだんから関心を持っている分野なので通訳そのものはそれほど難しくはなかった。ただ、司会者の質問とパネラーの答えが重なったりすると、そのやりとりを区別してわかりやすく通訳するのは一苦労だった。
 パネラーの女性三人はいずれも長く日本に住んでいる。日本で生活するには日本語はなんとしても必要である。とくに子どもが日本の学校に通うようになると、親もまた日本語ができなければ、学校とのコミュニケーションもままならない。にもかかわらず多くの外国人は生活のために仕事に明け暮れる毎日をおくっている。学ぶ時間はない、学べる場所・施設は限られているし、そうした情報はなかなか伝わらない。そんななか、「さぽうと21」の存在はたいへんありがたいものだったと三人は異口同音に話した。彼女たちはさらに、自分たちのまわりには、日本語なり、コンピュータ技術なりを学びたいとおもっている人たちはいっぱいいる。そうした外国人のために、「さぽうと21」はもっと活発に情報を発信して外国人コミュニティに届くようにし、学習支援室のような施設も、例えば外国人の居住が多い豊島区などに作るなどもっと増やしていってほしいとその希望を述べていた。
 パネルディスカッションに加わっていた三十代と見受けられる日本人ボランティアはふだんシステム・エンジニアとして普通の会社に勤務し、土曜日に「さぽうと21」でパソコン技術を教えているという。その男性の次のような言葉が印象に残った。

……私は先生ではありません。だから教えてあげるというのじゃないですね。学習支援室に来るひとたちとの接触を通じてこちらも多くのこと、いままで知らなかったようなことを学ばせてもらっています……

 たしかにそのとおりだろう。外国人が必要とする知識・技術を教えようとすれば、先生役をつとめる日本人は、その外国人について知ることがまず必要である。それぞれの出身国、民族の歴史・文化・現状にはじまって、日本へやってきた、あるいは来ざるを得なかった事情、日本での生活の様子、日本へのおもいなどを知り、それらをふまえて教えることでより実りある学習支援が可能になる。またその過程で日本の法律や社会のありようが外国人にとって決してあたたかくはないことに気づく日本人も出てくるだろう。そこから、日本社会の仕組みや日本人の考え方を変えて行こうとする動きも出てくる。日本人と外国人、おたがいの理解を深めようとするそうした努力が共生社会実現のための第一歩となるのではないだろうか。

もっと学びの場を

 最後にUNHCR駐日事務所で首席法務官(Senior Protection Officer)をつとめるダニエル・アルカル(Daniel Alkhal)さんが挨拶にたった。アルカルさんは第一部で三つの仕事を掛け持ちしながらも、土曜日には「さぽうと21」の学習支援室に通って日本語を学んでいると話したビルマ人難民男性(Kyaw Moe Tint)のことをとりあげ、その意欲と努力を称えた。同時に難民の人たちには、もっと学習の機会を提供する必要があるとし、難民資格を得た人たちが日本の大学に進学できるようUNHCRが推薦する制度を紹介した。しかし、この制度を受け容れてくれる日本の大学がごく限られている現状(2007年から受け入れている関西学院大学。2008年から受け入れをはじめた青山学院大学の二校。2011年度には明治大学が加わる)と大学へ進学しようという難民の数もきわめて少ないことが残念だとアルカルさんは言葉をつづけた。景気回復がままならない日本ではたとえ難民認定を受けても、厳しい生活を強いられるため、進学どころではないといった事情があるのだろう。しかし定住難民の受け入れもはじまった今、難民を含めて外国人の人たちが技術や学問を身につけることはどうしても必要である。
 アルカルさんの話を聴いていてカチン民族の女性ダバン・センヘイン(Dabang Seng Hein)さんのことが頭に浮かんだ。彼女は2009年7月に「人権論」の授業に来てくれた。カチン民族のこと、日本での生活のこと、難民認定申請がなかなか認められず入国管理局に収容された経験、それでも民主化、諸民族平等の社会をめざして活動をつづける熱いおもいを語ってくれた。そして冒頭のミン・ミョウチッさんと同じように学生たちに語りかけた。

……日本の学生のみなさんはたいへん恵まれています。みなさんはこんなに設備のととのった環境で、自分のしたい勉強ができます。私は反政府活動に参加したために学業半ばで国を離れなければなりませんでした。日本での生活はたいへんです。でも、なんとかチャンスを見つけて勉強したいと思っています……

 その後、ダバン・センヘインさんのおもいは叶った。アルカルさんが言及したUNHCRによる難民のための推薦進学制度のおかげで2010年4月から関西学院大学で学べるようになった。弁護士になりたいという彼女はむずかしい日本語に取り組みながら勉強にいそしんでいる。学業のかたわら彼女は大阪でテレビドラマに出演した。NHK総合テレビで11月6日(土)夜9時~10時13分放送予定のドラマスペシャル『大阪ラブ&ソウル この国で生きること』のなかで、主人公の在日コリアン三世の青年と愛し合うビルマ人難民の役を演じている。芝居にはまったくの素人、岸部一徳、三林京子といったベテラン俳優に囲まれてたいへんなおもいをしたに違いない。しかし役柄が本人そのまま、ビルマ人難民女性である。ダバン・センヘインさんは、ビルマ人難民のことを日本の人たちにもっと知ってほしいとの気持ちから出演の決意をしたと話している。素直で、やさしいダバン・センヘインさんはビルマ難民としてリアリティあふれる演技を披露してくれるに違いない。