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田辺寿夫(シュエバ)

雨季は明けたか?
2010年10月6日配信 

ダディンジュッ

 2010年9月26日、秋晴れの日曜日、日比谷公園にビルマの伝統音楽が響きわたり、ビルマ語が飛び交った。この日、国民民主連盟・解放地域(NLD.LA=National League for Democracy [Liberated Area])日本支部が主催するダディンジュッ(Thadingyut)祭りがにぎにぎしく開催された。日ごろからビルマの人たちに日本語を教えるなど親しいつきあいのある岩田国恵さんが一年も前から会場をおさえてくださり、日本では11回目となるダディンジュッ祭りの開催が実現した。ダディンジュッ祭りとはビルマ暦ダディンジュッ月の満月の日(今年は10月23日。会場の都合で約一ヶ月早まった)に行われる「灯祭り」あるいは「燈明祭り」とも呼ばれる上座部(テラワダ=Theravada)仏教の重要な伝統行事のひとつである。
 午前十一時、小音楽堂の舞台にNLD.LA日本支部の女性たちが登場した。開会セレモニーが始まる。最初にダディンジュッの由来と意義を女性のひとりが読み上げる。舞台へ呼ばれた私は、日本人の参加者もいるからといきなり通訳する羽目になった。短い内容だがやたら仏教用語がまじっていて難解きわまりない。なんとか日本語で説明できたのは、お釈迦さまが悟りを開かれてから七年たったとき、天上界へ上って神々に法を説かれた。そのあと再び地上へ戻って来られるのを迎える行事であるという程度である。

 これがビルマの人の常識なのかと、知らなかったこと、きちんと翻訳できなかたことが恥ずかしくなり、あとで調べてみた。生野善應『ビルマ佛教―その実態と修行―』(大蔵出版 1975)にはこうあった。

〔前略〕この日は、ターワディンタ天界(三十三天)より佛陀が下界に降りてこられる日との佛伝に基づく。すなわち、佛陀は正覚後二、三年してワゾー月満月に天に昇り、そこで安居を行なって阿毘達磨を作り終えた。そしてダディンジュ月の満月の日に地上に帰還されたという。
 この日、特製の油燈がパゴダや佛像の面前にてたかれ、パゴダは夜空に全形を示す豆電球が飾りつけられる。また家いえの佛壇にはローソクの火があかあかとともされる。
 安居の終わりの日は、燈明まつりとして華やかであるが、ちょうど十月中ごろには長い雨期が明けて乾期に入る時期にあたっており、人びとの雨期のうっとうしさを脱してほっとしたという気持を反映する季節の変わり目なのである。
 入安居のときと同じく、燈明まつりでは、ポンジーへの飲食供養がいたるところでなされ、僧はその出席の都合をつけるのに忙しいという。〔後略〕(P.268~269)

 私自身はこれまでダディンジュッについてこんな説明をしてきた。

……釈迦は弟子たちに「一所不住」を説かれた。出家者は一か所に安住するのではなく、信者の居るところへはどこへでも「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」歩きまわり、求めに応じて教えを説きなさいと命じられていた。ただし熱帯モンスーンの雨季は往来が難しい、この期間はじっと僧院に籠っていてよろしい、その分修行に励むようにと教えられた。これを仏教用語で雨安居(ウアンゴ)という。尊崇するご僧侶たちが227もの戒律を厳守して修行に励んでおられるとなると一般の人々(在家)も普段よりしっかりと戒律を守り、得度式(シンビュー)、結婚式のような華美な催しは避けようつとめる。ビルマの雨季はふつうワーゾウ、ワーガウン、トータリンの三か月(太陰暦のため四年に一度、ワーゾウ月が第一、第二と重なる。今年はそのうるう年にあたる)にわたる。この期間が終わると、パゴダを燈明で飾り、お参りをする。僧院へも僧衣や生活用品など捧げものを持って行く。そして「おかげさまで、雨安居の期間を無事過ごすことができました。仏様の教えに導かれ、しっかり修行をいたしました」と報告し、僧侶の説法に耳を傾ける。敬虔な仏教徒にとっては無二の幸せ(法悦)を感じる日となる。これがダディン(修行)ジュッ(解き放つ)であり、季節感からすると、雨季が終わり、からっとした爽やかな晴天がつづく乾季の到来を喜ぶ「雨季明け」の祭りともいえる。……

 私のしてきたダディンジュッについての解説は間違ってはいない。しかし、さまざまな理由から母国を遠く離れ、思いのほか長い年月を日本に過ごすことになったビルマの人たちは、普段故国の文化から遠ざかっているだけに、ダディンジュッ祭りの機会をとらえてこの時とばかりに、その発祥にまでさかのぼり、いささか恰好をつけて仏教徒らしい説明をしたかったのだろう。説明に聴き入っていたあるビルマ人男性はセレモニーの終わった後「ダディンジュッにそんな由来があったなんて知らなかったよ」と苦笑いしながら話していた。舞台での解説は次のような文章で終わっていた。

……外国に住む私たちビルマ仏教徒兄弟姉妹は両親や親しい人びとと遠く離れて暮らしておりますが、このよき伝統行事を絶やすことなく守って行こうとのおもいから本日ダディンジュッのお祭りを開催いたしました。……

世代交代

 小音楽堂舞台の裏側、広場との境目は段差になっている。そこにはアウンサンスーチーの大きな肖像写真を囲んで数十本の赤い旗が風に翻っていた。赤地、左上隅に黄色の星一つ、右下部には獲物に飛びかかろうと身構える孔雀(クッダウン=Fighting Peacock)の姿がやはり黄色に染め抜かれている。国民民主連盟(NLD)の旗である。政党としてのNLDはすでに存在しない。NLDは1990年5月に実施された総選挙では一院制の国民議会の定数485のうち392議席を獲得した。しかし軍事政権(ナワタ〔SLORC=State Law and Order Restoration Council〕のちにナアパ〔SPDC=State Peace and Development Council〕)(編注:両者の邦訳はそれぞれ「国家法秩序回復評議会」と「国家平和発展評議会」)は国会を招集せず、政権移譲も拒否した。民主化を望んでNLDに投票した国民の意思は無視された。それから20年、軍事政権は今年11月7日に選挙を実施しようとしている。2008年憲法にもとづく選挙である。その2008年憲法は、例えば国会(二院制)議員の25%は投票ではなく推薦で選ばれる軍人とする、国家が非常事態に直面したと大統領が判断したときには国軍最高司令官(参謀総長)に全権を委任するといった条項が含まれており、現在の軍の支配の永続化と合法化を図ろうとするものである。加えて今年3月に公布された政党登録法など選挙実施に関する法律は、服役者がいる党は政党登録が出来ないなど、不公平な規定が定められた。NLDは2008年憲法の非民主的な条項を改めることや政治犯の釈放、国民和解の実現のための対話開催を求めたが軍事政権はまったく応じなかった。NLDの内部には国民の期待に応えるために選挙に参加すべきであるとの意見もあった。しかし、軍事政権下、非民主的な憲法にもとづく選挙は真の民主化にはつながらないとして、選挙不参加を決定、選挙のために必要とされるあらためての政党登録を行わなかった。そのため今年5月に政党としての資格を失った。
 こうしてビルマのNLDは政党ではなく「社会活動団体」になってしまったが、その海外版とでも言うべきNLD.LAは健在である。会場で日本支部の議長タンズィンウー(Thant Zin Oo)と出会った。彼の父ティンウー(Tin Oo)はNLD副議長であり、アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)同様自宅軟禁を科されていたが最近になってシンガポールへの出国を許されたというニュースが流れた。

「おやじさん、眼の手術を受けるためにシンガポールへ行くんだって? 体の具合はどうなの?」
「うん、28日にシンガポールへ着く。体は悪くないけどなんせもうトシだからね」

 30年ほど前、ヤンゴンでティンウーさんと会ったことがある。「イラッシャイ」、ちょっと変なアクセントの日本語で迎えてくれた。日本占領期に日本軍の協力でつくられた士官養成機関に学んだ生粋の軍人である。ビルマ国軍では少将にまで昇進し、国防大臣もつとめたが、その人気の故に独裁者ネウィンに嫌われ更迭された。アウンサンスーチーからは「アンケー(Uncle.おじさん)と呼ばれ、良き補佐役として活躍した。僧籍にあったこともあり敬虔な仏教徒として知られる。

 ビルマで僧侶として修行したこともあるアメリカ人ジャーナリスト、アラン・クレメンツ(Alan Clements)とアウンサンスーチーとの対話をまとめた『希望の声』(大石幹夫訳。岩波書店 2000。増補版は2008)にはティンウーとの対談も収録してある。対談に先立ってアラン・クレメンツはティンウーをこう紹介している。

〔前略〕ウー・ティンウーは1943年、16歳でビルマ独立義勇軍に参加した。独立達成ののち、再編成されたビルマ陸軍の将校任命辞令を受け、中国国民党(中華人民共和国成立後、解放軍に追われビルマに逃げ込んだ中国国民党・蒋介石軍=KMT。引用者注)に対する軍事行動における勇敢な行為のため、二度にわたり勲章を授けられた。軍内部で非常な速さで昇進し、74年には国軍参謀総長および国防大臣に任命された。74年と76年に起こった軍政に反対する大衆デモの期間、民衆の擁護者として称えられた。しかし、このことは76年、本人の軍からの追放につながった。その同じ年、7年の刑を言い渡されたが、81年、恩赦によって釈放されると、寺院に入り、二年間僧侶としての生活を送った。俗人としての生活に戻ると、ラングーン大学で法律を学び、法学士の学位を得た。88年、指導者の一人として民主化運動に身を投じ、その年の9月、国民民主連盟(NLD)副議長となった。89年7月、逮捕されたのち、軍事裁判で裁かれ、三年の刑を受けた。刑期のほとんどすべてが満了したところで、今度は七年の刑を言い渡された。95年に釈放され、以前のNLD副議長の職務に復帰した。ウー・ティンウーは、軍人、仏教学者、法律家そして政治家のそれぞれ最上の特質を一つに兼ね備えたまれにみる人物であると、多くの人からみなされている。〔後略〕(増補版P.284)

 ティンウーは今も多くの国民から慕われ、信頼されている。しかしすでに83歳、アウンサンスーチーにしても65歳と決して若くはない。ティンウー同様元軍人のアウンシュエ(Aung Shwe)NLD議長にいたっては90歳を越えている。NLD幹部の一人、19年間獄中で過ごしたウィンティン(Win Tin)は2008年に解放されたあと、2008年憲法、2010年総選挙の不当性を国際社会へ訴えつづけている。今年3月、DVB(Democratic Voice of Burma.「ビルマ民主の声」放送局。在ノルウェー)から出版された獄中生活を綴った彼の著書『人間地獄、それがなんだ!』には「80歳の誕生日を迎えて」とサブタイトルがついている。指導者層の老齢化は否めない。厳しい弾圧のなか、次の世代の指導者は頭をもたげることもできない。8888より後に生まれた20歳前後の若者となると、政治活動の経験など無いに等しい。民主化実現までまだまだ時間はかかるだろう、なんとかしなければなどと考えているとタンズィンウーが背の高い、ビルマ人としては色白の青年を呼び寄せて「今度やって来た息子だよ」と紹介してくれた。にこやかに挨拶する青年と握手をしながら、やはり組織や指導者の世代交代は急務だと思った。

選挙に参加すべきか、ボイコットすべきか

 小音楽堂の裏手、噴水との間にある広場の両側にはテント張りの店が並んでいた。主催団体のNLD.LA日本支部をはじめ、ビルマ民主化同盟(LDB=League for Democracy of Burma)、ビルマ民主化行動グループ(BDA=Burma Democratic Action Group)、ビルマ女性連盟(Burma Women’s Union)などの民主化組織、シャン、カレンなどの少数民族組織のほか在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA=Burma’s Refugees Serving Association. Japan)やHRDP=Human Resource Development Project (日本で難民資格を得たビルマ人男性がタイ国メソートでビルマ人子弟を対象行なっている教育事業)を支援しているグループなどが店を出し、それぞれが揚げ物や麺類などの料理を作って売っている。「いらっしゃいませ!」、「おひとついかがですか?」、日本語の売り声がサマになっている。飲食店で働いていて身につけたのだろう。
 都心の公園、しかも好天に恵まれた日曜日とあって、ぶらりと立ち寄った日本人がビルマ料理を珍しげに味わっている姿もあった。お年寄りのカップルもいれば、手をつないで歩く若者たちもいる。日本人もビルマ人も売店で食べ物や飲み物を買い、音楽堂の客席に戻って、飲みかつ喰らいつつ舞台で演じられる伝統舞踊や在日ビルマ人とその日本人仲間によるロック演奏などを楽しんでいた。いい雰囲気だった。
 シャンの店の前でサイ・ニュンマウン(Sai Nyunt Maung)に声をかけられた。薄緑色のゆったりした幅広ズボンの民族衣装は祭りにふさわしいものだったが口調は厳しかった。彼は在日のシャン民族組織SSND=Shan State Nationalities for Democracy (Japan) のリーダーであり、高田馬場にあるシャン料理店・マイソンカー(Mai Soong Kha。シャン語で「こんにちは」)のマスターでもある。

「ウー・シュエバ、ハンヤンフエは日本の国会議員になにをしゃべったんだ?」

 1948年生まれのハン・ヤンフエ(Harn Yawnghwe)はヨーロッパ、カナダを中心にビルマの民主化、諸民族平等の連邦国家の建設をめざして活躍している著名なシャン民族の活動家である。1990年代から何度も日本を訪れている。私も顔なじみである。ごく最近来日した彼は9月1日、在日の少数民族の人たちと」つきあいがありビルマ問題について理解のある中川正春民主党衆議院議員(当時文部科学省副大臣)と文科省で会見した。在日ビルマ少数民族協議会(AUN=Association of United Nationalities. Japan)に頼まれて私が通訳にあたった。その日、顔を会わせるまで、誰の通訳をするのか知らされていなかった。やはりカナダから来たチン民族のリーダー、ビクター・ビィアックリアン(Pu Victor Biak Lian)とAUNの幹部たちが同席した。席上ハンヤンフエはSWAN(Shan Women Action Network)などシャン民族の団体がまとめたレポート『License to Rape』を引き合いに出し、少数民族が人権を奪われている状況を訴えたあと、中川副大臣に向かってこう話した。

……まもなく選挙がある。20年ぶりの選挙である。国民にとっては、民主主義の基本である選挙を実際に体験できるいい機会である。少数民族組織のなかにも民族の利益を代表できるように政党を作って選挙に参加しようとしている人たちもいる。選挙は民主化に向かう一つのステップであると私は考えている。……

 通訳していて少し違和感を持った。中川議員が知っていたかどうかはともかく、在外のビルマ民主化勢力、少数民族勢力のほとんどは総選挙は軍事政権がその支配を正当化し、永続化を図る「儀式」に過ぎないとしてボイコットを呼びかけている。ハン・ヤンフエの主張はそんな民主化勢力、少数民族組織の共通の認識とは異なっていた。この日、ビルマの人たちと別れたあと、同席していたAUN幹部の一人から電話がかかってきた。

「ウー・シュエバ、あのハンヤンフエの発言は俺たちの共通見解ではないからね」

 ハン・ヤンフエの発言は在日のビルマ人民主化組織や少数民族団体の間に波紋を呼んだ。「なぜ、そんな人物を呼んで議員に会わせたんだ、けしからん」といった非難の声がAUNの幹部に浴びせられた。サイ・ニュンマウンが私を呼び止めたのはその「事件」にかかわっていた。私はハンヤンフエの発言をかいつまんで話した。サイ・ニュンマウンいわく。

「俺たち、ハンヤンフエを尊敬していたんだ。そんなことを言うなんて。残念だよ」
「人にそれぞれ意見があるのは当然だよ。君らは君らの意見をもっと強く主張して行けばいいじゃないか」

 ハンヤンフエはシャン州のソーブワ(藩王。大名)の家柄に生まれ、父サオ・シュエタイ(Sao Shwe Thaik)はビルマ連邦の初代大統領をつとめた。名門の息子はシャン民族の人々から尊敬され、それなりの影響力もある。民主化、諸民族平等の連邦国家建設をめざしてたたかっているシャンの人びとにとって、海外で活躍するハン・ヤンフエは誇らしい存在でもあった。肩を落とすサイニュンマウンを見て私は父からきいた話を思い出していた。
 わが田辺家はその昔徳川時代には京都・淀の小大名稲葉家の家来であったそうな。田辺権太夫信古とかいう城代家老をつとめた人物もいたという。明治44(1911)年生まれの父は茶園を持ち、製茶・販売する茶舗の三男であった。立命館大学専門部(夜間)を卒業し、大蔵省に採用されて東京へ出てきた。昭和十年代半ば頃(1935~40)のことだろう。父は上京後なにはさておき淀の殿様の末裔である稲葉男爵家にご挨拶に参上したとのこと。こんな問答があったのだろうか。

「淀の田辺家につながる者でございます。このたび上京してまいりました。どうそよろしくお願い致します」
「おお、そうか。しっかりやりたまえ」
 
 今から思うと信じられないような話である。その後、敗戦をはさんで日本の社会は急速に変わり、日本人のものの考え方も変わった。シャンの人びとの考え方や行動様式もいずれは変わってゆくだろう。いい方向に変わって行ってほしい。そんなおもいからサイ・ニュンマウンにこう声をかけた。

「時代は動いている。リーダーにも世代交代が必要だ。君たちは活動を展開しながら、そのなかから若く、有能な、信頼できる指導者を育ててくれ。期待している。がんばれよ」

 やがてサイ・ニュンマウンは肩から吊るす長大な大太鼓(オーズィー)を踊りながら敲きはじめた。それをとりかこんで数人の若者たちが踊り出す。太鼓の音は軽快に響く。誘われて集まってくる人たちがシャンの一団を取り囲む。サイ・ニュンマウンの額から汗がしたたる。若者のひとりがサイ・ニュンマウの肩からヒョイと大太鼓を外し、自分の肩にかけて元気よく鳴らしはじめた。太鼓の重荷から解放されたサイ・ニュンマウンは空手の型を思わせるシャンの踊りをひときわ気合をこめて踊った。時々歌舞伎の見得のような所作も加わる。まわりから拍手がおこった。