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田辺寿夫(シュエバ)

アンケー・シュエバ、元気かい?
2001年5月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第25回(『恋するアジア』第32号)

またも負けたか安部隊

京都は別名平安の都と呼ばれる。このゆかしい平安の名前にちなんで「安(やす)」を通称名とした師団が日本陸軍にかつてあった。京都の人々を中心に編成された第五三師団である。太平洋戦争末期第五三師団は苦戦のつづくビルマ戦線に投入された。

一九四四年三月、ビルマ方面軍は連合軍の攻勢を食い止め、態勢挽回をはかろうと、インパール作戦を発動する。数師団をこの作戦のためにインド方面へ発進させたあと、手薄になったビルマ北部に投入された安部隊は、中国・雲南省方面から反攻をめざす中国(国民党)軍を迎え撃つことになるが、押されっぱなしで徐々に南へと下がらざるを得なかった。やがてインパール作戦も失敗、インド方面からも英印軍が大挙してビルマ平原をめざして攻めこんできた。安部隊は衆寡敵せず、敗北を重ねてビルマ平原を南下しつづけた。

こうして安部隊は、菊、龍、弓、勇(いさむ)、壮(つはもの)といった名前からして強そうな部隊が多かったビルマ戦線では「またも負けたか安部隊」と揶揄される存在になってしまった。その第五三師団野砲第百五十三聯隊の一上等兵がシュエバの父である。

父上等兵は弱い部隊のなかでも極め付きの弱兵であったらしい。当たり前である。三二歳の鋳物工場の事務員が二度目の応召で激戦地ビルマへ放り込まれたのだから。敵部隊のみならず熱帯の炎熱に痛めつけられたらしい。「鉄砲はろくに撃たなかった。次から次へと野戦病院に入っていたなあ」、これが父上等兵のビルマ戦線回顧であった。

ビルマ語科があるやんか

父上等兵のビルマとのかかわりは、はからずも息子の大学入試にあたって生かされることとなった。息子は日本史が勉強したくて京都大学を受験した。不合格。一年浪人。二年目不合格。もうどこでもいいや、息子はやけっぱちである。父曰く「私大は金がかかる。家から通える国立大学へ行け」。となると当時でいう国立二期校である教育大か外語大である。まだしも外語大の方が面白そうだ。さて何語を選択しようか。父曰く「ビルマ語科ちゅうのんがあるやんけ」。そうか、それにするか。

この年度まで大阪外国語大学ビルマ語学科は隔年募集で定員は十五名だった。受験者は百人以上いた。これは無理だと思った息子は合格発表の日も気にしていなかった。母親がはるばる学校まで発表を見に行き、息子合格の吉報は本人よりも先に父親に伝えられた。

父元上等兵は「京砲会」なる野砲聯隊の戦友会仲間たちに息子の「快挙」をほえまくった。

「今度なあ、ウチの息子が外語へ入ってなあ、ビルマ語やりよるんや」

大阪外国語大学ビルマ語学科に集まる面々は、当時の表現で言えば「落武者集団」であった。第一志望の大学は別にあったのだが、試験に落ち、止むを得ず滑り止めであったはずのビルマ語学科へやって来た若者たちである。当然、勉強に熱が入らない。おまけに、四年間ビルマ語を勉強したところで、それで良い就職口が見つかるわけでもない。授業が始まってすぐ、あのまん丸いビルマ文字を目の当たりにしたときからすでに教室には沈滞ムードが漂った。

ところがシュエバの父はなんと言ってもビルマ経験者である。戦争は嫌いだがビルマは好きだ。

息子がビルマ語を学ぶようになると、これまでめったに口にしなかったビルマ戦線の思い出話をポツリポツリ話すようになった。

「アマラプーラいう所の野戦病院に可愛らしいメンマ(女性。メインマの日本兵訛り)がいてなあ。えらい世話になったわ……」

アマラプーラは古都マンダレーのすぐ南に位置し、僧院がたくさんあるので有名な町である、とは後で知ったことで、このインド風の地名をシュエバに最初に印象づけたのは元上等兵の父であった。のちに息子は初めてビルマへ行った折り、アマラプーラまで足を伸ばし、その時にはもう亡くなっていた父の写真を取り出して語りかけた。

「お父ちゃん。アマラプーラまできたでえ。ええとこやなあ」

シュエバはこうして父からきく話と学校で学ぶことが少しはつながりがあるという稀有な環境に恵まれ、四年間ビルマ語を学びつづけた。卒業にあたっては運良く放送局に就職し、ビルマ語のラジオ番組を制作することになった。またしても父・元上等兵は大喜びし、ビルマにかかわる仕事をする息子を戦友仲間に自慢しまくったのは言うまでもない。

シュエバ、産声をあげる

放送局では毎日二十分(のちに三十分)のビルマ語番組を作ることになった。翻訳やアナウンスをビルマ人たちである。彼らは、水曜日生まれであること(ビルマでは生まれた曜日によって命名に使う子音が決まっている)、当時の駐日大使の名前がバシュエさんだったので、それを冗談でひっくり返してシュエバというビルマ名をつけてくれた、とシュエバは軽く考えていた。それがとんでもない「ビッグネーム」であると知るのはのちのことである。

放送局で働くようになって四、五年目に半年間語学研修のためにヤンゴン文理科大学(現在のヤンゴン大学)に学ぶ機会があった。ビルマ文学科に届けを出しに行った時に、高名な文学者であるM教授はこの日本人留学生のビルマ名をきいて励ましてくれた。

「シュエは黄金。バは父だ。君の名前はゴールデン・ファーザーだ。いい名前だぞ」

なるほどそういう意味にとれるんだと、不勉強なシュエバはそのときに気づいた。名前のすごさはそれだけではない。

ビルマ文学科の二年生のクラスに出席することになった。最初の日の休み時間にいきなり校庭でのゲームに誘われた。二人が地上から一メートルぐらいの高さに置かれた丸太にまたがって向かい合い、手には砂の入った袋を持って相手を叩き落とす。むろんシュエバはあっという間に転がり落ちて爆笑をさそった。名前のわりに弱い奴といわれたが、同時にクラスのみんなに知られることになった。名前のおかげである。

シュエバは強い男の代名詞だった。格闘映画の主演を張りつづけた俳優である。どんなストリーであっても、基本的には強きをくじき、弱きを助ける役どころを演じた。日本からシュエバがやってきた当時は、もう本物のシュエバは引退していた。ただし、全盛期の人気は人びとの記憶に鮮やかに残っていた。現在でも、映画はビルマの人びとにとって最大の娯楽であることに変わりはないが、一九七〇年前後のビルマでは、今以上の影響力を持っていた。それもあって俳優シュエバは、日本でいうなら国民栄誉賞ものの英雄だったといえる。どうする? 日本からきたシュエバよ。

シュエバ目覚める

「名は体をあらわす」のかどうか、シュエバはビルマ人たちからからかわれ、面白がられ、愛されながらビルマの人たちとつき合いつづけた。ヤンゴン大学の先生からはマウン(目下・年下の男性を呼ぶときに名前の前につける。本来は弟の意味)・シュエバ、職場や身のまわりのビルマ人たちからはコウ(ほぼ同格・仲間内の男性を呼ぶときにつける。兄さんの意味)・シュエバと呼ばれていたのに、いつのまにかウー(目上の男性を呼ぶとき。おじさんの意味)・シュエバと呼ばれるようになっていた。アンケー(アンクル。おじさん)とかサヤー(先生)と声をかけられるのもしょっちゅうである。えらくなったのではなく歳をとったせいだとシュエバは感じていた。

「ウー(おじさん)。ビルマ語うまいよね。もう何年やってるの?」

「ネウィンがクーデターで政権をとった一九六二年からだよ」

「えーっ。ぼく、まだ生まれてないよ」

こうした会話は一九八八年の民主化闘争の後、一九九〇年頃から多くの若者たちがビルマからやって来るようになってからのこと。彼らからシュエバは多くのことを学んだ。政治活動をするために日本へ来た人たちもいれば、金を稼ぎにやって来た人たちもいた。しかし、彼ら、彼女らの多くは、国を愛し、民族を愛し、家族を愛する気持ちを多かれ、少なかれ持っていた。シュエバにはそれがとても新鮮なものに思えた。

同時に、身のまわりに増えてきたビルマ人たちが日本の社会のなかで出くわす問題の多くが、日本人であるシュエバと無関係ではないことも見えてきた。たとえば本国へ帰れば、軍事政権によって逮捕・投獄されることが明らかな活動家には、日本政府は難民条約の定めの通りに難民(政治亡命者)として認定し、保護すべきだとシュエバは思う。しかし、日本の難民認定制度は時間がかかるし、「迫害を受ける恐れ」が充分にあるかどうかを、申請者本人に説明させるといったおかしな点が多い。一般の労働者の場合でも、その多くが滞留期限超過者であり、資格をもたない就業者ではあるにせよ、基本的な人権は保障されるべきであろう。病気になった時、職場のなかで給料未払いとか事前通告なしに解雇された時、不利をこうむったり、泣き寝入りなどしないようにすべきであろう。これらはみんな日本人、日本政府、日本社会にかかわっている。シュエバが働く場所はたくさんある。

十回目の水祭り

四月十五日、例年のように在日ビルマ人による水祭りが開催された。すでに十回目だという。場所はここ数年すっかりおなじみになった中野サンプラザ前の公園である。主催は、かつてはビルマ青年ボランティア協会だったのが、昨年ビルマ人たちのいくつか組織が大同団結して結成されたビルマ民主化同盟(LDB)に変わった。といってもお祭りである。さしたる政治色はない。ステージにアウンサンスーチーの肖像が飾られているのと、軍事政権高官たちの写真をめがけてダーツを投げて的中させれば賞品が出るという射的屋もどきが出店している程度である。政治色はともかく、かつては日本生活のストレス解消とばかりに飲みすぎて荒れまくるビルマ人が結構いたのだが、いまやすっかり落ち着いた風情である。

酔っ払ってしまったのはシュエバの方である。シュエバはルエエイ(肩掛けかばん)を肩に十一時頃会場に着いた。「ウー・シュエバ。アーペーバー(本来は励ましてくれ。ここで「買ってよ」になる)」と一番先に声をかけてくれた店で五百円の缶ビールを買う。ルエエイを肩に、手には缶ビール、ビルマ人には見慣れたシュエバの形がととのってきた。今年はおまけにヤンゴン大学のTシャツを売っている若者たちに「ウー・シュエバも昔ここへ留学したんだろう?」と言われて、千五百円也で購入、いきなり着替えてしまった。タイで作ったのだろう、背中には英語で「夜の闇が深まれば深まるほど、夜明けは近くなる」とある。さらにバダウ(ビルマの国花。水祭りの時期に咲き、桜同様あっという間に散る黄色い花)の造花を飾ってもらいシュエバのスタイルは完璧になった。

堅い話をしてくる友人たちともシュエバはちゃんと話をした。国民民主連盟・解放地域日本支部のイエトゥッ議長からは彼の書いた「デモクラシー」というビルマ語の本をもらった。長い間ビルマ青年ボランティア協会委員長をつとめたキンマウンゾーは、一昨年十二月に亡くなった著名な民主化活動家ウー・ティンマウンウィンの回想録を手渡してくれた。この活動家に頼まれてまさにこの回想録の原稿を日本語に翻訳する仕事に手をつけていたから感慨ひとしおだった。

シュエバはみんなに声をかけ、声をかけられ、その間も休みなく缶ビールは次から次へと飲み干していた。相当に酔いがまわってきたが、お祭りにはむしろふさわしい。それでもステージに上がって協力者の日本人の挨拶やLDBのミンニョウ委員長の演説を通訳してシュエバは役目をはたした。

帰りの電車のなかでシュエバはその日会った人たち、挨拶を交わした人たちの名前を手帳につけはじめた。これはシュエバのボケ予防策でもある。ビルマ人六十人、日本人二十人ぐらいは簡単に思い出せた。そこから先はなかなか出てこない。笑った顔や、缶ビールを差し出してくれる顔は浮かぶ。なかには今日会ったそのビルマ人が、どこに住んでいて、どこの居酒屋で働いているというところまで思い出せるのに名前だけが出てこない人もいる。なんとか思い出そうとするがせいぜい十人ぐらいのビルマ人の名前を付け足せた程度だ。

ま、いいか。顔を覚えている。なによりも向こうはシュエバをよく知ってくれているのだ。頼りないけど、話やすいシュエバを。今度会った時には声をかけてくれるはずだ。

「アンケー・シュエバ、元気ですか?」