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田辺寿夫(シュエバ)

ウー・ウン先生ありがとう!~ミントゥウン生誕100年の集いから~
2009年3月1日配信 

ことばをつむぐ人

2009年3月1日、ミントゥウン(Min Thu Wun)の生誕100年を記念する集いが豊島区民センター6階ホールで開かれた。ふだんの民主化運動の集会とは少し顔ぶれの違うビルマ人男女が大勢集まった。ビルマの人たちは幼い頃から詩に親しむ。ミントゥウンはビルマ人なら誰でも知っているアミョウダー・サーソウ(民族詩人あるいは国民詩人)である。本名はウー・ウン(U Wun)、国語(ビルマ語)学者、辞書編纂者としての業績も大きい。

ウー・ウンは1909年イラワジ・デルタのクンジャンゴウンに生まれた。イギリス統治の下、民族主義運動が広がり、反英独立闘争へと発展してゆく熱気にあふれた時代に成長した。政治運動には直接加わらなかったものの時代の子であり愛国青年であった。イギリスに留学し、国語学者として名をなす一方でミントゥウンの筆名で詩を書くようになった。ビルマ語の研究はすなわち民族のアイデンティティをたしかめ、確立する過程であったろう。詩もまたビルマの古典的な韻文形式を踏まえながら、言葉を慈しみ、家族への愛、郷土へのおもい、国の平和と発展を願う気持ちの発露であった。

ビルマ独立後、ウー・ウンは国語学者として、日本でいえば国語審議会のような組織の重鎮として活躍し、国語学習カリキュラムの作成や辞書の編纂などでも指導的な役割をになった。またミントゥウンの名で発表する詩は人びとに愛唱され、国民的詩人として尊敬される存在となった。

ウー・ウンは1975年から4年間大阪外国語大学ビルマ語学科で客員教授をつとめた。ビルマ語学科がはじめて迎えた客員教授である。当時、東京外国語大学にはまだビルマ語学科は置かれていなかった。その時期、私はすでに大阪外国語大学を卒業し、NHK国際局でビルマ語番組を制作する仕事をしていたから、残念ながら教室でウー・ウン先生の謦咳に接することはできなかった。ただ、先生が任期を終えて帰国される直前、「ウー・ウン先生、さようなら」と題するビルマ語番組を制作するためお会いしてインタビューする機会があった。教室の様子も取材させてもらった。

大柄で温厚な紳士だった。声に深みがあり、一語一語ゆっくり噛みしめるように話してくださった。授業でもそうだった。ちょうどビルマの詩を解説しておられた。題材はご自分の詩だったかも知れない。やさしく、丁寧に、時に英語をまじえ、黒板に絵まで描きながら、孫のような年齢の日本の学生たちに説き聞かせておられた。ひとつひとつの単語をいとおしむように大事にあつかっている、そんな印象を受けた。先生のまわりでは時間がゆっくり流れていた。

先生はビルマへ帰国されたあと、日本で興味を持った俳句を研究し、俳句を紹介する本を書かれたときいた。言葉の深み、単語のうしろにあるものを探ろうとするウー・ウンあるいはミントゥウンらしい仕事である。そういえば、ウー・ウンの息子さん(たしか獣医だった)が日本へ研修にこられた時、英語で書かれた俳句の本を託した記憶がある。1984年にはシェイクスピアの戯曲「リア王」を翻訳し、国民文学賞を受賞したと報じられた。

ウー・ウン先生は公職を退き、学究として、詩人ミントゥウンとして仕事を楽しみながら悠々たる生活を送っておられると思っていた。思いがけないニュースに接したのは1990年のこと。ビルマではこの年5月27日、1988年民主化闘争をうけて30年ぶりに複数政党制による総選挙が行われた。ヤンゴン市カマユ選挙区から立候補したウー・ウンは見事に当選した。所属政党はアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)である。先生を知る日本人たちは驚き、また期待をこめて語り合った。

「ウー・ウンが大統領、アウンサンスーチーが首相になったらすばらしいよなあ」

期待ははかなく消えた。NLDは議会全議席485のうち392を獲得し、政権をになうはずだった。しかし国会は一度も招集されず、政権の委譲もなかった。アウンサンスーチーには自宅軟禁が科された。NLDは軍事政権によって活動の自由を奪われた。ウー・ウン自身1992年には軍事政権の圧力によって(と当日配られた年譜に記載してあった。なお国内で公表が許されている年譜には1988年以降の記載はないとのこと)NLDを脱退した。

2004年8月15日、ウー・ウンはヤンゴンの自宅で静かに95年の生涯を閉じた。

在日ビルマ人の心意気

ミントゥウン100年祭企画実行委員会が3月1日、東京での集まりを主催した。中心になったのは「アハーラ」、「ティッサー」、「アリンエイン」などの文芸・評論雑誌を日本で編集発行しているビルマ人たちである。ビルマ民主化行動グループ(BDA)、ビルマ民主化同盟(LDB)といった民主化組織も協力した。実行委員会の努力たるやたいへんなものである。集会を企画し、会場を押さえ、在外の著名文化人を招請した。さらに在日ビルマ人コミュニティに周知・宣伝し、経歴や代表的な詩などを掲載した60ページを越える資料まで作成、配布した。

ちなみにその資料のなかにミントゥウン生誕100年の集いと3月8日に行なわれるウー・タン(U Thant。第三代国連事務総長。日本ではウタントと呼ばれた)のやはり生誕100年の集い開催のためのカンパに応じた団体・個人のリストが載っている。額は10万円から500円まで、あわせて76の団体・個人名があがっていた。職をも失いかねない不況のなかでもこうした催しに賛同し、協力を惜しまないビルマ人は少なくないことがわかる。

日本では今年太宰治の生誕100年にあたるという。桜桃忌には例年より多くのファンが集まるだろうし、雑誌や新聞には特集記事が掲載されるだろう。しかし、外国に住む日本人たちが太宰治生誕100年記念の集いを開くだろうか。まず考えられない。だからどうだといいたいわけではない。日本とビルマとでは国情も歴史も違う。民族詩人、国民的文学者といった表現は日本ではなじまない。国民大衆が一致協力した独立闘争など日本にはなかった。愛国心、愛国者といった表現は今の日本ではマイナス・イメージを付して語られることが多いが、ビルマでは尊敬と賞賛の気持ちを込めてごくふつうに使われる。国と民族のために功績のあった人を顕彰するのはあたりまえである。それにミントゥウンやウー・タンの生誕100年記念式典を軍事政権がやるはずはない、自分たちの力でやろうぜとの意気込みを感じる。

在日ビルマ人にとってなによりの関心事は母国の状況である。軍事政権の支配は長引いているばかりか軍の優位を定めた憲法を制定し、恒久的な支配をもくろんでいる。国民の多くが望む平和で民主的な国の実現にいたる展望は厳しい。2008年5月にはサイクロン・ナルギスが襲来、14万人の犠牲者が出た。家族は、友人たちは無事だろうか。故郷の村はどうなっているのか。気が気ではない。

彼ら、彼女らはミントゥウンにせよ、ウー・タンにせよ、その生誕100年にあたって集まりを持ち、尊敬する先人の人柄と業績をしのび、そこから今の難局に立ち向かう勇気を奮い起こそうとしている。会場にはミントゥウンの詩の朗読に耳を傾け、うっとりと聞きほれているビルマの人たちの姿があった。

子どもに愛された詩人

ステージの上ではミントゥウンの詩がつぎつぎと読み上げられた。自作の詩を朗読するミントゥウンの生前の声も流れた。ビルマのジャーナリストや作家がミントゥウンについて語るテープも披露された。世界でもっとも長く拘束された政治犯として知られるジャーナリスト、ウー・ウィンティン(NLD。1989~2008拘束)も登場した。彼は1977年に訪日し、大阪でウー・ウンと会ったときの会話を紹介した。

「先生、国がひどいことになっています。先生も帰ってきてください」

「ウー・ウィンティン、私もそのうちに帰るよ」

ウー・ウィンティンはそれで二人の心を通じ合ったという。そのとおり、ビルマに帰ったウー・ウンは1988年民主化闘争にあたっては、文学者、芸術家たちの先頭に立ってたたかったウィンティンを応援してくれたという。

舞台に4,5歳から12,13歳ぐらいに見える少年少女5人が登場した。ミントゥウンの詩の朗詠にのって子どもたちが踊る。愛らしい仕草に満場が沸いた。

ミントゥウンは「ビルマ児童詩の父」、そんな表現が会場で読み上げられたマウン・スアンイー(Maung Swan Yi)のペーパー(論文)のなかにあった。著名な文学者マウン・スアンイーはアメリカに住んでいる。これまで何回も日本を訪れており、在日ビルマ人のあいだでもよく知られている。今回のミントゥウン生誕100年の集いにも招待されたが都合で来日できなかった。代わりにと寄せた論文はこんな内容だった。

詩人ミントゥウンは子どものために質の高い詩をたくさん書いた。一方、国語学者としてのウー・ウンは未来をになう子どもたちにビルマ語をわかりやすく教えることに意を用いた。例えばと、マウン・スアンイーはミントゥウンがビルマ語のアルファベットを覚えるように書いた詩を紹介した。

カ(Ka) ガズンビン イエフマーシュイン 空心菜は 水で育つ

カ(Hka) カヤンディー ダーネフリー なすは 包丁で刻む

ガ(Ga) ガナンカウン レッマタウン 蟹が 親指を立てる

ガ(Nga) ガポウンナー ヒンチェッサー ガポウンナー(魚の名)を 料理する

「ドはドーナツのド」のようなものである。日本語に翻訳したところでおもしろくもおかしくもない。辛うじてビルマの詩の特徴である脚韻(下線部)がわかってもらえるだろうか。ビルマの子どもたちにとってはどうだろう? リズム感があり、身近な動植物を詠みこんでいるから子どもたちはたちまち暗唱して、忘れない。しかもビルマの古典形式をふまえたきちんとした詩になっている。子どもたちは唱えているうちにビルマ語のアルファベットを覚えつつごく自然に詩作の基礎を身につける。

会場のビルマ人たちはおそらくこのミントゥウンの詩を小学校で習ったのだろう。なつかしそうに耳を傾けていた。この詩はみんなに好かれているに違いない。そうか、だからミントゥウンはビルマの人たちに尊敬され、敬愛されているんだとマウンスアンイーの寄せたペーパーが読み上げられるのを聴いていて感じた。そして大阪外国語大学の教室風景があらためてよみがえった。大学者である先生なのに、はじめてビルマ語を学ぶ日本人の学生にもやさしく接しておられた。先生は学生たちがかわいくてたまらなかったのではないだろうか。

実は当時大阪外国語大学の先生方は大学者のいきなりの来日にとまどった経緯がある。客員教授を招請したのは正確なビルマ語の発音とともにビルマ語の基礎や会話を教えてもらおうという狙いだった。ところがビルマ政府が派遣してきたのは最も著名な国語学者であり、国民詩人であるウー・ウン先生である。はじめてビルマ語を学ぶ学生たちにアルファベットを教えるようなことまで大先生にやってもらうのは失礼だし、申し訳ないと日本人の先生方は感じていた。

けれどウー・ウン先生はいやがりもせず、たんたんと、ひょうひょうと学生たちにビルマ語の基礎を教えた。得がたい機会を得たはずの日本人の学生たちだったが、ウー・ウン先生がそんなにえらい大先生だったとは知らなかった。大学でウー・ウンに学び、のちにビルマ留学の機会を得た日本人学生はこんな経験をした。

「日本の大学で習った程度のビルマ語では、ビルマの人たちに、なんだそんなもんかといわれるんですよね。でも、ぼくらはウー・ウン先生に教わったと話すと、いっぺんにあつかいが変わるんです。おお、そうか君はミントゥウンの弟子なのか、たいしたもんだ、とね。いやあ、ウー・ウン先生がどんなにすごい人かというのはビルマへ行ってはじめて知りました」

ウー・ウンの蒔いた種

せっかく日本で開催する集いである。誰か日本人のスピーカーがほしい、実行委員たちはそう考えた。頼まれて、ウー・ウン在籍当時の大学の先生方と連絡をとったが、どなたも都合がつかず出席できないとのこと。それを報告すると実行委員いわく「ウー・シュエバがしゃべればいいじゃないか」。結局自分で話すことになってしまった。敷居が高い。ウー・ウンの著書を読んだこともなければ、ミントゥウンの詩について話すほどの知識もない。

マイクの前に立ってまず持参した本をみんなに示した。原田正春・大野徹著『ビルマ語辞典』である。1979年に日本ビルマ文化協会(現在の日本ミャンマー友好協会)から日本でははじめての本格的なビルマ語辞書として出版された。それまでビルマ語学科の学生は適当な辞書がなくたいへん困った。学生時代に頼りにしたのはジャドソン(A. Judson。バプティスト派宣教師。ビルマ語読みはユダタン)の緬英(Burmese-English)辞典だった。丸善を通して取り寄せるのに1年近くかかった。初版は1853年、それから100年たった1953年改訂版(Centenary Edition)である。一世紀を越えて使われている最高の辞書だったが、古色蒼然とした英語で書かれており、初学者が使いこなすのは難しかった。

次に使ったのは緬華(ビルマ語=中国語)辞典。陳孺性(チェン・イーセイン。ヤンゴン在住の中国人)編著『模範緬華大辞典』(1962 仰光=ヤンゴン)を財団法人東洋文庫が1970年に日本で復刻出版した。中国語はわからないが漢字だから見当はつく。けっこう重宝した。語学の勉強にとって辞書はなくてはならないが、ビルマ語の辞書を引くのに英和なり中日なりの辞書まで用意しなければならないのは実にわずらわしいし、時間がかかる。「いい辞書がなくてね」、ビルマ語がいっこうに上達しない私たち学生のいいわけだった。

1979年にようやく日本語で引けるビルマ語辞書が登場したときには感激した。この辞書は、いずれも私自身の恩師である原田正春、大野徹両先生のご努力の結晶である。ちょうどその時期に客員教授をつとめていたウー・ウン先生も協力した。辞書のまえがきのなかの次のような一節を聴衆に紹介した。

……発音については、原則として大阪外国語大学ビルマ語学科客員教授ウー・ウン(U Wun)の発音を基準とし、表記法についてもウー・ウン教授の提案を取り入れた。・・中略・・語彙の選択、発音、意味の記述にあたり有益な助言と教示にあずかったウー・ウン教授等に、この紙上を借りて衷心より謝意を表したい……

さらに当日会場で配られてみんなの手元にある年譜からも次のような記述をあらためて引用した。いずれも大阪外国語大学客員教授時代の仕事である。

……原田教授と協力してビルマ語基礎教本を編纂……

……大野助教授と協力してビルマ語会話教本を編纂……

ウー・ウン先生は日本でもすばらしいお仕事をなさったのである。辞書をビルマ語を学ぶすべての日本人に恩恵をもたらした。今でもそれは変わらない。教本の類はおそらく日本のビルマ語教育の発展に貢献したに違いない。熱心に耳を傾けてくれる聴衆を前に、自分のビルマ語学習歴をたどりながら、日本でもウー・ウン先生の存在は大きかったし、今も人びとの記憶に残っていると話をまとめた。

集会をしめくくったのは1989年以来、アメリカの北イリノイ大学でビルマ語を教えているウー・ソートゥン(筆名ソールン)教授だった。ウー・ウンの薫陶を受けた国語学者ウー・ソートゥンの講演のテーマは「辞書編纂の権威ウー・ウン」。つたない私の話をうまく引き継いで話を展開してくれた。ここでは国民に愛される詩を書き続けたミントゥウン、辞書の編纂に努力を傾けた碩学ウー・ウンの生きざまがあますことなく語られた。さすがにビルマ語の先生である。含蓄のある語り口は聴衆を飽きさせない。なかでも、国語のカリキュラム作成や辞書の編纂にあたって、当時の権力者である軍人たちがしばしば横やりを入れたものの、ウー・ウンは学者としての良心を守り、妥協したり、屈したりはしなかったエピソードは大いに会場のビルマ人たちを沸かせた。今も軍人たちの横暴に苦しむビルマ人たちのわが意を得たりという拍手と歓声が会場にあふれた。