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田辺寿夫(シュエバ)

がんばれ!連邦諸民族~シュエバ東奔西走、2009年1月、2月~
2009年2月19日配信 

波乱の予感

2009年が明けた。2008年、ビルマでは大きな出来事がいくつもあった。5月、サイクロン・ナルギスの来襲。14万人におよぶ死者・行方不明者が出る未曾有の大災害であった。直後、ビルマ軍事政権は被災者救援をそっちのけにして新しい憲法草案についての国民投票を強行した。軍の優位を公的に認めるこの憲法は国民の90%以上の承認を得たとし、軍事政権は自らの「民主化七段階ロードマップ」に沿って2010年には総選挙を実施すると発表した。アウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)書記長やティンウー副議長らの自宅軟禁はまだつづいている。NLDや原住諸民族の活動家は政府の「民主化」を妨害する者としてきびしい弾圧にさらされている。イブラヒム・ガンバリ国連事務総長ビルマ問題特別顧問は2009年1月末から2月にかけてビルマを訪問したが見るべき進展はなかった。

2008年の11月、88年民主化闘争で頭角をあらわし、2007年のいわゆるサフラン色の革命(シュエワーヤウン・トーフランイエー)でも活躍した「88世代学生グループ」のミンコウナインら活動家に65年もの禁固刑が科された。この抗議行動を取材していて日本人ビデオジャーナリスト長井健司さんが射殺されたのは記憶に新しい。2008年11月、海外で活動するビルマ人ジャーナリストの団体BMA(Burma Media Association)の代表をつとめるマウンマウンミィン(オスロ在住)さんから連絡があった。ビルマ民衆に心を寄せ、ビルマの真実の姿を世界に伝えようとして倒れた長井さんの功績を永く世に伝え、その志を継ぐジャーナリストに与える「長井健司賞」を創設したいという。その件で長井さんが所属していたAPF通信社と連絡をとってほしいとのこと。在日のBMAのメンバーであるテッリン(雑誌「アハーラ」編集者)さんとともに東京・赤坂にあるAPF通信社を訪れ山路徹代表にBMAの意図を伝えた。山路さんはこのプランに賛意を表し、ご遺族の了承を得たうえ賞牌や副賞の用意まで引き受けてくださった。

第一回の受賞者は24歳の女性ジャーナリスト・エインカインウー(Eint Khaing Oo)さんに決まった。ビルマの経済誌の記者である彼女はサイクロン・ナルギスに襲われた被災地の「真実」の状況を伝えた。軍事政権は「正しくないニュース」を発信したとして重労働を伴う禁固2年の刑を宣告した。いま彼女はインセイン刑務所に投獄されている。受賞式は12月にチェンマイでと予定されていたが、タイ国の政治混乱のため2009年3月21日に延期された。獄中の彼女に代わって友人が「長井健司賞」を受け取るという。授賞式に出席できない山路さんはビデオメーセージをチェンマイへ届ける。挨拶に加えて長井さんの人柄と業績をふりかえるビデオである。2月18日、APF通信社へ行き、通訳やナレーションをしてビデオ作成を手伝った。(なお長井健司さんの報道姿勢と仕事ぶりについては山路徹『命の対価~独立系ニュース通信社の使命』主婦の友社2008に詳しく紹介されている)

長期刑といえば、シャン民族の指導者クントゥンウーは93年の刑を宣告されカチン州北部プタオの刑務所につながれている。2008年9月、イブラヒム・ガンバリ国連特使との面会を拒んで、国際社会のまともな対応を求めてアウンサンスーチーさんがハンガーストライキをしていると伝えられた。JAC(民主化行動行動委員会)に結集するビルマ人たちは「アウンサンスーチーさんの健康状態を確かめよ!」、「三者対話実現のために国連は積極的な行動を!」などのスローガンを掲げ、東京・青山の国連ハウス前でハンガーストライキを行なった。たまたまその場を訪れた日はクントゥンウーの誕生日にあたり、シャン民族の人たちを中心にささやかな集会が開かれていた。挨拶をするようにいわれて、次のようなみっともない話をしたことを覚えている。

「クントゥンウーさんと私は同じ65歳。同じ時代を生きてきたことになる。しかし、その境遇には天と地ほどの違いがある。平和な日本でのうのうと暮らしている自分が恥ずかしい。これからはビルマにとって、シャン民族にとって、クントゥンウーさんにとって、少しは役に立てるような活動を心がけて行きたい」

そのクントゥンウーの姪にあたる女性が日本に住んでいる。1月21日、彼女の「難民として認めない処分の取り消し」を求める訴訟で本人尋問の通訳をしたのが、今年最初の法廷通訳であった。

このように軍事政権は2010年総選挙に向けて反対者をつぎつぎに逮捕、投獄し、準備を進めている。総選挙まであと1年しかない。在日のビルマ人は「憲法は認めない」、「2010年総選挙は阻止する」との決意を固め、運動の勢いを強めている。

大喜びというほどではないが少しは前向きのニュースもあった。2008年12月16日、「第三国定住による難民の受入れに関するパイロットケースの実施について」の閣議了解があった。タイ国境のビルマ難民キャンプから年間30人を2010年から3年間、日本が定住者として受け入れるというのである。欧米諸国よりははるかにおくれているが「前進」ではある。

2009年1月30日、入国管理局は2008年度の難民認定についての数字を発表した。認定申請者の数は過去最大の1599人(うちビルマ国籍者979人)、認定者は57人(うちビルマ国籍者38人)、人道的な理由から庇護された者(在留特別許可)360人、あわせて417人のうち92%にあたる382人がビルマ国籍者であった。数字ではビルマ人はめぐまれているようにみえるが、まだ1000人近い申請者がいる。これからも増えるだろう。

さてその日本の情勢も穏やかではない。年末から年始にかけて日比谷公園に「年越し派遣村」が登場し大きく報道された。折からの経済不況で派遣労働者や非正規労働者はつぎつぎ職を失い生活は困窮の度を深めている。ビルマ人を含む外国人労働者は日本人労働者以上に影響を受けているはずである。2月7日、在日ビルマ・ロヒンギャ人協会(BRAJ)の指導部の人たちと話し合う機会があった。ビルマ軍事政権に追われ、ボートピープルとしてタイへたどりついたロヒンギャたちをタイの官憲がまた追い払ってしまう。放り出されて漂流したり、船が沈没したりして命を落としたロヒンギャの数は1000人を越えるといわれている。この同胞の悲劇をなんとかしたい、日本でなにが出来るか、そんなことを話しあったのだが、彼ら自身の日本での生活のことも気になった。1月7日付け朝日新聞夕刊に「難民切り」と題して、外国人労働者におよぶ解雇の嵐をレポートした記事が出た。そのなかでティンウィン(在日ビルマ市民労働組合=FWUBC。群馬県太田市在住)さんとともに登場したゾーウィンさん(群馬県館林市在住)がロヒンギャ指導部のメンバーのなかにいた。

「クビになったのはぼくだけじゃないよ。仲間たちがどんどんクビを切られている。次の仕事は見つからないし、みんな困っているよ」

1月24日、浜松市にある静岡文化芸術大学の公開講座でビルマについて講演する機会があった。ビルマ本国の情勢、在日ビルマ人の民主化をめざす活動、難民認定や在留特別許可にかかわることなどを話した。70人ほどの参加者にいちばんうけたのは浜松とビルマのかかわりについての話題だった。浜松はBIA(ビルマ独立義勇軍)を率いたボ・モジョウとしてビルマの歴史に名を残す南機関長鈴木敬司大佐の故郷である。かつて若き日のタキン・アウンサンは市内にある大佐の実家や近くの旅館に逗留した。のちにアウンサンスーチーも父の足跡をたずねてこの地まで足を運んだこともある。浜松の景勝地大草山公園にはビルマ独立の父アウンサン将軍がこの地に滞在したことに因んで建立された「日本・ビルマ友好の碑」がある。その大草山公園は、1988年9月、母国の民主化運動に呼応して、日本でも運動を展開すべく在日ビルマ人協会(BAIJ)が産声をあげた場所、つまりは日本におけるビルマ民主化運動ゆかりの地であることなどを説明した。「へえー。浜松とビルマにはそんな関係があったのだ」と地元の人たちは大いに関心を示してくださった。

(浜松とビルマについての講演の要旨はアウンミャッウィンさんらが編集・発行している日本語誌『平和の翼』に寄稿した。読んでいただければ幸いである。なおタキン・アウンサンが浜松に逗留したいきさつなどは元南機関員泉谷達郎さんの著書『ビルマ独立秘史 その名は南謀略機関』徳間書店1967に詳しい)

三人のゲスト

1月、2月はビルマ原住諸民族の記念日が目白押しである。東京では1月18日カチン州の日(本来は1月10日。以下カッコ内は本来の記念日)、2月1日シャン・ナショナルデー(2月7日)、2月7日カレン民族の日(2月11日)、2月8日連邦記念日(2月12日)、2月15日チン民族の日(2月20日)、同じく2月15日モン民族の日(2月10日)とつづいた。日本で働いている人たちが集りやすいよう記念日に近い土、日に会合を設定してあるので本来の日付とは少しずれている。このうちビルマ民族を含むすべての民族の人たちが一堂に会するのは連邦記念日である。いうまでもなく、イギリスからの独立を目前にした1947年2月12日、アウンサン将軍と原住諸民族の代表者たちがビルマ連邦としてともに独立することに同意したピンロン(パンロンとも表記される)条約に署名した日である。したがって各民族の記念日もこの2月12日前後に集中している。

日本での連邦記念日式典は数年前から在日ビルマ少数民族協議会(AUN)が主催している。毎年タイや国境地帯で活動している各民族の指導者たちが招待される。南大塚ホールで開催された今年の式典には海外から3人のゲストが参加した。カチン民族のマコークンサー(Mahkaw Hkun Sa)さん、モン民族のナイ・トームン(Nai Htaw Mon)さん、ラカイン(アラカン)民族のウー・トゥンウィン(U Tun Win)さんである。

「私の名前はクンサーですが、あの麻薬王クンサーではありません」

これがマコークンサーさんの日本人への挨拶である。ユーモアを解する中年のにこやかな紳士はしかし厳しい弾圧をくぐりぬけてきた。弁護士であったマコークンサーさんは1988年以来カチン州において民主化闘争に積極的に参加した。逮捕され8年におよぶ牢獄生活をおくった。釈放はされたが弁護士資格は剥奪された。その後、タイ国へ脱出、2003年には英国で難民資格を取得した。現在はイギリスやタイ国チェンマイを拠点に民主化、諸民族平等の連邦国家樹立をめざして活動している。カチン民族機構(KNO=Kachin National Organization)書記長であり、原住諸民族の集まるENC(Ethnic Nationalities Council)書記長でもある。

彫りの深い顔立ち、青味がかった瞳が印象的なナイ・トームン(ナイはビルマ民族のウーにあたる冠称。トーはモン語で「金」。ムンはモン。黄金のモン民族と翻訳できる名前である)さんはモン民族最大の政治組織新モン国党(NMSP=New Mon State Party.新モン州党とも表記される)の議長である。NMSPはすでに軍事政権と休戦協定を結んでいる。しかし、モン民族が直面している問題はなにひとつ解決していないとナイ・トームンさんは話す。2月10日、中川正春衆議院議員(民主党)らビルマ問題に関心を持つ日本の国会議員との会見で、彼は2008年憲法はこれを認めないし、2010年に予定される総選挙をも阻止すると強調した。

「もし、この軍部の優位を認めた憲法を修正しないまま、総選挙を実施しようとするならば、ビルマは大きな混乱に見舞われる。衝突や弾圧で国外へ逃れる難民を増える。それはビルマ一国の問題ではすまない。周辺諸国や世界の安全にとって脅威となるだろう」

1941年生まれで3人のうちでは最年長のウー・トゥンウィンさんはラカイン(アラカン)州ミンビャー選挙区選出の国会議員である。1990年総選挙ではアラカン民主連盟(ALD)から出馬し当選した。その党はすでに非合法化された。現在は在外アラカン民主連盟(ALD Exile)代表をつとめ、ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)の教育大臣でもある。アラカン人らしく眼光鋭いウー・トゥンウィンさんは博覧強記の人である。通訳をしていて、学生の頃学んだビルマの歴史を復習しているような気持ちになった。

チン民族の日に招かれた折にはさまざまな歴史的事実をあげ「チン民族とラカイン民族は昔から隣り合わせで仲良く住み分けてきた」と語った。モン民族の日の挨拶では次のような一節が印象的だった。

「モンとアラカンは似たような歴史を持っている。ビルマ民族はモン王国から高僧シン・アラハンを連れ去り、上座部仏教の教えを我が物にしたように、わがアラカン王国からはアラカンの人々が尊崇するマハームニ像をマンダレーに持ち去ったのである」

民族のこころ

連邦記念日式典で、議員会館での会合で、各民族の記念日で三人のゲストの挨拶や演説を通訳する機会が何度もあった。国民民主連盟・解放地域(NLD.LA)日本支部、ビルマ民主化同盟(LDB)やAUNなど在日の各団体のリーダーたちの通訳もつとめた。国民和解のために軍事政権、民主化勢力、諸民族代表による三者対話を実現しなければならない、この現状認識と課題は一致していた。そして、2008年憲法は認めない、2010年総選挙は阻止する、1990年総選挙の結果を具体化しなければならない、これらもまた異口同音に語られた。そのために日本政府や日本国民の支援を期待するという点でも彼らは一致していた。そして原住諸民族の人たちは、平和で平等な連邦国家の実現をめざしたピンロン条約の精神に立ち返るべきであると強調し、諸民族平等、すべての人々の人権が尊重され、各民族の民族自決権を認めた真の連邦制国家の実現をめざしてたたかいつづけるとの決意を語った。

原住諸民族のリーダーたちはビルマ民族を含めた諸民族共通の目標を語る。それはしかし、それぞれの民族の誇りと自負をふまえたものである。彼らは次のような歴史を語り、そこから民族のこころをくみとり、それを力として民主的な連邦国家建設に邁進している。

「カチン民族はティボー王がインドに連れ去られた(1885年、第三次英緬戦争に敗れたビルマ王朝が崩壊し、全土がイギリスの植民地となったことを指す)後もイギリスと果敢にたたかった」

「1948年2月、チン民族はファラムで5000人もの人びとが参加する大衆集会を開き、独立後はソーブワー(藩王)が支配する封建制ではなく、民主主義的な政体をのぞむことで一致した」

「カレン民族がビルマの地にやって来たのは紀元前739年(この年がカレン暦元年とされる。今年はカレン暦2747年)である。ビルマの最先住民族であるわたしたちの祖先は、その後、他民族を抑圧するようなことはなく平和に、おだやかに暮らしてきたのである」

さらに気がついたことがある。ビルマ民族を中心とする民主化団体の会合では1962年3月、時の参謀総長ネウィン大将がクーデターを起こしてウー・ヌ首相から政権を奪い、ビルマにおける議会制民主主義が終焉し、軍人支配が始まった時からの歴史をふりかえるのが普通である。同じように民主化運動に参加していても原住諸民族の指導者たちはそれ以前の歴史をも問題にする。

「1948年、ビルマ連邦は独立したが諸民族平等を実現するはずのピンロン条約は具体化されなかった。ウー・ヌ首相率いる与党パサパラ(AFPFL=反ファシスト人民自由連盟。もともとは日本占領期にアウンサン将軍らによって組織された反日地下抵抗組織)は汚職や権力闘争のために機能しなかった。なにより、ビルマ族政治家たちのマハー・バマー・ワーダ(直訳すると大ビルマ主義。ビルマ族優位を当然とするビルマ族中華主義)のために、原住諸民族は本来持つべき権利を奪われてしまった。原住諸民族がそれぞれの権利を求めて立ち上がり、中央政府とたたかうようになったのはそのせいである。そうした政党政治の乱れに乗じて軍部が政権を握ってしまった。その結果、軍主導の中央集権政治は強まり、原住諸民族はますます苦しい立場に追い込まれた……」

連邦記念日の式典で三人のゲストはこうした原住諸民族側から見た歴史評価を力説した。通訳をしていて気になった。たくさんのビルマ民族の参加者が耳を傾けている。彼らはどういう気持ちで聞くだろうかと。日本で活動する各民族組織のリーダーたちは、少なくともビルマ民族と同席する会議の場では、ここまでストレートな表現でビルマ民族を責めはしない。手を組んで母国民主化のたたかいを進めているのであるから、いくらか遠慮があるのかも知れない。来日した諸民族指導者たちの厳しい指摘を通訳していてあらためて、原住諸民族の人たちも指導者と認めるアウンサンスーチーの言葉を思い出した。アウンサンスーチーの父アウンサン将軍は原住諸民族代表者らとピンロン条約を結び、ビルマ連邦の独立を達成した。その将軍の娘アウンサンスーチーは今自分たちは「第二の独立闘争」をたたかっていると表現する。そしてこうつけくわえる。

「民主化と民族問題の解決は車の両輪です」

民族衣装それに通訳

かたい話がつづいた。身のまわりのできごとではあるが、知っておいてほしいことを書き連ねたらこうなった。ここからはさらに私的な身辺雑記、備忘録になる。読み飛ばしてもらってかまわない。おもな話題は通訳と民族衣装である。連邦記念日や各民族の記念日にはNGOや支援者など日本人も出席する。だから日本人への気配りを大事にする彼ら、彼女らはシュエバを呼んで通訳をしてもらおうということになる。通訳は舞台にあがるから、なるべくそれぞれの民族衣装を着て出席しようと心がけている。

カチン州の日の前日、KNO-日本支部書記長マリップ・センブさんから電話がかかってきた。勢い込んで時に裏返ってしまういつもの元気な声。いわく「裏声で話せ、ビルマ語」。

「明日、よろしくお願いします」

「大丈夫だよ。通訳すればいいんでしょう?」

「去年プレゼントしたカチンの服を着て来てね」

さあ困った。去年のカチン州の日に黒い上下の民族衣装をもらったのだが、どこにしまったのか、所在不明である。(後日ロッカーにしまってあったのを見つけた)そう話すと、ウー・シュエバには困ったもんだといいながらも、別の衣装を用意してくれるという。当日、会場の豊島公会堂に着くと小学校に通うセンブさんの一番上の娘さんが迎えてくれた。

「あ、ビルマ語をしゃべるおじさんが来た!」

きれいな日本語である。ちなみにセンブさんには日本で生まれた4人の娘さんがいる。彼女が肝っ玉かあさんと呼ばれる所以である。かわいい案内者は地下の控え室に連れて行ってくれた。たちまちのうちに民族衣装に着替えさせられる。今度は黒ではなく草色の上下である。下はビルマのパソー(男用のロンジー)ではなく幅広のズボンで、付いている紐ないし自前のベルトで締める。頭には鉢巻のように機や紫の布を巻いた飾り物をのっける。シャン州に住むカチン人が着るものらしい。サイズが大きく、だぶだぶだったが、ともかくその衣装を身に着けて司会兼通訳の役目ははたした。

通訳の民族衣装はさまになっていなかったが、つぎつぎに登場するカチン民族男女の民族衣装は魅力的だった。赤や黒、白、黄色と鮮やかな色彩が映える。細かく施された刺繍もきれいだ。なかでもカチン民族に属するジンポー、マル、ラシー、アツィーなど各種族がそれぞれ固有の衣装をつけて登場したときには舞台に花が咲いたようだった。日本での生活は楽ではないだろうに、わざわざ金をかけて母国から民族衣装を取り寄せる努力には頭が下がる。おまけにカチンの人たちはサービス精神旺盛である。ファッションショーまであった。民族衣装の味わいを残し、今風にアレンジした衣装をまとった若いカップルが登場する。本職のモデルよろしくステップを踏み、ポーズをとる。照れ笑いを浮かべる男性、恥ずかしげにうつむいてしまう女性もいる。会場が沸く。ステージまで駆けつけて写真をとる人もいる。歓声、掛け声、笑いとともに拍手の嵐。楽しい時間が流れた。

シャン・ナショナルデー。今度は何年か前にもらった民族衣装の上下を持って家を出た。日曜日のこと、場外馬券を買おうと立川へ出たのが誤算だった。新宿へ向かう中央線が車両点検とかでひどく遅れた。会場の豊島区民センターへ着いたときにはすでに式典は佳境に入っていた。日本語への通訳はSND(Shan Nationalities for Democracy -Japan)のモウモウさん(女性)が手際よくこなしていた。この日は民族衣装に着替えることなく、通訳もせず、ただみんなと一緒に記念写真におさまるために舞台へあがっただけ。

御茶ノ水クリスチャンセンターで開かれたカレン民族の日の式典。衣装についてはカレンが一番楽である。ジャケットを脱いで、シャツの上からすっぽりとカレンの長い貫頭衣をかぶるだけ。会場で韓国からわざわざ参加したというイラワジデルタ・ミャウンミャ出身のカレン人ケネス・モウさんに会った。友人に近著『負けるな!在日ビルマ人』を渡していると、ケネスさんも欲しいという。後日、会った機会に一冊プレゼントした。お返しに彼の詩が掲載されているという詩集をもらった。しかしハングルで書かれている。韓国語のわかる人に読んでもらわなければならない。韓国ではビルマの民主化運動をサポートし、誌や文章をハングルに翻訳してくれる韓国人支援者たちもいるのだろう。心強い。

連邦記念日。特定の民族衣装を着るわけには行かない。スーツで出かけた。ただしネクタイをつけるのはわずらわしいので、ビルマ製のエンジー(立て襟の白シャツ。これも貰い物)を着た。南大塚ホールへ着くとアラカンのパソーとタイポン(上着)を手にゾーミンカインさんが待ちかまえていた。

「さあ、ウー・シュエバ、これに着替えて。エンジーを着てるからちょうどいいよ。ガウンバウン(籐で編んだ型枠に絹布を巻きつけた帽子。正装のときには着用する)はないけどまあいいだろう」

「えっ。オレ、アラカンの格好するの? なんでまた?」

「毎年のことじゃないか。舞台にあがって司会と通訳をしてもらうよ。あっ、そういえば去年の連邦記念日はウー・シュエバがいなかったからたいへんだったぜ」

「いやみ言うなよ。去年の今頃は弁護士さんたちと一緒にタイのメソートへ行ってたんだよ。去年、君らがやったウー・オゥタマー(ラカイン出身の僧侶。日本に居たこともあり、1920年代、ビルマ民族主義運動で活躍した)生誕百年の集まりの時だって協力したじゃないか」

ラカイン民族のゾーミンカインさんは、今年、各民族まわりもちのAUN議長に就任している。連邦記念日式典の総責任者である。おまけにラカインの国会議員も招待している。気合が入っている。否やは言わせない迫力である。ラカインの民族衣装を着て司会者席にすわって通訳をつとめた。メインの司会者はマイ・チョーウー(パラウン民族)さんである。彼によるとAUNの構成メンバーは増えているとのこと。たしかに式典の冒頭に連邦国旗を掲げて入場してきた諸民族の女性たちの先頭には見かけない黒の民族衣装をまとった女性がいた。昨年から新たに加わったパオ民族であるという。

300人ほどの聴衆のなかに日本人は20人ぐらいだろうか。かつては数少ない日本人のためになんでわざわざ通訳しなきゃならんのかと、ぶんむくれたこともあった。今年はそうはではなかった。精一杯声をはりあげて、わかりやすい通訳を心がけた。3人のゲストの話も内容が濃かったせいでもある。マイクを握って話していて新しい発見をした。かなり多くのビルマの人たちが日本語に耳を傾けている。そうか。日本語がかなり分かる人、日本語をマスターしようとがんばっている人たちもいるんだ。もちろん彼ら、彼女らはビルマ語がわかる。そのうえで、こういう言い回しは日本語ではこう表現するんだ、この単語はこう言いかえればいいのかというようにいちいちうなづきながら聞いている。日本人だけではなくビルマの人たちにも少しは役に立っているのだ。うれしかった。やりがいを感じた。これからは日本人が少ないところで通訳するのはいやだなどと言わないようにしよう。

2月15日、チン民族の日の会合とモン民族の日の日程がかちあってしまった。先にチン民族の式典に顔を出す。会場は千葉県市川市の男女共同参画センターである。以前にもらった細かい刺繍の入ったチン民族のジャケットは気に入っていたが、モン民族の会合にも出るのだからと持参しなかった。会場では司会のチンラムルン(女性)さんがなかなか上手な日本語で通訳をつとめていた。こりゃ出番はないわいと安心して座っていると隣に座った在日チン民族協会(CNC-Japan)議長タンナンリヤンタンさんが肘をつつく。「大事なところはウー・シュエバが通訳してくれよな」。結局、ゲストのウー・トゥンウィンさんの挨拶とタンナンリヤンタンさんの演説を通訳した。

どうもこれはウー・シュエバに花を持たせようとしたらしい。20年来の旧友タンナンリヤンタンはいい意味で策士であり政治家なのだ。こちらにはなんの事前の通告もなく表彰されることになっていたのだ。第一回「チンランドとチン民族の友」賞をいただいた。恥ずかしかった。どんな顔をしていいのかわからない。でも諸民族の会合ではいつも顔を合わすクマちゃんこと熊切拓さんと一緒の受賞だったのですこしは間が持てた。

(熊切拓さんは吉岡逸夫『ミャンマー難民キャンプ潜入記』出版メディアパル2008に登場し、解説も書いている。一読をすすめたい。来年度からはじまる第三国移住について考えるいい資料である)

チン民族の日式典に出席したAUNのメンバーと一緒に東京へUターンした。モン民族の日の集会はかつてのリトルヤンゴン・中井の駅に近い目白大学のホールで行なわれる。なんともあわただしい。総武線、山手線、西武新宿線と乗り継いでの大移動である。

会場に着いたときには式次第はもう後半に入っていた。階段状の座席があるきれいなホールである。モン民族特有の赤い格子柄の上着を着込んだ男性が30人ぐらいはいる。もちろん女性もいる。主催団体はMon National Society-Japanだがその前にPUNNYAGARIとついている。このモン語の意味をききそこなった。それから日本語に通訳をしているモン民族の男性がいたのだが、名前をきく時間もなかった。演壇には赤地に星、それに黄色く孔雀が描かれた旗が垂らしてある。NLDの旗だろうか。おっと、よく見ると鳥は孔雀ではなかった。ヒンダー(モン民族の伝説に登場する鳥)だった。

そのうちに司会をしていたミン・ウィンテーザ(ミンはビルマ語のKOにあたる)さんが近づいてきて耳打ちする。一言挨拶しろと。なんの準備もしていなかったからアドリブで話をさせてもらった。

「はじめに謝ります。2年前のこの季節、ミン・ティッサーさんからモン民族の日の集まりをやるから来いといわれたことがありました。そのときぼくはからかいました。モン民族といったって、日本には君とミン・ミョウチッ、ミン・ウィンテーザの3人ぐらいしかいないじゃないか。行かないよと。いま暴言を反省しています。

会場を見渡すとずいぶん多くのモンの方がいらっしゃいます。こんなにモンの方が増えたことはうれしいのですが悲しくもあります。なんでわざわざ故郷を捨てて、かならずしもあたたかく迎えはしない、言葉も習慣も違う日本へ来なきゃならないのかと。母国の情勢がそれほど厳しいのでしょう。

難民申請とか在留資格とかいろいろ問題はあるでしょう。なんとかがんばってください。それから、日本人としてお願いしたいことがあります。せっかくみなさんが日本に住んでおられるのですから、まわりの日本の人たちに、あなたがたモン(Mon)民族のことを知らせてあげてください。なにしろ日本ではモンといえばインドシナ戦争の時、アメリカによって兵士として訓練され、戦わされ、今は多くの人が難民としてアメリカに渡っているラオスのモン(Hmon)族を思い出す人が多いのです。違うんだ、自分たちはモン・クメール(Mon-Khmer)のモンなんだ、ビルマ文化の基礎を築いたビルマのモン民族なんだ。ビルマの民主化と諸民族平等の連邦国家を実現するためにたたかっているんだと……」

2009年2月16日、私は満66歳になった。ビルマの人にも覚えやすい日である。アウンサン将軍の誕生日(2月13日)に近いからではない。同じ日、キム・ジョンイル(金正日)は67歳になったからだ。夕方、アメリカから電話がかかってきた。ニャンウィンアウンである。奥さんと息子さんを日本に残しラジオ・フリーアジア(RFA)で働いている。在日のビルマ人からも、ビルマからも、アメリカからもハッピィバースデイのメッセージをもらっていたから、これもそうかと喜んだら、そうではなかった。2月12日に行なわれた中曽根外務大臣とガンバリ特使との会談に関するプレスリリースについてコメントがほしいという。

……ミャンマーの民主化問題につき、全ての関係者が含まれる形で民主化プロセスが進展することが重要であること及び2010年の総選挙が国際社会に祝福されるものとなるようにミャンマー政府に対し働きかけていくことで意見が一致しました……

この発表から日本政府の対ビルマ政策の変化が読みとれるかとニャンウィンアウンさんに訊かれて、そんなことはないと私は答えた。

「何も変わっていないと思うよ。政治囚解放、三者対話の推進といった具体的なことはなにも言ってないじゃないか。おまけに2010年の選挙があるものとの前提になってしまっている。それはあの一方的な内容の「2008年新憲法」を決まったものとして、昨年の国民投票についてもなんの問題もないと認めていることになる。まったく日本人の一人として恥ずかしいよ」

インタビューのあとのニャンウィンアウンさんとの会話。

「今日、オレの誕生日なんだ」

「そうなんだ、おめでとう!」

「キム・ジョンイルと同じ日だっていうのがどうもね」

「気にすんなよ、ウーシュエバ。オレの誕生日なんかアドルフ・ヒットラーと同じだぜ」