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田辺寿夫(シュエバ)

附柴正躬さんをしのんで
2008年7月11日配信 

ツケシバ・アパートの思い出

2008年7月5日、附柴正躬(つけしば・まさみ)さんが亡くなった。85歳だった。高齢にもかかわらず自らの意思で食道がんの手術を決意し、今年の6月末、手術は成功したものの術後に発症した敗血症を克服することはできなかったとのこと。心からご冥福を祈る。附柴さんはビルマ戦線を体験した元日本兵である。1923年生まれだとすれば1945年敗戦時にはまだ22歳の青年だったことになる。おそらく部隊でもっとも若い兵士だったのだろう。附柴さんが所属していた部隊は、ビルマ南部、現在のタニンダーイー(旧テナセリウム)管区ベイ(旧メルギー)あたりに駐屯していた。戦後、附柴さんは公認会計士・税理士として活躍された。附柴会計事務所を兼ねるご自宅は渋谷区神宮前にある。このほかに家作というのか杉並区高円寺にアパートを持っておられた。

そのアパートの存在を知ったのは1990年代の始めごろだった。住民であるビルマ人のもとを訪れたのだ。すでに相当に古びた木造2階建てのアパートで、5~6家族が入居していた。それがみんなビルマ人だときいて「えっ」と驚いた記憶がある。当時、西武新宿線中井駅周辺は「リトル・ヤンゴン」と謂われるほどにビルマ人がたくさん住んでいた。住民のほとんどがビルマ人というアパートもナカイにはあった。高円寺にそんなアパートがあるなんておもいもしなかったからである。附柴荘と書かれた看板がかかっていたが、住人のビルマ人たちは「ツケシバ(おじいさんの)アパート」と呼んでいた。

附柴荘のビルマ人たちはほとんど母国民主化の運動に熱心な人たちだった。いろいろな用事があってなんども出入りするようになった。TV局の料理番組スタッフを連れて行き、住人のビルマ人女性が代表的な麺料理「モヒンガー」を作るところを撮影したこともあった。出来上がったモヒンガーはビルマ料理店で食べるものよりおいしかった。家庭の味である。アパートの住人であるビルマ人男女がわいわい言いながら、それでも見事に役割分担して手伝っているのにも感服した。「隣は何をする人ぞ」という日本のアパート住民の態度とは正反対だった。

もうひとつ忘れられない思い出がある。1995年ごろだっただろうか、当時、ビルマ軍事政権のトップであったタンシュエやキンニュンとアウンサンスーチーさんの仲介をして、両者の会談を実現させたとして時の人になっていたビルマ人高僧イエワタダンマ(イギリス・バーミンガム在住)師に「ツケシバ・アパート」でインタビューしたことがあった。イエワタダンマ師は衆議院議員会館で日本の国会議員にビルマ情勢について話をされたことがあり、その時に通訳をした縁で宿泊先まで押しかけたのである。

お坊さんはアパートの六畳間で、せんべい布団をえいやっと丸め、その上に座って、ニコニコしながらさあなにがききたいんだと水を向けられた。ビルマのことやアウンサンスーチーのことをざっくばらんに話してくださった。ビルマでは僧侶は「人」ではない。たいへんな尊崇をうける。使うビルマ語も違う。こちらは緊張していた。その高僧が実は「雲の上」でお高くとまっているのではなく、さしてきれいでもないアパートの一室に泊まり、庶民と気軽に、分け隔てなく、接する様子に驚き、それだけでもいい経験をしたおもいだった。そんないい雰囲気のなかでイエワタダンマ師が語ってくれたこんな話を覚えている。

「アウンサンスーチーっていう人物は自分の思い通りにやらないと気のすまない女性だよ。バーミンガムの私の僧院にまだ幼い二人の息子を連れてきたことがあった。息子たちにテーラーヴァーダ(上座部)仏教の本質を教えてほしいって言うんだ。それも2,3時間ですませてくれって。無理だろう? これには困ったよ」

さまざまな思い出のつまった附柴荘は2000年ごろに取り壊されていまはない。住人だったビルマ人たちはそれぞれ巣立って行き、大空に羽ばたいているというべきか、元気に生きている。なかには難民認定を受けた人や在留特別許可を認められた人もいる。いまも母国民主化の運動にかかわっている人たちが多い。

正しいことをしなさい

ビルマ人ばかり住んでいる奇妙なアパートの持ち主として気になっていたツケシバさんに直接お会いしたのはずいぶん後のことだった。弁護士さんを紹介してくれと頼まれたのである。附柴さんは戦争中駐屯したベイに特別のおもいがあったようだ。ベイ出身の若者Mさんのために義侠心を発揮したのである。Mさんは1963年生まれ、母はビルマ人だが、父親は当時真珠関係の日本=ビルマ合弁会社の仕事でベイに滞在していた日本人だというのだ。もちろん名前も出身地もわかっている。戦後、何度も思い出の地ベイを訪れていた附柴さんは、成人したMさんと出会って話をきいたことがきっかけだった。

父親にあたる日本人はMさんの母親にそのことを証明する書付を残して1964年に日本に帰国した。その後日本で亡くなった。Mさんを息子として認知する手続きはしていなかった。附柴さんは、認知を求めてはるばる「父の国」日本へやってきたMさんの面倒をみた。ほとんど親代わりである。Mさんも附柴さんを実の父のように慕った。二人は父親とされる人物の出身地の役場まで行って交渉をしたが、日本の役所は首をたてには振ってくれなかった。このままではらちがあかない。そこで弁護士の力を借りることになったのである。この件はいまだに結着をみていない。附柴さんは手術の直前に弁護士のもとを訪れ、Mさんのことをくれぐれもよろしくと頼んでゆかれたとのこと。

7月9日、附柴さんの告別式が碑文谷(サレジオ)教会で営まれた。憔悴したMさんの顔があった。悲しみのなか、それでも奥さんや会計事務所を引き継いでおられる娘さんたちはMさんを励ましていた。

「Mくん(実際には家族の方々はMさんを日本語名で、敬称はつけずに呼んでいた)、あなたは私達の家族なんだからね。みんな応援するわよ。お父さんが亡くなっても力落とさないでね。がんばるのよ……」

Mさんの認知に奔走する一方、附柴さんはビルマ市民フォーラム(PFB)のメンバーでもあった。少し耳が悪いからと、例会ではいつも最前列に座り、熱心に話をきいておられた。在日ビルマ人とともにビルマの民主化を推進しようというNGOである。附柴さんのような旧日本軍兵士が加わることはめずらしい。やはりビルマ戦線の体験を持つ自分の父と同じなんだろうと勝手に思い込んでじっくり話をしなかった。経験談やビルマについてのおもいをもっときいておけばよかったといま後悔している。

祭壇にはやさしく微笑む附柴さんの写真があった。その前で親族代表の方が挨拶をされた。

「附柴正躬は正義漢でした。曲がったことは断じて許さないし、それをただす行動をする人でした……」

その通りだと思った。「そうだよ、なかなか厳しい人だった……」とやはり告別式に参列していた元ツケシバ・アパート住人Tさんも話してくれた。住むところがなかなか見つからず困っているビルマ人たちに、持ちアパートの部屋を提供することにやぶさかではなかったが、決められた家賃は決められた期日にちゃんと払いなさいよというのが附柴さんの態度だったようだ。「他人に頼るのではなく、日本の社会のなかできちんと生きていきなさい」と教えていたのである。

ビルメロの世代

附柴さんはほとんど毎年のようにかつての戦地ビルマを訪れていた。その地で亡くなった戦友たちを慰霊する旅であったろう。インド・インパール、中国=ビルマ国境地帯も含めたビルマ戦線は「大東亜戦争」の激戦地のひとつである。陸軍だけで約30万の日本軍兵士が動員され、そのうちおよそ19万人が戦死・戦病死したとされる。ほぼ3人に2人が帰ってこなかった苛酷な戦場であった。命ながらえて帰国できた人は幸運であった。彼らは戦後日本で懸命に働いた。生活が安定したときに、おそらく戦友を、戦地をおもいだすのだろう。時間があり、お金ができれば、矢も楯もたまらずビルマを訪れる旧日本兵はたくさんいた。政府派遣の大規模な遺骨収集団も何度もビルマの地を踏んだ。

ビルマの人たちはふたたびビルマへやって来た元日本兵をあたたかく迎えた。たとえ日本軍にうらみを抱く人であっても、やって来た日本人にそのうらみをあからさまにぶつけることはしなかった。ビルマの歴史教科書は1942年から45年までを「日本時代」とし、ファシスト日本軍の暴虐のゆえに国民が塗炭の苦しみを味わった時期と記述してある。それでも人びとは「軍国主義者」が悪いのであって、一人ひとりの旧日本軍兵士にその責任を追及しようとはしなかった。戦地を再訪した日本人たちは感激した。

「おい、ビルマは昔のままだ。何も変わってない。ビルマ人たちは相変わらず親切だぜ……」

こうして日本では、ビルマ戦線を経験した元兵士の多くが「ビルメロ」になった。ビルマのこととなるとメロメロになるという意味である。1970年、大阪で万国博覧会が開催された。ビルマ政府も万博に参加し、「ビルマ館」を建てることになった。当時のビルマはネウィン革命評議会議長(大将)のもと軍事政権の時代で資金は豊かではなかった。日本のビルメロたちが立ち上がった。旧戦友間のネットワークを通じて呼びかけがなされ、ビルマ館の建設、運営に大いに協力した。このときの活動に参加した人たちを中心に、1972年には、両国の友好・親善をめざす民間団体・日本=ビルマ文化協会(現・日本=ミャンマー友好協会)が誕生した。附柴さんもくしたビル・メロの一人である。しかし、単にノスタルジーにひたっていた人ではない。駐屯した地域出身のビルマ人のために、親身になって日本のお役所でたたかった。軍事政権を倒し、母国民主化をめざす在日ビルマ人たちにもあたたかい目配りを忘れなかった。

多くの人びとの心のなかに、附柴さんの温顔、きっぱりとして物言い、卓抜な行動力は生きつづける。