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田辺寿夫(シュエバ)

運命を分けるものは?~在日ビルマ人社会の不安と動揺~
2007年11月30日配信 

出頭

2007年11月7日、Tさん一家は港区港南にある東京入国管理局へ出頭した。在日ビルマ(ミャンマー)人であるTさん(46歳)と奥さんのSさん(44歳)、それに息子のNさん(21歳)の3人である。SさんもTさんもビルマ中部の古都マンダレーの出身である。2人は1984年にビルマで結婚しNさんは1990年に、Sさんは1991年にそれぞれ来日した。2人は多くの外国人がそうであるように短期滞在ビザ(90日)を延伸することなく日本の飲食店などで働きつづけた。滞在期限はとっくに超過したオーバーステイであり不法就労者でもある。

2002年には2人のもとへビルマから息子のNさん(当時16歳)がやって来た。Nさんは荒川区立第九中学から都立北豊島工業高校へと進学し、今年の4月からは国際短期大学情報ネットワーク科へと進んだ。コンピューターについてもっと学びたいという。しかし両親同様彼にも滞在資格はなくオーバーステイの身である。一家はNさんの短大進学を機にこのまま日本に住みたいと考えた。在留特別許可を申請したが認められず、一旦入国管理局の収容施設に収容され、退去強制の対象となった。釈放後、退去強制処分の取り消しを求めて東京地裁に訴えてはいたが展望は必ずしも明るくなかった。また収容されるのではないかという不安を抱いて3人は入国管理局へやってきた。

一縷の望み

Tさん、Sさんは母国においても、日本においても政治活動はしていなかったし、仏教徒のビルマ民族である。だから「人種、宗教、国籍、所属する特定の社会的集団、その政治的意見の故に母国に帰れば迫害を受ける」という難民条約上の難民には該当しない。したがって多くの在日ビルマ人のように難民認定申請はできなかったし、してもいない。となると在留特別許可を求める以外に日本に滞在できる手立てはない。

その在留特別許可を得るのは簡単ではない。法務大臣の裁量によって与えられる「恩典」とされ、2006年10月に「在留特別許可に係るガイドライン」が法務省から発表されたが基準は明確ではない。これまで在留特別許可の対象になるのは日本人で結婚した人(配偶者)がほとんどだった。近年、滞在資格のない外国人であっても、子供が日本で生まれ育ち、母国語ができないような場合、「子どもの権利条約」に照らして母国へ送還すればその社会に適応できないからと、滞在を認めるケースが増えてきている。またその子どもたちが中学生や高校生であった場合は保護者である両親にも在留特別許可を認めるケースが出てきてはいた。しかし、このビルマ人一家の場合、子どもであるNさんが来日したのは16歳の時である。すでに母国語であるビルマ語には習熟していた。さらにNさんは現在すでに21歳、法律的には自立した成人である。

昨年暮れから今年の春にかけてメディアをにぎわせたイラン人アミネ・カリルさん一家のケースはこのビルマ人家族によく似ていた。群馬県高崎市に住んでいた夫婦と娘さん2人の一家である。この一家も在留特別許可を求めていた。夫がまず来日し、次に妻、そのあとに子どもがやって来るというパターンも同じである。2歳で来日し、18歳になった長女は2006年12月の時点で高崎市にある育英短期大学への入学が決まっていた。次女(10歳)は日本生まれである。2人とも母国語(ペルシャ語)はできない。それでも在留特別許可は下りなかった。一家は裁判でも争ったが負けた。最後の手段として法務大臣に嘆願(再審情願)をした。結局、法務大臣は「特別の配慮」で長女の在留だけを認めた。ほかの家族3人は2007年5月、長女の入学式を見とどけてから日本におもいを残しつつ母国へ帰っていった。

この直前のケースからみてもTさん一家の在留はきわめてむずかしいと誰しもが思っていた。アミネ・カリルさん一家の在留のために多くの人々が協力した。中心になったのは東京にある外国人支援のNGO団体APFS(Asian People's Friendly Society)であり、地域の人々や長女の学友や先生たちによびかけて署名運動も行なった。ビルマ人一家の場合もやはりAPFSが支援体制を組み、学校や夫婦の職場の人たちから嘆願署名を集めた。それでも、うまくいって、せいぜいN君一人がイラン人一家の長女のように短大進学を理由に在留が認められる可能性はわずかにある程度だろうと弁護士や支援者も考えていた。

ところが11月7日、出頭した3人に対して在留特別許可が出された。3人全員に定住ビザ(2年)が与えられた。異例である。3人が大喜びしたのは言うまでもない。N君は「多くの日本の人たちが著名活動などをして支援してくれたおかげです。これで安心して学校に行けます」と気持ちを語った(11月8日NHKニュース)。支援者たちも驚き、法務省はなぜかくも寛大な措置をとったのだろうと考えた。ちょうど燃料費の値上げに反対する平和的なデモをビルマ軍事政権が武力を行使して鎮圧した時期である。9月27日にはデモを取材していた日本人ビデオジャーナリスト長井健司さんが射殺された。3人を政情不安のビルマに送り返すにはしのびないと法務省が判断したのかもしれない。きわめて不謹慎な言い方をすれば一家が在留を認められたのは「ナガイさんのおかげ」である。

口論のすえに

11月17日、高田馬場のアパートで殺人事件が起こった。ビルマ人男性2人が口論の末に、1人が包丁を持ち出し相手を刺し殺した。2人は茨城県牛久市にある入国管理局東日本収容者センターで知り合った仲だった。殺された方の人物が先に仮放免で出てきていた。そして後から出てきたもう一人(殺した方の人物)が住むところはないというので、部屋に置いてやっていたのだという。友人を刺し殺してしまった人物はMという。東京のビルマ人社会では「ホトケのM」で通っていた。敬虔な仏教徒である。暇さえあれば数珠をまさぐり経を唱えるような人物だった。口論になったのも、部屋の主が「おまえのお経はうるさい」と文句をつけたのがきっかけだったという。なんともやるせない、悲しい出来事である。「ホトケのMが人を殺したって!」。ビルマ人社会には衝撃が走った。

Mさんはかつて日本のビルマ人社会で話題になった人物である。2000年ごろMさんは妻と当時3歳の娘と一緒に日本で暮らしていた。妻はビルマ人であり、子どもは日本で生まれた。Mさんの滞日はすでに10年におよび、超過滞在者であったが製本工場で働いていた。母国民主化の運動にはいくらか加わっていたが積極的な活動家ではなかった。1999年9月、APFSが提唱した在留特別許可取得一斉行動(この行動にはアミネ・カリルさん一家も加わっていた)に参加して、みずからオーバーステイであることを名乗り出て在留特別許可を求めた。しかし在特は認められず退去強制令が発付された。おそらく娘さんがまだ3歳であったことから母国へ帰っても適応できると判断されたからであろう。長女が11歳(小学校6年生)だったアミネ・カリルさん一家も認められなかった。この時在留特別許可を得た家族もあったが、そのほとんどは子どもが中学生以上であった。

MさんはAPFSの支援を得て地裁に提訴した。2002年2月、地裁はMさんの訴えを斥ける判決を下した。Mは控訴したが2003年3月、東京高裁は一審判決を支持し控訴を棄却した。こうなってはどうしようもない。Mさん一家はビルマへ帰国した。Mさんの姿はビルマ人社会から消えた。

そのMさんがいつのまにか日本へ戻っていたのだ。退去強制で送還された場合、現在の法律ではペナルティーとして向こう5年間は再来日できないはずである。たとえ現行法の施行前であったとしても、日本の入管に強制送還の記録は残っているから再入国は容易ではない。彼はおそらく名前を変えてパスポートを取得するなどの手段で再来日をはたしたのだろう。そしてまた捕まった。牛久収容センターへ移された。そこで難民認定を申請したという。仮放免されて出てきた。牛久で知り合ったビルマ人(この人物も難民認定を申請していた)のアパートに身を寄せた。そして口論になった。「お経をあげる声が大きい。うるさい!」。文句をつけるほどのことではないだろうに。まして文句をつけられたからといって相手を刺してしまうとは。「ホトケのM」はなぜ自分を失なってしまったのか?

たまるストレス

11月11日にもビルマ人がビルマ人を殴って怪我を負わせた事件があった。ビルマ人社会では次のように伝えられている。その日は日曜日、代々木公園で在日ビルマ人の民主化共同行動委員会(JAC)と連合が主催したビルマ軍事政権に抗議する集会が開催され、集会後宮下公園までデモ行進があった。その行動に参加したビルマ国籍のカチン民族の男性4人が夕方池袋の飲食店で飯をくい、酒を飲んでいた。そのうちに言い合いがはじまり、喧嘩になり、1人がまだほとんど飲んでいない「眞露」のボトルでもう一人を殴った。殴られた男は意識不明になり病院に担ぎ込まれた。幸い容態は快方に向かっているという。

4人のカチン男性はみんなクリスチャンである。せっかくデモ行進にまで参加して母国の民主化のために声をあげたというのに。熱心な仏教徒であるMといい、まじめなクリスチャンであるカチン男性といい、いったいなにが彼らから平常心を奪ったのだろうか。

ストレスが溜まっているのは容易に想像できる。まず母国の情勢。ことし9月の情け容赦のないデモの鎮圧ぶりを見ても軍事政権の力は強大であり、彼ら、彼女らが望む民主化はまだまだ遠い。とても母国へ帰れるような状況ではない。かといって日本での生活も楽ではない。滞在期限超過者の取り締まりは相変わらず厳しい。警察の留置場や入管施設に収容されるのは日常茶飯である。難民認定を申請しても、在留特別許可を求めても、判断が出るまで時間がかかるし、その間収容されることもある。そして難民にせよ、在留特別許可にせよ認められる人はごく限られている。「あいつが認められてなぜオレが駄目なんだ?」、「あいつはさっさと仮放免になったのに、オレはまだ収容所だ」、そんなおもいがビルマ人社会にうずまいている。疑心暗鬼にもなる。同胞であり、友人であっても信用できなくなる。マッチの火がすぐさま火事になる、そんなあやうい空気がビルマ人コミュニティーをおおっている。