田辺寿夫(シュエバ)

さまざまな門出
2001年3月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第24回(『恋するアジア』第31号)

しっかり者のお姉さん

新世紀を迎えたばかりの一月の初旬、ぼくの携帯に一本の電話がかかってきた。職場にいる時間帯にわざわざ携帯を鳴らすのはまずビルマ人である。交換を通さなくてすむし、ほかの人が出て日本語が必要になるおそれもない。はたしてビルマ人女性だった。

「ウー・シュエバ・ラー(シュエバさんですか?)」

「はい。そうですが」

「マトゥエダー・チャーバービ(ごぶさたしています)。私はTです。覚えていますか?」

そう言われても、思い出せない。Tというのはごくありふれた名前である。姓がないビルマ人の名前を一人づつ区別して記憶するのも、記憶の山のなかから引っ張り出すのも容易ではない。てがかりを求めて、ぼくはとりあえずいつものパターンで探りをいれる。

「えーと。どこでお会いしましたっけ?」

「渋谷のOでよくお会いしたTですよ」

「ああ。Oの……。思い出した。ほんと久しぶりだね。元気?」

渋谷の居酒屋「O」の名前が出た時に記憶がよみがえった。名前まで正確に覚えていたわけではないが、この電話をしてきた女性のイメージはすぐ頭に浮かんだ。

Oは大衆向けの居酒屋チェーンで、渋谷駅近辺だけでも三軒ぐらいある。もう四、五年前になるだろうか、その頃ぼくはそのうちの一軒のOへよく顔を出していた。渋谷駅に近い職場での仕事を終えてから、ビルマ人の友人と、あれやこれや、ビルマ人社会の噂話や、いささか人生相談めいた話をする場として、このOを重宝していた時期があった。

Oには、ビルマ人の人たちが大勢働いていた。チューボー(厨房)で皿洗いや料理の下ごしらえをする人もいたし、ホー(英語ホールのビルマ語なまり。ビルマ人の発音は最後の子音が消えることが多い。客のいる場所)でウェイター、ウェイトレスとして働く人もいた。Tさんはそのウェイトレスの一人だが、もうベテランらしく、いわば主任格にみえた。

中国系のビルマ人なのか、色白の彼女はテキパキしていて、見ていて気持ちのいい働きぶりだった。客あしらいは水際だっていた。その日のおいしいつまみや、連れのビルマ人の口に合いそうな料理を上手にアドバイスしてくれた。ビルマ語でわあわあしゃべっても大丈夫な席にも案内してくれる。そんな彼女を同僚のビルマ人ウェイター、ウェイトレスもお姉さんのように頼りにしている様子がうかがえた。

Oに限らず、日本の居酒屋でウェイトレスをしているビルマ人女性はたくさんいる。そんな女性たちと顔なじみになると、ぼくは「タミー」と呼びかけることが多い。タミーは「娘」の意味で、実の娘でなくとも、男性から見て、自分の娘ぐらいの年恰好の女性に対して、親しみをこめて代名詞として用いる。しかしTさんについては、「アマ」と呼んでいた。アマは「姉さん」の意味である。日本でも飲み屋などで注文を取りに来る女性に「おねえさん」と呼びかけたりするが、それとは違う。男性からみて、同年輩あるいは少し目上の女性に対して、尊敬と親しみをこめて使う。Tさんは、明らかにぼくよりはるかに年下だったが、しっかり者に見えたので、自然にそんな使い方になったのだろう。電話の声をききながら、昔のことをなつかしく思い出していた。

花嫁の依頼

渋谷のOへは、一緒によく行っていたビルマ人が二年前にアメリカへ移住してしまって以来、足が遠のき、ここ数年は一度も行っていない。Tさんから電話をもらうのも初めてである。

「久しぶりだね。で、どんな用事なの?」

「二週先の日曜日に結婚披露宴があるのでウー・シュエバに手伝って欲しいんです」

「日曜日ならいいけど。司会とか通訳とかすればいいの?」

「はい、そうです」

「じゃ大丈夫。OKだよ。それで誰の結婚披露宴なの?」

答えが返ってくるまで少し間があった。はずかしそうな声がきこえてきた。

「あのー、私が結婚するんです」

「そうなんだ。それはおめでとう。喜んで出席させてもらうよ」

と、ぼくは間髪をいれず答えたが、実は驚いていた。その仕事振り、落ち着きぶりからして、Tさんはとっくにミセスだと思い込んでいたからだ。ご本人の結婚だときいた途端に、あまり驚いた声を出しては失礼だと思ったから、なるべく自然にきこえるようにお祝いを言ったつもりである。

そんなわけで少し体裁を取り繕うはめになったけれども、ぼくはほんとうにうれしかった。Tさんが結婚することも、店の行きずりの客にすぎなかったシュエバを思い出して電話をくれたことも。ぼくの携帯電話の番号は、結婚披露宴のビデオ制作を仕事にしているビルマ人からきいたという。普通は、結婚披露宴の司会・通訳の依頼は、そうしたビデオ屋さんからぼくに来るものなのだが、彼女はわざわざ自分で直接かけてきた。

披露宴の当日、開宴時間の一時間ほど前にぼくは会場の中野サンプラザへ着いた。式次第などを会場の担当者と打ち合わせなければならないからである。ビルマ人同士の結婚披露宴で、出席者も多くがビルマ人だから、どんな具合に進行するのだろうかと会場の係員たちは心配しているのが普通である。それに、細かいことまで打ち合わせるには言葉の問題がある。日本語ができる司会進行役が早めに行くと担当者は安心する。そんなわけで、自慢にはならないが、ビルマ人の結婚披露宴がよく開かれる高田馬場の千代田平安閣と中野サンプラザの係員たちのあいだではぼくの顔と名前は「便利屋」よろしく知れ渡っている。

控え室ではTさんがどっしりと椅子に座ってお化粧をしていた。出を待つ大女優のような風格が感じられる。娘の晴れの日のためにわざわざビルマから駆けつけたという、もうかなりご老齢のお母さんがあれこれと面倒を見ている。ヘアメイクにとりかかっている青年は日本人かと思ったら、ビルマ人だという。控え室の光景をビデオにおさめているのもビルマ人である。式場は借りるとしても、出来ることはなるべく自分たちでしたほうが経費が少なくて済むのだろう。

控え室の隅でメモを片手に頭を抱えている男がいる。花嫁が彼に向かって「ウー・シュエバが来てくれたわよ」と声をかけた。彼が披露宴の幹事であるらしい。さっそくフロア・マネージャーを呼んで、三人で式次第の打ち合わせを始めた。話をしていてなにかおかしい。きいてみると彼は幹事ではなく、新郎本人だった。悠然とかまえた新婦の指示のもと、着付けもしないで、自分たちの華燭の典がスムースに運ぶようにあれこれと気を配っている新郎の姿はなかなか好ましい。これは手伝ってあげなければという気にもなった。披露宴はなごやかに進行した。出席者たちはしっかり者の新婦とがんばり屋さんの新郎の異郷での新たな門出をなごやかに祝ったのだった。結婚してからTさんは、夫をコウコウ(兄さんの意味だが、妻から夫に向かって言うと「あなた」と甘え、慕う感じ)とは呼ばずに、マウン(やはり「あなた」のことだが、こっちは本来「弟」の意味で、姉さん女房っぽい表現になる)と言うんだろうなあきっと。

日本からカナダへ

もう一つ門出があった。二月の中旬のある夜のこと、高田馬場のビルマ料理店「ナガニ」でささやかな送別会があった。日本に長く住んでいるビルマ人男性Kさんとビルマ人女性Sさんは、ほぼ同じ時期にそれぞれ日本を去ってカナダへ移住することになった。友人たちが急遽送別の宴を張ったのだ。集まったのは、日本人が七、八人、ビルマ人が十五、六人、いずれも旅立つ二人にとっては親しい友人たちである。

二人とも母国民主化をめざして日本で活動を続けていた。さらに、二人とも日本政府法務省に対して難民認定を申請した。この場合の難民とは、日本政府も批准している国際的な「難民の地位に関する条約(難民条約)」に定義されている「人種、宗教、国籍、政治的意見などを理由に、国籍国において迫害を受ける恐れがあるために外国に逃れている、または逃れることを希望する者」をさす。いわゆる政治亡命に該当する。二人の場合、民主化をめざして活動をしており、軍事政権からにらまれている。帰国すれば、投獄など迫害を受けるおそれは十分にある。そのことが充分に証明されれば、日本政府は彼らを難民として認定し、保護する責務がある。

しかし、日本政府は二人の難民認定申請を却下した。二人から異議申し立てがなされたが、これも却下された。つまり、二人には難民として認定するに足る充分な根拠がないと日本政府は判断した。この判断は不当であるとして、二人は法務大臣を相手に東京地裁に行政訴訟を提起し、係争中であった。

この間、二人は在京のカナダ大使館に赴き、自分たちの置かれている状況を訴えた。数ある民主主義国のなかからカナダを選んだのは、たまたま二人の親族がカナダに在住しているという事情があったからである。大使館は難民認定申請のフォームへに記入させたうえで、さらにいくつかの書類の提出を求めた。それからおよそ十ヶ月、カナダ政府は二人を難民として認定し、カナダへの移住を認める入国査証を発給したのである。

日本では長い年月をかけても認められなかった難民資格が、カナダ大使館経由でわずか一年もかからずに認められた。同じ人物からの、したがって同じ内容の申請について、日本政府はダメといい、カナダ政府は認めた。同じ難民条約の批准国なのだから、同じ精神、同じ定義にもとすいて判断がなされているはずである。それが違った結果を生むのはなぜなのだろうか? 素朴な疑問が湧いてくる。

集まったビルマ人たちはほとんど難民認定申請の経験を持っている。難民資格を得た人もいれば、難民としては認定されなかったが、「法務大臣による特別の恩典」とされる特別在留許可を受けた人もいる。現在申請中で結果はまだ出ていない人もいる。また、Kさん、Sさんと同じように、一次申請、異議申し立てとも却下されて行政訴訟裁判で係争中という人もいた。そうした過程で、「不法滞留者」として入国管理局の収容センターに拘束された経験を持つ人もいた。

二人が難民としてカナダに受け入れられたことをみんなはいちように喜び、二人の今後の幸せとあわせて母国民主化の達成を望む気持ちにも変わりはなかった。しかし、なんとなく釈然としない空気はただよっていた。いうまでもない。なぜカナダ政府に認められるものが日本政府によって認められないのかという疑問である。ひとり一人の身の上にかかわることである。難民としてみとめられなければ、彼ら、彼女らの身分は単なる「不法滞留者」であるから、最悪の場合、軍事政権が牙をむいている母国へ強制送還される運命が待ち受けている。

はなむけのおわび

ビールやワインが入り、座が盛り上がってきた。出席者のひとりひとりが二人へのはなむけの言葉を贈る。ぼくの順番がまわってきた。ぼくは二人との十年にもおよぶ長いつきあいをふりかえりながら、はなむけの言葉にふさわしくなかったかもしれないが、二つのおわびを口にした。

ひとつは大上段にふりかぶって日本国民の一人としてのおわびである。

……KさんとSさんが日本に居るあいだ、日本はビルマの民主化に向けてなんら積極的な貢献をしてこなかった。のみならず、日本政府、日本社会、そして日本国民は、二人を難民として認定しないことをはじめ、二人が日本で生活するうえでのさまざまな制約を課してきた。苦しみを与えてきた。二人はそれぞれの努力の結果としてカナダへ移住する。それはそれですばらしいし、大いに喜んではいるが、逆にいえば日本が二人をはじき出した結果である。それを思うと申し訳ないし、重々おわびしたい。……

もうひとつは、シュエバ個人として、わがみをふりかえってのお詫びである。

……シュエバは団体職員でありサラリーマンである。この本業に世間並みの時間を割いている。このほかにビルマ市民フォーラムというNGOの活動に参加している。翻訳や通訳などでビルマ難民弁護団の仕事をお手伝いもしている。そんなこんなで在日ビルマ人の人たちと触れ合う機会は多く、ビルマ人社会でシュエバは「お助けマン」として有名な存在になりおおせている。頼りにされるのはありがたい、お役に立てるのもうれしい。

いろいろな相談が持ち込まれる。居酒屋で働くビルマ人女性の結婚披露宴を喜んで手伝ったりもする。警察から電話がかかってきて、あなたと話したいと捕まったビルマ人が言っていると連絡を受けると、そのビルマ人とは知り合いというほどの関係ではなくても、とりあえず駆けつける。「不法滞在」で収容されたビルマ人に会いに行くのもしょっちゅうである。実に忙しい。

だからKさんとも、Sさんとも、いい友人ではあったけれども、とおりいっぺんのつきあいしかしなかったうらみがあると反省している。時間をとって、ゆっくりと話をしていれば、おたがいよくわかりあえて、もっと深い心のつながりが芽生えていたかも知れない。それを思うと残念だし、この場でおわびしたい。ほんとうにすみませんでした。……

ぼくの二つのお詫びで席はシーンとした。話が終わったと同時に、その静けさを打ち消すような声があちこちから飛んできた。「ぼくらはウー・シュエバにいつも感謝してるよ」、「日本政府は悪くてもウー・シュエバが謝る必要はない」と口々にぼくをなぐさめてくれる。相も変わらずビルマの人びとの心根は優しい。むろんぼく自身そうした反応はなかば予想はしていた。

しかし、だからといって、目立とうとしたり、受けを狙ってみんなにとって意想外であろうお詫びを口にしたのでは決してない。お詫びは二つとも本心からのものであった。