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田辺寿夫(シュエバ)

おもしろうてやがてかなしき祭りかな~第16回ビルマ水祭り~
2007年4月27日配信 

ダジャンモウ

水祭り(ダジャン)の時期、4月の半ばに降る季節はずれの雨(モウ)をダジャンモウといい、吉兆とされる。ビルマなどの熱帯モンスーン地帯の稲作国では近づく田植えのために早く雨が降った方がありがたいからだろう。それでなくとも10月頃から4月頃までは乾季、雨はめったに降らない。河川の水量は減り、土は乾いてほこりが舞い上がる。おまけに3月ごろからは耐えがたい暑季がつづく。そんなときに降る雨は乾ききった大地を潤おし、暑さをやわらげてもくれる。そもそも水祭りは一年に一度天上界の神さまダジャーミン(帝釈天)が地上に下りてくるのを迎え、人々はたがいに水をかけあって一年の汚れを落とし、あらたな気持ちで新年を迎える行事である。

西暦2007年の今年、ビルマ(ミャンマー)本国ではすでに水祭りは終わっている。4月17日がビルマ暦1369年の元旦であった。しかし日本では会場(北区飛鳥山公園)の都合で4月22日(日)に水祭りが開催されることになっていた。その前日、ぼくは高田馬場のビルマ料理店「ミンガラバー(「こんにちは」の意味)」で朝日新聞のY記者と会っていた。Y記者は日本のビルマ人社会をうろつき、ビルマの人たちからシュエバおじさんとして認知されているぼくのことを人物紹介風の記事にしたいのだという。

もう昼下がりの時間だったから客は少なかった。それでもミャンマービールを傾けながらYさんと3時間ほど話しているあいだに顔見知りのビルマ人たちが次々に出入りし、声をかけてくれる。お店のご主人の女性も時々話しに加わった。

「ウー・シュエバ、久しぶり、元気ですか?」

「うん、おかげさまで。R(難民)やSS(在留特別許可)のことで毎日忙しいけどね」

「明日はダジャンに来ますよね?」

「もちろん行くよ。雨がふらなければいいね」

天気予報は曇りのち雨だった。ビルマではともかく東京では雨が降ったら困る。公園の野外ステージには屋根がない。料理などを作って売る出店もテント掛けではあるが、お客さんたちは立ったまま露天で食べる。ビルマでは濡れてもすぐに乾くが日本では風邪を引いてしまう。なんとか水祭りの終わる夕方までは天気がもってほしいよねとみんなで言い合った。

雑踏のなかで

さて水祭り当日、天気はなんとかもちそうだ。曇り空ではあるが飛鳥山公園の木々は鮮やかな新緑で迎えてくれた。ぼくが会場に着いたのは11時ごろ。すでにステージではロックの演奏が始まっていた。食べ物を売る店も準備OK、呼び込みを始めていた。去年よりは賑わっているなあ、それが第一印象だった。2000年前後にはこの水祭りに在日ビルマ人3000~4000人が大挙して押し寄せた。名古屋や仙台からやって来る人たちもいた。それが昨年は1000人まで行かなかった。ビルマ人の知り合いに連れられて、あるいは通りがかりにのぞいて行く日本人の数は年々増えてはいるがなにしろビルマ人が少なくなると活気が薄れる。(なお主催者によると当日の参加者はおよそ1500人とのこと)

参加者が減った原因は2つある。一つは滞在期限超過者(オーバーステイ)の取り締まりが厳しくなったこと。これは2003年秋以降である。法務省入国管理局、東京都、警視庁は当時26万人ほどいた不法滞在外国人を5年間で半減させるという目標をかかげて摘発に乗り出した。そのために一時は1万人を越えた在日ビルマ国籍者の数が減った。帰れる人は自ら名乗り出て、あるいは捕まった後に帰国して行った。残っている人も駅や盛り場などで不審尋問を受け、捕まる危険があるから怖がってあまり外出しなくなった。

もうひとつはビルマ政府の「取り締まり」である。本来水祭りは政治には関わらない伝統行事であるが、今年で16回目を迎えた日本での水祭りを主催するのはビルマ民主化同盟(LDB)である。いうまでもなく母国の民主化をめざす団体のひとつである。ステージにはアウンサンスーチーの写真が飾られている。軍人支配に反抗するシンボルとして1974年に廃された旧ビルマ連邦国旗が高々と翻ってもいる。壇上からビルマ民主化を訴えるゲストもいる。

名物のタンジャ(囃し歌)のなかでは、権力者たちを皮肉るセリフも飛び出す。となると、たかだか友だちに会おうと水祭りの会場へやってきたとしても、軍事政権からは「反政府」活動に加担していると見られる。実際に東京の水祭りに参加し、そのときの写真やビデオを持って帰国したビルマ人が空港できびしく尋問され、拘束されたこともある。だから年に一度のお祭りだからと気楽にやってくるわけには行かないのである。来たくても我慢する人もいる。

にもかかわらず今年は参加者が多かった。ビルマ人の多くが「おれはもう帰国しない、難民認定を申請するぞ」と覚悟を決めたのだろうか。表情はいちように明るかった。とりあえず主催団体LDBの委員長チョーチョーソウ(Kyaw Kyaw Soe)に挨拶をしようとしたが姿が見えない。最寄りのJR王子駅でビルマ人が捕まったという情報が届いてあわてて飛んで行ったとのことだった。やはりビルマ人をとりまく情勢は明るくはない。

次々にビールを渡されて

会場に着いてまずビルマ市民フォーラム(PFB)のテントに顔を出し、ビルマの服装に着替える。テントのなかではPFBの運営委員のひとりマイケル(ビルマ人。アイルランド独立運動の志士マイケル・コーリンズに傾倒してマイケルと名乗っている)が黙々と売り物の春雨スープを作っている。マイケルの奥さんも手伝っている。その奥さんの腰に例によって5歳ぐらいの息子がまとわりついてぐずっている。おなじみの光景である。そういえばこのマイケルの結婚式もぼくが司会・通訳をしたんだ、もう何年たったのだろうという感慨にとらわれた。

公園の広場に張り巡らされたテントを順番にまわってみる。主催団体のLDB、NLD-LA(国民民主連盟・解放地域)日本支部、BDA(ビルマ民主化行動グループ)などは母国民主化を叫ぶ政治組織である。さらに在日ビルマ少数民族協議会(AUN)に属するアラカン、カレン、シャンといった民族の人たちもそれぞれ民族衣装をつけて郷土の料理を大声でお客さんたちにすすめている。このほかにBWU(ビルマ女性同盟)日本支部やABSDF(全ビルマ学生民主戦線)の店も出ていた。またビルマ人たちに日本語を教える講座を開いているミンガラー・ネットワークも日本人とビルマ人たちが協力して店を開いていた。どの店をのぞいても見知った顔がある。こちらが名前を覚えていなくてもむこうは知っている。

「サヤー(先生)、アーペーバー(買ってくださいよ)」と声がかかる。なかにはすぐに食べ物を渡す人もいる。一軒ごとに食べていては身が持たない。「後で、後で」と逃げる。しかし、缶ビールを渡されると喜んで受け取るのがシュエバのシュエバたる所以である。ビール500ml缶は500円ぐらいで売っている。何年か前までは代金を払おうとしていたのだが彼ら、彼女らは絶対に受け取らない。もう今はあきらめて、喜んで「喜捨」をうけている。

この日も朝日新聞のY記者がぼくにぴったりくっついて取材をしていた。そのYさんにもシュエバの知り合いだからとビルマ人たちはビールを差し出す。「シュエバにビールはつきものだ」というのはほんとうなんですねと彼はにこにこしていた。

ヤンゴンで水祭りを

舞台では古典舞踊やタンジャッも始まっていた。会場全体が盛り上がってきた。PFBの事務局を手伝ってくれている日本人女性Tさんも踊りの輪に加わっている。知らなければ日本人だとわからない。なかなかのものである。日本で生まれた幼いビルマ人の女の子も舞台で踊り、喝采を浴びていた。彼女はたしか高田馬場にある戸塚第二小学校の生徒である。プログラムの合間をぬってゲストのスピーチが入る。すでにビールはかなり入っているが通訳シュエバの出番である。

ビルマ人には絶大な人気のある渡辺彰悟弁護士がまず登場した。PFB事務局長でもあり、在日ビルマ難民弁護団の事務局長でもある。渡辺さんは在日ビルマ人たちの置かれているきびしい状況にふれ、それでもがんばってほしい、そしていつかは、この飛鳥山公園の緑以上に美しいヤンゴンの緑のなかで、ビルマの水祭りを一緒に心から楽しみたいと挨拶した。

次に登場したABSDF委員長タンケー(Than Khe)は早口で勢いよくしゃべる。ぼくが日本語に訳しおわらないうちにもう次のセリフを吐いている。ほとんどアジ演説だが心はこもっていた。ABSDFは1988年の民主化闘争で活躍した学生達が軍事政権に追われて陸路国境を越えてタイに入り、結成した組織である。一部は武器をとって政府軍とたたかっている。タンケーさんもタイからやって来た。

「敬愛するアウンサンスーチーの写真の前で、独立闘争を思い起こさせる旧ビルマ連邦国旗の前で、ビルマの同胞たちと水祭りを祝えるなんてなんとすばらしいことか。俺はいまABSDFのTシャツを着てしゃべっている。こんなことは母国じゃ絶対にできない。そうだろう。自由にものを言うこともできない母国の仲間たちにもおもいを馳せよう。そしてみんながんばろうぜ。そのうちにヤンゴンで、母国で、自由で楽しい水祭りを開けるようにしようぜ……」

タンケーの演説は大拍手で迎えられた。日本人の人たちも拍手をしてくれた。その後にアメリカからやって来た二人の文学者マウン・スアンイー(Maung Swan Yi)とウー・ウィンペー(U Win Pe)が挨拶した。マウン・スアンイーが話の最後にひとつだけ覚えている日本語を披露しようと言って「ニホン=ビルマ、バンザイ、バンザイ!」と叫んだ。彼は子供のときに日本軍が作った日本語学校で学んだのだろう。水祭りの雰囲気のなかで、それを思い出し、日本人にサービスしたのかも知れない。いずれにせよ、ビルマの人たちの気持ちはひとつである。

「いつになったらビルマで水祭りを楽しめるようになるのだろう……」