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田辺寿夫(シュエバ)

名古屋とビルマ~ビルマ文芸講演会報告・その2~
2006年3月24日配信 

いざ名古屋へ

東京で開かれた「ビルマ文学者の日・文芸講演会」は盛況のうちに幕を閉じた。その一週間後の2005年12月4日には、名古屋でも同じ趣旨の講演会が予定されていた。東京で熱弁をふるって聴衆を大いに沸かせた在外ビルマ人文学者マウン・スアンイー、マウン・スィンチェーと、冷や汗をうかべながらも、なんとか講師の役をつとめおおせたシュエバの三人は名古屋へ向かった。名古屋にもビルマ人はたくさん住んでいる。ビルマ民主化同盟(LDB)名古屋支部を中心に母国民主化をめざす人たちが熱心に活動をつづけている。東京のモウタウチェーほどの規模ではないが、「トゥタ(知識)タハーヤ(組織。集合体)」と命名された図書館も市内の公団住宅の一室を借りて開設され、ビルマ人たちの手で運営されている。

シュエバは名古屋で行なわれたビルマの人たちの祖国民主化を訴えるデモ行進に何度か参加したことがある。目抜き通りをシュプレヒコールをあげながら歩いた。繁華街を通るせいか立ち止まって耳を傾けたり、目を輝かせて見つめる人の数は東京でのデモよりも多いように感じた。それになにより名古屋にやってきて気づくのは日本人の個人・団体の支援態勢がととのっていることである。デモや集会のようなビルマ人民主化団体の活動についてはもちろん、滞在資格の問題や生活上のこまごまとしたことまで日本人ボランティアの方々がビルマ人の相談に乗ってくれている。

何年か前、シュエバは名古屋地方裁判所で貴重な経験をした。名古屋在住のあるビルマ人を原告とする「難民として認めない決定の取り消しを求める訴訟」の法廷通訳をつとめた。その日は本人尋問が行われた。原告ビルマ人に対して原告側代理人の弁護士と被告(国・法務大臣)代理人の検事がそれぞれ質問をする。長い裁判の期間をつうじて本人尋問は一回しか行なわれない。「難民に該当する」のか「難民には該当しない」のか判決の行方を左右する大事なプロセスである。ずいぶんたくさんの人が詰め掛けていて傍聴席はほぼ埋まっていた。東京ではなかなか見られない現象である。日本人もいればビルマ人もいた。シュエバは熱心に聴き入っている人たちにも聞こえるようにといつもより大きな声で通訳につとめた。

一時間ほどの原告側の質問が終わったところで裁判長は十分間の休憩を告げた。法廷を出て廊下の隅にある喫煙コーナーでシュエバがタバコに火をつけようとしていると、やはりタバコを吸っていたおじさんが声をかけてきた。

「いやあ、通訳、ごくろうさん。聴いていて面白いよ。事実は小説より奇なりだなあ」

日焼けして、いかにも肉体労働者といったいでたちである。法廷で通訳席から傍聴席を見渡したときに、そんな雰囲気を漂わせる人たちが何人かいるのにシュエバは気がついていた。一見、裁判所にはなじまないこのおじさんたちは入場無料、冷暖房完備の裁判所を憩いの場にしているのだろうかなどと思っていた。そのおじさんの一人にいきなり声をかけられシュエバはどぎまぎしてしまった。

「わざわざこの裁判の傍聴にいらしてくださったんですか?」

「そうだよ。行政に苛められているのはビルマ人も俺たちも同じだからね。応援しなきゃ」

おじさんはそう言って名刺をくれた。名刺に目を走らせたシュエバは思わず顔をあげておじさんを見つめた。おじさんは笑みを浮かべている。名刺には氏名、所属するNGOの名称につづいて住所が刷り込んであった。名古屋市○○区△△一丁目××公園内。そしてカッコがついている。(郵便は届きます)。えっ、そうなんだ、おじさん、ホームレスなんだ。ビニールで覆ったテント小屋で暮らしているんだ。シュエバは感嘆のまなざしでおじさんを見つめなおした。ホームレスのおじさんたちもビルマ人たちを支援してくれているのである。なんだか励まされた気がして、再開後の公判廷ではおじさんたちによくわかってもらいたい一心で、シュエバは声を張り上げて通訳をつづけたのだった。

名古屋には大隅良務(おおすみ・りょうむ)さんらが2000年暮に立ち上げた「日本ビルマ問題を考える会」があり、ビルマの民主化問題に関心を寄せ、ことあるごとにビルマ人たちを応援している。そのメンバーの一人でもある馬島浄圭(まじま・じょうけい)さんはビルマにかかわる活動を幅広く展開し、ビルマ人たちから大いに頼りにされている。仏教者国際連帯会議(INEB)の中心メンバーとして活躍した僧侶・鈴木了和(すずき・りょうわ)さんも忘れられない。鈴木さんは惜しくも2004年10月に亡くなられたが、2005年11月には、その遺志をついで基金・「RYOWA Fund」が昨年設立された。名古屋を含む中部地方在留の外国人たちの生活支援を行なっている基金である。ビルマ人たちが働いている店や工場の経営者たちのなかにもいろいろなかたちで支援活動をしてくれる人も少なくない。名古屋在住のビルマ人たちはこうした日本人の善意とボランティア活動に感謝しなければなるまい。

ウー・オッタマと名古屋

名古屋の講演会では東京からのやってきた三人に加えてビルマ人僧侶もお話をされた。前述の馬島さんたちの招請で折から名古屋を訪れていたサヤードー(僧正)・ウー・ケーマーサーラ(Khaymar Sarra)である。ウー・ケーマーサーラはラカイン(アラカン)州スィットゥエ(Sittwe)出身、1988年民主化闘争時に結成されて以来、民主化陣営の一翼を担なってビルマ=タイ国境地域などで活動をつづけている青年僧侶同盟(ヤハンビョウ・タメガ=ABYMU)の議長である。落ち着いた、それでいて内に秘めた情熱を感じさせるウー・ケーマーサーラと話していてシュエバは、ウー・オッタマ(U Ottama。Uttamaとも綴る)を思い出した。

日本の文献には「オッタマ僧正」として登場するウー・オッタマ(1880~1939)はやはりスィットゥエ(当時の呼び方はアキャブ=Akyab)出身。インドやイギリスに学び、ビルマ・ナショナリズム運動のさきがけとなった青年仏教徒協会(YMBA=Young Men’s Buddhist Association。1906年結成)などを通じて民族主義の主張を展開した。のちの西本願寺法主大谷光瑞(こうずい)と親交があり、1907(明治40)年に最初の来日をはたして以来何度も日本を訪れた。

1914年にビルマで刊行された著書「ジャパンピー・アットォウパッティ(日本国伝記)」(大野徹・大阪外国語大学ビルマ語学科生による邦訳は『鹿児島大学史録』第3号~第5号に掲載)は当時のベストセラーになったという。この著書のなかでオッタマは日露戦争での日本の勝利、明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死など日本での見聞を紹介している。オッタマは、日本国民はきわめて規律正しく、明治天皇の下に見事に結束したがゆえにヨーロッパの先進国であるロシアに勝ったのだと強調し、イギリス植民地支配の下にあるビルマ人たちに希望を失わず、結束を固め、独立闘争に立ち上がろうと呼びかけた。

オッタマ僧正は名古屋と縁があった。1910(明治43)年のこと、当時日本に滞在していたオッタマは名古屋市内の鶴舞公園で開かれていた物産展を見物した。そして会場に近い栄町のある呉服店にも顔を出し、店の主人伊藤郎左衛門祐民(すけたみ)と知り合った。祐民は代々伊藤次郎左衛門を名乗る「いとう呉服店」の十五代当主である。当時、呉服店を株式会社組織にし、時代に合った経営をめざしていた。いとう呉服店は後に松坂屋百貨店となり祐民はその初代社長として腕を揮う。年齢がほぼ同じだったオッタマと祐民はいきなり意気投合したらしい。ビルマの将来を担う若者たちを日本へ送り出して教育を受けさせたいというオッタマに祐民はそれぐらいの世話は喜んでしましょうとこたえた。

3年後の1913年、オッタマは自分の妹を含む六人のビルマ人青年男女を日本へ送り込んだ。祐民は約束通り若者たちの面倒をみてくれた。名古屋市内の「ビルマ園」と名づけた家に住まわせ、6年間にわたって教育を受けさせた。そのうちの一人はのちにGCBA(General Council of Burmese Association 。1920年YMBAを改組して誕生)のリーダーとして民族主義運動に活躍したウー・ソウテイン(U Soe Thein)である。ビルマ園はのちに楊輝荘と呼ばれるようになり、祐民は中国、タイやインドネシアなどアジア各国から受け容れた留学生たちをここに住まわせるようになった。

その後もオッタマと祐民との交流はつづいた。オッタマは「ビルマ人のビルマ」を主張し、英領ビルマで民族意識を鼓吹する活動をつづけた。植民地政府によって何度も逮捕・投獄されたり、インドへ追放されたりしても信念を枉げることはなかった。オッタマと祐民が生涯最後に顔を合わせたのは、オッタマがインドへ追放されていた1934(昭和9)年のことだった。祐民はその前年に松坂屋社長の職と一切の公職から退き、アジアからの留学生の世話や社会福祉事業にうちこんでいた。

この年、祐民はアジア仏跡巡拝の旅に出かけた。祐民らの一行は船で英領マライ(マレーシア)のペナンに着き、そこからタイのアユタヤやカンボジア(仏領インドシナ)のアンコールワットを巡ったあとビルマを訪れた。ラングーンではかつて日本で学んでいたウー・ソウテインら五人と再会を果たした。そこからインドのカルカッタへ寄港、オッタマと再会した。このときオッタマは祐民一行を案内してタゴールに会わせたりしている。祐民とオッタマはおたがい積もる話をしながら旧交を暖めたのであろう。

この再会から5年後の1939年9月、オッタマはラングーンで獄死、そのわずか4ヶ月後の1940年1月に伊藤次郎左衛門祐民は名古屋で病没した。オッタマは日本軍がビルマ侵攻をめざす時期に日本であらためてクローズアップされる。日本を愛し、日本にならって欧米と対抗し、独立闘争に立ち上がろうと呼びかけたオッタマは「大東亜共栄圏」のスローガンを体現したかのように見られたのである。ビルマを占領した日本軍がラングーンに開設した日本語学校はオッタマ日本語学校と命名されたことからもうかがえるように、オッタマの名前は「日本=ビルマ友好」のシンボルとして使われた。その結果、オッタマはすでに生を終えていたにせよ、軍国主義・ファシストの日本と協力をした人物とされてしまった。オッタマについてのそうした評価がこのままでいいのかどうかは議論のあるところであろう。

いずれにせよ、オッタマは名古屋と、そして松坂屋社長伊藤次郎左衛門祐民と深い縁(えにし。ビルマ語ではタンヨーズィン)を結んだ稀有なビルマ僧である。目つきは鋭いが、柔和な、いかにもアラカン民族といった風貌のオッタマ僧正の肖像画は伊藤家の本宅に近い名刹覚王山日泰寺に残っている。また伊藤家には、オッタマ僧正からの手紙などその交流の深さをしのばせるさまざまな遺品が保存されているという。オッタマのひそみにならい、いま名古屋で活動をするビルマ人たちにもまわりの日本の人たちと良い関係を築き、歴史的に意味のある足跡をこの名古屋の地に刻んでほしいとシュエバは思ったのだった。

ビルマの父

名古屋での文芸講演会の日。午前中は市内の南山大学で人権を学ぶ授業におじゃましてビルマの人権状況についての特別講義に参加した。マウン・スアンイーは、英語はうまくないので断りながらもわかりやすい英語で学生たちにビルマの人権にかかわる話、とくに出版や言論についての状況をエピソードをまじえて講演した。シュエバも相手が日本人の学生たちに、日本語で「ビルマ」と「ミャンマー」という国の呼称が並存していることを例にあげてビルマの現状をほんの少しばかり説明させてもらった。

それからビルマ人のお宅でおいしいビルマ料理の昼食にありついた。文芸講演会の開催にあたっては、名古屋在住のほとんどのビルマ人が協力している。食事を出してくれた家の人、その料理を作ってくれた人、大学から講演会場まで車で送ってくれた人、ずいぶんたくさんのビルマ人たちが裏方をつとめている。食事をいただいたのは団地のなかの一室だった。この団地の別の一室に「トゥタ・タハーヤ」図書館があるというのでシュエバも見せてもらった。いまのところ本の数は少ないが、名古屋のビルマ人たちが協力して、充実した、しかも民主化活動にも有益な図書館にしたいと案内してくれたビルマ人はその意気込みを語っていた。

文芸講演会の会場に着いた途端、顔なじみの日本人の方がシュエバを見つけて駆け寄ってこられた。名古屋在住の岩内健二(いわうち・けんじ)さんである。1941年生まれの岩内さんはビルマ戦線を体験した世代ではないが、ビルマのこととなるとメロメロになってしまうビルマ・フリーク、いわゆるビルメロの一人と自称されている。岩内さんとビルマとの縁は1965年から2年間ヤンゴンにある日本人学校で教師をつとめたことから始まった。帰国後は愛知県の高校で先生をしながら、その一方日本ビルマ文化協会(ジャパン・ミャンマー・インチェーフム・アティン。現在の日本ミャンマー友好協会)の役員として長い間活躍された。

岩内さんとお会いするのは10年ぶりぐらいだろうかなどとシュエバが感慨にふけっていると、岩内さんは真新しい本を一冊差し出された。

「ビルマでの体験などをまとめたんです。やっとこの10月に出来上がりました。読んでみてください」

表紙にシュエダゴンパゴダの写真をあしらったきれいな装丁の本である。写真もたくさん入っている。シュエバはお礼を言ってから自分の席につき、ぱらぱらとページをくっていると、隣りにいたマウン・スアンイーが覗き込み、一枚の写真を見つけておどろきの声をあげた。

「おい、これはウー・マウンマウンティンじゃないか!」

写真のキャプションをたしかめるとたしかにウー・マウンマウンティン(U Maung Maung Tin)とある。岩内さんにとってウー・マウンマウンティンは「師であり、父のような」存在なのだという。そのウー・マウンマウンティン先生が2001年6月に84歳で亡くなった。岩内さんは本の中で一章をもうけて哀悼の念をこめて「ビルマの父」との交流を綴られている。マンダレー大学でビルマ文学史や歴史の教鞭をとったこのビルマ有数の知識人をやはり上ビルマ出身の文学者マウン・スアンイーは良く知っていたのだ。

シュエバもウー・マウンマウンティンを知っている。はじめてビルマを訪れた1970年にヤンゴンで会った。それより以前、シュエバがまだ大阪外国語大学ビルマ語学科の学生だった1960年頃、ウー・マウンマウンティンの声を聴いたことがあった。ビルマ語学科の先輩でビルマへ留学した立石則行(ノリユキの漢字表記は間違っているかも知れない)さんが恩師ウー・マウンマウンティンと交わしたお別れの挨拶を録音したテープをビルマ語会話の教材として聴いた。立石さんはウー・マウンマウンティンに可愛がられ、テインシェイン(Thein Shein)というビルマ名をもらった。同じように岩内さんはティンカイン(Tin Khaing)と名づけてもらったと書いておられる。

ウー・マウンマウンティンは日本人の知己が多かった。ビルマ行きがまだ難しかった1960年代から70年代にかけてビルマを訪れたほとんどの日本人が彼の世話になっている。大野徹『知られざるビルマ』(1970)や会田雄次『アーロン収容所再訪』(1975)などにも登場する。ロンジーにタイポン姿の小柄な先生は写真の中で胸を張っている。シュエバはいつ誰から聞いたのか判然としないが、ウー・マウンマウンティンが登場する逸話を覚えている。

……ウー・マウンマウンティンは日本人を案内してマンダレーの町を歩きまわることが多い。古都マンダレーは内陸部に位置し、一年を通じて気温は高く、乾燥している。それに埃りっぽい。日本人は早々にくたびれてしまう。ウー・ティンマウンマウンは名所旧跡を見終えると気息奄々の日本人を街中の食堂につれて行く。彼らは例外なくビールを注文する。届いたビールを一気に喉に流し込む。そして声をあげる。「うまい!」。こうしたことが重なってウー・マウンマウンティンは日本語ではビールのことを「うまい」というのだと思いこんでしまった。……

あらためてこの話を書いていてシュエバは自分の記憶に疑問がわいた。知日派のウー・マウンマウンティンである。Beerを日本語でビールというぐらいは知っていただろうに。だから「うまい」がビールのことと思いこんだのは、ウー・マウンマウンティンではなく、彼が日本人を案内して立ち寄った店のビルマ人たちだったのではなかろうかと今シュエバは思い直している。

権力に屈しない人たち

マウン・スアンイーは岩内さんの本のページを繰りながらさかんにシュエバに質問する。彼は図書館司書(ライブラリアン)でもある。多分本の蒐集家でもあるだろう。この貴重な本をアメリカまでもって帰りそうである。返してくれそうにない。シュエバは慌てて岩内さんに頼みこみ、もう一冊本をもらった。講演会が始まる。マウン・スアンイーは岩内さんの『ビルマ日記』を持ったまま、演壇に立ち、「この名古屋の日本人の方が書かれた本に登場するウー・マウンマウンティンは私にとっても尊敬する先輩の一人です」と話を始めた。

マウン・スアンイーが語るウー・マウンマウンティンのイメージはシュエバにとって新鮮なものだった。シュエバは飄々とした、日本好きのおじさんだとイメージしていたが、実はなかなか骨のある学者だったとマウン・スアンイーは話す。学問上の事柄に関してはたとえ権力者である軍人が圧力をかけても自説を譲らなかったという。日本風にいうならば「曲学阿世の徒」ではなかった。これは独裁国家ではなかなか勇気のいる生き様であり、だからこそ自分を含めて多くの人々が彼を敬愛し、尊敬しているのだとマウン・スアンイーは強調した。

そういう筋を通す学者としてマウン・スアンイーは次に歴史学者・元マンダレー大学教授タントゥン博士(Dr. Than Tun)を挙げた。タントゥン博士はほんの4日前、2005年11月30日に82歳で亡くなった。やはりマンダレーに住み、国内外の多くの人々から慕われている女性文学者ルードゥ・ドーアマーの90歳の誕生日を祝うパーティーに出席した翌日のことだった。タントゥン博士は王朝時代を中心とした実証的なビルマ史研究で世界に名を知られていた。2000年度福岡アジア賞・学術研究賞を授賞している。マウン・スアンイーは博士のそうした業績をあげ、さらにラングーン大学学生だった当時、学生運動にも加わり、全ビルマ学生連盟(ビルマ語略称バガタ)の委員長までつとめたことを紹介した。シュエバは驚いた。同時に親しみもおぼえた。あの温顔の紳士も若い頃は血気さかんな愛国青年だったのだと。

タントゥン博士は1980年代後半、東京外国語大学客員教授として日本に滞在した。その時期にビルマ研究者が集まって東京外大でシンポジウムが開かれた。シュエバも発表をした。英語で論文を書き、それを読むのである。英語が苦手なシュエバは一計を案じた。まずビルマ語で論文を書き、英語の上手なビルマ人の友人に英訳してもらった。ちゃんと読めるようにと一夜漬けの勉強をした。その発表を聴いたタントゥン先生はニコニコしながら誉めてくれた。「コウ・シュエバの英語はききやすかったよ」と。これはいまでもシュエバの数少ない自慢話のひとつである。

権力者は歴史にも口を出す。1962年から1988年までビルマの独裁者として君臨したネウィン(Ne Win)もそうだった。多くの学者はこの権力者に逆らえなかった。こころみにビルマ独立闘争史の類を読むがいい。1962年以降に出版された本では、ネウィンは向かうところ敵なしの知将であり、部下おもいの将軍であるなどと歯の浮くような賛辞が連ねられている。タントゥン博士の専門は現代史ではないから、それほどのことはなかっただろうが、マウン・スアンイーによると、歴史的な事実についてネウィンはいろいろないちゃもんをつけた。そんな時タントゥン博士は「それは素人の思いつきですよ。歴史は事実にもとずかなければなりません」と一蹴したという。

マウン・スアンイーは最近の事例をあげた。白象にかかわる話である。皮膚の色が白っぽい象はたいへん珍しい。王朝時代には白象が現われると、時の王の威光はいや増し、御世は栄えると信じられた。人々は白象を神のようにあがめた。軍事政権のもとでその白象が発見された。政府はカネや太鼓で囃したてた。御用学者や文化人たちは軍事政権指導者たちの治世がすぐれているからであり、今後とも磐石であることを示すものだと一斉に称えた。ひとりタントゥン博士はこう吐き捨てた。

「白かろうと、黒かろうと象は象、ただの獣だよ。人間が象を崇めたてまつってどうするんだ」

ウー・マウンマウンティンといい、タントゥン博士といい、マウン・スアンイーはたんにその反骨ぶりを称えたのではない。人はその持ち場で全力をつくすものなのだ。真理を探究するのだ。正義を追い求めるのだ。そうはさせない権力者がいるならば、体制が邪魔をするならば、人はその持ち場持ち場でたたかうのだ……。自分も母国を追われてアメリカに住み、それでもなお文学者としての自負を持ち、国民に対する責任をはたそうとしている、そうした気概がひしひしと伝わってきた。いうまでもなく会場一杯につめかけたビルマ人たちはそれをシュエバ以上に感じただろう。マウン・スアンイーの熱い講演から、先人たちの生き様にふれ、感銘をうけていることは彼ら、彼女らの表情からうかがえた。この名古屋のビルマ人たちのあいだから、それぞれの分野で、学び、腕をみがき、努力を積み重ね、障害をはねのけて活躍する人物が輩出してほしい、いや輩出するに違いないとシュエバは確信した。

参考文献

『鈴木了和 遺稿・追悼文集』鈴木了和を書き留める会 2005 (非売品)
Ven. Khaymar Sarra "Hitting below the belt :Principle tactics of SLORC" ABYMU 1997
頴田島一二郎(えだじま・いちじろう)『ビルマ獨立の父 オッタマ僧正』文松堂書店 1943
鹿児島大学『史録』第3号(1970)~第5号(1972)
上坂冬子『楊輝荘 アジアに開いた窓―選ばれた留学生の館』講談社 1998
雑誌『新亜細亜』(南満州鉄道 東亜経済調査局編集発行)昭和18(1943)年9月号,10月号ほか。
ウー・セインミィン『ビルマ200年歴史事典』ピンマイエスィー・サーペー 1969 (ビルマ語)
岩内健二『ビルマ日記 1965-1967 金色に輝く仏陀の国に赴任して』あるむ 2005
大野徹『知られざるビルマ』芙蓉書房 1970
会田雄次『アーロン収容所再訪』文藝春秋 1975
ボ・ミンガウン著 田辺寿夫編訳『アウンサン将軍と三十人の志士』中央公論社 1990
雑誌『モウタウチェー』Vol.3 No.1(2006年1月1日)ビルマ語
雑誌『アハーラ』No.58(2005年12月4日)ビルマ語