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田辺寿夫(シュエバ)

シュエバこの10年~ビルマの人たちとともに
2006年5月20日配信 ビルマ市民フォーラム第46回例会

ウー・ヌさんには及びもないが

この十年間のことどもを話してほしいといわれてとっさに「セーフニッヤーティー・ジャパンピー(日本の十年)」なるタイトルが頭に浮かんだ。ビルマ現代史を学んでいる人ならすぐに気がつくだろう。そう,独立ビルマの初代首相ウー・ヌが書いた『ig;ESpf&moDArmjynf(ビルマの5年間。初版は1946年3月)』のもじりである。日本軍が1942年年明けとともにビルマに侵攻し、はじめは解放軍として迎えられたが、そのうちにファシストの本性をあらわしてビルマ人をさんざんに苦しめる過程をタキン党のリーダーの一人として政治の要衝にあった立場から叙述したおもしろい本である。この本は『Burma under the Japanese:1941-45』として英訳され、さらに日本語にもなっている。『日本占領下のビルマ』というタイトルで雑誌『中央公論』昭和30(1955)年4,5,6月号に連載された。

昨年の11月に東京で開かれたビルマ文芸講演会でオーストラリア在住のビルマ人文学者マウン・スィンチェーが文学者でもあり政治家でもあったウー・ヌのことをとりあげたことがあった。通訳をしていたシュエバは、出席していた日本人図書館関係者にウー・ヌの著書の日本語訳があることを思い出して紹介した。その時は昭和30年頃の中央公論だったと覚えていただけで正確な日付は思い出せなかった。さすがにもちは餅屋、そのうちの一人がすぐに検索して見つけ出しコピーを送ってくださった。

あらためて読んでみた。やはり面白い。敬虔な仏教徒として知られるウー・ヌは文学青年であった。ユーモアを忘れない文章はとても読みやすい。日本軍がビルマに侵攻した時期、ウー・ヌ(当時はタキン・ヌ)は政治囚としてマンダレー刑務所に収容されていた。獄中で政治囚たちは共産主義者タキン・ソウを中心にマルクシズムを学び、独立へむけての活動方針などを毎日のように話し合っていた。しかしタキン・ヌはタキン・ソウから次々に渡されるカタイ共産主義文献についてはツンドク状態だった。タキン・ソウは叱責する。少しは勉強しろよと。タキン・ヌはいっかな動じない。こう書いている。

……「君がビルマのレーニンになるというのなら、僕はビルマのゴルキーになる」と笑ったものだった。そして一年半の服役中に五つの戯曲と二つの小説を書いた。……

ほんとうは文学者になりたかったタキン・ヌは疾風怒濤の時代に苛烈な占領支配をつづける日本軍と独立を求めるビルマ人たちの渦の中で、政治の世界に入り込んでしまった。大東亜共栄圏のもと「独立」したビルマのバモー政府では外務大臣(のちに情報大臣)をやらされた。そしてアウンサン亡き後、独立ビルマ連邦の初代首相にまでなった。おそらく生来の国と民族と人々を思いやる気持ちがあって、政治の世界から足抜きができなくなってしまったのだろう。

シュエバは自分をウー・ヌと比べようなどと思い上がってはいない。こちらはただのおじさんにすぎない。それはよくわかっている。しかし、たまたまビルマについていくらか知識があり、ビルマ語もまあまあできるせいもあって、ビルマ民主化運動、日本におけるビルマの人たちの難民申請の動きなどの渦のなかに首どころか全身すっぽりとのみこまれている。Shwe Ba under the Burmese とまでは言わないが、ウー・ヌの書いていること、書きざまにいちいち共感を覚えるこの頃である。

10人寄れば15のパーティー

2006年5月16日午後4時半頃、3ヶ月ぶりにミャンマー連邦大使館(民主化勢力の人たちはナアパ税金徴収所と言い慣わしている)前へ行った。カレン民族に対する軍政の苛酷な弾圧に抗議する集会がこの日世界の11カ国(12ヶ所)で一斉に行なわれた。火曜日である。参加者はせいぜい50人ぐらいだろうと思って行ったのだか、200人近いビルマ人がすでに整然と並んでいるのを見て驚いた。まわりは住宅地であるところから、みんなでスローガンを叫ぶのは最後の10分間だけとのこと。それぞれ団体名や要求を書いたプラカードを持って静かに歩道に立っている。今回の抗議行動の眼目はカレン民族への軍事政権の弾圧であるだけに、やはり民族衣装に身を包んだカレン民族男女の姿が目立つ。その群衆を前に、車道を挟んだ反対側の歩道では大使館の塀(最近えらく高くなった気がする)を背にAUN(在日ビルマ少数民族協議会)に属する各民族組織をはじめLDB(ビルマ民主化同盟)、NLD.LA(国民民主連盟・解放地域)、DPNS(ルーバウンティッ。新しい社会のための民主党)、ABFSU(全ビルマ学生連盟)、それにKNU(カレン民族同盟)などの代表が次々に決意表明をする。カレン語やシャン語もまじる。集会を司会を担当していたNLD.LA日本支部のゾーミントゥンさんにふられてシュエバにも話をする順番がまわってきた。

……アーロンゴウ・レーザーバーデー(直訳すると「みなさんを尊敬します」。まあ「おつかれさまです」という感じ)。今日は平日なのにこんなにたくさんの方々に会えるとは思いませんでした。(ここでいつものシュエバなら「ヤスミをとったために、明日から仕事をクビになる人も多いことでしょう」と冗談をはさむところだが、参加者の厳粛な表情を見て軽口はやめにした)

いろいろな組織に属するみなさんが一致団結し、一カレン民族への弾圧に対して軍事政権を糾弾する声をあげておられるのは素晴らしいことです。感激しました。ビルマ人が10人いれば15の政党組織ができるとからかった日本人の友人(ほんとうはビルマ人の友人からきいたのだが、これもその場の雰囲気に気おされて日本人と言い替えた)にこの光景を見せてやりたい。ビルマの人たちは国の、民族の一大事となればこれこのように見事に結束するのだと……

大使館前で話した言葉はその場で感じた正直なおもいである。一方で民主化をめざすビルマの人たちの間に次々と新しい組織が、それも元の組織と袂を分かつ形で生まれているのも事実である。その日も「ビルマ民主化連合」だったか、あまり聞き覚えのない団体名の入った横断幕を掲げているグループを見かけた。カチンやカレン民族の新しい組織ができたというニュースもごく最近きいた。少し前には「アハーラ」から「モウタウチェー」が分かれた。組織がたくさんあればいいってもんじゃないぜと言いたくなる時もある。

いうまでもなくビルマ民主化の道筋は見えてこない。ゴールが近いとの実感はない。むしろより遠くなってきたと感じる人は多いだろう。なかなか母国へ帰れそうにない。ひとつ腰を据えて活動をするかといった感じでいろいろな組織が次々と誕生するのかも知れない。統一と団結こそ大事ではないかとのおもいはあるが、この日の抗議行動に示されたように、いったんことあれば即座にまとまれるというなら、それはそれでもいいではないか。2006年4月26日、これも平日に総評会館で開かれた国際シンポジウムでもビルマ日本事務所を中心に各団体が協力し、数え切れないほどのビルマ人を集めたではないか。

できれば、民族や宗教、出身地、出身基盤(学生とか公務員)、関心分野(文学、評論、芸術など)ごとに集まっている団体がいろいろあることで、多彩・多様な活動が生まれ、それが民主化運動に幅の広さと深みを加えることにつながってくれればいいなあとシュエバは思っている。もうひとつ、なかなか帰れない以上、日本での在留資格も考えなければならない。日本の入国管理局が難民認定や在留特別許可を考慮するにあたって、どういう団体のどういう役職者かということを、どうも重視するようだから組織がたくさんあって、役職も多い方がいいのではなどと、つまらないことを考えてしまうこともある。シュエバが連日難民申請者の渦のなかでうろうろしているせいかもしれない。

前門の虎、後門の狼

ビルマ人たちが日本で難民申請をしはじめたのは、1988年のビルマ民主化闘争で活躍した若者たちが、1988年9月に国権を掌握した軍事政権の弾圧を逃れて日本へやって来るようになった1990年代の初めごろからである。はじめは例えば「60日条項」だけで不認定になるなど門前払いのような状況がつづいた。少数とはいえ、徐々に認められるようになったのは1998年頃からである。(在日ビルマ人難民弁護団あつかいの難民認定者数は98年から2001年にかけて、それぞれ8、6、15、13人)

それは、たとえ長期間収容されても、どうしても帰国しないという本人たちの強い意思とがんばり、早くから取り組んできた弁護団の努力、ビルマ市民フォーラムをはじめ難民支援協会(JAR)や牛久入管収容所問題を考える会(今は「牛久入管面会者ネット」というのだろうか?)、それに在日各ビルマ人団体の協力支援によるところが大きい。2005年に日本政府に難民認定を申請した外国人は384人いた。そのうち認定された人は46人(ビルマ人はRと呼ぶ)、認定はされなかったものの、人道上の配慮などから在留が認められた人は97人(ビルマ人はSSと呼ぶ)、あわせて143人のうち95人がビルマ国籍者という結果を見ても成果があがりつつあるといえる。

こうしたなか、ここ数年、とくに2003年後半からビルマ人の難民認定申請に関して、これまでの延長線上とは言い切れない事態が起こりつつある。不法滞在で逮捕された後、警察の留置場から、あるいは入国管理局の収容施設から難民認定を申請する人が急増している。この背景にはビルマにおける政治状況・人権状況の悪化と日本における取り締まりの強化があると考えられる。

2003年5月30日、ビルマ北部ザガイン管区ディベーインで襲撃事件が起きた。襲撃を受けたのはおりから地方遊説中の国民民主連盟(NLD)のアウンサンスーチー書記長、ティンウー副議長を含むNLD党員とその支持者らの一行である。襲ったのは連邦団結発展協会(USDA)のメンバーを中心とする「地元の民衆」とされる。死者は60数人(100人以上との説もある)。USDAは軍事政権によって結成されたいわゆる御用団体である。計画的なこの襲撃は軍事政権のNLD潰しと受けとられた。「アウンサンスーチーさえ殺されそうになったんだぜ」、「軍は反対勢力を完全に叩すまでやるつもりだ」、「これじゃとても帰れない」、そんな声が日本のビルマ人社会に飛び交った。

軍事政権のこうしたやり方に反発して在日ミャンマー連邦大使館の前では連日ビルマ人による抗議行動が行なわれるようになった。そこにはそれまで政治的な活動には参加していなかったビルマ人の顔も見られた。それでなくとも、日本で開かれる水祭り(ビルマ暦の新年。4月)やダディンジュッ(雨安居明けの祭り。10月)には東京とその周辺に住むほとんどのビルマ人が参加している。こうしたごく当たり前の年中行事であっても、参加したことが当局側に把握されれば帰国時に尋問を受け、逮捕・投獄される危険があると在日ビルマ人たちは恐れる。なぜならこうした催しを主催するのは軍事政権から「在外反政府テロリスト団体」とレッテルを貼られているNLD.LA日本支部であったり、LDBであるから、参加者は、たまたまお祭りを楽しみに行ったにせよ、そうした団体の同調者と見なされるのである。となると、たとえ日本でそれほど政治活動に参加していなかった人であっても、「アウンサンスーチーまで殺そうとしている」軍事政権が支配する母国へ、とても帰れたものではない。

ちょうどその時期、2003年9月頃から入国管理局・東京都・警視庁が連携を強めて、25万人におよぶ不法在留外国人をむこう5年間で半減させるという目標を掲げて摘発を強化した。職場で、アパートで、駅で逮捕されるビルマ人の数は急増した。このビルマと日本での動きの相互作用で、捕まる前に、あるいは捕まってからでも「迫害を受ける恐れ」を持つビルマ国籍者たちの難民認定申請が増えてきたのである。

なぜ今ごろになって?

現象としては「駆け込み的」ともみえるビルマ人の難民認定申請ではあるが、申請者のなかには、在日の長い人がけっこうたくさんいる。母国で1988年民主化運動やその後の非合法的な活動にかかわって当局から尋問を受けたり、逮捕された経験を持つ人も少なくない。もちろん来日後もビルマ民主化をめざす団体に加わってデモなどに参加もした。それが今になってやっと難民認定申請をする。「60日以内といわないまでもなぜもっと早く難民認定を申請しなかったの?」と思わずいいたくもなる。

在日ビルマ人たちと話していると難民認定申請が遅れた理由はおもに2つあると気づく。いずれにも彼ら、彼女らなりの国や民族を愛する気持ち、家族をおもう気持ちや矜持がからんでいる。曰く「国の状況がよくなればすぐに帰ろうと思っていたから」。その気持ちはわからないでもない。1988年の民主化闘争は軍によって武力で押さえ込まれてしまったが、1990年5月の総選挙ではNLDが圧勝し、在日のビルマ人たちも大いに希望を抱いた。その後も軍事政権の支配は続いたが、指導者アウンサンスーチーが何度か自宅軟禁から解放された時とか、国連や外国政府が軍事政権への働きかけを強めた時とか、「これで母国は良くなる、帰れるぞ」と思ったこと幾度かあり、難民申請まで踏み切らなかったというのである。

もうひとつの理由はややわかりにくい。言語の問題がからむ。ビルマ語では難民を「ドォッカーデー」と表現する。この単語はもともとパーリ語(上座部仏教経典に使われる言語)起源で、災害にみまわれた人、苦難をあじわう人、困り果てた人というニュアンスで使われる。日本語の難民という単語も、戦禍や災害を逃れた一般的な難民にも、難民条約の定義に該当する条約難民にも使われるから、さして気にする必要はないと思うのだが、プライドの高い若者たちはこれを嫌う。「オレは自分の意思で母国のために自分を犠牲にしてでも活動しようとしているのだ。なにも困り果てているわけではない。外国の政府の保護などいらない。捕まえるなら捕まえろ」と粋がる(ようにシュエバにはみえる)のである。

こうした人たちの多くが、今、厳しくなった取締りのなかで右往左往し、「帰国すれば迫害を受ける恐れがある」からと、ようようにして難民認定を申請しているのである。もちろん今でも母国の状況が好転すれば即刻帰国するというビルマ人は多い。日本で難民として認定されたり、在留特別許可を得ることは彼らにとっては一時的なことであり、誰しも母国へ帰って平穏な生活を営めることを願っている。

国民の多くが希望を託しているアウンサンスーチーやティンウーは、ディベイン事件以降軟禁状態にある。これまでの軟禁より厳しいらしく、指導者たちの肉声はまったくきこえてこない。2004年10月には「柔軟派」とされたキンニュン首相が更迭される政変があったが、タンシュエ上級大将をトップとする軍のピラミッド体制に揺るぎはない。首都移転、カレン民族追い出しなどしたいほうだいである。国連、欧米諸国、最近はアセアンまでが民主化、人権状況の改善を求める圧力を強めているがさして効き目はない。軍事政権は新しい憲法草案を討議する国民会議を経てビルマ民主化を実現するとして七段階ロードマップなるものを発表している。しかし新しい憲法ができたところで政権指導者たちの敬称がBo(軍人につく冠称)からU(一般人男子の冠称)に変わるだけ、軍人の支配はつづくと多くのビルマ人は見ている。

日本にいるビルマ国籍者たちはなべて愛国者である。国をよくしたいと願っている。日本政府が影響力を発揮してほしいと望んでいる。軍事政権となあなあで付き合うのではなく、国民大衆の気持ちをくみとり、民主化・人権に力点を置いた対ビルマ外交を展開してほしいと訴えている。難民資格を取得した人、在留特別許可を得た人、申請中の人、これから申請しようという人、さまざまな立場のビルマ人たちもが大使館の前で、時には国会議事堂の前で、声をあげつづけている。

どうする? シュエバ

日本占領期のタキン・ヌではないが、このところ日本におけるシュエバの「株」は本人の望むと望まないとにかかわらず上昇している気配がある。ビルマ人のあいだで人気の高いビルマ語週刊誌「Voice of Burma」2006年1月1日号(ネット配信もしているとのこと)にはなんと「ヤンゴンにはチョーヘイン、日本にはシュエバ」というタイトルの記事が掲載された。「ヤンゴンでは誰もが当代一の人気俳優チョーヘインを知っているように、日本にいるビルマ人は誰もがシュエバを知っている」という意味である。週刊のタイトルや見出しには誇張がある。「よう言うわ」とは思ったが内心まんざらでもなかった。まだある。日本で編集、タイ国メソートで印刷、世界各地に読者を持つビルマ語月刊誌「ティッサー・革命評論」2006年2月号にはティッサー同人と「アハーラ」同人が協力して1月8日に東京・南大塚ホールで開催した講演会の報告が載っている。この講演会には海外からの著名人モウティーズン、マウンソウチェイン、アウンソウウーらが参加し、シュエバが司会をつとめた。

……講演会の司会を担当したのはMr.Tanabeことウー・シュエバであった。彼はビルマ語が堪能なばかりか文化、文学、政治についても該博な知識を持っている人物である。虐げられている人々の側に立つ人物でもある……

こういう文章を引っ張り出すのはかなり気恥ずかしい。自慢しているようにもみえるだろう。許していただきたい。しかし人は人に誉められるとうれしい。とくに最後の一節が気に入ってしまっているシュエバである。そういえば2006年2月12日には連邦記念日の式典で「2006年度ビルマの友人賞」なるものを授与され、大好きなチン民族のジャケットをいただいたりもした。それやこれやで「ロウヤージョウ・ナッテー(やった甲斐があった)」という感慨にひたることもある。

もちろんシュエバにも主義・主張がある。ビルマの民主化は達成しなければならないと考えているし、在日のビルマ人の待遇はもっと改善しなければならないと考えてもいる。しかし、そう考えているから、こうすべきであるからといちいち納得して毎日を行動しているわけではない。考えるまでもなくすること、しなければならないことはいっぱいある。

ここ数日を引き合いに出そう。金曜日第1限は恵泉女学園大学で「現代国際事情」の授業をおえてNHKで夜まで仕事。土曜日第一限は中央大学経済学部で「人権論」の授業、そのあとビルマ市民フォーラム例会の前にいずみ橋法律事務所で難民申請者と弁護士の打ち合わせの通訳をした。日曜日は「難民として認めない処分の取消しを求める」訴訟の本人尋問を前にしての打ち合わせが入っている。そのあと都内南大塚ホールで「アハーラ」同人が呼んで来日が実現したという話題の人物サライ・トゥンタンさんの講演会がある。シュエバも何かしゃべれと言われている。日本のメディアが関心を示せば記者会見の通訳をつとめることになる。おまけに来週はもっとも神経をすり減らす仕事である本人尋問の法廷通訳が2件予定されている。日曜日はオークス、その次はダービーだ。いったい、いつ、どこで馬券を買えばいいのだ?

これはもう考えてから動くという状態ではなく、動きつつ考える、動き終わってから、あるいはいくつもの仕事を積み重ね、一区切りをつけながらようやく自分のしていることの意味が見えてくるという感じではある。それでいいとシュエバは思う。

前にあげた記事のタイトルと講演会の紹介記事は実はシュエバと名乗る日本人をシュエバというかつて、それこそウー・ヌと同時期に一世を風靡した俳優シュエバになぞらえている。より正確にはスクリーンのなかでシュエバが演じた男にである。「チョーヘイン」の演じるような美男子・二枚目ではない。武骨でぶきっちょな男である。しかし正義感は強い。不正を憎む。真っ正直である。「虐げられている人々」、弱い人々の側に立って、へこたれずに権力に挑む。その故にそれこそウー・ヌ時代には庶民から圧倒的に支持された。好かれた。そのへんにいるおじさん、いてほしいおじさんとして愛された。そんな男に擬せられるなんてもって瞑すべしではないかと自分に言い聞かせているシュエバである。