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田辺寿夫(シュエバ)

ビルマの人権と日本のかかわり
2006年3月12日配信 ビルマ・ジャーナル誌

はじめに

3月13日は1988年にヤンゴン工科大学学生ポンモーが当局によって殺された日。この事件に反発した学生たちによる政府当局への抗議行動はたちまちのうちに多くの国民の支持を得て一大反政府運動として広がって行った。世に言う1988年ビルマ民主化闘争である。1988年9月、民主化闘争は軍の武力制圧によって鎮圧された。その後、軍事政権の強権支配がつづくなか、民主化勢力は国民運動の発火点となった3月13日を「ビルマ人権の日」と名づけ、ビルマの民主化と人権回復に向けて決意を新たにする日としている。ビルマ国内では、この日に大きな行事を開催することは許されない。もっぱら海外で母国民主化を叫び、人権の尊重される社会を実現するために運動をつづけるビルマ人たちが式典や会議を催している。2006年3月12日には、在日のビルマ民主化団体が共催して「第18回人権の日記念演説・討論会」が都内・池袋のエコ・トシマ(豊島区生活産業館)で開催された。会場には100人を越える在日ビルマ人がつめかけ、立ち見の人や会場に入れない人もでるほどだった。(この小稿は当日筆者がビルマ語で行なったスピーチを日本語にしたうえ加筆したものです)。

このように、ここ日本には軍事政権の追求を逃れて、あるいはより良い生活環境を求めて多くのビルマ人たちがやって来ている。彼ら、彼女らの多くは「自由で人権の保障された民主主義国・日本」で母国の抑圧された人権状況を訴え、母国民主化の声をあげている。その声は日本社会にも届く。関心を寄せる日本人は一様に言う。「ビルマって信じられないほど酷い国なのね」と。

たしかに日本人の目から見てビルマの政治・経済・社会の状況は想像を絶するほどひどい。人権などないに等しい。そのことに同情を寄せる日本人は少なくない。それはそれでいい。しかし、ひるがえって日本はどうなのだろう。ほんとうに民主主義国だと安心していられるのだろうか。人権は十分に保障されているといえるのだろうか。

仕事をするな、旅行もするな

日本で活動するビルマ人の多くは滞在資格の問題に悩まされている。オーバーステイ(滞在期限超過・不法滞在者)になってしまう人が多い。そのため法務省入国管理局(ビルマ語略称はラワカ)に収容されるのも日常茶飯事である。入国管理局の収容所から仮放免で出てきた人たちは「日本政府はナアパ(SPDC=国家平和開発評議会=軍事政権の最高権力機関のビルマ語略称)と変わらないじゃないか!」と溜め息をつく。仮放免とは在留資格のない人たちで、難民認定申請や「難民として認めない決定の取り消しを求める訴訟」の結果を待っている人たちに対し、本来は収容施設に拘束するのだが、まあしばらく外にいてよろしいと入国管理局が与えてくれるものである。

入管は仮放免を「恩典」あるいは「お目こぼし」と考えているらしい。簡単には認めてくれない。条件も厳しい。まず仮放免が認められて収容施設を出るにあたっては保証金を支払わなければならない。20万円から50万円ぐらいが相場だという。さらに厳しい条件がつく。稼動してはならない。すなわち収入を得られる仕事をしてはいけないということ。毎月ないしは三ヶ月に一回入管に出頭し、ハンコをもらう必要もある。そして居住する都道府県から他の地域へ行く場合、例えば埼玉県に住んでいる人が、友人に会うためや、会議に出席しようとして東京都へ行くには、その都度入国管理局に届け出て許可を得なければならない。これらは当事者であるビルマの人たちにとって決して容易なことではない。

まず保証金の工面。いうまでもなく収容されていた期間、働けなかったのであるから収入は途絶えている。たとえ20万でもたいへんである。友人、知人を頼ってかき集めることになる。その借金を返さなければならないのに「稼いではいけない」と命じられる。生活はどうするのだ、仙人のように霞を食って生きろとでも言うのか。そのうえ他府県に行くのに許可が必要だって? さいたま市から東京都心へはほんの20分だぜ、許可を得るために入管まで行くほうが時間がかかるじゃないかと、その不合理に怒る人もいる。

さも似たり、ナアパとラワカ

仮放免になって苦笑いを浮かべるビルマ人もいる。ここにきて母国でのかつての政治活動の記憶がよみがえってくるのである。軍事政権下のビルマで「反政府活動」に関わっているとされて逮捕され、当局から尋問を受け、拘束あるいは投獄された若者たちは、さんざんにいじめられた挙句、「二度と政治活動はいたしません」との誓約書にサインしてようやく釈放される。親や学校の先生、あるいは地区評議会(日本の区役所や町役場にあたる)の役職者が保証人になってくれてというのが普通である。保証金は制度としてはないにせよ、親たちはそれなりに必要なところへつけとどけをしていることもあるだろう。その後は毎月一回居住地の警察署または地区評議会(区役所や町役場にあたる)に出頭して「悪いことはしていないだろうな」と調べられ、「おかしな組織とつきあうなよ」などと脅迫めいた訓示をきかなければならない。常にMI(軍情報部)や警察それに地区評議会などの監視に目にさらされる。したがって行動の自由はない。旅行も簡単にはできない。国内であっても居住地域外へ行こうとすれば地区評議会に申し出て許可を受けなければならない。

こうした状況のもと、若者たちが逼塞感に襲われるのは当然の成り行きであろう。政治活動はできない。自由にものを言ったり、書いたりできない。学びたくても、例えば「ビルマ人権の日」にその名を残すポンモーが学んだヤンゴン工科大学は、反政府運動の拠点になることを恐れた軍事政権によって解体されてしまった。輝かしい学生運動の伝統を受け継ぐ名門ヤンゴン大学も、ヤンゴン東部大学、ヤンゴン西部大学といったようにばらばらに分割され、通学さえ容易ではない辺鄙な場所へ移されてしまっている。学問水準の低下は覆うべくもない。また仕事をさがすにしても反政府運動に加わって拘束・投獄された経験のある若者にとっては容易ではない。

これはもう外国へ行くしかない。若者たちはパスポート、査証、航空券の手配などをブローカーに頼み、もし当局から目をつけられている人であれば、それなりの金を払って、変名を使ったり、生年月日を偽ったりして、ようようにして出国を果たす。なかでも日本をめざす若者は多い。日本には仕事がある。それになによりも民主化運動が盛んである。探せば昔の活動仲間や友人、知人ともめぐりあえる。

艱難辛苦を乗り越えて、さあ、あこがれの日本へやって来た。たしかに毎週のようにビルマ民主化をめざす会議や集会・デモがある。ここでは自由に、のびのびと活動ができるのだ。と喜んだのもつかの間、滞在期限が超過した。オーバーステイである。捕まった。収容された。母国へ帰れば、反政府的な言動により、軍事政権から迫害を受けるからと難民認定を申請する。そしてやっとのおもいで仮放免。待っているのはがんじがらめの制限つきの生活。思わずもらす一言。「ナアパ(SPDC)と日本のラワカ(入管)はやることが同じじゃないか」

軍艦マーチはどこの曲

ビルマの政治権力を握っているのは国軍(タッマドー=Tatmadaw)である。ビルマ国軍の前身は、日本軍に軍事訓練を受けたタキン・アウンサン(アウンサンスーチーの父。後に将軍)を筆頭にした反英独立運動に挺身する若者たちで構成される「三十人志士」であり、彼らが中心になって結成したビルマ独立義勇軍(BIA)である。BIAは日本軍とともに英領ビルマに進撃した。1942年から45年まで日本軍がビルマを占領支配した時期(ジャパン・キッ=日本時代)には、アウンサン将軍率いるビルマ軍は、日本軍と協力する態勢をとった。しかし、その一方でビルマ共産党などさまざまな組織と語らって日本軍に叛乱を起こす準備を進め、1945年3月27日に対日叛乱を開始した。日本軍敗戦後アウンサン将軍は対日叛乱の際に結成した反ファシスト人民自由連盟(AFPFL。ビルマ語略称はパサパラ)を率いて、戻ってきた宗主国イギリスとのあいだで実力を背景にした独立交渉を行なった。アウンサン自身は独立直前の1947年7月19日に暗殺されるが、ビルマは1948年1月4日にビルマ連邦として独立を果たした。

独立後、アウンサン亡き後のビルマ国軍では、やはり「三十人志士」の一員であったネウィンがリーダーとして君臨する。軍幹部としては、「三十人志士」のメンバーはもちろん、初期のBIAに加わった人たち、日本時代に日本軍が協力して開設した士官養成機関で学んだり、日本の士官学校へ留学した人たちが登用された。こうしてビルマ軍には日本軍のカラーが色濃く残った。

笑い話がある。日本へやってきたばかりのビルマ人が東京の繁華街を歩いていた。ふと立ち止まる。耳慣れたメロディーが流れてきたからだ。ビルマ人はこのメロディーを流している店の前にずいぶん長い間立ちつくしていた。このビルマの歌を奏でている店はいったいなんの店なのだろう、きっとビルマとなにか関係のある店なのだと思いつつ。あとで友人に訊いてわかった。その店はパチンコ屋。流れていたのは軍艦マーチであった。ビルマ人にとって軍艦マーチはビルマのポピュラーな軍歌のひとつである。

逆の現象が3月27日にビルマで起きる。3月27日はもともと1945年のビルマ軍決起を記念した「対日叛乱記念日」である。1970年代の中ごろだっただろうか、この日の呼び方は「国軍記念日」と変わった。当時のネウィン政権は最大の援助国として多額のODAを供与してくれていた日本政府に配慮して呼称を変更したのかも知れない。ともかくこの日、ヤンゴンでは壮大な軍事パレードが行われる。ラジオやテレビからは日がな一日パレードの模様が放送される。ヤンゴンに居合わせた年輩の日本人は驚くことになる。兵士たちはマーチにあわせて行進するのだが、ビルマ語の歌詞で歌われるビルマの軍歌ほとんどすべてが旧日本軍の軍歌なのである。もちろん軍艦マーチも流れる。ほかにも「歩兵の本領」、「愛国行進曲」などなど。なつかしく耳を傾けるのか、いやなおもいで聞くのかは人によって異なるだろう。いずれにせよ、南国の地で、日本軍の軍歌のメロディーに耳を傾けながら、ビルマの軍はまぎれもなく日本軍によって育成された軍隊であることにおもいを馳せざるを得ない。

日本軍の残したもの

日本軍からビルマ軍に受け継がれたものは軍歌だけではない。例えば、ビルマ軍事政権の人権侵害の顕著な例として国際社会がしばしば指摘する強制労働がある。道を作ったり、橋を架けたり、鉄道線路を建設したりといった国の発展のためと称する事業にビルマの国民は駆り出される。それもこの地区からは何人、この村からは何人という具合に地区評議会や村落評議会など行政機関を通しての割当て制であることが多い。無報酬である。それでもビルマ政府は強制労働ではないと主張する。人々はセーダナー(誠意、善意)からお国のためにと自ら労働力を提供しているのだと説明する。だからビルマ政府は強制労働とは言わない。ロウアーペー(勤労奉仕)という言葉を使う。

勤労奉仕、これはさきの大戦を経験した、あるいは、大戦中のことを話にはきいたことのある日本人にとって聞き覚えのある言葉である。そう、日本の国民もアジア・太平洋戦争中は男女を問わず工場や軍施設の作業に動員された。勤労動員、勤労奉仕と呼ばれた。このスタイルはビルマを占領支配した日本軍もそのまま使った。たとえば1943年にはタイとビルマを結ぶ軍用鉄道である泰緬鉄道の建設工事が行なわれた。この時、日本軍は直接に、あるいはビルマの地方行政機関を通じて、ビルマ全国各地から若者を集めた。チュエダッ(汗の兵隊)といわれる「奉仕隊」が編成され、労務者として悪条件の下での鉄道建設工事を従事した。自ら志願した若者もいれば、割当て制で止むを得ず参加した人もいた。ビルマ人労務者だけで数万人の犠牲者が出たとされる。

日本軍支配時代のこうしたやり方をビルマ軍事政権は踏襲しているように見える。他にも例はある。1962年から1988年までビルマは軍人主導の一党独裁体制がとられた。ビルマ社会主義計画党(BSPP。ビルマ語略称はマサラ)である。これもまた戦時日本の大政翼賛会を彷彿とさせる。マサラ時代から現在の軍事政権の時代に至るまで、労働組合も婦人会も青年団もすべてこれ官製の団体であり、支配体制に組み込まれていた。そういえば日本にも敗戦まで政府主導の大日本産業報国会や大日本婦人会があったではないか。

それから連邦団結発展協会(USDA。ビルマ語略称チャンプン)。2003年5月30日、ビルマ北部ザガイン管区ディベインで、アウンサンスーチー書記長やティンウー副議長を含む国民民主連盟(NLD)党員・支持者らの一行を待ち伏せ襲撃して、一躍悪名を轟かせた団体である。政府は大衆団体だというが大政翼賛会傘下の青年団のごとき官製・御用団体であることは明らかである。

日本軍の援助によって作られたビルマ軍。日本軍の軍政支配を体験したビルマ軍。そしていま国権のすべてを掌握したビルマ軍。彼らはかつての日本軍のやり方から多くを学び、継承し、国民を押さえつけるために使っているのではという疑問を払拭できない。そこには戦前・戦中の日本の支配体制がそうであったように、人権意識のかけらもうかがえない。

日本人が思い直すことは

たとえビルマ軍事政権の手法のなかに旧日本軍の残滓が残っているにせよ、日本本体には残っていないと思いたいが、どうもそうは断言できないようである。主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄を三本柱とする日本国憲法がある、それは確かである。しかし、先にあげた仮放免についてのラワカ(入国管理局)のやり方、外国人の人権を尊重していると思えないやり方などはいかにも「お上の言うことには逆らうな」という旧態依然な発想が日本の行政のなかに根強く残っていることを感じさせる。仮放免のあつかいなどは些末なことと片付けるわけには行かない。難民認定申請や在留特別許可取得にかかわる、在日外国人にとっては大切な問題につながるのである。

ほかにも在日ビルマ人をはじめ、在日の外国人の人たちの目線に立てば、まだまだ問題はあるに違いない。日本の法律によって、日本の政府・地方自治体の法律解釈・運用によって、差別されている、人権が尊重されていないと彼ら、彼女らが感じていることはたくさんあるに違いない。なかでも在日ビルマ人の多くは母国の民主化と人権の尊重される社会の実現をめざして日本の活動している。日本だからこそ活動できることに感謝しつつ日本人の理解と協力を求めている。日本人としてはこのビルマの人たちの声に耳を傾けなければなるまい。

ビルマ人たちが日本で活動できるのは日本が民主主義国であるからだ。しかし、その民主主義は十全のものなのだろうか。人権は十分に尊重されているのだろうか。それを考えてみる必要がある。日本での生活の困難を乗り越えてビルマ人たちは、民主主義と人権を勝ち取ろうと努力している。それを日本人として支援したい。それには日本政府の対ビルマ政策をもっとまともなものにして行く努力が日本人に求められる。もうひとつの側面がある。ビルマ人たちの日本での活動を制約するような状況があるならば、それを改善するのは日本人の責任である。ビルマの人たちと話し合い、理解を深め、協力してゆく作業を通じて、日本の民主主義をさらに良いものにし、人権についてももっと改善して行くことができるのではないだろうか。