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田辺寿夫(シュエバ)

シュエバ七変化~ある時は先生、またある時は弟子~
2006年2月25日配信 

ダビードー(弟子)・シュエバ

2006年の正月、シュエバにとっては40年近くつとめた放送局を定年退職してから3年目の新春である。すでに年金をもらっている身である。しかし、悠悠自適とはほど遠い。相変わらず毎日うろうろうろうろ忙しく動きまわっている。スイカとパスネットカードを使いまくっている。

1月のある土曜日のこと。朝9時前、シュエバは家を出て多摩モノレールの乗り立川南に行く。これは土、日の恒例行事で、あまりえらそうに言えないが、場外馬券を買うためである。立川から今度はJR中央線で四ツ谷へ。四谷一丁目にあるビルマ難民弁護団の事務局でもある法律事務所で2時間ほどビルマ人難民認定申請者と弁護士の打合せの通訳をつとめた。このビルマ人はすでに難民認定第一次申請、異議申立ても否定されていて、難民として認めない処分の取消しを求める訴訟の原告になっている。法廷で原告側代理人の弁護士、被告(国・法務大臣)側代理人の尋問をうける期日が迫っているので、それに備えるための打合せである。彼にとっては、日本に住めるか、危険が待っている母国へ送還されるかの境目である。人生がかかっている。通訳には慣れているとはいえ相当に神経を使った。

それが終わると、今度は地下鉄丸の内線で新宿へ出た。昼時である。昼食は駅の立ち食いそばで済ませた。新宿からは小田急線に乗り、狛江へ向かった。狛江の駅にほど近い曹洞宗のお寺で開かれるビルマ僧ケーマーサーラ師の講演会の通訳を頼まれていたからだ。師は1988年民主化闘争時に結成されたヤハンビョウ・タメカ(ABYMU。青年僧侶同盟と翻訳される。青年とは僧侶になってからの年数が浅いという意味)の議長で、反軍事政権の立場から活動している。ふだんはタイ=ビルマ国境を拠点として、ほかの民主化組織と協力しながら軍事政権打倒の運動に挺身している。この日、お寺に集まった日本人の方々は仏教に関心をもっている、あるいはかかわっている女性たちであった。もちろんビルマ民主化運動のなかで、僧侶が果たしている役割についての話が多かったのだが、なかなかに興味深い質問も出た。

「上座部仏教で女性の僧侶が認められていないのはなぜでしょうか?」

ケーマーサーラ師は左手で頭をグリグリかきながら(これは困ったときの仕草ではなく、ビルマ僧侶がよく見せる動作である)仏典や注釈書を引きながら答えた。こうした話には上座部仏教の教典もそれで書かれているパーリ語の単語が頻出する。僧侶の修業をしたことのないダビードー(弟子の意味。僧侶と話すときに男性が使う代名詞「私」)・シュエバはお手上げである。冷や汗が出る。ケーマーサーラ師に同行してきた顔見知りのビルマ人に助けを借りたりしながらようように翻訳する。

「釈尊は男性僧侶の指導を仰ぐなどの条件つきで女性僧侶を認められたことがあります。しかし、いろいろ難しいことがあったらしくて、すぐになくなったようです。現在のビルマでは、僧侶と同格ではありませんが、敬虔な女性信者はメーティーラ(尼あるいは沙弥尼と翻訳される)として、修業に励んでおり、それなりに仏教界に貢献しています」

2時間ほどの通訳をつとめおおせ、やっと家へ帰ることになる。都内板橋区に寄宿しているお坊さんと同行したビルマ人は狛江への道順がよくわからず、一旦町田まで乗り過ごしてしまって、引き返してきたので、始まりが一時間も遅れた。そのせいもあって終わったのはもう夕方である。

狛江駅でお坊さんと別れたシュエバはまず小田急で狛江から登戸へ出る。そこでJR南武線に乗り換え分倍河原に向かう。途中府中本町駅の手前では東京競馬場の建物が見える。とっくに終わっているはずの今日の競馬の結果はどうだったのだろうとシュエバはふと思った。分倍河原駅で南武線から京王線下り電車に乗り換える。これでやっとその日はじめてシュエバの定期券区間にたどりついたことになる。

マウン・シュエバの文壇デビュー

ケーマーサーラ師には2005年12月4日、在日ビルマ人たちが名古屋で開催したビルマ文芸講演会の折りにはじめて会った。ちょうど名古屋に滞在中であった師は、講演会でも飛び入りで仏教文学についてお話をされた。その講演会には著名なビルマの文学者二人が海外から駆けつけていた。アメリカ在住のマウン・スアンイーとオーストラリア在住のマウン・スィンチェーである。二人とも軍事政権の迫害を逃れて海外へ出た文学者であり、文筆活動を通して民主化のためのたたかいに加わっている。この時、シュエバも講演者の一人として東京から参加した。

東京ではその一週まえにすでに文芸講演会が開催され、マウン・スアンイー、マウン・スィンチェー、シュエバの三人が講演した。会場の豊島区民センターには200人を越えるビルマ人がつめかけた。文学者でもないシュエバは高名な文学者たちと同格のあつかいを受けたのである。「日本文学にあらわれたビルマ」という題で講演をしたのだが、いつもの政治的な集会での挨拶よりはるかに緊張した。しかし、こうした機会を得たことがことのほかうれしく、感激した。柄にもなく、それなりに勉強をして講演に備えもした。シュエバの拙い話に耳を傾けてくれるビルマ人聴衆の姿に接して、この際ほかの二人の文学者にならって「マウン(マウンはもともとは弟の意味。みずからを謙遜して名前の前につける)・シュエバ」と名乗りたかったほどである。

文芸講演会のチラシは主催団体であるモウタウチェー(「暁の明星」という意味。旧アハーラを引き継いで東京で在日ビルマ人のための図書館活動を行なっている)が作成した。B5版を三つ折りにした体裁のカラー印刷で英語版とビルマ語版の二種類が配布された。シュエバの写真も入っている。しかし、このチラシの担当者はシュエバの掲載用写真を探すのに苦労したという。

「だってさあ、ウー・シュエバの写真はたくさんあるけど、どれも片手に缶ビールを持っているんだもん」

なるほど、このチラシのシュエバの写真にも、よくよく見ると右手に持っている缶ビールの先っぽの部分が写っている。

ミンダー(「王子」。転じて「俳優」)・シュエバ

東京と名古屋の講演会につきあってシュエバは高名な文学者2人とすっかり親しくなった。いい経験だた。マウン・スィンチェーは日本での体験をオーストラリアへ帰ってからエッセイにまとめ、2006年1月には、東京で発行されている民主化派のビルマ語週刊誌「ボイス・オブ・バーマ」に寄稿した。シュエバはうかつにもそのことを知らなかった。だからマウン・スィンチェーから届いたエッセイのコピーを見た途端腰を抜かすほど驚いた。エッセイの中身はともかくタイトルに度肝を抜かれたのである。

「ヤンゴンにはチョーヘイン、日本にはシュエバ」とある。ヤンゴンはいうまでもなくビルマの首都。そのうち北へ320キロのピンマナーへ首都移転を行なうと軍事政権は発表してはいるが。チョーヘインは当代随一の人気男性映画俳優。二枚目である。タイトルにあるシュエバとはもちろんマウン・スィンチェーが日本であったこのシュエバである。

同時にマウン・スィンチェーは、俳優チョーヘインと並び称せられる人物としてビルマで一時代を画した俳優シュエバを重ねているのである。俳優シュエバがもっとも活躍したのは1950~60年代であるから、いま日本に住んでいるビルマ人で直接映画を見た人は少ない。しかし、今だに話のタネになるほど人気のあった活劇スターである。

俳優シュエバは日本のシュエバよりはるかにましな容姿ではあるが二枚目ではない。勧善懲悪のストーリーに登場する活劇俳優である。貧乏人や悪政に苦しんでいる庶民の味方である。正義の名のもと悪や権力に向かって立ち上がる。素朴な怒りをぶつける。しかし、孤軍奮闘するシュエバは映画のはじめのうちは悪人や権力者にさんざんいじめられる。すると、観客から声が飛ぶ。

「こらっ。シュエバをいじめるな」

それでもシュエバの苦戦がつづく。場内騒然、やがてスクリーンめがけて石が投げられる。そこへ場内アナウンスが流れる。

「みなさん。どうぞお静まりください。シュエバは最後には必ず勝ちます。しばしご辛抱願います」

シュエバはこの有名なエピソードを著書のなかで紹介したことがある。最近会った中年のビルマ人からもうひとつの例をきいた。それは場内アナウンスと同じ内容のスーパーインポーズが画面にかぶって写し出されたこともあったというのである。ほんとうかどうかはわからない。

ともかくマウン・スィンチェーは、ビルマでチョーヘインが人気があるように、日本ではシュエバが多くのビルマ人に好かれていると言ってくれている。かつての映画のなかでのシュエバのように、日本のシュエバは困っているビルマ人のためにあれこれ助けてくれていると書いているのである。シュエバとしては面映くはあるが心底うれしかった。ビルマ語で言えば「ロウヤーチョウ・ナッテー(やった甲斐があった)」という心境であった。

サヤー(先生)、ひとことお願いします

2月19日(日)はまたシュエバにとって盛りだくさんな一日だった。この日は「チン民族の日」の催しがあった。場所は品川の教会である。日本に住んでいるチン人のほとんどはクリスチャンであるからだ。少し早めに会場に着いたので、すぐ近くのミャンマー連邦大使館に足を運んだ。およそ50人ほどのビルマ人たちが軍事政権を批判し、政治犯の釈放や民主化の促進を訴えるプラカードを持って大使館前の道路に立っていた。2003年5月30日に起きたディベイン事件の翌日からほとんど毎日つづいている抗議行動である。党地方支部訪問の旅に出ていた国民民主連盟(NLD)ティンウー副議長、アウンサンスーチー書記長を含むNLD活動家や支持者のキャラバンに、上ビルマ・ザガイン管区ディベイン附近で、軍事政権の御用団体・連邦団結発展協会(USDA)のメンバーらが待ち伏せして襲撃し、60人(一説には200人)を越える死者や多くの負傷者を出した事件である。

アウンサンスーチーやティンウーも負傷した。この事件が在日ビルマ人にあたえた衝撃は大きかった。軍事政権は世界にその名を知られたアウンサンスーチーまでも襲撃し、殺そうとしたのだとビルマ人は受け取った。そうした無法な暴力行為はすなわちビルマ国民の多くが民主化への希望を託しているNLDを完全に潰そうとしているのだとも考えた。民主化勢力への弾圧はますます強まった。日本で母国民主化の活動に参加している人たちは、これではとても母国へ帰ることはできないと強く思うようになった。これまで活動に参加していなかった人たちのなかにも、こうした危機的な状況に直面して、軍事政権打倒、民主化達成をめざす運動に参加する人たちが増えてきた。そのあらわれのひとつが間断なくつづいている大使館前の抗議行動である。

シュエバが大使館前に足を運んだのは3ヶ月ぶりである。道路の端に一列に並ぶビルマ人たちが笑顔で迎えてくれた。知っている人、顔は知っているが名前が思い出せない人、シュエバにとってはまったくの新顔とさまざまである。「サヤー・ウー・シュエバ、ネーカウンラー(シュエバ先生、お元気ですか?)」と声をかけてくれる人もいる。

それぞれ小型の録音機を持った顔見知りのビルマ人が2人、シュエバの姿を見て隊列から抜けて寄ってくる。VOA(ボイス・オブ・アメリカ。本拠はワシントンDC)とDVB(デモクラティック・ボイス・オブ・バーマ。民主ビルマの声。ノルウェーから放送されている)の東京特派員である。ビルマ向けのビルマ語ラジオ短波放送に日本発のニュースやインタビューを提供する仕事をしている。こうしたビルマ語放送の目的は、民主化にかかわるニュースから遮断されているビルマの国民に情報を提供し、励ますことにある。

その二人が口々にシュエバに迫る。せっかく来たのだから、ここで一席ぶってくれ、東京からのニュースとして流したいというのだ。並んでいる人たちもサヤーの声をききたがっているのだからとの殺し文句までついてくる。やらずばなるまい。照れながらもシュエバは大使館の塀を背に、やや声を張り上げて激励演説めいたものをしゃべった。

……アーロンゴ・レーザーバーデー(直訳すると「みなさんを尊敬します」。ここでは「みんなエライね」ぐらいの感じ)。日曜日、たまにしかないヤスミの日にこんなにたくさん集まっていらっしゃるとは思いませんでした。国の平和を望むみなさんの気持ちが伝わってきます。生活の問題、滞在資格の問題などいろいろたいへんでしょう。でもみんなで力を合わせてがんばってください。私たちもできるだけのお手伝いをするつもりです……

ありきたりのスピーチだったが、拍手がおこった。手を振ってくれた人もいた。照れくさい。このスピーチはのちに短波にのってしっかり放送された。翌日の朝早く、シュエバの自宅へ知り合いのビルマ人から「放送聴いたぞ。なかなかよかったよ」と電話がかかってきた。大使館の塀の上の遠隔操作ビデオにばっちり撮影され、ビルマにまで声が流れた。これでますますシュエバにビルマ入国ビザが出る日は遠のいた。ま、いいか。シュエバのスピーチを聴いてくれた人たちは帰りたくても母国へ帰れない身の上の人が多いのだから。その人たちに比べればビルマへ旅行できないくらいはなにほどのことでもないやとシュエバは思い直した。

サライ・シュエバの幸せ

サヤー(先生)と呼ばれることはあっても、ビルマの人たちに対して先生っぽく、あれやこれや指示などしたくないシュエバは、チン民族の日の催しではひたすらおとなしくしていようと思っていた。ただチンのジャケットだけは着て行った。目立つかも知れないが、お祝いの日であるし、感謝をあらわしたかったからである。綾織とでもいうのだろうか、手の込んだ模様の入ったブレザー風の上着である。ただサイズはシュエバには少し大きい。

ジャケットは2月12日に貰ったばかりのものである。その日、シュエバは都内南大塚ホールで開催された「第59回連邦記念日」の集まりで司会の手伝いと通訳をつとめた。この日は1947年、ビルマ独立運動の指導者アウンサン将軍が諸民族の代表たちとシャン州ピンロンで会合を開き、英植民地支配の下で、違った政治形態で統治を受けていた諸民族もひとつの連邦国家として独立することに合意したことを記念する大事な国の祝日である。現在は、民主的な、諸民族平等の連邦国家を建設しようという決意をあらたにする日として、各国で行事が開催されている。ここ日本では在日ビルマ少数民族協議会(AUN)が主催し、およそ300人が参加した。式典のあとに民族舞踊のプログラムも組まれていたから、色鮮やかな民族衣装姿の人たちが多く、会場は華やかな雰囲気につつまれていた。

RHQ(アジア福祉教育財団・難民事業本部)、JAR(NPO難民支援協会)、PFB(ビルマ市民フォーラム)などの日本の団体や、NLD.LA(国民民主連盟・解放地域)、LDB(ビルマ民主同盟)、BDA(ビルマ民主化行動ネットワーク)など在日のビルマ人組織の代表たちが次々に登壇し挨拶をする。シュエバは例によって、日本語はビルマ語に、ビルマ語は日本語にと大忙しで通訳にあたっていた。そのうちにAUNの議長であるチン民族のナンリャンタンさんが出てきていわく、これから「2006年度ビルマ人にとっての良き友人賞」の選出をすると宣言した。AUNを構成するカチン、カレン、チン、シャン、パラウン、アラカン(ラカイン)、モン、ナガという8つの民族の代表がステージに上り、なにやら紙片に書き込んで議長に渡す。秘密投票だとのこと。議長が紙片を集める。かなり芝居がかっている。一枚一枚丁寧に開いて名前を確認する仕草があってから大音声で叫んだ。

「投票の結果、2006年度ビルマ人にとっての良き友人賞は全員一致でウー・シュエバに授与することに決定しました」

おいおい、そういうことは事前に言っておいてくれよな。シュエバは通訳に困った。会場は大拍手である。「なんか私が賞をいただいたようです……」などと日本語でモゴモゴしゃべる始末であった。つづいてナンリャンタン議長は「AUNはお金のない団体です。賞金など出せません。感謝の気持ちをこめてこれを進呈します」と言って、自分の着ていたチンのジャケットを脱いでシュエバに羽織らせようとする。シュエバは覚悟を決めて自分のジャケットを脱ぎ、ゴルフトーナメントの表彰式よろしく、議長にチン・ジャケットを着せてもらった。ナンリャンタン議長は体格がいい。だからシュエバにとっては少しだぶだぶ気味のジャケットなのである。

さてチン民族の日。チン民族の人たちみんなが正装している日にこのジャケットを着て行ったのは正解だった。違和感がない。いつものように司会・通訳の仕事はしたけれど、シュエバはむしろ幕間の会話を楽しんだ。やはり美しい民族衣装に身を包んだチンの女性たちに「アンケー(おじさん)、一緒に写真をとろうよ」と取り囲まれたりもした。顔見知りの女性もいた。

「あれっ、Mさんじゃないか。きれいだねえ」

「着物がきれいなの? それとも私が?」

「両方だよ。両方!」

「アンケーもチン・ジャケット似合ってますよ」

「ありがとう。それにしてもMさん背が伸びたんじゃないの?」

「伸びてません。会った時はいつも座っていたからアンケーがそう思うのよ」

二人は顔を見合わせて大笑いした。Mさんとシュエバは、彼女が不法滞在で逮捕され、都内の警察で留置されている時に二回、起訴されてから裁判所で三回会っている。たしかに留置場の面会(接見)室ではガラスの向こうに、裁判所では被告席に、Mさんはいつも座っていたのだった。

背が伸びたようにシュエバに見えるのも無理はない。Mさんは元気溌剌としている。目がきらきらしている。警察ではやつれていた。裁判所では不安げな表情だった。つぶやくようにしか話せなかった。Mさんはビルマ・チン州出身である。父はNLDのチン州幹部である。一家は軍事政権から睨まれていた。彼女自身軍事政権に反対するチン民族の学生を支援したことから、軍情報部に追われる身となり、陸路インドへ脱出、その後日本へやって来ていた。不法滞在で逮捕された後、母国へ帰れば逮捕・投獄されるとして難民認定を申請し、2005年9月に難民として認められた。見違えるほどに生気にあふれた彼女の笑顔に接してシュエバはすっかりうれしくなった。場所が教会だったからビールは出なかったがシュエバのまわりでは会話が弾んでいた。

そんなシュエバを見て、ビルマ人(民族)の友人が声をかけてきた。

「ウー・シュエバ、今日はすっかりサライ(チン民族の一種族の男性が姓のようにつける冠称)・シュエバだね」

声をかけられてシュエバはまんざらでもなかった。実際楽しんでいたのである。もっともその日の夜、高田馬場で開かれたシャン民族の人たちの夕食会に顔を出したシュエバは、今度はサイ(シャン民族の男性の冠称)・シュエバになって大騒ぎをしたのだった。