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田辺寿夫(シュエバ)

高見順を知っていますか?
2005年11月25日配信 

はじめに

高見順という作家がいた。1907(明治40)年福井県三国町生まれ。1965(昭和40)年没。太宰治らとほぼ同時代に作家として活躍した。一高から東京帝国大学英文科に進んだインテリであり、学生時代からマルキシズムの影響を受けた文筆活動を開始した。左翼くずれのインテリの苦悩を描いた『故旧忘れ得べき』(1936)や浅草を舞台に庶民の哀歓を描写した『如何なる星の下に』(1940)などの長編小説が代表作としてあげられる。

高見順の死後すでに40年、文庫におさめられている作品は今も手軽に読むことはできるが、太宰治ほどの人気、知名度はない。むしろテレビでコメンテーターをつとめたり、エッセイを書くタレント高見恭子(プロレスラー出身の国会議員馳浩の奥さん)のお父さんといった方が若い人にはわかりやすいのかも知れない。

その高見順はビルマにも行っていた。陸軍報道班員として徴用され、1942年1月頃から始まった日本軍のビルマ侵攻作戦に帯同した。それから1年ほど日本軍軍政下のヤンゴン(ラングーン)で、新聞・雑誌の編集・発行、ビルマ文学作品や映画の検閲などにかかわった。ビルマの文化人や知識人との交流もあった。日本軍のアジア侵略を「東亜の解放」をめざすものとして正当化し、それを出版物や催し物を通して占領地の人々に宣伝をするという報道班員の本来の任務をはたしながら、高見順はビルマ、ビルマ人、ビルマ文化について実によく勉強をした。それは検閲や宣撫のために必要だからという範囲をはるかに越えている。

日記は語る

高見順が1941(昭和16)年から1951(昭和26)年にかけて丹念に綴った日記は『高見順日記』全八巻九冊にまとめられ1960年代後半に勁草書房から出版されている。その第一巻の後半と第二巻(上)がビルマ作戦に従軍した時期とラングーンに滞在して活動した時期のものである。高見順は戦争当時の日記を公刊するにあたって次のように複雑な心境を吐露している。(以下引用は旧字体および旧仮名遣いを現代のものにあらためさせていただいた)

「当時白人の悲惨な植民地の境涯にあり、その解放と独立を私が心から願っていた東南アジアの人々に対し、今からみると、この日記のなかで非礼にわたる言辞のあるのは深くその諸国民に詫びたい」(第一巻序)。

「この巻は私にとっていわゆる戦争協力の証拠をさし出すようなもので、こっそり捨て去ったほうが利口なのにとおもう人があるかもしれないが、これが当時のいつわらざる私の姿なのだから、そのままそっくり公開することにする」(第二巻上序)。

この第二巻上の序は1965年7月の日付が入っており、「千葉、国立放射線医学研究所病室にて」との書き込みがある。その年8月17日に高見順は亡くなった。病床にあって余命いくばくもないのを知っていて、日記の公開に踏み切ったのだろう。

高見順が日記の公刊を決意してくれたことに感謝しなければなるまい。詳細な日記である。あの炎暑のビルマでよくもここまで書いたものと感嘆せざるを得ない。さすがに作家である。目のつけどころが的確である。作家高見順はしばしば饒舌な文体を駆使すると表されるが、細かい表現はあっても面白く読ませる。日記が文学作品になっている。その日行った場所、会った人、読んだ本(ほとんど英語でビルマについて書かれたもの)、仕事柄鑑賞した映画(印度映画を含む。)や演劇などについて概要と感想・印象などがこまごまと綴られている。高見が当時ラングーンで見た映画のなかには1930年代の日本=ビルマ合作映画『日本娘』もあった。この映画は1990年代に日本でフィルムが見つかり日本で『ニッポンムスメ』として再上映されて話題になった作品である。さらに随所に自ら描いたと思われる民族楽器や髪型などのイラストもあって興味深い。

そんな高見順はビルマを舞台にし、ビルマ人を主人公とした作品も残している。『高見順全集 第十巻』(勁草書房1971)に収録されているビルマ人が登場する作品のいくつかをあらためて読んでみた。

『ノーカナのこと』(初出1943年6月「日本評論」)

40年ほど前に読んだはずである。戦争中に出た本で伊原宇三郎・田村孝之介という二人の画家がビルマ戦線を題材に描いた絵を中心に編集した『ビルマ』(陸軍美術協会出版部 1944)という本に収録されていた。題名は覚えていたがノーカナという人名はカレン人、しかも女性だとおもっていた。カレン民族の女性にはノーという冠称がつくことが多いからである。11月初旬にタイのチェンマイで会ったカレン民族の女性をノーカインという仮名でエッセイに書いたばかりでもあった。これは勘違いだった。このノーカナはインド人男性の名前だった。

……ノーカナは陸軍報道班員宿舎の食堂でボーイをつとめる男として登場する。主人公の報道班員はノーカナが気に入っている。それはコック長のやはりインド人が日本人を馬鹿にして(と主人公には見える)いい加減な仕事しかしないのに、ノーカナは忠勤に励んでくれるからである。主人公が幹事役をつとめて宴会を催した時に、コック長は「特別な料理」を作れという主人公の依頼を鼻であしらい、いつものカレーしか作らなかった。その時、ノーカナはなんとか才覚を働かせて何品か別の料理を用意してくれた。それ以来、主人公はますますノーカナに好意を寄せ、信頼を置くようになり、ボーイ長にまでとりたてる。しかしやがてノーカナの不正がばれる。彼は主人公の信頼をいいことに、備蓄してある食料品を横流しして利益を得ていたのである。主人公の日本人同僚たちは、インド人を信用するからそんなことになるのだ、それ見たことかと冷たい目を向ける。

しかし主人公は考える。ノーカナにはノーカナの人生があるのだ。かつてはイギリス人の支配の下で、今は日本軍政時代には日本人に使われて生きて行かざるを得ない立場である。家族もあり、子どももいるノーカナが精一杯、支配者にとりいって、チャンスがあれば「役得」をめざすのは当たり前ではないか。人にはそれぞれ立場と都合があるのだ……という感じで話はおわっている。

『ウ・サン・モンのこと』(初出1944年2月「現代」)

ウ・サン・モンなるビルマ人は日記のなかにも毎日のように登場する。陸軍報道班の協力者である。ラングーンからそう遠くはないニャウンレイビンという町で精米工場を営んでいたが自ら志願して日本軍に協力するようになる。明るく元気ではつらつとしている。楽天的で細かいことはきにしない典型的なビルマ人である。この作品でも語り手の報道班員高見順の親友のような存在として描かれている。高見順は彼をとおしてビルマを知るということもあったようだ。つぎのような一節からそれがうかがえる。こうした記述は、いまだに日本のメディアがよく理解していないビルマ人の名前について分かりやすく、要領のいい解説となっている。

……レストランの主人ウ・ニがやがて席に加わった。(中略)ウ・サン・モンも酔いが廻って、「もう一本、持って来い、コ・ニ」などと、もともと大きな声を更に大きくさせて怒鳴った。ビルマ人は年齢に従ってその名前の上に「コ」「モン」「ウ」と付けるのだが、「ウ・ニ」を「コ・ニ」と言うのは、私の名前を例にとれば「順さん」というのから「やい、順公」に変わったとすべきか。よってもってウ・サン・モンの酩酊が察せられた……

……「よォ、ウーさん」 私たちは皆、彼をウーさんと呼んでいた。眼が大きい所から「目玉のウーさん」とも言っていた。ウ・サ・モンの「ウー」なのであるが、この「ウ」自身、日本で言えば「さん」に当たるのであるから、「ウー」さんとは即ち「さんさん」という滅茶な言い方だった。正しくは「サン・モンさん」、「サン・モン君」というべきなのだが、これは「三文」を思わせる故か、誰も使わず、誰もが「ウーさん」と言っていた……

さてこの小品のなかで、協力者ウ・サン・モンはだんだんあつかいにくい存在になって行く。自分の協力ぶりを報道班員たちが評価してくれるのいいことに、あつかましくなり、モノが欲しい、役職につきたいなどお便宜供与を要求するようになる。みんなを困らせるのである。しかし、主人公はそうした行動を彼のわがままとは受け取らない。彼には彼の都合があるのだ。彼の人生は彼のものだ。彼は彼なりに生きようと努力しているのだというふうに理解しようとつとめる。

ラストは一転する。見事なまでの「アジア解放」のスローガンをウ・サン・モンに言わせている。高見順はこう書かざるを得なかったのだろうか。それとも当時はほんとうにそう思っていたのだろうか。インパール作戦すなわちインド国民軍を巻き込んでのインド侵攻を予感させる会話でこの作品はしめくくられる。

……「私を印度へ連れて行ってください」 大きく剥いた眼を光らせて、「私はヒンドスターニ語が出来ます。ですから、班長に言って下さい。印度進撃のときは是非使って下さいと」(中略)「日本軍はビルマから英軍を叩き出してくれた。今度は印度だ。私はそのお手伝いがしたい。そうして私はビルマの一人として日本軍に恩返しがしたいのです」 ウ・サン・モンはやっぱり、あの純粋な、あの立派なウ・サン・モンであった。……

『孔雀旗』(初出1944年3月「文藝読物」)

孔雀はビルマのシンボルである。学生連盟の旗も、現在の国民民主連盟の旗にもクッダウン(たたかおうと身構える孔雀)が描かれている。日本軍と共にビルマに進軍したビルマ独立義勇軍(BIA)の旗にも、日本軍占領時代にビルマに独立を「供与」した時の国旗にも孔雀があしらわれていた。この小品はタイのバンコクで創設されたBIAに加わって、日本軍に協力をするウ・ティン・ウというビルマ人の強烈な愛国精神を描いている。

……ウー・ティン・ウの弟は1930年代に起こった反英暴動(サヤー・サン叛乱)に加わり、英植民地軍によって惨殺された。英国で学んだ医師であるウ・ティン・ウは弟との関係を疑われて英植民地政府によって投獄される。解放後反英闘争に加わるが再度捕らえられる。なんとか妻の手引きでタイ国へと逃れる。(このあたりは、軍事政権の弾圧を逃れてタイへ脱出する現代の民主化運動家をほうふつとさせる)そしてビルマ独立義勇軍に加わり、日本軍部隊とともに母国へと進撃する。

報道班員(高見)はバンコクのビルマ人から頼まれて、すでにビルマ国内の前線でたたかっていたウ・ティン・ウのもとへ手紙を届ける。それは病弱であった彼の妻がバンコクで客死したという知らせだった。そのことを高見に打ち明けたウ・ティン・ウは、もう一人やはりBIAに入ってたたかっていた妻の弟もまた、ビルマ・シュエジンでのたたかいで戦死したばかりだと高見に沈痛な面持ちで語る。そしてラストシーン……。

……「姉弟とも、喜んで死んだのです。だから私は泣いたりはしません。泣いたりしてはいけないのです」

そう言うと、「さて、ミスター・タカミ」と私の腕を取って、「私の部屋へ寄ってほしい。ナピ(NGAPI。魚醤のこと。引用者)を上げましょう。特別製の、おいしいナピを……」

笑いを含んだ声だった。ナピというのは、乾蝦その他を日本の佃煮のように煮込んだもので、私はそれを飯にまぶして食べるのが好きになっていた。「私はミスター・タカミの為に、わざわざ友人に頼んだのですよ。そこで友人が特別においしいのを作って、持って来てくれたのです。余り辛くない、だから私にはそうおいしくはないが……」ウ・ティン・ウは夕闇に白く歯を見せて笑った。……

おわりに

ここにあげたどの作品にも作家高見順の人間の生き様を鋭く見抜く眼が感じられる。また好意的に見れば、独立に意欲を燃やすビルマ人群像をもきわめて人間らしく生き生きと描いている。それにしても、その題材なり、作品のトーンなり、込められた主張なりは、これはもう誰がどう読んでも「戦意高揚」、「戦争協力」以外のなにものでもない。陸軍宣伝班員としてはこのようにしか書けなかったのだろう。またもう少し高見順らしい要素を書き加えたとしてもそれらは検閲で削除されたのかも知れない。

1961年アジア・アフリカ作家会議が東京で開かれた時、高見順がラングーン滞在当時知り合ったビルマ人作家たちが来日し、高見順の戦時中の活動を大いに評価し、感謝の意を表したという。高見順は日記にこう書いている。

……官製の仮面の下に、ビルマ作家の自主的団結をはかりたいとした筆者の真意の理解されたことが何よりもうれしかった……

高見順がビルマ滞在中にきわめて熱心にビルマを学んだことは間違いない。そのうえに、陸軍報道班員としての任務につきながらも、その一方でほんとうにビルマ作家の自主的団結のために力を尽くしたのだろうか。あるいは高見順の勉強ぶり、ビルマ人に好意を寄せる行動がビルマ人から見て好ましい人物とうつったのだろうか。これからもっと高見順日記を読み込みたい。