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田辺寿夫(シュエバ)

ビルマの女性はがんばるなあ
2001年1月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第23回(『恋するアジア』第30号)

一難去らず、また一難

前号で紹介したとおり、ビルマの民主化運動指導者アウンサンスーチーは、八月の後半と九月の中旬に地方旅行を試みて、そのたびに軍事政権当局によって阻止され、その後、実質的な自宅軟禁状態に置かれている(十二月中旬現在)。自由な外出や、外国人との面会は禁止されたままである。

彼女が書記長をつとめる国民民主連盟(NLD)に対する軍事政権の弾圧は依然としてつづいている。というより、まるでこの政党を完全に叩き潰そうとしているようにみえる。一九九〇年の総選挙では、総議席四八五のうち、三九二議席を占めたNLDだったが、NLDが与党となって政権を担うはずの国会は一度も招集されることなく十年の歳月が経過した。この間、軍事政権による逮捕、投獄、嫌がらせ、行動制限さらには辞職強要などのせいで、いま国内に健在なNLD議員の数は百数十人に過ぎないといわれる。さらに軍事政権は、かつてのBSPP(ビルマ社会主義計画党。ビルマ語略称マサラ)に似た翼賛団体である連邦団結発展協会(USDA=ビルマ語略称チャンプン)メンバーを動員して、連日全国の市町村で集会を開催し、「NLDは解散すべし」といった決議を出させ、それをあたかも国民の「世論」であるかのように、国営メディアを使って大々的に伝えている。

アウンサンスーチー自身の身のまわりにも厄介な問題が起きている。ひとつはヤンゴンにあるNLD本部の問題である。NLDが一九八八年以来、本部事務所を置いている家屋は借家である。この借家契約の新たな更新に家主が応じないと言い出した。家主は年輩の女性でNLDシンパだといわれていた。その人が、これまで何の問題もなかったのにいまになって更新に応じないと態度を変えたのは、軍事政権が圧力をかけたからに違いないともっぱらの噂である。

もうひとつ、アウンサンスーチーの自宅について、ややこしいことが持ち上がっている。一九八八年十二月に亡くなったアウンサンスーチーの母、つまり独立の父アウンサン将軍の未亡人であるドー・キンチーの遺言があるからと、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ在住の長兄アウンサンウーが、所有権の半分は自分にあると裁判所に訴え出た。なんでもビルマの法律では遺言の有効期限は十二年と定められており、西暦二千年には片をつけないといけないからだという。長くアメリカに住み、コンピューター技術者として生活基盤を持っている長兄なのだから、今さらヤンゴンに土地や家が必要なわけがない。また、法律上相続権があるとしても、妹アウンサンスーチーと話しをすればすむことを、わざわざ民事訴訟を提起して事態を紛糾させているのは、アウンサンスーチーへの嫌がらせであり、これまた軍事政権の差し金だろうと多くの人は受け取っている。

今、在日のビルマ人民主化運動活動家たちは、このアウンサンウー宛に抗議文を出す運動をビルマ人や日本人によびかけている。シュエバさんも一枚書いてよと葉書を渡された。表にはアウンサンウーの住所が印刷してある。それはいいのだが、時節柄とでもいおうか、葉書はお年玉つき年賀葉書である。はるばる日本から届く抗議文つきの年賀葉書をアウンサンウーはどんな顔で受け取るのだろう。見てみたい気がする。

はじめまして プワプワ(おばあちゃん)

顔を見るといえば、十二月六日、インターネット上のロイター配信の記事のなかに、アウンサンスーチーの長男アレクサンダーの写真がのっていた。アメリカのクリントン大統領がアウンサンスーチーに授与することになった「自由のメダル」を、アレクサンダーが母の代理として受け取った時のものである。一九九一年十二月、ノルウェーのオスロでやはり出席できない母に代わって、父、弟の三人で、ノーベル平和賞を受け取った時には、高校生ぐらいだったアレクサンダーと比べると、ずいぶん雰囲気が変わっていた。大きくなったなあという実感とともに、この一家が過ごしてきた歳月の重みをおもった。

アレクサンダーの背丈は隣に並んだクリントンと同じくらい、体格はがっちりしてスポーツ選手のよう。容貌は今年三月にガンで亡くなったイギリス人の父マイケル・アリスに似ている。ただ肌色は母から受け継いだのかやや浅黒い。以前から兄は父親似、もう一人の次男キムの方は母親似、すなわち独立の父アウンサン将軍をほうふつとさせるというのが、ビルマ人のあいだで言われていた。

ビルマの人たちは、古くは、凶弾に倒れたケネディ米大統領の遺児たちにアメリカ国民が向けたような、近くは、ダイアナ妃が交通事故で亡くなった直後、イギリスの人々が二人の王子に寄せたような、そんなまなざしで、外国暮らしのこの兄弟を見守っているようだ。共通するのは一族にまつわる悲劇性だ。アウンサンスーチーの父アウンサン将軍はテロに倒れた。アウンサンスーチー自身なんども自宅軟禁の憂き目にあっており、死期の迫まった夫とも会えなかったという悲劇を味わっている。

兄弟がビルマに長く暮らしたことはない。ほとんどイギリス住まいである。しかし、母アウンサンスーチーとしては、たとえ外国で暮らすとしても、ビルマの心をなんとか子どもたちに伝えようと努力したらしい。イギリス・バーミンガムに上座部の僧院を構えるビルマ人高僧ウー・イエワタ・ダンマ師が日本へやって来たときにもらした言葉を思い出す。

「アウンサンスーチーは、ありゃこうと思い込んだら絶対に妥協しない、主張をまげない性質なんだよ。まだ五、六才の頑是ない兄弟を、僧院に連れてきて、仏教の真髄をよくわかるように説ききかせてほしいというんだ。そんなのすぐには無理だと言っても引かない。どうしてもきかせてやってくれって粘りとおしたよ」

ビルマではお坊さんは人ではない。仏である。絶対に敬わなければならない。俗人がお坊さんに無理難題をふっかけるなんて考えられない。さすがにアウンサンスーチーである。もちろん、母アウンサンスーチーは、まだ政治活動に入る前、ビルマへ帰省した折りに、この二人を僧院に送り込み、上座部仏教徒にとっては通過儀礼以上の重要な意味を持つシンビュー(得度式)を済ませてもいる。

こうした機会に折りにふれ、ビルマの人々の前に、あどけない表情を見せていた次男キムは、二千年十二月、兄アレクサンダーがクリントン大統領からメダルを受け取っていたちょうどその頃、ビルマに向かったらしい。らしいというのは、どのメディアも彼のビルマ訪問を伝えないからである。キム自身が露出を嫌ったのかも知れない。あるいは、母子の対面というヒューマンで、ドラマティックなニュースが世界に流れれば、自分たちのイメージが悪くなると気をまわした軍事政権が、一切メディアに接触しないという条件で入国を許可したとも考えられる。それでも、ビルマは口コミ万能の国。人々の間では、あの可愛いキムが一人前の大人になり、久しぶりに母の元を訪れているんだってと、ニコニコしながら噂ばなしをしている。しかも、キムは、なんとまだ一才に満たない息子を連れて母に会っているという。

それが事実だとすると、アウンサンスーチーははじめて初孫と対面していることになる。彼女の年齢は満五五歳を越えているから孫がいてもあながちおかしくはない。けれども、背筋をシャキッと伸ばし、細身の体をカラフルな民族衣装に包み、髪に花をかざして、舌鋒鋭く軍事政権の横暴を指摘したり、国民に民主化を説いたりするアウンサンスーチーをぼくたちは見慣れている。孫を抱いてひなたぼっこをするようなおばあさんのイメージはすぐには湧いてこない。あのインヤー湖畔の古びた家で、プワプワ(おばあちゃん)と呼ばれて相好を崩しているのだろうか、いったいどんな顔で孫をあやしているのだろうか? 想像するだにほほえましい。

夫は夫、妻は妻

十二月はじめのこと。十一月末のビルマ市民フォーラム例会ではじめて会った四十台のビルマ人女性Oさんがぼくの職場にやって来た。きいて欲しい話があるという。一時間以上身の上話をしてくれた。食堂で話をしていたのだが、彼女はジュースにも口をつけず、しゃべりまくった。それでもまだまだ話足りない様子だったが、食堂の閉店時間を過ぎてしまい、つづきはまたの機会にということでお別れした。ぼくにとっては「事実は小説より奇なり」を地で行くようなドラマチックな話だった。きいている時間は長かったが退屈はしなかった。一方、彼女からすれば、ビルマで日常茶飯に起こっていることが、自分の身にも起きたというに過ぎないという口ぶりだった。話のあらすじは次のようなものだ。

Oさんは、理由を明示しない一片の大学局局長名の通達によって大学を辞めさせられた。しかし、それまでの経緯から、理由は彼女の配偶者(夫)が国民民主連盟(NLD)の活動家であることははっきりしている。この強制退職はあきらかに嫌がらせであり、人権侵害である。

彼女のご主人は、一九九〇年の総選挙で、マンダレー管区のある選挙区で選出されたNLD国会議員の代理(コーザレイ。健康状態悪化や投獄などのために活動できない議員の代わりをする)をつとめているほどの活動家である。軍事政権にとって、NLDは目の上のたんこぶなのだ。だから、その活動家に対しては、直接的、間接的にあるゆる手を使ってつぶそうとしている。彼女のご主人には、政治活動が許されない公務員であり、大学教官である彼女をとおして圧力をかけた。

Oさんは、マンダレー(ビルマ第二の都会。上ビルマの中心都市)大学の物理学講師であったが、在勤わずか二年足らずで、ミッチーナー(カチン州の州都)大学への転勤を命ぜられた。左遷である。また、大学教官の場合、転勤は五、六年おきが普通であるから、転勤サイクルとしても異例である。この間、マンダレーでも、ミッチーナーでも、学科長、学長、教育省大学局長、さらには教育大臣らから、何度も圧力をかけられた。配偶者をNLDから脱党させよ、それがあなたの身のためだというのである。圧力の裏には軍の意思が働いていた。ビルマでは、国権の最高機関である国家平和発展評議会(SPDC)のもとに、地方行政機関としてマンダレーにはマンダレー管区平和発展評議会が、ミッチーナーにはカチン州平和発展評議会がある。それらはいずれも軍人が権力を握っている。げんに上司たちは、「このことでは軍がうるさくてね」といった表現を何度も使ったという。

なんと言われても、彼女は、「夫には夫の信念と意見がある。夫婦といっても個人の見解は尊重されるべきです。私が口をはさむことでありません」と、こうした要請を蹴ってきた。ほかにも彼女を誹謗中傷するうわさを流す、私塾など副収入の道を閉ざすといったさまざまな嫌がらせが毎日のようにあった。あげくの果てに、強制退職である。この強制退職については、NLD本部からも明らかに不当であると、軍事政権宛に抗議文が出されている。

捕まる恐れもあった。なにしろ、大学のキャンパスのなかの喫茶店で夫と話をしているだけで、公務員として規律違反を犯していると非難されたほどである。「公務員でありながらNLDと共謀して反国家活動をした」といったでっち上げで彼女を逮捕することは簡単だし、そうした例は枚挙に暇がない。捕まれば、たちまち禁固七年やひどい場合には二十年の刑を言い渡されたりする。

そんな危険が迫まっているのを察知したOさんは、同情的な友人・知人のコネを総動員して、なんとかパスポートを入手し、日本大使館と粘り強くかけあったあげくに、短期滞在ビザを取得し、来日を果たした。危機一髪だったという。大学卒業後、一時期ヤンゴンの外国語学院(IFL)日本語科に学んだ彼女が、日本語の学位を持っていたことがビザ取得に役立った。二千年十一月の始めに来日した彼女はただちにひとりで大手町の法務省入国管理局に出向き、難民認定(政治亡命)を申請した。あわせて資格外活動許可もしっかりととり、一応働ける状態になっている。みかけは小柄な普通のインテリ女性だが、信念に忠実であり、強く、たくましい。比喩ではない。彼女も思いこんだら命がけの道を歩んでいる。日本政府がこのOさんの難民認定申請にどんな答えを出すのか、けだし見物である。

ウー・シュエヨーを踊ろうよ

二〇〇〇年十一月二日午後のこと。職場に電話がかかってきた。若いビルマ人女性Cさんの興奮した声がきこえて来る。

「サヤー。ガネ・チャマ・リフュジー・ヤトゥワバビ・シン」

電話口で息が弾んでいる。それもそのはず、「私、今日難民認定されたの」と伝えてくれたのだ。ビッグニュースである。

「よかったねえ。よかった。がんばった甲斐があったね」

私の返事も周りの人たちが何事かと視線をむけるほどの大声だったようだ。

Cさんはもう長く日本に住んでいる。民主化グループの集会やデモにはいつも参加している熱心な民主化活動家の一人である。若い女性であること、時に、おとなしげな外見に似合わないような激しい言動に走ることから、Cさんの存在は目立ちやすい。軍事政権筋からもマークされていることは間違いない。

ヤンゴンの両親のもとへは、MI(エムアイ=ミリタリー・インテリジェンス。軍情報部のこと。日本でいう公安)がしばしば訪れ、Cさんの日本での活動をききだそうとした。父親はMIによって連行され、娘の住所を言わされたうえ、写真まで提出させられた。もちろん、「娘に政治活動を止めさせろ」というおどかしもしばしばあった。娘の身の上を心配した両親から、「おまえの住所を知られてしまったから、早く転居しなさい」との連絡が、危なくて直接はできないからと、他人を介してCさんのもとへ届いたこともあった。

それでもCさんの日本での活動はつづいた。一九九九年五月二三日、東京で「コンサート事件」が起こった。この日、東京・一ツ橋の日本教育会館で「日本=ミャンマー伝統文化友好コンサート」が開かれた。「平和なミャンマー」を宣伝し、観光客や投資を呼び込もうとする軍事政権肝いりのイベントである。ショーが終わったときに、観客席にいた民主化活動家二人が「デモクラシー・アイエードーポン・アウンバーゼ(民主化闘争に勝利しよう!)」と叫ぼうとして、はじめの「デモ」を口から発した途端、大使館筋の男たちに取り押さえられ、殴る、蹴るの暴行を受けて、頭から血を流すほどの傷を負った。

実はこの時、Cさんはビルマの歌手や踊り手たちがカーテンコールを受けているステージに近寄り、民主化を訴えるビラを出演者たちに手渡そうと試みた。けれども、出演者たちがさっさと引っ込んでしまったのでビラは渡せなかった。

この事件のあと、殴られて怪我をしたビルマ人たちは、加害者を神田警察署に告発したが、捜査は進まず、二千年になって起訴猶予となり、被害者たちは泣き寝入りの結果となった。また、出演者一行がビルマへ帰国した後、ヤンゴンで大々的な記者会見が行なわれ、「デモクラシーを叫ぶエセ活動家」たちによる「なんの政治的意図もない文化的、友好的な行事への卑劣きわまりない妨害」ぶりが喧伝された。Cさんの、たかがビラを渡そうとした行動もまた、「芸術家たちを恐怖のどん底におとし入れたテロ行為」として、軍事政権の逆宣伝の材料となった。

二千年八月のビルマ人活動家逮捕事件でも、Cさんは警官との小競り合いに巻き込まれ、あやうく押しつぶされそうになった。Cさんをかばおうとした男性は、威力業務妨害のほかに公務執行妨害容疑をつけられて逮捕されている。(本誌前号参照)

こうしてCさんの赫々とした活動歴を連ねると、いかにも「女性闘士」というイメージが浮かぶ。それはそれで間違いではないが、一方、彼女には、華やかで、熟達したビルマ舞踊の踊り手という一面もある。水祭りやダディンジュッ(雨安居明け)といった在日ビルマ人たちの行事があるたびに、ステージの上で優雅に舞うCさんの姿が見られる。

古典舞踊の演目が多いCさんのレパートリーのなかで、ぼくが気に入っているのは、土っぽい香りのする「ウー・シュエヨー」という男女二人の踊りである。村一番の美女に岡惚れした不細工な堅物の田舎者ウー・シュエヨーが、ストーカーのごとく彼女につきまとい、二度、三度とアタックを試みるが、ことごとくはねつけらるというストーリーを、テンポの速い、コミカルな踊りで表現したものである。

Cさんは美女を演じる。太い黒ぶちの眼鏡と口ひげをつけ、彼女のまわりをウロウロし、彼女のしぐさの一つ一つに一喜一憂する田舎男の役を、そのうちいつか、ウー・シュエヨーと名前も似ていて、やはり堅物の田舎者であるこのシュエバがつとめたいとひそかに願いつづけている。