田辺寿夫(シュエバ)

靖国断章
2005年10月21日配信 

ポケットから小銭

2005年10月17日、小泉純一郎首相は靖国神社を参拝した。靖国神社はおりから秋の例大祭の時期であったという。小泉首相はこれまでのように本殿にまでは上らず、玉ぐし料も奉納せず、記帳もしなかった。大勢のSPに取り囲まれて早足で歩いてきたスーツ姿の首相は一般参拝者と同じように拝殿の前で手を合わせ、ズボンのポケットを探って小銭(?)を取り出し、賽銭箱へ投げ入れた。あくまで「私的」な参拝であり、戦没者に「敬意」を表し、「不戦」を誓ったとのこと。

時をおかず中国や韓国から手厳しい反応がかえってきた。中国は週末に予定されていた町村外相の訪中を事実上キャンセルした。韓国大統領府もその日のうちに、年末に予定されていたノムヒョン大統領の訪日、および日韓首脳会談は難しくなったと表明した。外交通商大臣の訪日も取り止めになった。香港、上海、ソウルなどでは市民による日本政府への抗議行動が行なわれた。北朝鮮は次の日になって、首相の靖国参拝を非難するコメントを出したが、拉致問題についての論評ほど厳しいものではなかった。

より穏やかな反応は台湾やフィリピンから伝えられた。賛成をするわけではないが、この件に関してはことを荒立てて、互いの外交関係のなかで問題とはしないというものであった。ほかのアジアの国々からの反応は取り立てて報道されなかった。小泉首相はあるいは安心したのかも知れない。そして「中国や韓国がなにを言おうと信念に基づいた行動をするのみ」という首相は、その「果断さ」によって、一般の日本国民の支持を得られると期待しているふしもある。はたして10月19日に発表された朝日新聞の緊急世論調査によると首相の靖国参拝についての賛否は「よかった42%」、「すべきでなかった41%」であるという。小泉さんはぼくと同学年である。国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を強調する新憲法のもと「戦後民主主義の申し子」のように育ってきたはずなのに……。同時代人としてはためいきをつきたくなる。

元上等兵の息子

なにを隠そう、ぼくも靖国神社へ行ったことが2度ある。一回目は10年ほど前のこと。父が生前属していた部隊の戦友会が久しぶりに東京で開かれた時、最近のビルマ事情を話してほしいと招かれて出席した。父はビルマ戦線に派遣された第53師団(通称・安)の上等兵だった。会合のあと参加者たちに誘われ、断りきれずに靖国参拝につきあった。靖国神社は好きではなかったが、ちょっとのぞいてみょうかという好奇心もあった。

年に一度の戦友会に集まった人たちのなかには父のことを覚えているという人も少なくなかった。懐かしげに話しかけてくれる。ともにビルマで苦労した戦友の息子がビルマのことを勉強しているというのが、おじいさんたちにはうれしかったのだろう。そのなかの一人、京都からやって来た品の良いご老人と一緒に靖国神社の大鳥居をくぐった。社殿に向かって歩きながら老人は感極まったように声をあげた。ぼくに話しかけているという調子ではないが、はっきりきこえた。

「ここはいつ来てもええなあ。心が洗われる。ヤソはおらんし、アカもおらんからなあ」

一瞬ポカンとした。意味がわかるまで少し時間がかかった。ヤソは耶蘇、つまりキリスト教徒のことである。アカは言うまでもない、赤旗をかかげる人たち、すなわち共産党員を指す。老人は、靖国に祀られている人たちにはクリスチャンも共産党員もいない、「清らかな聖域」だと言っているのである。

それはとりもなおさず、あらゆる反対意見を封殺し、国民大衆を侵略に加担させたのが、あの戦争であったことを示している。いうまでもなく日本共産党は非合法団体とされ、党員は逮捕・投獄される時代だった。また「御国のために」命を捧げた兵士たちであれば、たとえキリスト教徒であっても、神道の靖国神社に祀られ、信教の自由は無視されているのである。

父は1947(昭和22)年に復員し、1968年に亡くなるまで、靖国神社へは一度も足を向けなかった。京都在住の父にとっては靖国神社は遠かったともいえるが、父は京都にある、やはり戦没者を祀る護国神社(前身は招魂社)にも行かなかった。帰国した当時は天皇が敗戦の責任をとらなかったことに唖然としていた父。昔の上官が幅を利かせる戦友会の集まりを好きではないと言っていた父。そんな父だったからたとえ戦友が祀られていても、自分たちを戦場に行かせた天皇制イデオロギーにつながる靖国神社へ詣でる気持ちにはならなかったのだろう。ぼくはその元上等兵の息子である。

C56の「勇姿」

二回目の靖国神社も戦友会がらみだった。3年ほどまえの秋のこと、ビルマからインド・インパールまで侵攻した従兄の部隊(第15師団。通称・祭)の戦友会年次総会が九段会館であった。京都に住む従兄が久しぶりにビルマ人の女性に会いたいというので、知人のビルマ人女性をともなって会場に向かった。少し時間の余裕があった。ビルマ人女性がよくニュースで紹介される靖国神社なるものを見ておきたいと言うので案内かたがた鳥居をくぐった。

境内の一角に遊就館という戦争博物館めいた建物が出来ていた。そこには美しく磨きたてられた蒸気機関車が一台置かれていた。ナンバープレートにはC5631とある。いわゆる「シゴロク」、愛称はポニー。SLとしては小ぶりな機関車である。由来書きによれば昭和11年製造のこのSLは戦争中、泰緬鉄道で活躍したとのこと。

泰緬鉄道はタイ国鉄のノンプラドック駅を起点にカンチャナブリを経て映画「戦場にかける橋」で名高いクワイ河鉄橋を渡る。そこからけわしい崖に沿うように渓谷をさかのぼり、徐々に高度をあげてタイ=ビルマ国境の三仏峠(スリー・パゴダ・パス)に至る。国境を越えてビルマのタンビューザヤッでビルマ国鉄路線につながるまでおよそ400キロの軍用鉄道である。ビルマ戦線の日本軍部隊への補給路として1943年にわずか1年に満たない期間で完成した。建設工事は日本陸軍第五および第九鉄道連隊が担当したが、労働力としては連合軍の捕虜や東南アジア各地からの労務者を使った。突貫工事おまけに熱帯雨林地帯での難工事である。マラリアやコレラ、熱帯潰瘍が猖厥をきわめた。重労働である。作業キャンプの衛生事情は悪い。食糧や医薬品も足りない。犠牲者が続出した。「枕木一本につき死者が一人」とまで言われた。戦後は連合国からも、アジア各国からも激しい非難が投げかけられた。

その泰緬鉄道を走った機関車がなぜ靖国神社に展示されているのだろうか。泰緬鉄道の建設にあたった鉄道連隊の戦友会「鉄輪会」の人たちが戦後タイを訪れた際に、いまだ健気に走っているC56に感激し、募金をつのって日本へ運んだ。彼らには、さまざまな悪条件のなかで、短期間で鉄道建設を終え、見事に列車を走らせた「偉業」を誇る気持ちがあったという。捕虜や労務者など多くの犠牲者を出したのは事実だが、それは戦争だったのだからやむを得ないというのが旧鉄道連隊の人たちに共通した感慨なのだ。靖国神社の展示には捕虜や労務者の犠牲についての記述はない。

語り継がれる「汗の兵隊」

泰緬鉄道はビルマでは「死神の鉄道」と言われる。ビルマ側起点のタンビューザヤッは「死神の喉もと」と言われた。ここを経由してビルマ人労務者が鉄道建設のためにさらに奥地に連れて行かれたからである。労務者は日本軍政下の各市町村から割り当て制で集められた。ほとんど強制的である。彼らは銃をかつぐかわりに汗を流す労働に従事することから「チュエ・ダッ(汗の兵隊)}と呼ばれた。汗の兵隊と呼ばれた労務者はビルマ全土からおよそ17万8千人が徴集され、そのうち8万人ほどが死亡・または行方不明となったとされている。

こうした経緯はリンヨン・ティッルウィンというビルマの作家が書いた『死の鉄路ー泰緬鉄道ビルマ人労務者の記録』(田辺寿夫訳 毎日新聞社 1981年刊 絶版)に詳述されている。この作家自身が労務者として建設工事に従事した経験を持っていたから、ほとんどノン・フィクションに近い作品である。

この本のあとがきに、翻訳にあたってのおもいをぼくはこう書いている。

……戦後35年、戦争体験の伝え方がさまざまに問題になっている。問題点の一つは、日本が攻め込んだ国々の人びとの戦争体験が日本に紹介されることの少なさにあると私は思う。ビルマについて言えば、20万人もの日本人が戦病死した地であるだけに、既に数多くの戦記が書かれている。ここ数年、個人戦記とでもいうのか、一兵卒の立場からの戦記の出版も増えてきている。それらは、それぞれ血のにじむような体験をそのまま描いているだけに説得力はある。しかし、いうまでもなく日本人の側からの戦記であり、ビルマ人への目くばりはあっても、その生(ナマ)の声はほとんど反映されていない。戦争を伝えるならば、やはり踏み込まれた側の証言もきく必要があるだろう。……

それから四半世紀の歳月が流れて今年は戦後60年。しかし、戦争の伝え方については、このあとがきを書いた戦後35年当時と状況はそう変わっていない。いやむしろ後退すらしている。日本人は相変わらず、自らが踏み込んだ側の人々のおもいを斟酌しようとしない。ことビルマについても、ビルマの教科書で「ファシスト日本が国民を塗炭の苦しみに追い込んだ時代」と書かれている日本の占領・支配を、「イギリス植民地勢力を駆逐し、ビルマの独立を支援した」と言い張る日本の歴史教科書が大手を振ってまかり通る時代になってしまった。首相はさしたるためらいもなく、アジア各国からの批判にも耳をかさず、靖国神社を参拝した。その靖国神社には、多くのアジア人労働者の血と汗を吸い込んで建設された泰緬鉄道の鉄路を疾駆したC5631が、日本軍の「偉業」をたたえるかのように鎮座している。