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田辺寿夫(シュエバ)

忘れられぬ人々~チェンマイの女性たち ビルマ・メディア会議に出席して(2)
2005年11月18日配信 

さまざまなビルマ人

タイのチェンマイで11月7日、8日に開かれた第三回Burma Media Conferenceに出席したシュエバは、会議の場でも、会議の終わったあとにも多くのビルマ人たちに会った。その数はあわせて100人近くになるだろう。わすか3日間にこれだけたくさんのビルマ人に顔を合わせると、名刺交換した人たちはともかく、一人ひとりの名前は到底覚えられない。前から知っていた人もいたし、初めて会った人もいた。じっくり話し合った人もいれば、ひととおりの挨拶しか交わせなかった人もいる。それでもこの人はいやだなあ、話もしたくないと思った人は一人もいなかった。日本からやって来たただ一人の日本人であり、ビルマ語を話すシュエバをみんなが大事にしてくれたのだろう。それにしても稀有な経験ではあった。

出会った人たちのなかには、話をした時間の長短にかかわらず、きちんと名前を覚えていようといまいと、印象に残る人たち、忘れ難い人たちが少なからずいる。これからも日本であれやこれやビルマがらみの仕事をつづけてゆくうえで、チェンマイで会ったビルマの人たちからかけがえないのない励ましとエネルギーをもらったとシュエバは実感している。もう一度どこかで会えるかどうかはわからないが、彼ら、彼女らのあたたかな微笑、しなやかな身振り手振り、訛りがあったり、なかったりのビルマ語はシュエバの心に終生残るに違いない。

タイ北部の古都チェンマイ(ビルマ語ではズィンメー)はビルマではないがビルマとの国境にほど近い。ビルマ人はたくさん住んでいる。軍事政権下のビルマで、日常的に軍の収奪にあい、強制連行や強制移住の恐怖にさらされる状況から、国境を越えて逃れて来た少数民族の人たち、とくに女性の姿が目立つ。さらに会議に出席するために、5時間も車に揺られてタイ中西部のメソートからやって来た女性もいた。メソートはビルマのミャワディと河を挟んだ国境の町で、ビルマから逃れてきた人たちが多い。近くにはビルマ少数民族の難民キャンプもある。記憶が新しいうちに、チェンマイでの得難い出会いを、とくに印象に残ったやさしく、たくましい女性たちのことを記しておこう。

健気なミイちゃん

メディア会議には10数人の若者たちがオブザーバーのようなかたちで出席していた。メディアの世界で働くべく研修を受けているとのこと。彼ら、彼女らはひときわ熱心に耳を傾け、ノートをとっていた。ほとんどがカレン、モン、カヤー、シャンなど少数民族の若者たちで、すでにそれぞれタイにある民族コミュニティーで雑誌や新聞の編集・発行に携わっている。そうした仕事をつづけるうえで必要なジャーナリストとしての知識と技能を身につけるべく8ヶ月間の研修に参加しているとのこと。ただし、この若者たちはタイ国では在留資格を持っていない。不法滞在者であり、不法就労者でもあるので、身の安全を考えて、ふだんどこに住んでいるのか、誰による研修をどこで受けているのかなどは明らかにはできないという。

そのなかにシュエバが勝手にミイちゃんと名づけたモン民族の少女がいた。色白、幼さな顔、ポニーテールのミイちゃんは高校生ぐらいにしか見えない。シュエバはミイちゃんの姿から、40年も昔、青春まっさかりの頃、映画『キューポラのある町』に主演したまだ二十歳前の吉永小百合を思い浮かべていた。年齢を訊いて驚いた。23歳なのだという。コーヒーブレイクの時、ミイちゃんはシュエバがセッションのなかで、日本の新聞やTVはビルマについてそれほど報道することはないと話したのが不満だったようだ。

「日本のメディアがビルマのことをあまり取り上げないなんて残念です。どうしてなんですか?」

シュエバはその場で一応の説明はした。人ごみのなか、限られた時間での説明は十分ではなかった。ミイちゃんは納得したという表情ではなかった。シュエバの方も日本のことを話すよりむしろミイちゃんのことをもっと知りたかった。軍事政権の弾圧や強制連行の恐怖から故郷を逃れてきたモン民族の一員だと自己紹介をしてくれた。今は国境のスリーパゴダ・パス(三仏峠)を挟んでタイ国側にあるサンクラブリ(Sang Khla Buri)のモン民族コミュニティーで幼い子供たちにモン語を教えるなど、教育を手伝っているとのこと。またモン民族のコミュニティ誌をつくる仕事もしている。メディアに関心があるし、将来もモン民族のためにメディアを通じて働きたい、だから研修に参加しているのだと目を輝かせて話してくれた。

東京へ帰ってきてパソコン端末を開くと、彼女からのメールが届いていた。たどたどしい英語だが、シュエバにはその方がありがたい。

「ハーイ! シュエバおじさん。無事、日本へ帰りましたか? 訊きたいことがいっぱいあるので、これからもいろいろ教えてくださいね。またメールします」

シュエバはすぐにやはり下手な英語で返信を送った。

「ありがとう。無事帰ってきたよ。おじさんはたいへん忙しいし、くたびれています。明日もモン民族の人の難民不認定取消し請求訴訟で法廷通訳をすることになっています。でも、ミイちゃんの質問にはかならず返事しますから、またメールくださいね」

健気なミイちゃんとシュエバおじさんのつきあいはこれからもつづきそうである。

大忙しのママ・ノーカイン

ニ日間の会議が終わり、夕方にチェンマイを立つだけという日の朝、食堂でコーヒーを飲んでいたシュエバめざして、背の高いやせた女性がつかつかと歩み寄ってきた。二日目のセッションでタイ国内の難民キャンプに住むビルマ少数民族の人々が直面している問題について話をしたカレン民族のノーカイン(仮名)さんである。メソートに住む作家であり、カレン民族女性組織の代表でもあるノーカインさんはビルマ・カレン州から陸路タイへ逃れて来た不法滞在者である。活動仲間であるチェンマイ在住のカチン人女性Sさんからシュエバという日本人が会議に出席するときいて話をしたかったのだという。日本へ帰る前にSさんに会おうと思っていたシュエバにとっては渡りに舟である。Sさんやノーカインさんたちが運営する女性組織の事務所まで連れて行ってもらうことになった。

会議の会場となった山の中のリゾートホテルから、ニューデリーへ戻るというビルマ人夫婦と一緒に、ホテルの手配してくれた車でチェンマイの市街へ下る。およそ1時間ほどのドライブの間、シュエバの隣りに座ったノーカインさんの携帯電話がひっきりなしに鳴る。メソートやチェンマイの活動仲間とのやりとりらしい。「だからね、会議の前にきちんと何をどこまで話すのか準備しておくのよ。いいわね」。「○○さんの原稿、まだ届かないの? 催促しなきゃだめよ」といった具合にテキパキと指示していた。みんなに頼られるしっかり者のお姉さん(ビルマ語ではママ)という風情である。

携帯電話での会話が途切れるとノーカインさんは苦しげに咳き込んだり、ビニール袋に口をあててつばを吐いたりする。車に弱いのかとシュエバが訊くと心臓や呼吸器に持病があるという。メソートでは医者に見せるひまがなかったが、チェンマイにいる間にメディカル・チェックを受けるつもりだと話してくれた。チェンマイ市内のビルマ女性連盟(WLB=Women's League of Burma)事務所につくとノーカインさんは元気を取り戻し、いそいそと招きいれてくれた。

さあそれから一人語りがはじまった。Sさんが事務所にあらわれるまで2時間くらいあっただろうか。ノーカインさんは生まれてから今にいたるまでのことを延々と話しつづけた。相手が日本人だからとの気遣いや気兼ねが感じられない率直な話しぶりがシュエバには心地よかった。シュエバは時々質問をはさむだけ、メモをとらずに話に聴き入った。

彼女の本名には男の名前がくっついている。姓を持たないビルマ人には父の名前を姓がわりにいれることはよくある。彼女の本名にある男性名は、日本軍に軍事訓練を受けたビルマ独立闘争の英雄であり、ビルマ国軍の礎を築いた「三十人志士」の一員だった有名な軍人と同じ名前である。シュエバがそのことを訊くと、たしかに父親は軍人だったけれど、政府軍ではなくKNU(カレン民族同盟)の武装組織の将校だったとのこと。KNUはいまだに軍事政権と休戦協定を結んでいない数少ない少数民族組織である。1967年生まれという彼女は父の部隊の駐屯地に近いジャングルの中で生まれた。しかしすぐに親戚の家に養女に出され、その家の娘として育った。十年生を卒業し小学校の臨時教員をつとめている頃に父のことを知ったという。

父のことを知るまでもなく彼女にはカレン民族としての自覚があった。軍人政府がカレン民族をいかに痛めつけいるかを身近に見聞きして知っていた。カレン民族の権利獲得のために働きたかった。1988年民主化闘争には彼女も参加した。そのあと森へもぐった。KNUが支配する地域へ逃れたのである。当時、父はすでに戦死していたが、彼女はKNUの根拠地であるマネプローで働くようになった……。

一度だけ話が途切れた。事務所を手伝う若い女性が何事かを相談に来た時に彼女は席を外した。しばらくしてシュエバの前に姿をあらわしたノーカインさんはそれまでのスラックスをタメイン(女性用の巻きスカート)にはき替えていた。ソファーに座り、タメインの下の足をあぐらに組んだり、横座りになったり、変幻自在である。身振り、手振りも段々大きくなってきた。

ビルマの民主化勢力も逃げ込んでいたマネプローは政府軍の激しい攻撃を受け、1994年に陥落する。ノーカインさんたちは炎を上げるマネプローを振り返りながら国境を越えてタイへ逃げた。それからノーカインさんのタイでの生活がはじまる。自分ひとりが食べるだけではない。同胞難民の救援、虐げられがちな女性の権利を守る組織の結成、ものを書く、世界に向けての活動……。その後のことはこれを読んでほしいとシュエバに自著を一冊渡してくれた。

シュエバは日本へ帰ってからもらった本を読んでみた。淡々とした筆致で綴られたエッセイである。メソートを舞台に、ビルマ人群像が描かれている。彼女自身が声高に叫んだり、要求したりはしていないが、同胞を思う心情が切々と伝わってくる。ノーカインさんのエッセイを日本語に翻訳してみようかと今シュエバは思っている。