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田辺寿夫(シュエバ)

母国では……、日本では……~ビルマ国籍者の難民認定申請を考える~
2005年9月24日配信 

はじめに

5月16日から改定出入国管理及び難民認定法が施行され、一部手続きが変わった。従来から問題になっていた「60日条項」(難民としての事由発生以来60日以内に申請する)は撤廃された。さらに直接日本へ入国し、180日以内に難民申請をした人については審査のうえ新しく設けられた「仮滞在」を認めるケースも増えてきた。また、難民申請が否定され、異議申立てを行なった場合、本人は入国管理局の審査官だけではなく、民間から採用された参与員の前で意見を陳述する機会が与えられるようにもなった。

2005年になってすでに18人のビルマ国籍者が難民認定を受けた。難民としては認定されなかったものの在留特別許可を得たビルマ国籍者は28人にのぼる。難民認定者も在特を得た人の数もすでに昨年の数字を上回っている。しかし、その一方ではビルマ人の難民認定申請者の数はさらに増えてきている。これまでになかった傾向も見られる。ここでは日本におけるビルマ国籍者の難民認定について、これまでの経過と現状をあらためて把握しておきたい。

前門の虎、後門の狼

ビルマ人たちが日本で難民申請をしはじめたのは、1988年のビルマ民主化闘争で活躍した若者たちが、1988年9月に成立した軍事政権の弾圧を逃れて日本へやって来るようになった1990年代の初めごろからである。はじめは例えば「60日条項」だけで不認定になるなど門前払いのような状況がつづいた。少数とはいえ、徐々に認められるようになったのは1998年頃からである。(在日ビルマ人難民弁護団あつかいの難民認定者数は98年から2001年にかけて、それぞれ8、6、15、13人)

それは、たとえ長期間収容されても、どうしても帰国しないという本人たちの強い意思とがんばり、早くから支援体制を整えてきた弁護団の努力によるところが大きい。日本で難民として認定される人の数は依然として少ないにせよ、たとえば2004年の認定者15人のうち14人がビルマ国籍者といった数字を見るとこうした努力が実を結びつつあるといえる。

ところがここ数年、とくに2003年後半からビルマ人の難民認定申請に関して、これまでの延長線上とは言い切れない事態が起こりつつある。不法滞在で逮捕された後、警察の留置場から、あるいは入国管理局の収容施設から難民認定を申請する人が急増している。この背景にはビルマにおける政治状況・人権状況の悪化と日本における取り締まりの強化があると考えられる。

2003年5月30日、ビルマ北部ザガイン管区ディベーインで襲撃事件が起きた。襲撃を受けたのはおりから地方遊説中の国民民主連盟(NLD)のアウンサンスーチー書記長、ティンウー副議長を含むNLD党員とその支持者らの一行である。襲ったのは連邦団結発展協会(USDA)のメンバーを中心とする「地元の民衆」とされる。死者は60数人(100人以上との説もある)。USDAは軍事政権によって結成されたいわゆる御用団体である。計画的なこの襲撃は軍事政権のNLD潰しと受けとられた。「アウンサンスーチーさえ殺されそうになったんだぜ」、「軍は反対勢力を完全に叩すまでやるつもりだ」。そんな声が日本のビルマ人社会に飛び交った。

軍事政権のこうしたやり方に反発して在日ミャンマー連邦大使館の前では連日ビルマ人による抗議行動が行なわれるようになった。それまで政治的な活動には参加していなかったビルマ人の顔も見られた。それでなくとも、日本で開かれる水祭り(ビルマ暦の新年。4月)やダディンジュッ(雨安居明けの祭り。10月。今年は10月9日に北区飛鳥山公園で開催の予定)にはほとんどのビルマ人が参加している。ごく当たり前の年中行事であっても、参加したことがわかれば帰国した時に尋問を受け、逮捕される危険があると在日ビルマ人たちは恐れる。なぜならこうした催しを主催するのは軍事政権から「在外反政府テロリスト団体」とレッテルを貼られている国民民主連盟(解放地域)=NLD.LA日本支部であったり、ビルマ民主化同盟(LDB)であるから、参加者は、たまたま遊びに行ったにせよ、そうした団体の同調者と見なされるのである。となると、たとえ日本でそれほど政治活動に参加していなかった人であっても、「アウンサンスーチーまで殺そうとしている」軍事政権が支配する母国へ、とても帰れたものではない。

ちょうどその時期、2003年9月頃から入国管理局・東京都・警視庁が連携を強めて、25万人におよぶ不法在留外国人をむこう5年間で半減させるという目標を掲げて摘発を強化した。職場で、アパートで、駅で逮捕されるビルマ人の数は急増した。このビルマと日本での動きの相互作用で、捕まる前に、あるいは捕まってからでも「迫害を受ける恐れ」を持つビルマ国籍者たちの難民認定申請が増えてきたのである。

なぜ今まで申請しなかったの?

現象としては「駆け込み的」ともみえるビルマ人の難民認定申請ではあるが、申請者のなかには、在日の長い人がけっこうたくさんいる。母国で1988年民主化運動やその後の非合法的な活動にかかわって当局から尋問を受けたり、逮捕された経験を持つ人も少なくない。もちろん来日後もビルマ民主化をめざす団体に加わってデモなどに参加もした。それが今になってやっと難民認定申請をする。「60日以内といわないまでもなぜもっと早く難民認定を申請しなかったの?」と思わずいいたくもなる。

在日ビルマ人たちと話していると難民認定申請が遅れた理由はおもに2つあると気づく。いずれにも彼ら、彼女らなりの愛国心や矜持がからんでいる。曰く「国の状況がよくなればすぐに帰ろうと思っていたから」。その気持ちはわからないでもない。1988年の民主化闘争は挫折したが、1990年5月の総選挙ではNLDが圧勝し、在日のビルマ人たちも大いに希望を抱いた。その後も軍事政権の支配は続いたが、指導者アウンサンスーチーが何度か自宅軟禁から解放された時とか、国連や外国政府が軍事政権への働きかけを強めた時とか、「これで母国は良くなる、帰れるぞ」と思ったこと幾度かあり、難民申請まで踏み切らなかったというのである。

もうひとつの理由はややわかりにくい。言語の問題がからむ。ビルマ語では難民を「ドォッカーデー」と表現する。この単語はもともとパーリ語(上座部仏教経典に使われる言語)起源で、災害にみまわれた人、苦難をあじわう人、困り果てた人という意味で使われる。日本語の難民という単語も、戦禍や災害を逃れた一般的な難民にも、難民条約の定義に該当する条約難民にも使われるから、さして気にする必要はないと思うのだが、プライドの高い若者たちはこれを嫌う。「オレは自分の意思で母国のために活動しているのだ。なにも困り果てているわけではない。外国の政府の保護などいらない。捕まえるなら捕まえろ」と粋がる(ように私にはみえる)のである。

こうした人たちの多くが、今、厳しくなった取締りのなかで右往左往し、「帰国すれば迫害を受ける恐れがある」からと、ようようにして難民認定を申請しているのである。

民主化はまだ遠い

9月5日のこと、私の携帯が鳴った。ビルマ国籍の女性からであつた。

「サヤー(先生)、チャマ(私)レフュジー・ヤトゥワバービー!(難民認定されました!)」

声は弾んでいた。ビルマ北西部・インドと国境を接するチン州出身のチン民族・キリスト教徒のまだ若い女性である。父はチン州NLDのリーダーで現在も自宅軟禁に近い状況にあるという。彼女自身、チン民族の権利拡大・民主化を求める活動に参加してきた。逮捕の危険を察知し、山中を歩いてインドへ逃れ、インドの旅券を取得して日本へやって来ていた。日本でもチン民族の組織や少数民族の連合体AUNのメンバーとして活動をつづけていた。

彼女もまた不法在留で捕まり、都内の警察署に留置されてから難民認定を申請した。不法入国でもあったので起訴され裁判となった。公判はふつう1回、しかも30分ぐらいで終わり、執行猶予つきの判決が出るのだが、彼女のケースでは弁護人が、彼女が条約上の難民に該当することを主張し、公判は3回に及んだ。留置場生活は3ヶ月におよんだ。留置場での弁護人接見や裁判での通訳をつとめた私は、顔を合わせるたびに彼女が面やつれしてゆくのがわかったが、「もう少しだよ。がんばってね」と声をかけるしかなかった。判決後、品川入管へ身柄が移され、仮放免となったのち、難民として認定されたことになる。

このチン民族の女性の例に見られるように、いま日本では難民認定を申請するにあたって、難民条約に定める定義のなかの「特定の社会的集団」に属すること、「政治的意見」という理由のほかに「人種」、「宗教」をも迫害を受ける理由に加えるビルマ国籍者が増えてきた。カチン、チン、シャン、カレン、モン、ラカイン、ロヒンギャなど少数民族の人たちである。このことはビルマの民主化、人権状況の改善は民族問題とも深くかかわっていることを示している。

母国の状況に希望が見えてくれば、即刻帰国するというビルマ人は多い。日本で難民として認定されたり、在留特別許可を得ることは彼らにとっては一時的なことであり、誰しも母国へ帰って平穏な生活を営めることを願っている。

国民の多くが希望を託しているアウンサンスーチーやティンウーは、ディベイン事件以降軟禁状態にある。これまでの軟禁より厳しいらしく、指導者たちの肉声はまったくきこえてこない。2004年には「柔軟派」とされたキンニュン首相が更迭される政変があったが、タンシュエ上級大将をトップとする軍のピラミッド体制に揺るぎはない。2006年度アセアン議長国は辞退したが、民主化、人権状況の改善を求める外からの圧力にさして効き目はない。まもなく憲法草案を討議する国民会議が再開されるとの報道はあるが、この憲法ができたところで政権指導者たちの敬称がBo(軍人につく冠称)からU(一般人男子の冠称)に変わるだけ、軍人の支配はつづくと多くのビルマ人は見ている。

日本にいるビルマ国籍者たちはなべて愛国者である。国をよくしたいと願っている。日本政府が影響力を発揮してほしいと望んでいる。軍事政権となあなあで付き合うのではなく、国民大衆の気持ちをくみとり、民主化・人権に力点を置いた対ビルマ外交を展開してほしいと訴えている。難民を取得した人たちも、申請中の人たちも、これから申請しようという人たちも、在日ミャンマー大使館の前で、国会議事堂の前で、今日も訴えをつづけている。