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田辺寿夫(シュエバ)

難民認定~遠い道のり~
2005年6月12日配信 

2005年6月5日夜、都内恵比寿の焼肉店で楽しいパーティーがあった。今年になってから、難民として認定された2人のビルマ人が、世話になった日本人たちを招いて開いた感謝の会である。在日ビルマ難民弁護団の弁護士が4人、弁護団の事務局で働く女性、ビルマでNGO活動をしてきて、現在は大学院で学んでいるという男性らが出席した。招いてくれたビルマ人のOさんとLさんは2人とも難民認定を申請したものの、認定されず、裁判になった。難民として認定されるまで長い時間がかかり、苦労を強いられた人たちである。(裏面・司法手続き参照)

そのうちの一人、Oさんはビルマ西部ラカイン州マウンドー出身のロヒンギャ民族である。(5月20日配布プリント参照。Oも登場する)。ビルマで数年間NGO活動をしてきたという日本人の男性は、そのマウンドーで働いていた。NGOの名前はBAJ(ブリッジ・エーシャ・ジャパン=Bridge Asia Japan)という。この団体は1991~92年に、戸籍調査に名を借りたビルマ軍の追い出し作戦のためにいったんバングラデシュへ逃れたロヒンギャ難民およそ25万人の帰還・定住を促進するUNHCRのプログラムのもと、職業訓練などを担当した。彼はマウンドーでの活動を記録した写真アルバムを持参していた。Oさんは久しぶりに見る故郷の風景を歓声をあげて見入っていた。

Oさんは留学生として来日、日本で祖国民主化の活動に参加するようになった。現在は、在日ビルマ人によって結成された労働組合・在日ビルマ市民労働組合(FWUBC)の書記長をつとめている。在日ビルマ・ロヒンギャ人協会=BRAJのメンバーでもある。Oさんについての本人尋問は昨年の12月に東京地裁ではなく、港区港南にある東京入管庁舎で行なわれた。当時Oさんは茨城県牛久の東日本収容センターに拘束されていたからである。本人尋問では原告側代理人である弁護士と被告側代理人である法務省付き検事が原告にそれぞれ質問をし、Oさんがそれに答える。本人にとっては裁判所で肉声で語ることができる重要な機会である。

両者の質問の内容はくっきり違う。原告側代理人はOさんの活動歴を中心に訊ねる。民主化(軍事政権からすれば「反政府」)活動に加わってきたこと、そのことを当局に把握されており、帰国すれば尋問され、政府が認めない組織に加わって「反政府」活動に参加した、つまり国家の転覆を図ったとされ、長期間投獄されることは明らかである、だから帰国できない、難民として庇護する必要があると尋問を通じて明らかにしようとする。

一方、国(被告)側代理人は、あれこれ問いただして、Oさんは難民に該当しないことを明らかにしようとする。普通は「銀行口座にいくら預金があるか?」とか「本国にどれくらい送金したか?」などと質問をして、この人物は実は日本に稼ぎにきたに過ぎないという主張につなげるのである。しかし、Oさんは明らかに「金を稼ぎに」やって来た人物ではなかった。そこで国側の質問は「信憑性」を中心にしたものとなった。これまで入国管理局での何回かの難民認定にかかわるインタビューや「違反審理(不法在留についての尋問)」の調書のなかから、矛盾した供述をとりあげ、Oさんの言っていることは全体として信頼するに足りないと主張しようとする。しかし、Oさんはこうした重箱の隅をほじくるような質問にも動揺せず、見事に返答してクリアした。結局、本人尋問の一ヵ月後に出た判決ではOさんに対する難民不認定を取り消すと裁判所は決定した。Oさんは勝った。国側はめずらしく高裁へ控訴しなかったため、Oさんは難民資格を獲得した。

もう一人のLさんは奥さんと日本で生まれた3歳の男の子も一緒だった。Lさんはヤンゴン出身のイスラム教徒である。彼もOさん同様FWUBCの活動家で今年5月に開かれた年次総会では副会長に選ばれた。文学にも造詣の深いLさんは日本で発行されている雑誌『アハーラ』(4月29日配布プリント参照)の編集発行人でもある。Lさんの兄さんは1988年ビルマ民主化闘争の際の学生リーダーの一人で、現在もヤンゴンのインセイン刑務所に収容されたままである。Lさんは東京地裁での本人尋問を経験した。本人尋問が終わり、結審して、判決を待つばかりという時期に法務大臣はLさん夫妻を難民として認定した。

Oさんにせよ、Lさんにせよ、結局は難民として認定され定住者として日本に在留する資格を得た。今はなんの不安もなく生活ができる。仕事もできる。社会保険にも加入できる。もちろん政治活動にもいままで以上に時間をさける。しかし、ここまで来るのに随分時間がかかった。今になって認めるなら、難民認定を申請した時と裁判になった時と、申立てにさして変わりはないのだから、なぜもっと早い時期に認められなかったのか。Oさんは一年以上もの収容所生活を強いられた。心身ともに消耗した。Lさんは収容はされなかったものの、滞在資格がない不安から鬱状態になり、手足が震えるという症状が出て、未だに快癒していない。

Lさん夫婦にはこの日みんなに愛嬌をふりまいていた男の子のほかにもう一人娘さんがいる。シンガポールの親戚の家に身を寄せ、学校に通っている14歳の女の子である。これまで日本の在留資格のないLさんは娘さんを呼んで一緒に生活することはできなかった。難民として認定されてすぐ、夫婦は難民旅行証明書(裏面図解参照)を手にシンガポールへ赴いた。10数年ぶりの親子の対面だったという。その娘さんがはじめて会った弟に頬ずりしている写真をLさんはみんなに見せ、もうすぐ家族みんなで一緒に住めるんだとうれしそうに話していた。