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田辺寿夫(シュエバ)

往きも帰りもビルマ(ミャンマー)をまたぐ~チッタゴンへの旅~
2004年7月16日配信 

パラシュートで降りなよ

7月1日(木)から6日(火)までシュエバは慌しい小旅行に出かけた。スケジュールは東京→バンコク(1泊)→チェンマイ経由チッタゴン(2泊)→チェンマイ(1泊)→バンコク→(機中泊)→東京である。タイのチェンマイ(ビルマ語ではズィンメー)とバングラデシュのチッタゴン(ビルマ語ではスィッタガウン)はちょうどビルマを挟んで西と東に位置する。ビルマ語の呼称があることからうかがえるようにこの二つの都市は歴史的にも地理的にもビルマとはきわめて近い。

ビルマには入らず、ビルマをまたいで二つの都市を訪問するこの旅もひたすらビルマとかかわっていた。在日ビルマ人の難民認定および「難民として認めない決定の取消しを求める訴訟」のため、ビルマを出てきた少数民族や難民となっているビルマ人に会って証言を収録し、証拠・資料を集める旅であった。

在日ビルマ人難民弁護団の弁護士4人の一行に通訳として同行したシュエバはビルマ政府から「反政府活動(すなわち民主化運動)を支援している」と見られているからビルマ入国ビザは出ない。弁護士たちにはビザは出るかも知れない。しかし、軍事政権からすれば「反政府活動家」である人びとに資するような行動がビルマ国内で許されるわけはない。ビルマをまたぐ旅とならざるを得ない。

出発前にシュエバはビルマ人の友人にこの旅のスケジュールを説明しながら、溜め息まじりにこうつぶやいた。

「もう長いことビルマへ行ってないんだ。西隣と東隣へ行くなんて皮肉だよな。ちょこっとでも入れないかなあ」

「簡単だよ。パラシュートで降りればいいじゃん。レーティー(落下傘)・シュエバか、カッコいい!」

実際、飛び降りたくなった。チェンマイ=チッタゴン間はおよそ1時間、タイ航空のA300機は西北の方向にほぼ一直線に飛ぶ。離陸後の10分と着陸前の10分を除いてずっとビルマの上空を飛び続ける。高度は3万フィートぐらいだろうか。窓から見下ろすと雲の切れ間からビルマの大地がはっきりと見える。全体に緑がかった風景だが、土が剥き出しになった部分はタイより少し赤い気がする。

「あっ、サルウィン(タンルイン)河だ!」、「あれはきっとインレー湖だ!」、「見て見て、ほらあそこにイラワジ(エーヤワディ)河が」……。それらしき山や川が見えるたびにシュエバは声をあげ、見やすいようにと席を変え、一人はしゃぎまくって、資料を読むのに余念のない弁護士たちを邪魔しつづけた。

白い肌、高い鼻のロヒンギャー

チッタゴンではこの地に逃れて来ているロヒンギャー(Rohingya.ビルマ語発音はロヒンジャー)民族の指導者三人と会った。国民民主連盟(NLD)幹部のAFKジラーニさん、かつては反政府武装闘争も辞さなかったというARNO(アラカン・ロヒンギャー民族組織)幹部のヌルル・イスラムさん、やはりARNOの元幹部で現在はジラーニさんと行動をともにしているアマン・ウッラーさんの三人である。話をしてみると、三人ともその係累の誰かが日本に住んでいるとのこと。

そのうちの一人ジラーニさん(64歳)との対話は後に日本政府入国管理局や裁判所に提出するためビデオに収録した。

ロヒンギャー民族はチッタゴンにほど近いビルマのラカイン(ロヒンギャーの人たちは旧名アラカンを使う)州に住むイスラム教徒である。人口は有に100万を越えるが、軍事政権が認めるビルマ固有民族135のうちには入っていない。

かつてはそうではなかった。ジラーニさんの父はビルマ連邦の国会議員を2期つとめたとのこと。1948年独立直後から1962年までのウー・ヌ内閣時代のことである。議会制民主主義の時代の与党は一貫してパサパラ(英語略称はAFPFL=反ファシスト人民自由連盟。1944年、当時ビルマを支配していた日本軍に叛乱するためにアウンサン将軍たちが作った統一戦線組織。ファシストとは日本を指す)であり、ジラーニさんの父もパサパラに所属する政治家だった。因みにこの時期には、国営ラジオ放送に少数民族語によるニュースの時間があり、ロヒンギャー語(ベンガル語チッタゴン方言に近い)も放送されていた。

ジラーニさんのビルマ語は訛りが強く、標準ビルマ語の発音とはかなり異なっていた。たとえばビルマ語の数字66(チャウセー・チャウ)が(シャウセー・シャウ)になる。しかしジラーニさんは豊かな教養を持つ知識人である。ロヒンギャー民族の歴史や現状、民主化運動についての英語の著書(著者は終身刑を宣告されるだろうし、ビルマに持ち込もうとした人は投獄されるとのこと)が四冊ある。質問をよく理解し、豊富な語彙を駆使して的確に答えてくれる。発音の癖さえ把握すれば通訳に問題はない。

真っ白い山羊髭がいかにも学者という感じのジラーニさん。肌は赤みがかっているが日本人よりむしろ白い。鼻梁は秀でている。これまで見知っている色黒、精悍な目つきが際立つロヒンギャーの風貌とはかなり違う。シュエバは不思議に思って訊いてみた。

「ロヒンギャー民族には7,8世紀頃から、船に乗り、はるばるインド洋を渡ってアラカン地方まで交易に来ていたアラブ諸民族の血がまじっているのだよ。私の場合はペルシャ(現在のイラン)系なんだ」

そうか、だからどことなくホメイニ師に似ているんだとシュエバは納得した。

弾圧と迫害を逃れて

1962年3月2日、クーデターでウー・ヌ首相から政権を奪った当時の軍参謀総長ネウィン大将がビルマ社会主義計画党(マサラ=BSPP)の一党支配による軍部独裁体制を布くなかで、ロヒンギャー民族の運命は暗転した。ジラーニさんの話によれば、ネウィンは、英領植民地時代にビルマへやって来て、とくに経済の分野で重要な位置を占めていた中国系、インド系の人たちを追い出すなど偏狭なナショナリズム(ビルマ族中心主義)にもとづく政策を推進した。ネウィンはまた、ベンガル湾にのぞみ、インド、バングラデシュ(旧東パキスタン)に近く、地政学的にきわめて重要なラカイン州からイスラム教徒であるロヒンギャーを駆逐しようとした。

昔から先祖代々この地に住んでいたロヒンギャーであっても、バングラデシュからの不法移住者・不法滞留者とされまっとうな市民権は与えられなくなった。そして、軍の作戦を理由にした強制移住、ポーターとして部隊に同行させる強制労働、国軍兵士による暴行・略奪、資産やエビ養殖などの事業の接収、バリー(イスラムの礼拝所)の破壊、往来の制限、医科大学や工科大学、それに教育大学など就職に直結する大学・学部への進学を許さないといった教育機会の差別……さまざまな苛酷な弾圧が加えられた。

1978年と1991/92年には「不法滞在者」を摘発するという軍の作戦をきっかけに、それぞれ数十万のロヒンギャー民族の人々が故郷を離れ、国境のナフ川を渡ってバングラデシュへ難民として流出した。今、そうしたロヒンギャーの多くはUNHCRが進めた帰還再定住計画にもとづいて故郷へ帰ってはいるが、ジラーニさんによれば軍事政権の迫害は変わっていないとのこと。

それでもロヒンギャーの人たちは民族の権利と民主主義を求めてたたかっている。1963年、ヤンゴン大学卒業後、バングラデシュと国境を接する故郷マウンドーに帰って高校教師をしていたジラーニさんは1988年の民主化闘争に参加した。1988年9月18日、国軍の国権掌握後、結成された国民民主連盟(NLD)のラカイン州支部中央執行委員となった。ヤンゴンのNLD本部から直接の要請があったからだという。アウンサンスーチー書記長はNLDの活動を推進するにあたって、父アウンサン将軍とともに独立闘争をたたかい、独立後のビルマの政治をになった旧パサパラの政治家たちやその子息たちを大いに頼りにしていた様子がうかがえる。

逆に政府当局の方は議会制民主主義時代の著名な政治家の子息であるジラーニさんの動向に常に警戒を怠らなかった。故郷に帰った1963年から1988年までの間に7回にわたって逮捕・連行され、ロヒンギャーの反政府武装闘争組織とかかわっていないかどうかを調べられたという。

1990年5月27日、そのパサパラが大勝し、ジラーニさんの父アブール・カイアーさんが当選した選挙以来、複数政党制としては30年ぶりになる総選挙が行なわれた。ジラーニさんはNLD公認候補としてマウンドー第二選挙区から立候補したが落選した。当選したのは、ロヒンギャー民族によって結成された地域政党から出馬した候補者である。ひたすらロヒンギャー民族の権利拡大をいうばかりでなく、ビルマ連邦全体の民主化をめざそうとするジラーニさんはロヒンギャーのなかでは穏健派と見られているのだろう。

それでも軍事政権からすると、ロヒンギャー民族のであるばかりか、頑強に民主化を訴えるアウンサンスーチーが率いるNLDの幹部でもあるジラーニさんは目障りな存在である。1992年にはマウンドーでゴルフ場爆弾事件があった。ビルマの片田舎にゴルフ場があるとは奇異にきこえるかも知れない。長年ビルマの独裁者であったネウィン(2002年死去)がゴルフ好きだったことから、ゴルフをたしなむ軍幹部は多く、軍の駐屯地周辺にはおおむねゴルフ場が設けられている。そのほとんど軍人専用ゴルフ場に爆発物が仕掛けられているとの「通報」が軍情報部(MI)にあった。爆発物を仕掛けたのはNLDの仕業だとされ、マウンドー地区のNLD書記長は逮捕されたうえ拷問によって死亡した。すべては軍がよくやるNLDを潰すためのでっち上げだとジラーニさんたちは見ている。それにしてもNLD幹部であるジラーニさんにもMIの追及の手がのびてきた。間一髪、ジラーニさんは逮捕にきたMIの手を逃れ、バングラデシュへやって来たのである。

命あるうちに

たんたんと語るジラーニさんが声をつまらせる場面が何回かあった。一度は将来のことをたずねた時だった。

「ビルマが民主主義の国になってほしい。人権が尊重され、ロヒンギャーにも民族自決、諸民族平等の権利が与えられる社会になってほしい。そのために私ははたらく。実現したら、別に大臣などの役職に就かなくてもいいから、国のためにさらに貢献したい。しかし、もうかなりの歳だ。なんとか命のあるうちに実現したい……」

もう一回は日本に住む三男に話が及んだ時。ジラーニさんには4人の息子と2人の娘がいる。長男、二男はそれぞれタイとアメリカに定職を持って住んでいる。四男はイギリスで難民資格を得た。長女はチッタゴンで一緒に住んでおり、次女は結婚してサウジアラビアにいる。

心配のたねは東京にいる三男M君である。ムシャラフ君はビルマにいる当時、民主化運動に参加した。さらに父が著名なロヒンギャー民族の指導者の一人であることから、何度か軍情報部に身柄を拘束され、拷問を含む尋問を受けている。母国に帰れば、ロヒンギャー民族であり、イスラム教徒であるが故に、また属する社会的集団(在日ビルマ・ロヒンギャー人協会=BRAJのメンバーである)の故に、さらにその政治的意見の故に、迫害を受けるという十分に理由のある恐怖をもっている。これはまさに「難民の地位に関する条約」に定義された難民に該当する。彼は日本政府に対して難民認定を申請した。結果は不認定だった。

申請にあたってM君が提出した資料のなかには家族の写真や父の著書があった。しかし法務省入国管理局難民審査官は、写真に写っているジラーニさん、本を書いたジラーニさんとM君とが「ほんとうに親子であるかどうかの証拠がない」というのである。ジラーニさんとのインタビューのなかで、間違いなく親子であることを証明するためにと、弁護士たちはM君からきいたジラーニさんの指の傷跡までたしかめ、ビデオに撮影した。ジラーニさんは撮影に協力し、期待をこめてこう話した。

「民主主義の国である日本の政府が言うことには驚いたし、失望しました。でも、日本から弁護士の方々がわざわざ会いに来てくれて、こうしてお話ができた。親子であることはこれで十分にわかってもらえるでしょう。早く私の息子が安心して日本に住めるよう、難民として認めて欲しい。それが私の願いです」

ジラーニさんと弁護士たちの一問一答を通訳をしながらシュエバは渋谷・神山町の薄暗い六畳一間のアパートを思い出していた。2004年2月、そのアパートに住む友人の部屋にM君は仮住まいをしていた。親子関係が証明できないと言われて難民認定を否定されたというニュースをききつけて、ちょうど日本の入管体制について取材をすすめていたあるTV局がM君にインタビューを試みた。その時もシュエバは通訳をつとめた。入国管理局の言い分に話しがおよんだ時にムシャラフ君は声を荒げてこう言った。

「それを聞いた時にはほんとうにびっくりした。信じられなかった。ジラーニをオレの親父だって認めないなんて、西から昇った太陽が東へ沈むようなものだよ」

旅は道連れ、世は情け

チッタゴンは東隣りのビルマと同じ気候なのだろうか、7月は雨季にあたっていた。毎日二回ぐらいはスコールがある。そのせいかさほど暑くはなく、ましてホテルの中にいれば快適であった。それにしても同行した四人の弁護士たちの働きぶりにシュエバは驚嘆した。インタビューの前には綿密に打ち合わせをする。持参してきた調書、供述書や資料の類を山積みして次々に読みこなす。パソコンを駆使してインターネット情報にあたり、インタビューの内容は同時進行ですぐさまキーボードを叩いて記録を作成する。日本でこなしているのとまったく変わらぬ精力的な仕事ぶりだった。

一行のリーダー格渡邉彰悟弁護士は在日ビルマ人難民弁護団の事務局長、シュエバとは1991年頃からの知り合いである。今回、誰もが思いつかないようなバングラデシュ・ツアーを企画、実行したように破天荒な行動力の持ち主である。一方で、気がやさしく涙もろい。散歩でもと、ホテルの外へ一歩出た時、はだしの子どもたちがお金をちょうだいと次々に手を差し出してくるのを、渡邉さんは邪険に払いのけるのではなく、悲しそうな目で見つめていた。

近藤博徳弁護士。ベテランである。物静かだが思いがけず冗談が出ることもある。ビルマ以外にフィリピンともかかわりがあり、年に一度はフィリピンを訪れるという。そのせいか熱帯フルーツにくわしい。しかも日本人には苦手な人が多いドリアン(ドゥーヤンディー)好き、チッタゴンの果物屋でもドリアンを探したが、発見できなかった。この国にはないらしい。やむを得ず近藤さんはパパイヤ(ティンボーディー)やマンゴー(タイェッティー)を買い込んでいた。

サコ先生こと鈴木雅子弁護士。上智大学の学生だったころからビルマに興味を持ち、その頃からシュエバも顔見知りだった。司法修習所在籍当時、ビルマを学ぶ会のような集まりを彼女が企画してくれ、一夜、シュエバは渡邉弁護士や在日民主化組織のビルマ人たちと一緒に修習所におしかけた記憶がある。小柄で童顔。ロヒンギャーのおじさんたちから「アロヨ(フィリピン大統領)、アロヨ」と親しまれていた。

伊藤敬史弁護士。若い。難民認定申請者のききとりなどでシュエバも何回か顔は合わせている。日本で会った時にはさほど思わなかったのだが、鮮やかな色彩がほどこされたリクショー(リキシャ。語源は人力車。ビルマではサイカー)が走り回るチッタゴンの街頭に小柄な伊藤弁護士がジーンズ姿で立つとまるで違和感がない。はまっている。風貌がなんともいえず南方系なのにシュエバはあらためて気づいた。伊藤さんはインタビューのあいだは黙々とビデオカメラを操作していた。

この真面目な先生たちに感化され、シュエバもまじめにその任務をはたした。かなりの落ちこみを克服して。その落ち込みはチッタゴンで二番目に高級だというメリディアンホテルの部屋に入って、ボーイの指し示す冷蔵庫の扉を開けた時から始まった。「えっ。ビールがないっ!」。飲料水、コーラ、スプライト、ジュースの類は入っているのだが、シュエバにとって肝心かなめのビールは見当たらない。そうかここはイスラムの国なのだ。

往生際の悪いシュエバはボーイに訊いてみた。

「すまん。ビールが欲しいんだ。なんとかなるかい?」

「ビールは難しいですが、そっくりの味がする飲み物なら買ってきますよ」

「よし。それでいいから頼む」

やがてボーイが缶ビールらしきものを隠すように小脇に抱えて持ってきてくれた。待ってたぞ。少々高くても金は払うぜ。

「これですよ。でも私が買ってきたことを誰にも言わないでくださいね」とやたら秘密めかす。お客さんのために危険を冒しているんですぜと言わんばかりに。大いに期待してシュエバはその缶を手にとって見た。なんとスポーツ・ドリンクである。ままよと飲んでみたが、ビールの味など皆無、発泡酒にすら遠く及ばない。シュエバはがっくりした。そして悟った。郷に入らば郷に従え。それから48時間後、タイ航空のチッタゴン発チェンマイ経由バンコク行きの機内におさまるまで、シュエバはビールのことは頭から追い出し、弁護士たちにまじって一途に仕事に取り組んだのだった。

ビルマ語の通じる世界

ホテルではシュエバはロンジーに草履履きですごした。日本から持参したチン民族の格子柄のロンジーである。パナッ(ビルマの草履)はホテルのボーイに買ってきてもらった。こちらは似て非なるビールと違って履き心地のいいものが手に入った。ホテルの前の通りを歩く人のなかにもロンジー(バングラデシュではルンギーと呼ぶ)をはいている人はたくさんいる。ビルマの人たちがコートー柄(ビルマの辞書によるとコートー-=チッタゴン人)と呼ぶ薄い青や茶色の格子柄が多い。それに比べてチンのロンジーは鮮やかな赤や緑の柄なのでなかなか目立つ。そのうえシュエバはルエエイ(布製肩かけバッグ)をかけていた。典型的なビルマ人スタイルである。

弁護士たちとは日本語で話す。ロヒンギャーの人がたずねて来るとビルマ語で応対する。そんなシュエバの様子を見ていてホテルの従業員たちは不思議に思ったらしい。東洋的な、明らかにベンガル人ではない風貌の若い従業員がシュエバにとつとつとした、けれどその方がシュエバにはわかりやすい英語で話しかけてきた。この青年、シュエバの方では一目見たときから、チッタゴン周辺の山岳地帯に住む少数民族の出身ではないかと実は思っていた。日本ではこの地域出身のチャクマ民族(仏教徒)の人たちとのつきあいもある。だから話しかけられてむしろうれしかった。シュエバは愛想よく答えた。

「あのー。貴方はビルマ人ですか? 日本人ですか?」

「うん。日本人なんだけどビルマ語もしゃべれるんだよ」

と、そこまで英語で答えると、とたんに彼は顔をほころばせ、今度はビルマ語で話しはじめた。

「ぼくもビルマ語ができるんですよ。ウー(おじさん)ほど上手じゃありませんけど」

「えっ。そうなんだ。ビルマから来たの?」

そうではないという。本人はチッタゴンよりさらにビルマ国境に近いコックスバザールで生まれ育ったとのこと。ただ、両親がビルマのラカイン州から仕事をも求めてやって来てこの地に住みついたラカイン人(仏教徒)なので、ビルマ語も出来る。彼が一生懸命話すビルマ語はたどたどしくかったが十分に理解できた。ほほえましいビルマ語だった。

ビルマ出身のロヒンギャー人もアラカン人もチッタゴンとその周辺にたくさん住んでいるときく。難民もいれば出稼ぎ者もいる。その人たちのなかには、やがて、青年の両親のようにこの地に根をおろす人もいるのだろう。話していてシュエバは思った。この青年にとっては母国はバングラデシュなのだろうか、ビルマなのだろうか、それともそんなことに頭をわずらわせることなく、気にもしないで毎日を生きているのだろうか。

アラカンの山並を越えて

タイへもどる日の朝、あわただしいスケジュールの合間を縫って、ジラーニさんは是非朝食をご馳走したいからと一行を自宅に招いてくれた。チッタゴン市内の閑静な住宅街の一角、日本の公団住宅のような様式のまだ新しい清潔なお宅だった。奥さん、娘さん、お孫さんまで出てきてにこやかな笑顔で一行を迎えてくれた。ジラーニさんの一族はみな美男美女である。

出された食事は、毎日こうではないだろうと思えるほど品数豊富なご馳走だった。無理させてしまったかなと思いつつも、みんな舌鼓を打った。話が弾み、食が進んだ。なかでも金目鯛のような、地元では「王様の魚」と称されるという魚の唐揚げがシュエバにはことのほかおいしかった。近藤弁護士も気に入ったようで、こんな感想をもらした。

「王様の魚というと目黒のサンマみたいなイメージだけど、これはほんとうにおいしいね」

この魚、ビルマ語ではユザナというのだそうだ。それをきいて、シュエバは思わず知識をひけらかした。

「ユザナは花の名前(ビルマ語辞典によるとゲツキツ)じゃないですか」

「そうだけども、アラカンではこの魚もユザナって言うんだよ」

ジラーニさんたちは故郷アラカン州マウンドーへ帰れる日を待ちつつも、バングラデシュのチッタゴンでそれなりに落ち着いた暮らしを営んでいる。ホテルで働く青年の両親のようにこの地に住みつくアラカン人仏教徒もいる。バングラデシュの人々とともに毎日をおくっている。

ベンガル湾に面したバングラデシュのチッタゴンからビルマ・アラカン州のマウンドー、シットゥエ(州都)あたりまで、おそらく歴史的にはひとつづきのまとまりを持った文化圏なのだ、シュエバにはそう思えた。そこでは、はるか昔から、イスラム教徒と仏教徒は仲良く暮らしてきたのだ。少なくともジラーニさんたちロヒンギャーの人たちはそう言っている。

そのアラカン州とビルマ本部を隔てるのはアラカン山系(アラカン・ヨーマ)である。シュエバは四十年も前に読んだ堀田善衛の『インドで考えたこと』(岩波新書)を思い出した。この日本の作家は「東と西を分けるのはアラカン山系だ。西から旅をしてきて、アラカン山系を越えるとほっとする。日本人の感性からすれば故郷へ戻った気がする」という意味のことを書いた。それを読んで大いに共感した記憶がシュエバにはある。

今回、アラカン山系の西側にまで足を伸ばしてみて、シュエバにはさしたる違和感はなかった。アラカン山系の西側の人であるジラーニさんたちは、東側をも包含した「われわれの連邦」の民主的な再構築を願い、そのために活動を続けつつ生きている。

かつてビルマのコンバウン王朝の王たちはアラカン山系を越えて版図を広げた。今、ビルマの軍事政権は、アラカン山系の西に住むイスラム教徒であるロヒンギャー民族を弾圧している。軍事政権の支配を終焉に追い込み、諸民族平等の民主国家を建設すること、これはアラカン山系の西であろうと、東であろうと、人々の共通の願いであり、課題なのだ。チッタゴンを飛び立った飛行機の窓から、アラカン山系を目の下に見つつ、久しぶりに流し込んだビールに陶然としながらシュエバはそんなことを考えていた。