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田辺寿夫(シュエバ)

ビルマの民族問題と日本人
2004年4月18日配信 在日ビルマ連邦少数民族協議会結成総会スピーチ

はじめに

在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN)の結成を心からお祝い申し上げます。メンバーの皆さんのこれまでの努力に敬意を表するとともに、今後の取り組みについても大いに期待しております。今まで日本にはこういう組織はありませんでした。多くの日本人はビルマが多民族・多宗教・多言語の連邦国家であることは知っていても、実際にどのような民族の人たちが居るのか、どんな状況で生活しているのか、歴史は、文化は……などなどなにひとつ知識を持ち合わせていないと言って過言ではありません。

私たち日本人はこの協議会の結成とこれからの活動を通じて、今日本で、目の前にいるいろいろな民族の人たちとの接触を通して貴重な知識を得る機会を得たといえます。知識だけではありません。少数民族の人たちと交わり、彼らが求める諸民族平等の社会、民族自決が保障された連邦国家のイメージについて理解を深め、彼らの母国ビルマ連邦が民主的な、真の連邦国家に生まれ変わる道程に、日本人として何らかのお手伝いができれば、これはもう願ってもないことです。その方向で一緒に活動して行きましょう。

日本人の無知と「蛮行」

日本にはビルマを舞台にした文学作品がいくつかあります。例えば映画や演劇にもとりあげられた竹山道雄『ビルマの竪琴』はたいへん有名です。この作品には少数民族が登場します。ご存知でしょうか? 所属部隊とはぐれた主人公水島上等兵が山中で「蛮族」に捕らえられ、いずれ食べられる運命となり、毎日食事を与えられ、太らされるという場面があります。つまり1945年ごろのビルマの山中に食人種がいるという設定です。しかも、竹山さんの初版本にはこの蛮族は「カチン族」と書かれています。のちにこの小説が英訳された時に、ビルマから抗議があり、現在は「蛮族」という表現に改まっています。これは無知と誤解の一例です。

芥川賞作家古山高麗雄さんの作品の一つに『白い田圃』があります。作家自身が一等兵としてビルマ戦線でたたかった体験をもとにした小品です。イラワジデルタ地帯の村に駐屯している日本軍部隊が「ひまつぶし」のように近くのカレン民族の村へ「匪賊討伐」に出かけて行く話です。当時、イギリス人と関係の深かったカレン民族はしばしば「通敵」しているとされ、日本軍は村を焼き払い、村人を「匪賊」として簡単に殺していました。現在でもカレン民族同盟(KNU)が中央政府とたたかっているのは、こうした戦時中の虐殺の記憶も一役買っています。日本人の蛮行はビルマの民族問題にも影を落としているのです。

文学作品ではありませんがビルマ戦線体験記ともいうべき戦記が日本ではたくさん出版されています。とくに多くの日本軍将兵が累々と屍をさらしたインパール作戦については数多くの戦記が書かれています。こうした戦記には日本兵がいかに悪戦苦闘したかを微に入り、細をうがって記述していますが、インパールへの道筋として通ったはずのチン丘陵やチン民族の人びとについての記述はほとんどありません。戦争中のことだから目配りできなかったのでしょうが、日本兵にとっては、別に誰が住んでいようと、その人たちにどれほど迷惑をかけようと気にはしなかったのでしょう。言ってみれば、少数民族の人たちと、まったく身勝手な接触しかしなかったというのが日本人がビルマに、少数民族の人々に残した印象です。

独立ビルマと民族問題

ビルマは1948年1月4日にビルマ連邦として独立をはたしました。これはたいへんなことでした。1825年以来(ビルマ全土は1885年以来)、イギリス領植民地(1937年までは英領インドの一州として)として支配されるなかで、最大民族ビルマ民族の人たちが多く住むビルマ本部(現在7つの管区となっている平原部)とさまざまな少数民族が住む周辺山岳地域(現在7つの州になっている)とは、イギリス流の分割統治(Divide and Rule)によって統治形態が異なっていたために、独立にあたってひとつの連邦国家が簡単に形成できる状況ではありませんでした。

宗教にかかわる問題もありました。英領植民地時代に山岳地帯まで入り込んだカトリックあるいはバプティスト(浸礼)派の宣教師たちの努力もあって、チン、カチン、カレン民族の人々の多くがキリスト教徒になっていました。ビルマ民族の人たちはほとんどが敬虔な上座部仏教徒です。宗教紛争がただちに勃発したわけではありませんが、キリスト教徒である少数民族の人たちは植民地政府やイギリス人たちに「重宝」されていたとビルマ民族の人たちには見えましたから、(実際、例えば植民地ビルマ軍の主力はチン、カチン、カレンの人たちでした)、同じ連邦国民としてやって行くにあたっての阻害要因のひとつとなりました。

こうした問題を克服できたのは独立の父アウンサン将軍の存在でした。アウンサン将軍は独立を目前にした1947年2月に少数民族指導者たちとシャン州ピンロンにおいて会議を持ち、ともに連邦国家を建設して行こうとする同意を得たのです。このピンロン条約が結ばれた2月12日は現在も連邦記念日として祝われ、諸民族協調の「ピンロン精神」に立ち返ろうという議論がよくなされます。

アウンサン将軍はこのピンロン会議の直後1947年7月19日に暗殺されます。独立ビルマはウー・ヌ首相のもと、議会制民主主義の国づくりを行ないますが、諸民族協調が必ずしも進展せず、少数民族による武装反政府闘争や共産党による武力闘争など内戦の時期を経て、1958年には一時的に軍部が政権を握り、1962年からはネウィン大将による軍部独裁政権の時代を迎えます。軍部による一党支配は1988年の大規模な民主化闘争によって終焉しますが、その後もSLORC、SPDCによる強権的な軍事独裁政権がつづいているのはご存知のとおりです。

民主化と諸民族平等は車の両輪

5月17日には1996年以来中断されている国民会議(National Convention)を再開し、新憲法草案についての討議を始めると軍事政権が発表しました。国民民主連盟(NLD)がこれに加わるかどうかはまだわかりません。討議されるという憲法草案についても、軍の権益を残すものである可能性が強くあり、国民会議がかつてそうであったような非民主的運営から脱皮するという保障はなにもありません。軍事政権が昨年の8月に発表した「民主化7段階行程表(ロードマップ)」の第一段階にあたる国民会議の再開からして、このように問題は山積しています。

もともとアウンサンスーチーをはじめとする民主化陣営の指導者たちは国家のありようについて「三者対話」を要求してきました。軍事政権、民主化陣営それに少数民族代表の三者です。植民地時代、独立闘争、独立後の内戦期、軍事独裁支配の時代という歴史の教訓をふまえて、多民族・多言語・多宗教の諸民族で構成される連邦国家としては、民族問題の解決なしには民主的な平和国家もあり得ないという考えかたからです。諸民族組織を含む民主化陣営の言葉を借りれば「真の連邦制」の実現が課題となります。

そのためのたたかいをアウンサンスーチーは「第二の独立闘争」と表現しています。第一の独立闘争とはアウンサンスーチーの父アウンサン将軍が率いたたたかいでした。民主化をめざすたたかいのなかで、アウンサン将軍らの努力によって生まれた諸民族強調の精神(ピンロン精神)を再構築して行こうという意味合いもこの「第二の独立闘争」という言葉には含まれています。

少数民族の人たちにはその属する民族によって利害が食い違うところがあります。それらを乗り越えて話し合い、母国の民主化と真の連邦制に向かって前進しようとするAUNの皆さんの活動に期待しています。言うまでもなく、自由な言論活動、政治活動ができないビルマとは違って日本では自由な活動が可能です。しかし、きわめて門の狭い難民認定や滞在資格の問題など、日本のなかでのいろいろな困難もあります。ひるまず進んでください。私たち日本人も諸民族の方々とともに考え、学びながら、人権・民主化の問題に取り組んで行きたいと思います。

ありがとうございました。