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田辺寿夫(シュエバ)

嵐のあとに残ったものは~ビルマ人逮捕事件顛末記~
2000年11月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第22回(『恋するアジア』第29号)

八八八八の記憶

八月、ビルマの人々の脳裏に過ぎし日の民主化運動の記憶が鮮やかによみがえる。一九八八年八月、この年三月、学生の当局に対する抗議行動に端を発した、軍部主導の一党支配打倒と民主主義獲得を叫ぶ運動は、国民のあいだに徐々にに広がり、八月八日にはその頂点に達した。午前八時八分に始まったとされるデモ行進の隊列は首都ヤンゴンの通りを埋めつくした。その数、数十万。天に突き上げる拳、誰はばかることなく叫ぶスローガン、誰しもが民主化近しと意気盛んだった。それが八八八八である。

それから十二年、あの時、拳を突き上げた若者たちの多くは今三十台半ばにさしかかった。民主化はいまだ遠い。八八八八は一年に一度めぐってくる、なつかしい記念日になりつつある。このまま青春の思い出になってしまうのだろうか。

そうはさせじと多くのビルマ人たちが奮闘している。「敵」は健在である。彼らの勢いを武力で踏み潰して政権を奪った軍人たちがまだ支配をつづけている。総選挙に示された民意を無視して居直っている。むろん、国民の多くが希望を託したアウンサンスーチーと民主化陣営は、その軍事政権の度重なる弾圧に苦しめられながらも、民主化達成への歩みを止めてはいない。八八八八をメロドラマのなかの単なる青春の一ページにしてなるものか。八八八八を体験した人で今は海外に住んでいる人も多い。国内ではもちろん動けない。外国にいる俺たちががんばらなきゃ。

前号に紹介した政府のホームページ乗っ取りは、そうしたおもいから出た国外にいるビルマ人たちの執念のあらわれであろう。IT時代を象徴するかのようなホームページ乗っ取りを先駆けに、八月八日には各国にあるビルマ大使館前で抗議行動が実施された。もちろん、それがすぐさまなんらかの政治的前進をもたらすものではない。しかし、ホームページ乗っ取りにせよ、大使館前での抗議行動にせよ、外国からの放送を通じてビルマ国民のに伝わる。動くに動けない人々への力づけとなることは間違いない。民主化運動は決して終わっていないのだと。

行動した本人たちにとっては、仲間の士気を高め、大目標に向かって結束を確認することにつながる。さらに、在外ビルマ人たちが現在居住しているそれぞれの国の人たちに、母国への理解を深めてもらえる。それぞれの国の人たちの目に直接触れるかたちでの抗議行動は、それぞれの国の世論を動かすことにつながり、それぞれの政府の対ビルマ政策に影響を及ぼすことにつながる。民主化のためには、アウンサンスーチーがいつも国民に語りかけているように、国民のひとり一人が、身のまわりのことで、できることからはじめることがなによりも重要なのだ。

アウンサンスーチー一行のキャンプ?

そのアウンサンスーチーの名前が久しぶりに世界のメディアをにぎわせた。国民民主連盟(NLD)の党活動の一環として、彼女やティンウー副議長らを含むおよそ二十人の一行が、ヤンゴンを出て、地方へ向かおうとしたところ、ヤンゴン対岸のダラのあたりでそこから先の通行を止められた。八月二四日のことである。軍事政権の言い分がふるっている。「ここから先は危険です。あなたがたの身の安全のためには、ヤンゴンにお帰りになるほうがよろしいでしょう」。

アウンサンスーチーたちは、この通行阻止を正当な政党活動への妨害であるとして、二台の車のあいだにテントを張り、そこで寝泊りをするという抗議の「篭城」に入った。これが世界へ報道された。二年前にも同様の出来事があったことを世界の人々が記憶を新たにした。アウンサンスーチーらと軍事政権の対立の構図に変わりはないが、前回とは違ったことがあった。軍事政権が例のミャンマー・ドット・コムなるホームページのなかの、情報委員会のページ(インフォメーション・シート)を通して毎日この事件についての見解を世界に伝えたのである。

曰く「彼女たちの人権を尊重して、彼女たちによかれと助言をしているに過ぎない」、「一行はのんびりと休息をとっている、買出しにも自由に出かけている」、「当該地区の政府機関を通じて飲料水や必要な薬品が届くように配慮している」……。これらの広報記事には写真までついていた。体操をしている若者たち、水浴びをするティンウー副議長、近くのビルマそば屋(カウスエサイン)や雑貨店に出入りするメンバーたち、こうした写真からは緊迫感は感じられず、軍事政権が言うようにいかにもキャンプを楽しむ一団という雰囲気をかもし出していた。

さらに、これも今までになかったことだが、アウンサンスーチー一行の行動についての「市民の反応」と称する記事まで掲載された。「また彼女が勝手なことをして、ミャンマーのイメージが悪くなるのではと心配です」、「誰も彼女のことなど気にしていません。私は商売をやっているので、こんなことを外国企業が気にして、商売に悪影響が出るといやですね」といった談話がのせられていた。

こうした軍事政権の言い分が世界に受け入れられたわけではない。折から国連ミレニアム会議に出席していたクリントン米大統領やブレア英首相らはそれぞれの首脳演説のなかで、ビルマ軍事政権のやり方を非難した。オルブライト米国務長官ら世界の女性指導者たちも、アウンサンスーチーらの政治活動の自由を保障すべきであるとの声明を出した。ビルマとは親しいはずのアセアンですら、タイ国の外相が「こうした乱暴な力の行使はアセアンの威厳を傷つける恐れがあるとして憂慮を示した。

結局、アウンサンスーチー一行の抗議行動は九月二日払暁、軍事政権当局の実力行使で幕を閉じた。全員がヤンゴンまで連れ戻された。当局はアウンサンスーチーやティンウー副議長にまで手錠をかけて連行したという。ちょうど同じ時期、日本でも手錠にまつわる事件から手錠をかけられて拘束されているビルマ人たちがいた。

在日ビルマ人七人が逮捕された

アウンサンスーチー一行への妨害行為が伝えられるや、日本在住のビルマ人たちはさっそく大使館前での抗議行動を行なった。ちょうど在日ビルマ人の四つの組織である、在日ビルマ人協会(BAIJ)、ビルマ青年ボランティア協会(BYVA)、ビルマ解放学生同盟(SOLB)、ビルマ女性同盟(BWU)が日本での民主化運動をさらに力あるものすることをめざして、長年の懸案であった大同団結を実現し、ビルマ民主化同盟(LDB)を結成したばかりの時期だったから、ビルマ人たちの意気は大いにあがっていた。

アウンサンスーチー一行の抗議行動が始まってから一週間ばかり経過した八月二九日朝のこと。東京・北品川のビルマ大使館前に集まったLDBメンバーを中心とするおよそ三十人の在日ビルマ人活動家たちは、いつもと違ったかたちの抗議行動を行なった。普通の抗議行動では、大使館の正門と道路一本隔てたほかの家屋の塀に沿って並んで立ち、プラカードを掲げながら、時々シュプレヒコールを叫ぶ程度である。この日は道路から少しへこんだ正門の前(ここは大使館の敷地とされる)にまで立ち入り、そのうえ十人ほどのメンバーが用意してあった手錠を取り出し、わっかの片方を移動式の門扉の鉄製の柱一本一本にかけ、もう片方は自分の手首にかけたのである。

なぜ手錠で自分の体と大使館の門扉をつないだのか? アウンサンスーチー一行が正当な行動を妨害されていることが示すように、多くのビルマ国民が自由にものを言えないような状況に置かれている、軍事政権によって力で押さえつけられ、鎖で縛られ、自由を奪われている。そんな母国の状況を、手錠をつけることで示したかったという。同時に、目の前の大使館(彼らの呼び方では軍事政権の出先機関)への抗議でもあり、コメントひとつ出そうとしない日本政府への注意喚起でもあった。

大勢の警察官が飛んできた。抗議行動のリーダーに向かって手錠を早く外せと命じた。リーダーは、抗議行動の意義と手錠の意味を説明し、外務省と話をさせてほしいと要求した。外務省との携帯電話でのやりとりがあり、代表者はアジア局南東アジア一課のビルマ担当官と、その日の午後に会う約束をとりつけた。そこで手錠は外すことになった。一人ひとりが自分の手錠を外しているその時に、いきなり警察官たちが六人を逮捕した。話はついていたはずなのにとビルマ人たちは憤慨し、少しはもみ合いがあった。

いったい、なぜ逮捕しなければならなかっのか。容疑は、力によって大使館の業務を妨げたという威力業務妨害、大使館の敷地内に勝手に入ったとする建造物侵入、そして何人かには警察官の行動を妨げたという公務執行妨害もついた。四日後の九月二日、取り調べのなかから浮かんできたとして、手錠で門扉に体をつなぐプランを提唱し、手錠を購入するなどの準備をしたとされてさらに一名の在日ビルマ人活動家が逮捕された。合計七人の思わぬ逮捕劇は在日ビルマ人社会とそのまわりにいる日本人たちに大きな衝撃を与えた。

なぜ逮捕したのか?

在日ビルマ人逮捕の一報をきいて、「慎重に行動するようにと、あれほど言っておいたのに、ついにやってしまったか」、「前後の見境なく行動するんだから、困ったもんだ」といった反応が日本人には多かった。ぼくもはじめはそんな感想を持った。捕まったビルマ人たちは、ほとんどが難民認定申請者である。普段から彼らの申請を手伝っているビルマ人難民弁護団の弁護士たちがすばやく動いた。

最初に逮捕された六人は、所轄の品川署に二人、あとは高輪、羽田空港、水上、蒲田という別々の警察署に一人ずつ留置された。後に逮捕された一人は月島警察署に留置された。口裏を合わせるのを防ぐためだそうだが、手分けして面会(接見)しなければならず、時間がかかるし、人手もいる。。なかなかたいへんである。ぼくも弁護士の通訳として二つの警察署をまわり、三人のビルマ人と面談した。

たまたま品川署では警視庁での取り調べが終わって戻ってきた彼らの姿を見た。手錠のうえに腰縄をかけられている。痛々しい。変わり果てた姿というほどではないせよ、親しい友人たちであるだけに、目と目で挨拶を交わすのが精一杯、つらくて声はかけられなかった。手錠、腰縄を外して内外ガラスで隔てられた面会室へ現われた彼らは立派だった。リーダー格のビルマ人は開口一番こう言った。

「ビルマ民主化のためにたたかう気持ちは失っていない。たとえ留置場のなかでもたたかいつづける。みんなも気落ちすることなく活動してほしい。それを仲間たちに伝えてください」。

弁護士と一緒に彼らの話しをきいているうちに、日本の警察のやり方は少しおかしいのではないかと思えてきた。そもそも逮捕の必然性がはっきりしない。警察官の指示にもとづいて手錠を外し、抗議行動を終わろうとしているところをわざわざ逮捕している。容疑は威力業務妨害というが、彼らはビルマにおける自由のなさを表現しようと手錠をつけたのであり、大使館の業務を妨害しようとする意図はなかった。正門は手錠で体を結びつけたがために、たしかに開けられなかったが、その横の通用門は開いていたのだから、通行は可能だったはず。また、建造物侵入についても、彼らが門の中まで入ったわけではない。公務執行妨害に問われた人物も、メンバーの若い女性の一人が警官に押されて倒れそうになったので、思わずその警官を後ろから抱きとめようとしただけだと話していた。こうした事情を勘案すると、逮捕理由となった容疑はきわめて希薄、そんな気がしたきた。

はたして最初の六人の逮捕から十日後の九月八日午前十時には、後で逮捕された一人を含めた七人全員が釈放された。起訴猶予になった。起訴に値するような罪を犯したわけではないとの判断なのだろう。そうなるとあらためて疑問が湧く。日本の警察は、いったい、なぜわざわざ七人もの在日ビルマ人を逮捕したのだろうか?

つのる日本への不信

七人が釈放された九月八日夕方には、東京・飯田橋でアムネスティ・インターナショナル日本支部主催の集会があった。「遠くのビルマ、近くのビルマ」とのテーマで、ビルマの情勢とともに、在日ビルマ人とかかわる日本の入管制度や難民認定制度についての講演や意見発表が組まれていた。そこへ留置生活を体験した七人が揃ってやって来た。

予定のプログラムがほぼ終わる頃、七人はステージに上った。抗議行動のこと、逮捕そして釈放の経緯が紹介される。百五十人ほどの聴衆から拍手が起こった。ビルマに関心を持っている人たちである。やはり大事にならずにすんでよかったと思う人が多かったのだろう。代表者が短く挨拶をすることになり、ぼくは通訳をした。彼は温厚な人柄で知られ、話しも簡潔にまとめる。しかし、この日ばかりは短く終わらなかった。彼は、自分たちの釈放のために力を尽くしてくれた弁護士をはじめとする人々に感謝の言葉を述べたあと、せき止められないおもいを言葉にしていった。

……なぜ私たちを捕まえたのか。大使館が日本政府に逮捕するよう要請したのだろう。日本政府は大使館、すなわちビルマ軍事政権の言うとおりに動いたのではないかと私たちは疑っている。世界の多くの国が非難の声をあげたアウンサンスーチー一行の件についても、日本政府はなにも言わず、動こうともしなかった。国連安保理の常任理事国の座をめざしているという日本でありながら、自分の属するアジアの一角のビルマで起こっていることに、うまく対応できていない。おまけに、いまでも軍事政権への援助をつづけており、国民の希望する民主化に逆行する動きをしていると思える。私たちは日本政府に不信をつのらせている……。

口調はだんだん激している。しかし、集会の終了予定時刻はすでに過ぎている。ぼくは彼の肩を叩き、そろそろ終わるようにと頼んだ。話を端折らせたようで申し訳なかったけれど、通訳をしていて彼の言い分はもっともだと思った。ぼくの口から出る日本語も自然に激しい調子になっていたようだ。

ここのところ、ビルマ問題についての日本政府の対応はいったいどうなっているのかと思うことが多い。九月一日、まだアウンサンスーチー一行がいわゆる「篭城」をしている時期、土井たか子党首をはじめとする社民党の女性議員十六人が外務省を訪れ、事態打開のために日本政府はなんらかの手を打つべきだとの申し入れを行なった。応対したアジア局長は、「ミャンマー政府はプライドが高い。欧米のように批判を強めるとかえって硬化する。日本政府は欧米のようなアプローチはとらない」と答えている。

何もしないでいいのだろうか

その後、アウンサンスーチーとNLDメンバー一行は、九月二一日、ヤンゴン中央駅からマンダレー行きの列車に乗車しようとしたが当局に阻まれた。満員だとの理由で切符が買えなかったそうだ。おまけとして、発車したその列車を見た人の「全然ガラガラだった」という目撃談が街に流布した。結局、アウンサンスーチーとNLD幹部は往来の自由、政治活動の自由は奪われ、軍事政権のもと、実質的な軟禁状態がつづいている。世界の注目の集まるアウンサンスーチーについては、この程度の妨害ですんでいるが、NLDの一般党員や支部組織に対しては、軍事政権は組織的な潰滅作戦を進めている。しかし、日本政府に目立った動きは見られない。

さすがに日本の新聞もビルマ情勢を気にしだした。日本経済新聞は九月二六日、朝日新聞は十月二日の社説でビルマ問題を取り上げた。いずれも、一番影響力をもつ日本政府は事態打開のために、もっと積極的に動いて、効果的な手を打ち、ビルマの民主化促進をうながすべきだという論調であった。

九月二五日、河野外務大臣はアナン国連事務総長から任命されたラザリ・イズマイルビルマ問題担当特使と会談した。特使からビルマ民主化促進のための協力を要請された河野外相はこう答えたと報道されている。「ミャンマーにはミャンマーの独自の文化と歴史があり、民主化のプロセスも独自なものがある。日本はそれを尊重したい」。これは軍事政権の言う「民主化」への「取り組み」を尊重することであり、現状を打破するためには何もしないということではないか。

十月八日には中野サンプラザ前の公園でダディンジュッのお祭りが開かれた。上座部仏教徒にとって、本来は雨安居(うあんご)明けの灯祭りとも呼ばれる宗教行事だが、日本では国民民主連盟(解放地域)日本支部の主催で行なわれた。民族舞踊や在日のビルマ人たちのロックバンドが次々に演奏したステージにはアウンサンスーチーの写真が飾られていた。ぼくはそこで「開会の言葉」をしゃべった。

次に、中野の国際交流団体のメンバーだというある日本人の講談師の方が、挨拶に登壇し、ステージの写真を指さしながら、「アウンサンスーチーの恨みよ、晴れよ」と言わんばかりに「赤穂義士吉良邸討ち入り」のさわりをうなってくれた。通訳をしていたぼくも、さすがに講談の通訳はあきらめてあっけにとられてきいていた。仇討ち話をききながら、アウンサンスーチーは「国軍の将軍や兵士を恨んではいない、ミッター(慈愛の念)をもって接する」と言っていたなあと、最近読んだばかりの『希望の声』(アウンサンスーチーとアメリカ人アラン・クレメンツの対談集。大石幹夫訳で七月に岩波書店から刊行)の一節をぼんやりと思い出していた。

ステージでのお役目を終えて、例によって缶ビールを片手に会場をうろうろした。あちこちの出店から「ウー・シュエバ、ネーカウンラー(シュエバおじさん、元気?)」と声がかかる。やがて顔見知りのZ君が豆腐(ビルマ語でもトーフーという)とブーディー(瓜)を揚げているのを見つけて、隣に腰をおろした。彼も八月末に逮捕された七人のうちの一人である。

「たいへんだったねえ」

「大丈夫ですよ。心配いらないっすよ。もう慣れてますからね」

そう言いながら彼は揚げたてのブーディージョーとトーフージョーを紙皿に取り分けてぼくに渡してくれた。

「そうか、君は捕まるのがもう三回目だったんだ」

「そうっす。仙台の警察、十条の入管、牛久の収容所、今度の留置場。いろいろ勉強になります」

歴戦の闘士のくれた揚げ物はほかほかでおいしく、ことのほかビールに合った。ビルマ人たちは元気である。へこたれてもいない。さっきの講談師のおじさんのように、素直な気持ちでビルマの民主化を応援しようという意気のいい日本人たちもたくさんいる。それにしても、日本政府の対応はいったい何なんだ。外交で何もしないばかりか、在日のビルマ人たちを捕まえて、民主化運動を妨害しているじゃないか。こうなると、日本政府をなんとかしなければいけないのじゃないか、いい具合に酔いがまわってきた頭でぼくはそんな不遜なことを考えていた。