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田辺寿夫(シュエバ)

ある権力者の死~ネウィンはなにを残したか~
2002年12月6日配信 

「ねらって撃つぞ!」

2002年12月5日午前7時30分、ビルマの首都ヤンゴンで91歳(92歳という説もある)の老人が亡くなった。死因は発表されていないが、高齢であり、ここ数年健康悪化が取り沙汰されていたから、多分老衰死であろうと思われる。すぐさま荼毘に付され密葬が行なわれたという。

その日の正午頃、在日ビルマ人の知り合いから電話がかかりはじめた。「奴は死んだぞ!」と知らせてくれる人がいた。「ほんとうに死んだのか」と問い合わせる人もいた。外電の速報を取り込んだメールも届いた。多分このニュースは、日本のみならず、世界中のビルマ人社会を駆けめぐったことだろう。

亡くなったのはネウィン(Ne Win)。長い間、国軍最高司令官・参謀総長、首相、革命評議会議長、大統領、単一政党であったビルマ社会主義計画党(BSPP)議長などの役職を担い、ビルマ(ミャンマー)の最高権力者として君臨した人物である。

ネウィンの訃報に接した在外ビルマ人の多くがすぐさま思い起こしたのは、ネウィンの最後の演説である。1988年7月、民主化闘争の高揚に押されてBSPP議長の座を退くにあたってネウィンはこう吼えた。

「私はこれで公職を退く。その前に言っておく。デモだとか何だとか国民が騒いで、今度のような事態になったなら、いいか、軍隊というのは、空に向けて威嚇射撃などしないぞ。騒いでいる人間の胸を狙って命中するように撃つ。そのことをよく覚えておけ!」

この言葉に人々は反発した。一党支配打倒、デモクラシー実現を要求するデモはますます激しさを加え、8月には最高潮に達した。アウンサンスーチーも政治の舞台に登場した。民主国家が人々の目に見えてきた。しかし、デモ隊の鎮圧にあたる国軍部隊は、まさにネウィンの言葉どおりに平然と発砲した。多くの人命が失われた。1988年9月18日には、デモの隊列を武力で鎮圧した国軍が国権を掌握した。これが今につづく軍事政権(SLORCのちにSPDC)の発足である。

ことはネウィンの最後の言葉どおりに運んだ。人々は軍事政権成立の影にはネウィンがいる、その後もネウィンは政権の黒幕として影響力を持ちつづけていると考えていた。

それから12年たった2002年3月、ネウィンの娘婿とその息子(ネウィンの孫)3人が、現在の政権に不満をもち、一部の軍人を誘い込んでクーデターを計画したとして摘発された。9月にはこの4人に死刑判決が言い渡された。以前からネウィンの体の不調は伝えれていたが、このクーデター計画の摘発は、ネウィンの影響力はすでに衰え、死期も迫っているのではないかとの観測を呼んだ。だから訃報は予想されたものではあった。

それでも訃報に接した多くのビルマ人、とくに海外へ逃れた人たちは自分たちの人生の転換点となった1988年民主化闘争を思い起こし、同時にネウィンの恫喝の記憶を新たにしたのである。

タカスギシン(高杉晋)の思いがけない出世

1911年(1910年とする説もある)生まれのネウィンは英領植民地ビルマに育った。本名シュマウンのシュは漢字の「鐘」であるといわれ客家の血を引いているとされる。大学はちゃんと出ていない。当時タキン党といわれた反英独立闘争組織(ドバマアジアヨン)の一員ではあった。

ネウィンの出世の糸口はビルマ独立をめざす「三十人志士」の一員として日本軍の軍事訓練を海南島や台湾で受けたことにある。三十人志士はタキン党の若者たちが中心であり、リーダーはアウンサンスーチーの父アウンサン(1915年生まれ。日本名:面田紋次)であった。ほかにも学生運動や組合活動出身の名のある若手活動家がたくさんおり、郵便局の職員であったというネウィン(日本名:高杉晋。軍人としての名がネウィン=太陽が輝くの意味。彼はその後本名を使わずネウィンで通した)はどちらかというと目立たない存在だった。

軍事訓練を終えた三十人志士はタイ国のバンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)を結成し、1942年1月、日本軍とともに母国へ凱旋する。この時、司令官はアウンサンであったが、ネウィンも一つの部隊の指揮をまかされるほどに出世していた。平凡な経歴しかなかったネウィンがなぜ頭角をあらわすことができたのか? 三十人のなかでは最も年齢が上であり、ともすれば激情に走りがちな青年たちのまとめ役、日本人教官とビルマ人青年との調整役をはたし、なにかにつけうまく立ちまわる才能があったからなどとされる。

豊かな祖国を最貧国におとしめたのは誰だ

独立直前の1947年7月に暗殺されたアウンサン将軍は「独立の父」として今もビルマ国民の敬愛の対象である。アウンサン亡き後、国軍の指導者になったネウィン(最高位は大将)は1958年に国政の混乱を理由にクーデターを起こして首相の座につく。この時は選挙管理内閣としての役割を果たし、一年で退場する。しかし、その一年で政治のうま味を覚えたとされる。1962年に再びクーデターで政権を奪取した。

それから1988年まで26年間、ネウィンはビルマの実権を握りつづけた。この間、政党はネウィンが議長とつとめ、軍人たちが要職を占めるビルマ社会主義計画党(BSPP=ビルマ語略称マサラ)しか存在を許されなかった。「社会主義へのビルマの道」とされる綱領が採択され、ビルマ式社会主義による国づくりが行なわれた。社会主義はともかく、この路線はきわめて民族主義的な、ビルマ族重視の傾向が強かった。

例えば、植民地時代から住んでいたインド系(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ出身者)と中国系住民、なかでも地主や商人、産業資本家として経済的に重きをなしていた人たちの多くを本国に帰らせるような措置をとった。工場から商店に至るまで国有化された。「鎖国政策」と言われるほどに外国との交流を制限した。政治・経済・社会のあらゆる分野で軍人たちがトップに立った。実質的な軍事政権である。

その結果はどうなっただろうか? 第二次世界大戦(これは日本にも大いに責任がある)や内戦(共産党や少数民族叛乱軍相手の)のせいもあっただろうが、経済はまったく発展しなかった。本来農産物や天然資源に恵まれ、豊かなはずの国民生活も窮乏化していった。1987年には当時一人当たり国民所得200ドル以下という規定の適用を受けてLLDC(Least among Less-Developed Countries=後発開発途上国)となってしまった。

生活は厳しい。庶民の苦しみをよそに特権階級である軍人が幅を利かせて威張っている。それになにより強権支配のもと、政権への不満を言う場も無い、デモなどすれば即座に捕まる、基本的人権は奪われた。自由がない……それら諸悪の根源はネウィンとその体制であると国民は認識した。積もり積もった不満は1988年の民主化闘争として爆発した。

武士の情け

ネウィンは日本には受けが良かった。なにしろネウィンを軍人として育て、彼に出世の糸口を与えたのは日本軍である。ネウィンの率いるビルマ国軍は軍人精神の涵養、軍紀の維持、訓練スタイルから軍歌に至るまで今はなき大日本帝国陸軍そのままである。ネウィンも「武士の情け」を知る高潔な軍人であるという評価が日本には根強くあった。

実際、ネウィンが国家の指導者であった1962年から1988年にかけて、日本国政府はビルマに対して最大限の経済援助を与えつづけた。その援助額はビルマが受け取る二国間援助総額の80%に達した。強権支配、基本的人権の侵害、市民的自由の制限などはODA供与にあたって考慮されなかった。日本のODAがなければビルマ社会主義政権はもっと早く崩壊していただろうと言われる。

ネウィンもまた日本の「恩義」に報いたふしがある。彼が大統領であった1981年1月、七人の日本人にビルマの独立に貢献したとして「アウンサンの旗」という最高勲章を授与したことがあった。受賞者はいずれも三十人志士の軍事訓練にあたった日本陸軍の南機関という諜報機関の関係者たちであった。

日本の旧陸軍関係者の一部は我が意を得たりとばかりに、この勲章授与を「日本は東南アジアの国々の独立の貢献した」証左であると喧伝した。このささやかな出来ごとは、現在につづく「新しい教科書を作る会」グループの「自虐史観否定」の論調にも援用されるものである。

今ネウィンはその生涯を終えた。しかし、ネウィンが指導者として長年君臨し、日本軍がその設立・育成に大いに協力したビルマ国軍は今も健在である。国軍による軍事政権は多くの国民の意志を踏みにじったまま強権支配をづづけている。その軍事政権へODAを出すかどうかが日本のなかでも問題になりつつある。1962年から四半世紀のあいだ独裁者ネウィンの延命に手を貸したかつてのODA供与の愚をおかしてはなるない。

ネウィンの青年時代に日本はビルマの独立を援助するという大義名分をかかげてビルマを侵略・支配した。

いま当時のリーダー・アウンサン将軍の娘アウンサンスーチーをはじめとする民主化勢力は「第二の独立闘争」を標榜し、軍事政権と対峙している。国民の希望と期待はどちらに向けられているのか。ネウィンの死をひとつの契機に日本政府も日本人もそれを理解しなければならない。