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田辺寿夫(シュエバ)

保護を求める人たちの声は届くのか~法廷通訳体験記~
2002年2月23日配信 

1.運命の岐路・本人尋問

2001年11月19日、東京地裁で開かれた行政訴訟の公判に法廷通訳としてつきあった。この民事訴訟の原告はビルマ(ミャンマー)国籍のZ君。被告は日本国政府法務大臣他一名。訴訟の主旨は、Z君が、自分を難民として認定しなかった1998年6月の法務大臣の決定と、それに伴なって法務省担当官が出した退去強制処分を取り消すようにと求めたものである。この訴訟は1998年7月に提起され、すでに何度も公判が開かれている。ぼくも何回か傍聴したことがある。こうした公判は、素人が見るかぎり、原告代理人の弁護士たちと被告代理人の法務省付き検事の間でいくらかのやりとりがあって30分ぐらいで終わってしまい、実に素っ気ないものだった。

今回の法廷はいつものと違う。これまでに出された供述書や写真・学生証などの証拠類(原告側が提出したものを甲○号証、被告側からのものを乙○号証というらしい)をもとに、供述の食い違いや、証拠類の信憑性について、あらためて原告に聞きただそうというもので、時間も午前10時から午後5時までと設定された。ぼくの立場も気軽な傍聴ではない。裁判所から「正当な理由なく出頭しないときは法律上の制裁を受けることもある」と記された「通訳人呼出状」が事前に届いた。開廷時には宣誓もした。Z君自身にとっては、この法廷で述べることが、自分の「難民性」について裁判官が判断を下す際の重要な材料となるわけだから、かなり緊張している様子がうかがえた。

ぼくの方は、原告Z君とは親しい間柄であり、原告側代理人の弁護士たちもよく知っているし、公判で争われる事実関係については充分な予備知識があったからさほど緊張はしなかった。そもそもZ君に関する限り、来日(1998年3月)直後から彼の難民認定申請や仮放免の申請にあたっては、弁護人の通訳をしてきていた。だから逆に、今回の公判で法廷通訳をつとめることは可能だろうかという心配があった。原告側が通訳はぼくにしたいと裁判所に申し出たのだが、ぼくは最初から原告側に立って働いてきた者であるし、そのことは、原告側から提出された供述書面などに明らかであるから、中立的な通訳にはふさわしくないと被告(国)側から拒否される可能性があると心配していたのである。幸い、そういう反論は出なかったらしい。そんな経緯もあったから、ここは一番しっかりやらねばと気を引き締めてのぞんだ。公判は、原告代理人の弁護士がZ君に質問をする主尋問、被告(国側)の代理人が質問をする反対尋問があり、最後に、裁判官が直接Z君の質問をするという順序で運んだ。

2.迫害を受ける恐れは?

Z君が日本政府に対して難民として認定してくれるように申請した理由は、ヤンゴン大学学生当時、学生デモを組織するなどの活動を行なったため、反政府活動家として逮捕・投獄される恐れがあるからというものである。1996年12月、ビルマ(ミャンマー)の首都ヤンゴンでは、軍事政権の厳しい監視の下、それまでたえてなかった学生デモが行なわれた。些細ないさかいがきっかけになって、まずヤンゴン工科大学の学生たちが、軍事政権への抗議の声をあげ、そこへZ君たちヤンゴン大学の学生が加わった。学生たちはヤンゴン大学近くの交差点に座り込み、それまでの民主化運動で逮捕・投獄された学生たちの釈放、学生連盟の結成、民主主義の実現などを要求した。抗議行動は機動隊や軍の実力行使で鎮圧された。この時、Z君は逮捕・勾留されたが、「以後、一切政治活動はいたしません」という誓約書に署名して2日後の釈放された。

それから一年ぐらいが経過した1998年の1月。ビルマ国内では爆弾テロが頻発し、これらは学生の仕業であるとした政府は学生活動家への取締りを強めた。折から、国際世論は1996年12月の学生デモ以来閉鎖されたままの大学を早期に再開すべきであるとの声をあげており、身近なアセアン諸国もまた1997年7月に加盟国となったビルマに、アセアン加盟国としてはみっともないからと大学再開をうながしていた。ビルマ政府は大学を再開しても、すぐにデモが起こったりするとみっともない、騒動を起こしそうな活動家を一掃しなければ再開できないと考えたのだろう、1996年12月当時の学生活動家にまで追求の手を伸ばしてきた。Z君の親しい活動仲間のうち何人かは逮捕された。

このままでは自分も逮捕されると尻に火がついたZ君はあわててブローカーを頼んで旅券、ビザの手配をした。2月にはそれらの用意が整ったが、安全な出国のために、ヤンゴン国際空港の出入国管理部門の役人にコネをつけるなどの根回しをしたうえで、Z君は出国し、3月29日に成田空港に到着した。

しかし、空港の入管で、ビジネスのための来日ではないのに、査証の入国目的がビジネスとなっていたために「虚偽申請」とされ、上陸を拒否された。Z君はすぐに難民認定を申請したが、身柄は成田空港の上陸防止施設、成田の入管施設、その後茨城県牛久市の東日本入国管理センターへの移され、翌1999年3月に至るまで11ヶ月間にわたって拘束されつづけた。難民認定申請は二度にわたって不認定となり、行政訴訟を提起することとなったのである。

3.落ち着いて話せる環境だったのか?

Z君が難民として認定されなかったのは、「迫害を受ける恐れが十分にある」と証明するに足る証拠がなかったということらしい。これには日本政府を納得させるに足る供述ではなかったという意味を含まれるだろう。実際、Z君の供述はそのたびごとに微妙に食い違っている部分がある。今回の公判でもそれが問題になった。たとえばZ君は、1995年7、8月にアウンサンスーチーと何回か会い、今後の学生運動の方向について指示を仰いだと言っている。最初に会ったのは7月だったのか、8月だったのか、会った回数は3回だったのか、4回だったのか。これらはいまだにはっきりとは覚えていないと彼は話している。しかし、そうした事実関係を詳細につめて行くのが日本のやり方である。

記憶違いや誤ったことを答えたことも供述調書には散見される。本人としては、瑣末な間違いであっても、当局はそれらを根拠に、Z君の供述していること全体の信憑性を疑うことになりかねない。

これについては本人側からの反論が公判で出された。まず身柄について。なにせ一年近くも拘束され、自由を奪われていた。そういう状況のもとでは、落ち着いて、正確に話をすることは難しいとZ君は主張した。第二に入国管理局担当官の尋問ぶりについて。あたかも犯罪人を取り調べるかのごとく、高圧的であったし、少しでも証言内容がずれると、怒鳴るようなこともあったという。そんな環境ではきちんと話をすることはできないとZ君は述べた。第三に通訳の問題。何度言っても通訳にわかってもらえず、ついには単語を書いて見せ、それを通訳が辞書をひいて調べて意味をとるといったこともあったと言う。これでは時間がかかるし、自分の述べたことが正確に伝わったかどうか疑問があるとZ君は指摘した。

通訳の問題は他人事ではない。辞書を引いたという通訳の人を個人的には知らないが、弁護したい気持ちもある。Z君はビルマの西端ラカイン州に多く住むロヒンギャー民族である。もともとラカイン州の人たちは、標準ビルマ語からすると、かなり訛りのきつい方言を話す。おまけにZ君はロヒンギャー民族だから、小さい頃から慣れ親しんだ母語はビルマ語ではなく、ロヒンギャー語である。これはビルマ語とはまったく別系統の、どちらかと言えばベンガル語に近い言葉である。Z君は首都ヤンゴンの大学まで行った知識人だからビルマ語の力は充分にあるが、発音は実にわかりにくい。ビルマ語がよく出来る人でも、はじめて会った場合には、おそらく彼の言うことを100%理解するのは難しいだろう。しかし、もちろんこうした通訳の問題は彼の責任ではない。理解できる通訳を要求するのは、彼にとっては権利であり、責任は法務省にある。

4.Z君の難民性

Z君は日本政府からは難民として認定されなかったが、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は彼の難民性(難民として認定するに充分な条件がある)を認めている。しかし、日本政府は難民条約を批准している。その主権の及ぶところ(日本国内)では、難民として認定するかどうかは、日本政府の権限である。UNHCRの「認定(マンデイト)」は、日本国内では勧告程度の効き目しかない。したがって、すでに退去強制令まで受けているZ君としては、司法の場で「難民不認定」取り消しと退去強制令の取り消しを勝ち取る以外に道はない。

裁判所が判断を下すにあたって、おそらく一番ポイントになるのは、学生運動家であるというZ君には、ほんとうに政府から迫害を受ける恐れが、現実に迫っているかどうかという点である。次に、彼がロヒンギャー民族であるということを、どう認識するかもかかわってくる。Z君は、ロヒンギャー民族であるがゆえに迫害を受けてきたし、今後も受ける恐れがあると主張している。その実情を日本人が把握することは難しい。

今回の公判ではZ君が新たな証言をした。それは2週間前に来日した叔母(Z君の父の妹。ヤンゴン在住。Z君は学生時代この叔母宅に寄寓していた)からきいたという、彼の来日後にビルマであった事態についてである。それによると、Z君の出国直後に叔母宅にMI(軍情報部)がやって来て、彼の行方をたずねたと言う。叔母は故郷のラカイン州へ帰ったと答えた。すると、今度はラカイン州マウンドーの彼の実家へMIがやって来て、Z君の父に「息子はどこだ」と問い詰めた。父は「わからない。知らない」と返答した。父はMIに連行され、何日間が拘束され、しつこい尋問を受けた。その後、釈放されたが、現在でも週に一度役所に出向いて、「息子の行方はわかりません」と報告しなければならない状態だと言う。

今になって、そんなことを言ってという受け取り方があるかも知れないが、これまで、盗聴や封書の開封が日常的に行なわれているビルマにいる親族や知人に迷惑がかかることを恐れて、直接ビルマに連絡をしなかったから、叔母の来日ではじめて知ったことだと彼は述べた。

こうしたことも含めて、Z君の難民性については、これからの公判で議論されることになる。Z君にとっては、運命の岐路となる判決は2002年半ば頃になるとのことである。