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田辺寿夫(シュエバ)

はらはら、どきどき~冒険記に読むビルマ~
2006年7月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第42回(『恋するアジア』第50号)

2006年3月、ビルマ(ミャンマー)にかかわる本が二冊同じ出版社(集英社)から続けざまに出た。高野秀行『ミャンマーの柳生一族』と船戸与一『河畔に標(しるべ)なく』である。前者は雑誌『小説すばる』に連載された紀行文をまとめた文庫本。後者は書き下ろし本格冒険小説である。先に読んだ『ミャンマーの柳生一族』によると、2004年、高野秀行と船戸与一は一緒にビルマ取材旅行を敢行した。二人は早稲田大学探検部の先輩と後輩にあたる。直木賞作家でもあり冒険小説の手練れとして知られる船戸(1944年生まれ)がビルマを舞台にした作品を書こうと思い立ったらしい。ビルマについて何冊か著書のある探検部後輩高野(1966年生まれ)に「案内せい!」と強要したのか、高野にとっても有益なはずと考えて誘ったのか、ともかく二人のビルマ旅行は実現した。

二人は当局と交渉を重ねながらおもにビルマの辺境地帯を巡った。旧王城の地マンダレーを起点に一般の観光旅行ではなかなか行けないところへも行こうとした。カチン州のミッチーナー、バモー、シャン州ラショー、中国との国境ムセーやザガイン管区の奥地であるホマリンやインドとの国境タムー、独立直前にアウンサン将軍と少数民族指導者たちが会談を開いた場所として歴史に名をとどめるシャン州ピンロン(パンロン)にまで足を伸ばしている。

軍事政権下のビルマを取材するのは楽ではあるまい。しかし些事に拘泥せず、わが道を行く大人船戸と人好きのする好青年高野は悪条件をものともせず、愚痴もこぼさず、豪快かつ愉快な旅をつづけた。とかく我の強い物書き同士でありながら、同じクラブの先輩・後輩といううるわしい(有無を言わせぬ)関係のせいか、道中さしたるいさかいもなかったようだ。おたがいの著書のあとがきではそれぞれ相手をほめそやし、エールをおくっている。

『ミャンマーの柳生一族』

高野と船戸とのビルマ取材旅行の顛末は『ミャンマーの柳生一族』のたて糸として描かれる。よこ糸として織り込まれるのは時代小説ファンおなじみの柳生一族である。著者(高野)は旅行の許可を与え、公然と、あるいはこっそりと日本人作家二人のビルマ旅行を監視した政府当局(軍情報部とそれにつながる人々)を柳生一族のような存在と看做す。

その着想は奇想天外と言おうか。荒唐無稽、破天荒といった修飾語も頭に浮かぶ。著者本人は「私がこれまで書き続けてきたエンタメ系ノンフィクションをある種、極めたもの」としている。やはりビルマを旅行し、紀行文も書いている椎名誠は『ミャンマーの柳生一族』のあとがきに、この作品は「快怪作」であり、「痛快面白紀行」であるとシーナ流のコメントを加えている。

高野は、現代のビルマは日本の江戸時代にあたると看破する。軍事政権はすなわち江戸(徳川)幕府である。独立の父アウンサン将軍は江戸幕府の創始者徳川家康とし、目下自宅軟禁中のアウンサンスーチーは千姫にあたるとなぞらえる。アウンサン将軍亡き後ビルマ国軍を率い、1962年、クーデターによって政権を奪取したのち1988年まで独裁者として君臨したネウィンはさしずめ二代将軍秀忠、現在の軍事政権(SPDC)のトップ・タンシュエ上級大将は三代将軍家光、ナンバー2とされるマウンエイ副上級大将は老中松平伊豆守信綱。そして揺るがぬ幕府体制を維持するために諸国とくに奥州伊達、薩摩島津といった外様の大藩(ビルマではシャン、カチン、チンなどの州にあたるとする)を巡り、大名らの動向を探った柳生一族はさしずめ国軍情報部(MI=エムアイ)ということになる。そのトップ・キンニュン大将(SPDC第一書記、首相など歴任。2004年10月首相の座を更迭される)はいわば大目付柳生但馬守宗矩……というふうに高野は説明する。

高野は取材旅行の許可を得る手順やビルマ政府当局の反応、旅が始まった段階でつき従う軍関係の旅行エージェンシーとの接触、旅先で出会ったり、その気配を感じる監視者の動向などから軍情報部を徳川時代の柳生一族にたとえるという着想を得たようだ。高野は政治状況を解説風に分析するのではなく、船戸との二人旅のなかで出くわす場面の一つ一つを、柳生一族にからませて説明する手法をとっているから、なるほどと腑に落ちる。ほとほと感心もする。一国の政治状況をかいつまんで、さして関心のない外国人にもわかるように説き聞かせるのは至難の技である。高野は軍事政権下のビルマを徳川時代にたとえて、その状況を時代小説もどきに解き明かそうとした。それなりに成功はしている。しかし、もうひとつ訴えかけるものがない。語り口は軽妙で読みやすい。けれど胸にズンと響かない。説明はわかった、だからどうなんだ?と言いたくなる。

『ミャンマーという国への旅』

『ミャンマーの柳生一族』はいかにもインパクトが弱い。高野、船戸という二人の日本人作家と相前後してビルマを旅したエマ・ラーキンの紀行文『ミャンマーという国への旅』(大石健太郎訳。晶文社2005)に比べると明らかだろう。バンコク在住のアメリカ国籍女性ジャーナリストであるというエマ・ラーキンはビルマでの体験を淡々とつづった。旅の目的は青年時代にビルマでイギリス植民地政府の警察官をつとめたイギリスの文学者ジョージ・オーウェル(1903~50)の足跡を訪ねることだった。彼女は行く先々で軍情報部(MI)に出くわす。見張られている「あやしげな」外国人としての自分。その外国人に接触することを極度に警戒するビルマの人たち。彼女はいやおうなく軍事独裁国家の現実に直面する。それはオーウェルの『動物農場』(1945)や『一九八四年』(1949)に描かれた恐怖国家像そのものである。彼女が出会うビルマの人々は『動物農場』や『一九八四年』はオーウェルがビルマの未来を予見して書いたものと当然のように見なしている。むべなるかなとエマ・ラーキンは背筋に寒さを感じつつ納得する。そのくだりを読んで読者もまたぞっとする。

高野にせよ、エマ・ラーキンにせよ現代ビルマ政治の研究者でもなければアナリストでもない。二人はほぼ同じ時期に紀行文を書き、ビルマの状況を私たちに伝えてくれた。手法も似ている。エマ・ラーキンは世界的に著名な文学者ジョージ・オーウェルの足跡を追う旅から現在のビルマを描き出した。高野は日本人ならよく知っている柳生一族を持ち出して説明を試みた。この二つの作品を読み比べると『ミャンマーという国への旅』の方がインパクトが強く、味わいがあるように思える。

高野は頑健で、好奇心にあふれ、サービス精神旺盛な冒険家であり、優れたドキュメント作家でもある。ビルマについては二冊のすばらしいレポートを書いている。『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社1998)と『西南シルクロードは密林に消える』(講談社2003)はいずれも名作である。高野は麻薬生産地帯であれ、反政府武装ゲリラの跋扈する地域であれ、危険をいとわず入り込む。そして、ここが端倪すべからざるところであるが、出会った人々と実になにげなく、つきあう。それらのことを肩肘張らずにドキュメントに綴り、「なに、なんてことはないんです」とばかりに読者の前に提供してくれる。『ミャンマーの柳生一族』はアイデアが先走りしている感があっていささか食い足りなかったが、好漢高野の次なる会心作の登場を期待するや切である。

『河畔に標なく』

後輩高野秀行が『ミャンマーの柳生一族』に描くところによれば、早大探検部先輩船戸与一は終始悠然とかまえ、タバコを燻らし、ウィスキーを流し込み、さして取材活動をしていたとは思えない。しかし、さすがは手だれの作家、見えないところで取材を展開していたらしい。出来上がった作品『河畔に標なく』は書き下ろし500ページにおよぶ一大巨編である。

船戸が高野とともに取材したカチン州バモー、ミッチーナー、シャン州ラショーなどが主な舞台である。どきどき、はらはらを楽しむ冒険小説を紹介するのにストーリーを書いてしまっては無粋であろう。主な登場人物をあげてみる。そこから雄大に展開されるストーリーの壮大さに思いを馳せてほしい。

まずカチン州バモーのイラワジ河畔にホテルと建設しようとする日本人。バモー刑務所の副所長である軍人、その刑務所に収容されているがやがて脱走する若いビルマ人民主化活動家、国際的な犯罪マフィアとつながる中国人ブローカー、留学先のイギリスで知り合ったイエメン人女性と結婚するバモー在住の中国系ビルマ人イスラム(ビルマ語ではパンデー。船戸は「馬幇(まぱん)」としている)、牧師でもあるカチン独立軍(KIA)将校、ナガ民族のゲリラ指導者、かつてビルマ共産党軍と提携していた中国人民解放軍の元兵士……。こうした多彩な登場人物たちが麻薬を売った代金である200万ドルをめぐって、バモーで、ミッチーナーで、その周辺の山岳地帯で追いつ追われつの活劇を展開する。

ついでに言えば日本人であることもたいしたことじゃないと思わせる。作品の冒頭にイラワジ河畔に外国人観光客相手のホテルを建設しようとする日本人が登場する。舞台はビルマではあるが作者は日本人である。当然この日本人が主人公として活躍するのだろうと期待しつつ、ある種思い入れを持って読者は読み進む。たしかにその人物は最初、それなりの存在感をもって描かれる。しかし、ストーリーが想像を超えて拡大し、複雑化して行くにつれて、その日本人の存在感はきわめて自然に薄れてゆき、主人公というほどの存在ではなくなってしまう。読んでいてそれでいいのだと思ってしまう。日本人であることなど、とりたてて言うほどのことではないのだと船戸が言っているようにも読み取れた。