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田辺寿夫(シュエバ)

あの戦争におもいを馳せて~シュエバ、学を衒う~
2005年11月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第41回(『恋するアジア』第48号)

ビルマ・ロードは今

2005年10月11日(火)の夜、たまたまテレビのチャンネルをまわしていたシュエバの目に、路上で故障したとおぼしき車をロンジー履きの男が修理している様子がうつった。「おっ、これはビルマだ」としばらく見ていて、それがNHK・BSハイビジョンの番組で『宝石街道800キロを行く』という1時間50分もの長尺番組だとわかった。シュエバは、平日昼間働いているNHKの廊下にこの番組のお知らせが張り出してあったのをぼんやりと記憶していた。

この番組では日本の取材チームが交易で活況を呈するビルマ=中国国境の町ムセを出発点としてシャン州に入り、やや北上してカチン州バモーへ、そこからさらにイラワジ河沿いに北上してカチン州の州都ミッチーナーへ。その後カチン州の山岳地帯フーコン渓谷に分け入る。「宝石街道」と銘打つからには、世界一といわれる翡翠鉱山のあるパーカンに寄るものとシュエバは期待した。しかし、パーカンは治安上の理由から取材許可が下りなかったとのこと。それは残念だったが、近年砂金が出てゴールド・ラッシュの様相を呈しているシンブイヤンを紹介し、さらにインド国境の町パンサウに至るという25日間の旅ドキュメントだった。

番組で紹介された道はかつてビルマ・ロードあるいは?緬(てん・めん。?は雲南、緬は緬甸=ビルマ)公路、援蒋(蒋介石を支援する)ルートともいわれた。英領ビルマのヤンゴン(蘭貢あるいは仰光)に陸揚げした物資を鉄道でバモーまで運び、そこからトラックで山並を越え、中国雲南省さらには四川省へ向かう道である。1942年に日本軍がビルマに侵攻した目的のひとつはこのビルマ・ロードの封鎖にあった。日本軍が1937年以来たたかってきた蒋介石率いる中国国民党政府(国府。当時は四川省重慶にあった)への補給路を断とうとしたのである。日本軍部隊はイギリス軍を駆逐し、この地域を支配した後には、ちょうどこのTV番組がたどったように英領インドのレドから、カチン州を横断して中国へ向かうルート(通称レド公路)がビルマ・ロードの役割を果たすようになった。1944年になると中国から、インドから連合軍が反攻の勢いを強め、ビルマの日本軍は敗退する。したがってこのあたりは連合軍(英・米・中)と日本軍部隊が激しいたたかいを繰り広げた戦場であった。シュエバの父が属していた安兵団(第五三師団)も1944年にはミッチーナーに近い地点に投入された。ただし、京都編成の安兵団は心優しき大宮人の集まりだったせいか弱いことで有名で負け戦を繰り返していた。当時の兵隊さんたちのざれ言葉がある。「またも負けたか安部隊」。

そんなこんなで興味をかきたてられたシュエバは,出だしの部分は見逃したものの「宝石街道800キロを行く」を最後までじっくり見た。

旅人は颯爽と行く

見ているうちち番組のなかで、旅をする日本人が現地の人々と接する姿勢が妙に気になった。一言でいえば「スタンス」がいいのである。こうした番組ではよく見かけるパターン、つまり現地の人にエラそうにしたり、自分の「冒険」がいかに危険でたいへんなものであるかを強調するような言動は見られない。肩肘はらず、通訳を通してではあれ、ごく自然にことばを交わしている。まだ若いのに小太りの体格、無精ひげ、シュエバにはどうもこの日本人に見覚えがあった。やがて思い当たった。番組の最後に流れるタイトルロールでも確かめた。旅人(おそらくはこの企画の立案者)は旧知の高野秀行さんであった。自称早稲田大学「探検部」出身のノンフィクションライターである。

高野さんとは一度しか会ったことはないが、作品は面白く読んでいる。中国国境に近いビルマ・シャン州のワ民族の居住地で、名高いケシ栽培地帯、つまりは麻薬の産地に潜入した経験をまとめた『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社1998)でシュエバは彼の名前を知った。生半可な知ったかぶりの冒険記ではない。知識をひけらかすことなく、見たまま、聞いたまま、感じたままを素直に報告してある。最後が抜群に面白い、なにしろケシを作る農民たちのあいだでぐうたらぐうたら居候をしていた高野青年は麻薬とはどんなものかとアヘンまで味わうとするのである。

中国雲南省経由でカチン民族反政府武装グループに守られながらビルマ北部を横断するという、今回テレビ番組化された旅と似通ったルートをたどったドキュメント『西南シルクロードは密林に消える』(講談社2003)も面白かった。この作品のなかでも、苦しく、キツイ、しかもビルマ政府の許可を得ていない「不法出入国」の旅をホイホイこなし、カチン、チンやナガの人たちと「同時代人」として話を交わす高野青年はやはり魅力的だった。今回の「宝石街道800キロの行く」でもその姿勢は変わっていなかった。イラワジ河をエーヤーワディ河と言い換えたり、国境のパンサウの開発に政府が力を入れていることを強調したり、おそらくは恩着せがましく旅行・取材の許可をくれたのであろう軍事政権への配慮めいた箇所はいくつかあったけれども全体として興味津々のいい番組に仕上がっていた。

「ミイトキーナ」はどうなった?

途中、ミッチーナー(中国語表記は密支那)では高野さんはこの地が日本軍部隊が全滅の悲哀を味わった忘れ難い戦場であることを紹介した。シュエバの父も第五三師団野砲153連隊の上等兵として1944年当時このあたりまで行かされたはずである。ただし、当時の日本兵はこの町を「ミイトキーナ」と呼びならわしていた。日本軍の兵要地誌にそう表記されている。自分たちの体験を綴ったいわゆる個人戦記もほとんどがミイトキーナと表記している。古山高麗雄さんのビルマ戦線三部作のひとつ『フーコン戦記』(文藝春秋 1999.現在は文春文庫)でもやはりミイトキーナである。日本のビルマ戦線経験者がビルマ人たちに「ミイトキーナ」での経験を力説した時に、かなり日本語を解するビルマ人であっても、それが「ミッチーナー」であるとはまずわからないだろう。『ギョエテとはオレのことかとゲーテ言い(「ゲーテきき」だったかもしれない)』の類であろうか。

ミッチーナーにはミッチー(大河)ナー(傍)、つまりイラワジ河畔の町との意味がある。ところがローマ字表記ではMyitkyinaになる。Myitの最後のtは促音(声門閉鎖音)を示す。tそのものは無音である。しかし1960年代後半に国連事務総長をつとめたU Thant(ウー・タン。ウーは冠称)をウ・タントと読んだように日本人は、ミートと読んだ。Kyiはアウンサンスーチーのチーであるから、今なら日本人にもチーと読めるのだろうが、当時はキーとなってしまった。

そのミッチナーはカチン州の州都である。ミッチナー出身のカチン民族クリスチャンの難民認定申請につきあったこともあるシュエバにとっては、このところなじみの地名である。実際には一度も行ったことはないのに、テレビにうつし出される町のたたずまいを見ていて、なんだかなつかしささえおぼえた。このあたりのカチン人の多くはバプティストである。このプロテスタントの一派はいま「洗礼派」と表記されるらしい。しかし、シュエバには昔ながらの「浸礼派」の方がピタッとくる。ビルマ語ではフニッチン(体を水に浸す)と言うからである。一度に数百人もの人がイラワジ河に浸かって洗礼を受けたこともあるというこの地域のキリスト教伝道史の一こまを「浸礼派」という表現はよくあらわしていると思えるのである。

テレビ番組のなかではミッチナーは日本軍と連合軍がたたかった場所と紹介された。そして80歳に近いビルマ人がカメラの前に登場した。この人は戦争中2年ほど日本軍とともに行動したという。当時は日本語も良く出来たし、日本の歌もたくさん覚えたというこの老人。それでは今も覚えている歌をひとつ歌ってくださいと、スタッフは頼み込む。歌ってもらうことになった。少しためらってからおじいさんは歌い始めた。なんと「君が代」である。「さざれ石の……」のあたりで一箇所つっかえたが、歌詞もメロディも見事なものだった。見ている日本人はここで考え込んでしまうだろう。おじいさんは今も日本軍のことをなつかしがっているのだろうかと。しかし、おじいさんはそのあとカメラに向かってこう語った。

「連合軍と日本軍がここでたたかって、この町をめちゃくちゃにしたよ。一番酷い目に会ったのはミッチーナーのビルマ人たちだったよ……・」

『血の絆』の世界

テレビ番組は運良く見られたのだが、またしても映画『THWAYー血の絆』を見逃した。10月の第一週のこと、試写会の案内状が届いていたのに気づくのが遅れて、連絡した時にはすで満員になっていた。この日本=ミャンマー合作映画が完成したのは2003年の11月のこと。「映画『血の絆』製作委員会」の自主制作という形で完成した映画である。監督は千野皓司(ちの・こうじ)さん。ほとんどがビルマでのロケがしめるこの映画は、ビルマ政府による脚本チェック、撮影機材の持ち込み、資金の不足など、さまざまな難題をかかえて、完成までに10年以上の歳月をようした。そのうえ3時間21分という長さのせいもあって、一般の映画館での上映はなかなか実現せず、いわゆる自主上映か試写会という形でしか見られないのが残念である。(「恋するアジア」にも関連記事が出たと記憶する。上映についての問い合わせは製作委員会03-3567-7905)

この映画の原作はビルマの女流作家ジャーネーチョー・ママレイ(1917~1982)が1973年に書いた『トゥエー』というベストセラー小説である。その日本語訳である原田正春訳『血の絆』は毎日新聞社から1978年に出版されている。(現在は絶版)原田先生はシュエバにビルマ語を教えてくれた恩師である。あらすじは次のとおり。

……1967年、吉田由美は大阪外国語大学ビルマ語学科を卒業した後、ビルマ・ヤンゴンの国立外国語学院(IFL。現在は大学に格上げされUFL)日本語教師として赴任する。戦争中ビルマでたたかった軍人であった父は死の直前に、実はビルマ駐屯中にビルマ人女性と愛し合い、男の子を一人もうけたと告白して亡くなった。由美はその異母弟に会いたいとの思いをいだいてビルマの土を踏む。

同僚ビルマ人教師らの協力でヤンゴン近郊のペグーに弟モンモンが健在であることがわかる。しかし予備幹部候補生学校の学生になっていたモンモンは、会いにきた異母姉にいっかな心を開こうとしない。幼少の頃から「ジャパン、ジャパン」とみんなにからかわれ、ファシスト日本軍人の落としだねとして蔑まれて育っていたから、みずからの出自である日本、日本人に嫌悪感をいだいていたのだ。

やがて由美の任期は終わり、日本へ帰る日がやってきた。ヤンゴン・ミンガラドン空港。由美はビルマに、モンモンにおもいを残しながら飛行機のタラップに向かう。そこへ送迎デッキからの声が響く。「お姉さーん。お姉さーん」。駆けつけたモンモンは涙を流しながら大声で叫んでいた……

シュエバにとってはたいへん身近な設定である。シュエバも大阪外国語大学ビルマ語学科で学んだ。はじめてビルマの地を踏んだのは、作中人物由美さんより3年遅い1970年であった。シュエバの留学先はヤンゴン文理科大学ビルマ文学科だったが、すぐ近くにあった外国語学院へもしばしば足を運び、日本語科の学生たちとも交流した経験がある。一緒に遠足にも行った。おまけに父親はビルマ戦線経験者である。ここ数年、在日のビルマ人たちとの付き合いが深まるにつれ、シュエバのビルマ語力も上達してきた。オマエはオヤジが戦争中ビルマに居る時に、ビルマ人女性との間につくった子どもだろうと半分お世辞、半分からかいで言われることもある。ビルマでは負け戦つづきで逃げまわってばかりいた父は冥土で苦笑いしていることだろう。

日本語版に寄せられたまえがきによれば作者ジャーネーチョー・ママレイは戦後2回日本を訪問している。上記のようなストーリーが展開するなかで、由美を通じて生け花や茶道や禅をはじめ、日本人の立ち居振舞、ものの考えかたにいたるまで日本文化を丁寧に紹介している。また外国人である由美の体験を通して仏教的人生観をはじめビルマ文化をわかりやすく描いてもいる。いうまでもなく戦争にも言及し、ビルマの教科書のようにファシスト日本を激しく非難はしないが、踏み込まれた側の立場をモンモンの成長にそってきちんと描いてもいる。合作映画にふさわしい作品である。

『ビルマの竪琴』の世界

ジャーネーチョー・ママレイの『血の絆』がビルマ人側から見た戦争を描いた作品だとすれば、日本人側から見たビルマ戦線のありようは竹山道雄『ビルマの竪琴』が典型的である。『ビルマの竪琴』(1947年3月から児童文学誌「赤トンボ」に連載。1948年中央公論社刊。現在は新潮文庫所収)はドイツ文学者で旧制一高教授であった竹山道雄(1903~1984)が学業半ばで戦地にやられた教え子たちの悲劇を題材に執筆した作品である。のちに市川崑監督によって1956年(黒白版)と1985年(カラー)の二度にわたって映画化され、いずれもヒットした。小説や映画は戦争を描いたヒューマニズムあふれる作品として、教科書にも採用された。同時に、戦後日本人にとって「近くて遠い国」であったビルマを知る数少ない手がかりのひとつともなった。しかし原作小説についても、映画についても毀誉褒貶がはげしい。例えばあるシンポジウムで反戦平和を描いた名作として紹介された2作目の「ビルマの竪琴」を見た中国のシナリオ作家たちは怒りをこめてこう語ったという。

「これは侵略軍の兵士の鎮魂の映画にすぎないのではないか、日本人はただその程度のことを反戦的な表現だと思っているのだろうか、侵略された側のことを考えないのだろうか!」(馬場公彦・『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史・法政大学出版局2004。原出典は佐藤忠男『日本映画史・Ⅲ』岩波書店1995)

この指摘は原作の小説について中国文学者竹内好が口火を切った批判に重なる。(竹内好「『ビルマの竪琴』についてー雑誌『文学』1954年12月号所収)竹内好は『ビルマの竪琴』には、あの戦争がなぜおこったのか、なぜ日本からはるか離れたビルマの戦場まで日本兵は侵攻したのか、戦地とされたビルマの民衆はどう反応したのか、など、つまりは戦争の本質がまったく描かれていないと批判した。

これはビルマ人知識人の不満にもつながる。『ビルマの竪琴』では音楽を愛する日本兵士が戦闘の合間を縫って、コーラスの練習に励むシーンが登場する。「埴生の宿」や「荒城の月」といった美しいコーラスが響く。ビルマの村人たちが憧れのまなざしでうっとりと聞き惚れる。「ああ、日本の兵隊さんってなんてやさしいんでしょう。ステキ!」という具合に。これはおかしいとビルマ人たちは考える。日本の兵隊は鉄砲をかついで、人を殺すために、人びとがまずしいなりに平和に暮らしているビルマまでわざわざやって来たのではないか。野蛮なのは日本人の方である。ビルマの人びとを苦しめた侵略戦争への反省がないと。

さらにビルマを知る人からすると、『ビルマの竪琴』には首をかしげる箇所がいくつもある。上座部仏教の僧侶は227の戒律を守って日常的に修業をしている。そのなかの重要な戒のひとつに「離歌舞観聴」があり、竪琴はふつうつまびかない。映画のなかで主人公水島上等兵がビルマ僧になり、竪琴を肩にビルマの山野を跋渉したり、収容所の前で竪琴をつまびいたりするのは、ビルマではあり得ないことである。

作品のなかで、第二次大戦当時に食人種であったとされたカチン族も怒った。水島上等兵が原始的な山岳民族に捕まり、食べられそうになる場面がある。原作ではその野蛮な民族はビルマに実在するカチン族と書かれていた。『ビルマの竪琴』は1966年にユネスコ現代文学集の一冊として『A Harp of Burma』が出版され、ビルマのカチン民族の人から抗議がきたという。竹山道雄さんはその後の版ではカチン族という固有名詞はやめ、野蛮な民族という言い方に変えた。

テレビ番組に登場したミッチーナーの老人のことばをきいていて、踏み込まれたビルマ人が描いた戦争と踏み込んだ日本人が描いた戦争の違いがあらためて気になった。