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田辺寿夫(シュエバ)

タテバヤシから新しい一歩を
2005年7月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第40回(『恋するアジア』第47号)

ハチ公前に集まろう

渋谷駅頭のハチ公前は待ち合わせの名所である。在日ビルマ人にとっても、池袋のフクロウ、新宿・アルタとならんで、クエヨウッ(犬の像)は誰もが知っている目印である。2005年5月15日(日)、日曜日とあってひときわ賑わっているハチ公前にシュエバが着いたのは午後1時過ぎだった。ここに集合して群馬県館林へ向かう。1時半集合、2時出発ときいている。

ハチ公前にはすでに顔なじみのビルマ人(イスラム教徒であるロヒンギャ民族)が2人到着していた。彼らがここで待ち合わせた人たちを車で群馬県館林市まで運んでくれる。この日の夕方、館林で開かれる在日ビルマ・ロヒンギャ人協会(BRAJ=Burmese Rohingya Association in Japan)主催の夕食会に出席するためである。やがて日本人たちが次々と集まってきた。アムネスティ・インターナショナル日本支部の「ビルマ・チーム」や「難民チーム」で活動する若い人たち。「在日ビルマ人難民弁護団」の弁護士や事務局のスタッフ。シュエバもその一員であるビルマ市民フォーラムのメンバーたち。横浜・みなと町診療所で在日外国人の医療に携わる山村淳平医師も顔を見せた。

やって来たのは日本人ばかりではなかった。FWUBC(在日ビルマ市民労働組合)の委員長ティンウィンさん、彼は群馬県太田市に住んでいるが、週末はさまざまな活動のために東京へ出てくる。この日は館林の会合に出席してから、自宅へ帰ることになるとのこと。秋葉原の電器店で働きながら文筆活動にいそしむテイングエさん、在日ビルマ人たちの引越しや母国への荷物輸送を請け負う運送業者のトーマス・ゴンアウンさん、AUN(在日ビルマ少数民族協議会)の女性メンバーであるBさんらが続々と顔を見せた。みんなシュエバにとっては親しい友人たちだが、一堂に会して館林に行くことになるとは思っていなかった。ロヒンギャの人たちはビルマ国籍者とはいっても、ビルマにおいても、ここ日本においてもほかのビルマ人グループとの接触はそれほどないと感じていたからだ。それだけに、ロヒンギャではないビルマ国籍者までがわざわざ館林まで出かけて夕食会に参加するというので驚いたのだ。

ティンウィンさんとテイングエさんはともにビルマ中部の古都マンダレー出身。イスラム教徒ではあるがロヒンギャ民族ではない。トーマスさんはヤンゴン出身のカレン民族、Bさんはシャン州北部ラショー出身のカチン民族であり、この二人はクリスチャン(バプティスト)である。午後2時をまわった頃、メンバーがそろったところで二台のバンに分乗して館林をめざして出発した。運転をしてくれるのは館林からやって来たロヒンギャの若者である。東京都内の地理には明るくない。しかし大丈夫。なにせ毎日東京都内を車で駆け回っているトーマス御大がいる。明治通りを走り、鹿浜橋から高速道路に乗ってスピードをあげ一路館林に向かった。

悲喜こもごもの難民認定

シュエバはビルマ人グループが乗り込んだ車に席を割り当てられた。館林までのおよそ2時間のドライブ、車中ではビルマ語の会話で賑わった。少数民族問題であったり、日本の入管制度であったり、難民認定制度であったりと、少々むずかしいテーマの話が多かった。それでもめったにない遠足気分のような雰囲気のなか、冗談まじりではあっても、それなりの本音を語りあう会話が弾んだ。ちなみにBさんはオーバーステイで在留資格なし、目下難民認定を申請中である。ティンウィンさん、テイングエさん、トーマスさんの3人はその政治(民主化)活動の故に母国へ帰れば迫害を受ける十分な理由があるとして、すでに日本政府から難民認定を受けており、「定住者」という在留資格を持っている。いつ収容されるか分からないという不安の中で毎日を過ごしているBさんは先輩たちの話をきき、日本政府の難民認定の基準を知ろうと一生懸命だった。もちろんその基準ははっきりしない。難民認定あるいは在留特別許可を手にするまでは人によってさまざまの経緯がある。

ビルマの民主化闘争の盛り上がりに呼応して1988年に日本でも始まったビルマ民主化運動のリーダーの一人だったテイングエさんは1990年代のはじめにビルマ人としてはもっとも早く難民認定を受けた。ティンウィンさんはビルマで国民民主連盟(NLD)の幹部として活躍した経験を持ち、90年代の後半に来日するや直ちに難民認定を申請した。彼の場合はそう時間を置かずに難民として認定された。トーマスさんの場合は紆余曲折があった。彼もテイングエさん同様、在日ビルマ人協会(BAIJ)の幹部だったが、最初の申請では難民として認定されなかった。

しかし、1997年4月に起こった小包爆弾事件が彼の運命を変えた。当時の軍事政権・国家平和発展評議会(SPDC)ティンウー第二書記(NLDティンウー副議長とは別人)の自宅に届いた小包を第二書記の娘さんが開封した途端に爆発が起こり娘さんは即死した。軍事政権は6月になって、その小包は日本から送られたものであり、在日の「反政府」活動家2人が、在外の反政府組織の指示のもとに送りつけたと断定して、大々的に発表した。名指しされた2人というのが、この日偶然にもシュエバと同じ車に乗り合わせたテイングエさんとトーマスさんである。

二人の顔写真は国営新聞に掲載され、国営TVでも何度も流された。日本での住所や電話番号まで報道された。テロリスト・極悪人のあつかいである。アウンサンスーチーを指導者と仰ぎ、非暴力によって民主化を達成しようとしている在日ビルマ人協会のメンバーが爆弾など送りつけるはずがない。誰が考えてもでっち上げである。テイングエさんにしろ、トーマスさんにしろ、みんなに信頼される温厚な人物である。軍事政権はもっとも目障りな存在である国民民主連盟(NLD)につながっている在外の民主化組織なるものが、テロに訴えてまで、政府を転覆しようとしているのだと強調するために、2人をスケープゴートにしたのだろうと当時シュエバは思った。

それにしても多くの活動家がいるなかで、この2人が選ばれた理由はなんだろう。2人ともビルマ族でもなければ仏教徒でもない。ビルマ族中心主義とでもいうべき偏狭なナショナリズムを鼓吹する軍事政権にとっては、標的にするのに都合が良い。当時すでに難民認定を受けていたテイングエさんは秋葉原の電器店で働いていた。電気器具に詳しいから爆弾の発火装置など簡単に作れるだろうということで犯人にされたのかもしれない。トーマスさんは軍事政権と休戦協定に応じず、「反政府」武装闘争を続けているカレン民族の一員である。しかも日本では運送業を生業としている。小包を送りつけるのはお手のものだろうと軍事政権は考えたのだろう。笑い話のようだが、そんなこじつけからこの2人が犯人だときめつけられたのではないだろうかと、その当時シュエバは思ったものである。

小包爆弾テロの犯人がこの2人だとは日本の警察も信じなかった。日本のどの郵便局にも爆破物を入れたビルマ宛の小包を扱った形跡は発見されなかった。トーマスさんのもとには、デモの警備などで顔なじみになっている日本の警察官から「心配しなくていいよ。キミを捕まえたりしないから」という電話まであったという。

このでっち上げ事件のあと、あらためて難民認定を申請したトーマスさんは難民として認められた。ビルマ政府から追われる身になったことは誰の目にも明らかなのだから当然であろう。トーマスさんはしかし深い心の傷を負った。ヤンゴンに住んでいた彼のお父さんは、この事件の直前にビルマの医療水準ではむずかしい腎臓手術を受けるためにオーストラリアへ行くことになっていた。パスポートも用意していた。ところが息子トーマスが指名手配同然の「犯罪者」とされたため、出国を止められてしまった。そのためにお父さんは病状が悪化し、まもなくビルマで亡くなった。

日本に住むロヒンギャたち

2時間ほどのドライブで車は館林に到着した。名物のつつじの季節は終わっていたが、緑の多い、ゆったりとした町の風情が心地よい。会場は市民会館の会議室である。ロヒンギャーの人たちが忙しげに出入りしている。会場の設営、食べ物の手配、来客の案内など、それぞれが担当して立ち働いている。顔なじみも多い。あちこちから「ウー・シュエバ、ネカウンラー(元気ですか?)」と声がかかる。「ネーカウンデービャー(元気だよ)」と答えはしても、例によって名前を思い出せない人がたくさんいる。ロヒンギャの人たちの名前はイスラム名が多いから覚えにくいこともある。

ムシャラフ君もいた。長身で彫りの深い顔立ちの若者である。彼のことは忘れようがない。なにしろ、2004年7月に、彼のお父さんであり、著名なロヒンギャ民族の指導者であるジラーニさんに会うために、その亡命先のバングラデシュ南部の都市チッタゴンまでシュエバは弁護士たちと一緒に足を運んだのだから。この時、弁護士たちはジラーニさんから証言をとり、そのおかげで、ムシャラフ君は、実の父親が軍事政権から迫害される指導者であり、その息子である彼もまた迫害を受ける恐れがあることを日本政府が認め、難民として認定を受けた。ムシャラフ君はシュエバの顔を見つけて駆け寄ってきた。

「ウー・シュエバ、いつもありがとう。親父がくれぐれもよろしくって言ってました」

在日ビルマ・ロヒンギャ人協会は1994年8月に設立された。はじめは10人程度だったが、11年たった今、そのメンバーは50人を越える。難民資格や在留特別許可を得たのちに奥さんや家族を呼び寄せている人も多い。日本におけるロヒンギャ・コミュニティという言い方をすればその人口はかなりの数にのぼる。埼玉県や東京都に住むロヒンギャもいるが大多数は群馬県館林市に住み、働いている。なぜ館林にロヒンギャ・コミュニティができたのか、その経緯は定かではない。

館林には自動車部品製造や塗装関係の工場が多い。多分、1990年代のはじめに、日本にやってきたロヒンギャ民族のうちの一人がたまたま館林の企業で働くようになり、その真面目な働きぶりが雇用主に認められ、つぎつぎに仲間のロヒンギャが館林に職を得て住みつくようになったからだろう。一箇所に集まった方が同胞同士の助け合いもしやすくなる。また館林にほど近い太田(ティンウィンさんはここに住んでいる)や大泉などには外国人労働者が多い。そのなかにはイスラム教徒もいて、イスラムの教義にのっとって屠殺処理(ハラル)した肉を売る店もあるから、イスラム教徒が暮らしやすいことも理由の一つだろう。

ロヒンギャのなかには難民認定を申請している人もたくさんいる。今回、企画された日本人を含む多くの人々を招いての夕食会の、そもそものきっかけはオーバーステイとなって捕まり、一年以上にわたって茨城県牛久にある法務省入国管理局に収容されていたロヒンギャ民族のビルマ国籍者2人が今年になってから「仮放免(在留資格はない)」となって釈放され、そのうちの一人Oさんがごく最近難民として認定を受け、在留資格を得たのを機会に、これまで支援してくれた人たちに感謝する目的があった。

そのロヒンギャの若者Oさんが国(法務大臣)を相手に起こした「難民として認定しない処分の取消しを請求する訴訟」の本人尋問は、昨年の12月、彼が当時、牛久に収容されていたために、裁判所の法廷ではなく、東京都港区港南にある東京入国管理局の庁舎で開かれた。場所がいつもとは違っていたこともあって、法廷通訳をつとめたシュエバの記憶にはっきり残っている。Oさんは重箱の隅を突っつくような被告(国)側代理人の質問にも動揺することなく堂々と答えていた。原告側代理人の質問が終わり、被告(国)側代理人の質問までのあいだ、裁判長が暫時休憩すると伝えた時のこと、原告(Oさん)を一旦部屋の外へ連れ出すために、入国管理局の警護官が尋問のあいだ外していた手錠をかけた。その時Oさんが「どこかへ逃げたりするわけないじゃないか。わざわざ手錠をかけなくていいよ」と強い口調で言い放ったのもシュエバはよく覚えている。

さまざまな笑顔

この夕食会のために牛を丸ごと一頭イスラム式に屠殺(ハラル)したとのこと。そのやわらかい肉をインディカ米と一緒に炊き込んだ御飯(ダンバウ)をメインデイッシュにした食事はシュエバにもたいへんおいしかった。総勢100人を越える盛況である。あちこちで会話が弾んでいる。笑い声が響く。日本語、ビルマ語、ロヒンギャ語が飛び交っている。相撲とりになったらとみんなにからかわれるほど体格のいいOさんの笑顔もみえた。彼はティンウィンさんが委員長をつとめるFWUBCの書記長でもある。

このビルマ人の労働組合を設立当初から支援し、Oさんの収容施設からの釈放を訴え、裁判闘争を応援してきたのは日本の金属・機械関係の労働者で組織された労働組合JAM(ジャム)である。そのJAMのメンバーやJAM出身の民主党参議院議員津田弥太郎さんも夕食会に参加していた。

ゲストが次々に挨拶をする。日本語からビルマ語に、ビルマ語から日本語に通訳するのはシュエバの役割である。真っ先に津田議員が元気よく「O君がんばれ! ロヒンギャがんばれ!」と短い挨拶をして、これから別の仕事があるからと、拍手に送られて会場を後にして行った。ティンウインさんとテイングエさんは「アッサラーム・アライクム」とまずイスラムの挨拶をしてから、それぞれロヒンギャ民族との交流についてのおもいを語った。トーマスさんも話をした。カチン民族の女性Bさんもこんなに多くの人の前で話をしたことはないと恥ずかしがりながらも促されてマイクの前に立った。

「カチン民族である私は、同じように少数民族であるロヒンギャの人たちが味わっている苦しみがよく分かります。くじけないで、おたがい助けあって、民主的な、すべての民族が平等に権利を保障された連邦国家を実現できるまでがんばりましょう……」

Bさんの挨拶は短くたどたどしいものだったが、通訳をしていたシュエバには彼女の真剣な気持ちがよく伝わった。

日本人らしい女性のグループもいた。Oさんたちが牛久の収容施設に拘留されているときに、毎週のように面会に訪れ、健康状態に気を配り、はげましつづけてきたボランティアグループのメンバーであるという。対象はなにもOさんだけではない。人種も国籍もさまざまな不特定多数の収容者である。彼女たちは現在もそうした活動をつづけており、前途に希望の見えない収容のせいで落ち込みがちな収容者たちからたいへん感謝されている。

ボランティアのうちの一人が挨拶に立った。つくば市のバブティスト教会の日本人牧師さんの奥さんだとの紹介があった。日本語で話されたのだが、イントネーションがおぼつかない。顔はまったく東アジア系なので、シュエバはひょっとしたら韓国の方かなと思いながらビルマ語に通訳していた。挨拶のなかばで女性はこう話した。

「実は私も少数民族なんです。インドのナガランド出身のナガ民族です。母国でも、日本でも苦しんでいる少数民族の人を少しでも助けたいと思っています……・」

おどろいた。群馬県館林市でロヒンギャ民族が催してた夕食会には、ビルマ人イスラム、カチン、カレンなどビルマの少数民族、それにナガ民族(ナガ民族はビルマのチン州にも住んでいる)までが参加している。その人たちが、日本の人たちとともに、少数民族の人々の苦境を救おうと力を合わせている。通訳をしていて、料理を味わう暇もない、それにイスラムの人たちの会合だから、当たり前なのだが、ビールもないと嘆いていたシュエバだったが、その光景には感動をおぼえた。

ロヒンギャの権利拡大と母国民主化をめざして

ビルマの少数民族の人たちや日本人はロヒンギャの夕食会に参加した。しかし、ビルマの最大多数民族であるビルマ族(ほとんどが上座部仏教徒)は誰一人姿を見せなかったことをシュエバは気にしていた。ビルマ軍事政権はロヒンギャを原住民族と認めていない。そうした軍人たちの支配のもとで育ってきたビルマ人のあいだでは、たとえ民主化運動の輪のなかででも、ロヒンギャと手をつなぐことに消極的な人が多い。そのことはロヒンギャの人たちが置かれている状況をますます厳しいものにしている。BRAJ会長ゾーミントゥッさんは挨拶のなかでこう述べた。

……私たちロヒンギャ民族は1000年以上も前から先祖代々現在のビルマ連邦ラカイン(旧名アラカン)州に居住する民族です。独立後も1962年までは議会民主主義体制のもとで、国会にも議員をおくり、政府高官になったロヒンギャもいました。ビルマ国営放送でもロヒンギャ語による放送がありました。まちがいなくビルマ原住の民族として誰しもが認めていたのです。

しかし、1962年のネウィン大将による軍事クーデターで状況は変わりました。その後の軍人主導のビルマ社会主義政権は、ロヒンギャを原住民族とは認めず、迫害を加えました。現在のSPDC(国家平和発展評議会)もビルマには135もの少数民族がいるとしながら、ロヒンギャをそのなかに含めていません。人口調査に名を借りたロヒンギャ追い出し作戦が何度も実施され、1991-92年には30万人におよぶロヒンギャがバングラデシュへ難民として流出しました。

いま国内に残るロヒンギャたち(推定70~150万人)ははなはだしい人権侵害を受けています。強制移住や強制労働、土地や事業所、資産の没収などは日常茶飯に起こっています。ロヒンギャ民族には国民登録証が出されません。軍事政権からすれば国民ではないのです。就職や進学にも差別を受けます。往来の自由もありません。結婚にあたってさえ、役人から金を要求されます。いわんや民族の権利を主張したり、ビルマ民主化の活動に少しでもかかわったならばすぐさま逮捕され、投獄されます。言ってみればビルマのロヒンギャ民族みんなが牢獄のなかで暮らしているようなものです。なんとか海外へ脱出できたとしても、そこでもまたいろいろな苦しみが待っています。

私たちはこうしたロヒンギャの窮状を日本で訴え、諸民族平等、人権の尊重される民主的な国家の建設のために活動しています。先日も外務省を訪れ、人権抑圧をうけるロヒンギャ民族の状況を説明し、その改善のために日本政府としても働きかけてほしいと要請しましたが、はかばかしい回答は得られませんでした。でも私たちはあきらめません。今日、この交流会には、日本の方々やビルマ少数民族の人たちが参加してくださいました。東京、横浜や名古屋から来てくださった方もいます。みなさんは私たちロヒンギャを理解してくださる方々です。これから皆さんのご協力を得て、こうした輪をもっと広げて行きたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。……

ゾーミントゥッさんは時に涙を浮かべ、声をつまらせた。彼自身来日後一年におよぶ収容を経験し、苦難のはてに難民として認定された。その個人としての体験と同胞ロヒンギャ民族の人々が本国で、バングラデシュや諸外国で、さらには日本で懸命に生きている姿が脳裏に浮かぶのだろう。館林の地に、ロヒンギャの人びとに人間としての親しみを寄せる人たちが集まった。ここから、新しい一歩を踏み出せるはずだ、ゾーミントゥッさんは、そう考え、そのことに胸ときめいて感極まっている、シュエバにはそう思えた。