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田辺寿夫(シュエバ)

セイニッサヤー・アミャージー
2005年3月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第39回(『恋するアジア』第46号)

ダディンガウンを待ちながら

2004年の暮れから2005年の新春にかけて、シュエバは相変わらず滞留期限超過者(オーバーステイ)の逮捕・収容がつづく在日ビルマ人社会の慌しさの中に身を置いていた。ここ1,2ヶ月のあいだに捕まった人たちの中にはシュエバの親しいビルマ人たちも少なからず含まれていた。

在日生活が長く、日本語も話せるようになり、絵や歌に秀でたおだやかな芸術家肌で、日本人の知り合いもたくさんいるTさんとその奥さんは、難民不認定取消し訴訟の結果が出ないまま、仮放免が取り消されて収容された。シュエバとは1990年代はじめ頃からの古い知り合いである。(なおTさんご夫妻は2005年2月14日にあらためて仮放免が認められ、収容施設から出られた)また1995年頃からつきあいのあったW君は難民不認定取消し訴訟で、東京地裁で勝訴しながら、高裁で敗訴したあと収容された。W君の東京地裁での本人尋問ではシュエバが通訳にあたった。日本で水祭りやダディンジュッ(雨安居明けの祭り)の時にバンドのメンバーとして活躍してきたK君。彼は、長い間、茨城県牛久の東日本収容センターに収容されたていたが、2004年やっと仮放免が認められ、東京へ戻った。しかし「稼動(仕事をして収入を得ること)してはいけない」という入国管理局がつけた条件に違反して働いたとして、仮放免を取り消され、品川入管に収容された。K君はいま「難民として認めない処分の取消しを求める」訴訟のさいちゅうである。裁判の結果が出るまでの間、仕事もしないでいったいどうやって生きてゆけばいいのか。カスミを食えばいいというのか。

ほかにも捕まった人たちはたくさんいる。そうした人たちと接見し、話をするために、収容(留置)先である都内の各警察署、品川の入国管理局、そして牛久の入国管理局東日本収容センターへと、シュエバはビルマ難民弁護団の弁護士とともに駆けずりまわった。警察署はどこもおおむね大きな道路に面しているが、鉄道の駅からは徒歩10分とか15分とか離れていることが多い。品川の入管は駅南口からバスで10分かかる。おまけに大病院の診察受付のように面会者が早朝から列をつくるから、待ち時間もけっこう長い。茨城県の牛久は遠い。都内から常磐線で1時間はかかる。牛久の駅からさらにタクシーで20分ぐらいかかる。牛久往復となればこれはもう一日仕事である。

収容され、自由を奪われ、強制送還の恐怖に怯えなければならないビルマ人の境遇にくらべれば、シュエバの味わう忙しさなどなにほどのことはない。それでも時間がかかるし、気の滅入る仕事ではある。話をきけばきくほど彼ら,彼女らに同情せざるを得ないし、この人たちに対する警察や入管のあつかいについて腹が立ったり、後味の悪いおもいをすることもしばしばである。

とはいえ、正月は正月である。2005年の新春を迎えて、なにかいいことがあってほしいとシュエバは心ひそかにダディンガウン(よいニュース・吉報)を待ち望んでいた。しかし、いきなり悪いニュースが重なった。

その男、危険につき

幕開けは大阪の弁護士からの電話だった。大阪在住のビルマ人民主化活動家が難民不認定取消しを求めて起こしている行政訴訟があり、予定されている高等裁判所での審理に、法廷通訳をしてほしいと担当の弁護士から2004年の暮れに依頼され、シュエバはOKしていた。電話は、それがダメになったというものだった。詳しい話はわからないが、シュエバは「ビルマ人寄り」の人間だから通訳として好ましくないと被告(国)側が主張したのだという。個人の思想・信条がどうであれ、法廷通訳は宣誓をしたうえで行なうものである。法廷では、原告ビルマ人本人と原告代理人(弁護士)、被告代理人(法務省検事)、裁判官との問答をひたすら正確に通訳する。通訳個人の意見など入りようがない。にもかかわらず忌避された。シュエバが憮然とするのは当然であろう。

悪いニュースはつづく。2005年に入ってから、ビルマから日本へ派遣されてきた現役公務員と会う機会があった。ビルマでは公務員を外国へ派遣する場合は閣議の承認が必要である。いうまでもなく現政権に忠誠を誓う人であり、公務が終われば必ず帰国するであろう人しか派遣されない。シュエバが会ったその公務員はたいへん気のいい、朗らかな人だった。出国直前に所轄の大臣に呼ばれたという。その時、大臣から直接こう言われたと気の毒そうに付け加えた。

「日本にはシュエバという男がいる。この男には十分気をつけるように」

「おい、マジかよ」。シュエバは呆気にとられた。令名というか悪名というべきか、シュエバの名は日本のみならず、はるかビルマにまで轟いているようである。これでは「その男、危険につき」と指名手配されたも同然である。

ビルマでは2004年10月に軍事政権の実力者とされたキンニュン首相(大将)が更迭された。同時にキンニュン大将の権力の根源であると言われた国家情報局(軍情報部=MI=を含む)は解体された。このニュースをきいた、あるビルマ人はニヤニヤしながらシュエバに言ったものだ。

「ウー(おじさん)、MIがなくなったんだから、今のうちに入国ビザを申請したらビルマに行けるよ」

長年のビルマ人民主化運動家たちとの付き合いがたたって、ビルマ政府のブラックリストに載り、ビルマへ入国できない立場になっているシュエバをからかっての冗談である。冗談とわかっていても、ビルマに行きたい気持ちは失っていないシュエバは「そうだな、やってみるか」とその時は返事した。しかしまあ、大臣にまで名前を知られているようでは、とても入国など許されそうにない。たとえ運良くビザが出て、ビルマに入れたとしても、日本に居てさえ警戒されているシュエバなのだから、ビルマで会う人、会う人に迷惑がかかるのは火を見るより明らかである。ビルマを訪問することは夢のまた夢である。

そんなこんなでここのところシュエバは口癖のようにこうつぶやいている。

「セイニッサヤー・アミャージーベー・ビャー(いやになることばっかりなんだ)」

マイクロフォン・カインペーバー

2005年1月29日(土)と30日(日)、シュエバは「名古屋会議2005」に出席した。ビルマの政治状況を検討し、ビルマ民主化に向けての今後のたたかいの構築と戦略、とくに日本における活動について意見を交換する会議である。名古屋在住のビルマ人活動家グループの呼びかけに応じて、東京からは国民民主連盟(解放地域)=NLD.LA=日本支部、ビルマ民主化同盟=LDB、ルバウンティッ(英語略称DPNS。日本語では民主主義のための新社会党と翻訳される。学生たちを主体とする民主化組織)などの活動家たちが参加したほか、折から来日中の国民民主連盟(NLD)所属国会議員ウー・ティントゥッ(オーストラリア在住)がゲストとして出席した。地元名古屋の活動家たちを合わせて総勢50人ばかりの会議だった。

会議に出てほしいと名古屋のビルマ人活動家から電話があった時、シュエバはすぐに訊いた。

「通訳をするのかい?」

「いいえ。今回は違います。ビルマ人たちと一緒に会議に出て発言してほしいんです」

シュエバは喜んで出席すると即答した。会議の通訳は法廷通訳ほどではないにせよ、相当に神経をつかうし、くたびれる。自分にとって興味のない発言でも終始耳を傾けていなければならない。「なにを、この野郎」と毒づきたくなるような、自分とはまったく違う意見表明であっても、ぐっとこらえてきちんと通訳をしなければならない。会議で通訳をしなくていいというのは、シュエバにとっては実にありがたい。

実際、会議が始まってみると、出席者はすべてビルマ人、当然だがすべてビルマ語で進行した。名古屋でビルマ人たちの活動や難民認定申請を支援しておられる日本人の方の顔はみえたが、会議で発言されることはなかった。シュエバは通訳のことは考えることなく、活動仲間の一人として自由に発言をした。

二日間の会議では四つのセッションが行なわれた。そのうちの二つはシュエバが議長をつとめた。議長といってもたいしたことをするわけではない。はじめに討議の目的と方向性を述べる。そのときには、シュエバは日本人としてふだん感じていることをあわせて話した。そしてセッションの終わりには討議の内容をまとめて、しめくくる。さしてむずかしいことではない。

ましてセッションのあいだは発言をしたいという人の手が次々に上がる。みんな積極的である。話したくてたまらない。シュエバは順番に指名するだけでことは足りた。時に、勢い余ってマイクロフォンがまわって来ないうちに話し出す人がいる。そんな時に「マイクロフォン・カインペーバー・カミャー(マイクを持ってください)」と注意をうながしてしていた程度の議長であった。

この間、昼飯、晩飯は名古屋在住のビルマの人たち、会議出席メンバーの奥さんたちが手作りでつくってくれた。品数は少なかったがおいしかった。会議の議題とは離れてビルマの人たちと談笑するのも楽しかった。シュエバはすっかりいい気分になった。

会議が終わってシュエバが東京へ帰ろうとしていると、名古屋在住のビルマ人の若者Mさんが大きな包みを持ってやってきた。Mさんも難民認定申請者で、その過程でシュエバは陳述書の翻訳や地裁での通訳など何度かお手伝いをしたことがある。

「ウー・シュエバ、いつもありがとう。これお礼のしるしです。どうぞ受け取ってください」

お礼をいわれるほどのことはしていない。帰りの荷物にもなるし、困ったなとは思ったが、シュエバは素直にプレゼントを受け取って、東京へ持ち帰った。中身は今風のオーバーコートだった。軽くて、あたたかく、着心地がいい。翌日からシュエバはそのコートで外出するようになった。数日後、名古屋でビルマ人を支援しておられる日本人の方にほかの用件で電話した時に、シュエバはM君にもらったコートを重宝していることを話し、あらためて感謝の気持ちを伝えておいてほしいと依頼した。その日本人の方はこう話された。

「それはよかった。M君はウー・シュエバにぴったりのものを探すのに、あれやこれやずいぶん迷ったって言ってました。気に入ってくれるかなあって心配していましたよ」

トゥェッラービー(出てきたよ!)

2月12日(土)はシュエバもそのメンバーであるビルマ市民フォーラムの例会があった。この日はちょうどビルマの連邦記念日にあたる。イギリス植民地であったビルマが連邦国家として独立するために、アウンサン将軍が少数民族の代表者たちとシャン州ピンロンで話し合い、ピンロン協定を結んだ1947年2月12日の今年は58回目の記念日になる。ピンロン精神と呼ばれる諸民族協調融和の原則を再確認する日である。

池袋のエコトシマ(豊島区生活産業館)で開催したビルマ市民フォーラムの例会でも、在日ビルマ少数民族協議会(AUN)の協力を得て、日本に住む少数民族の人たちを紹介するプレゼンテーションがあった。この日は普段より参加者が多く、日本人、ビルマ人あわせて70~80人もの人が集まった。

ラカイン(アラカン)、カレン、カチン、チン、シャン、ナーガ、パラウン、モンといった民族の男女が民族衣装を着て登場し、ほんのさわりだけだが、それぞれの住んでいる地域や歴史・文化・宗教・言語について話してくれた。シュエバは司会兼通訳をつとめた。シュエバには諸民族の言葉はどれひとつわからない。しかし、彼ら、彼女らは固有の民族言語でしゃべったあと、ビルマ語で説明をつけくわえてくれたので、それをさらに日本語に通訳した。

何番目かに登場したチンの若者は目も綾なブレザーを着込んでいた。形は普通だか色がすごい。赤やエンジや黄色やらが箱根の寄木細工さながらに織り込まれている。そのかっこうに目を奪われたシュエバはこの男性の顔をよく見ていなかった。彼が話し出したときに、「あれっ、どこかできいた訛りだぞ」と気がついた。顔を見直した。

「おい、H君じゃないか。どこかで会ったよな?」

「ウー・シュエバと会ったのはカマタ警察と裁判所だよ。おかげさまで出て来れました!」

それで記憶がよみがえった。なんとチン民族を代表して話をしてくれたのは、このエッセイの前回に登場したH君だった。不法在留者として摘発されたH君は蒲田警察署に留置された。そして、単なるオーバーステイ(超過滞在)ではなく、他人名義によるパスポートを使っての入国であったことから起訴された。2004年10月28日には東京地裁で執行猶予つきの判決を受け、品川の入管に身柄をうつされた、その時点で難民認定申請をしたこともあってか、運良くクリスマス前(H君はクリスチャンである)に仮放免が認められ、出所できたのだとのこと。

留置場でさえ、めげもせず、にこにこしていたH君はシャバに出てますます元気になっていた。勢いあまってチン民族意識を鼓吹するような大げさな演説をぶって、ビルマ民族の聴衆から顰蹙をかうところもあったほどだ。話の内容はともかく、シュエバは溌剌としたH君の姿を見てうれしかった。その派手はでしいブレザーも似合っていた。通訳にあたって、さんざん悩まされた独特の訛りのあるビルマ語はシュエバの耳に妙になつかしく響いた。

H君とシュエバは翌日2月13日(日)、NLD.LA=国民民主連盟(解放地域)日本支部が主催した連邦記念日式典と諸民族の歌と踊りの夕べでも顔を合わせた。会場はやはり池袋の豊島区民センターである。週末に二日つづけて池袋まで出てくるのはおっくうだとシュエバは出席を断ったのだが、もうプログラムには「ウー・シュエバの挨拶」と刷り込んであるから、どうしても出てくれと言われてやって来たのだ。

でも来てよかったとシュエバは思った。この日はH君たちタインインダー(原住諸民族)の人たちが大挙参加したこともあって、出席者は100人を越えようかという盛況だった。幼い子供たちの姿もあった。逮捕・拘束・送還の恐怖があるなか、諸民族の人たちを含めて、在日のビルマ人たちが一堂に会した。壮観である。デモクラシー、諸民族平等の連邦国家の樹立をめざして、決意も新たに、一緒にたたかって行こうしている。熱気はにぎやかな会場の一角に座るシュエバにも伝わった。なにができるのか、たいしたことはできないだろうが、ともかくこの人たちと一緒に歩みたい、シュエバは、仲間たちとともにチン語の歌を歌うH君の姿を目で追いながら、そんな気持ちになっていた。

ピョウザヤー(楽しいこと)もあるはずさ

2月20日(日)にもシュエバはH君と顔を合わせた。都内五反田のホテルで開かれた「チン民族の日」のパーティーにシュエバはビルマ難民弁護団のW弁護士とともに出席した。H君は例の華やかな色彩のブレザーを着込んで受付けを担当していた。H君と同じような上着を着た牧師(パスタ-ーと呼ばれる)さんがシュエバのところへやって来て手を差し伸べた。握手しながら、3年ぐらい前に、このパスターとチン人の結婚式で会ったことをシュエバは思い出した。その時は彼が式を取り仕切り、シュエバが司会兼通訳を担当したのだった。

「やあ、ウー・シュエバ、久しぶりだねぇ。チン人のためにがんばってくれてるんだって。きいてるよ」

「こんにちわ。お元気そうで。それにしてもその上着、牧師さんが着てもいいんですか?」

「これはちゃんとした民族衣装だよ。見てごらん。女性の着ているものと同じ色柄だろう。男の上着はイギリス植民地時代にこういう意匠になったんだ。ハカー(チン州の州都)あたりじゃ普通だよ」

会場にはチン民族の人たち20人ほどが集まっていた。チンの人たちの名前はシュエバにはなかなか覚えられないが、警察で、裁判所で、入管で、弁護士事務所で顔を合わせた人がたくさんいる。その人たちはシュエバに笑みを送ってくれる。W弁護士とシュエバはこのチン民族の集まりに出たあと、高田馬場で開かれるカチン民族の人たちとの会合にも出る予定があった。「チンとカチンをハシゴする」するはめになった二人はあわただしく挨拶をさせてもらった。女性の司会者にアコージー(大きなお兄さん)と紹介されて、苦笑いをしながらシュエバはマイクを手に話しはじめた。

……・ここにいらっしゃるチンの方々が連絡をしてくださったおかげで、去年12月に思いがけない人と40年ぶりに再会しました。チン州ティディム(チン州北部、インド国境に近い町)で長い間高校の校長先生をつとめ、いまもティディムのバプティスト教会でバイブル・カレッジを主宰しておられるLさんと東京でお会いしたのです。Lさんは旧留学生を招待する日本政府のプログラムで来日されました。

実はLさんはぼくが生まれてはじめてビルマ語で話をした相手なんです。1964年ごろのことです。大阪外国語大学ビルマ語学科の学生だったぼくは、当時数少ないビルマからの留学生だったLさんと出会いました。その頃ぼくのビルマ語はずいぶんいい加減なものでしたが、Lさんは辛抱強くきいて相手をしてくださり、色々なことをやさしく教えてくださいました。そのやさしさは40年たった今も変わりませんでした。

Lさんは「是非チン州へ来なさい。いいところだよ。今は貧しいけれど、そのうちインドとビルマをつなぐ道路が整備され、すばらしい観光地になるはずだから」と言ってくれました。ぼくは正直に入国ビザが出ないことをお話しました。それをきいたLさんは微笑みを絶やさずこう言ってくれました。「マチャーバーブー(そんなに時間はかからないよ)」。

みなさんは日本で生活していてセイッニッサヤー(いやなこと)がいっぱいあると思います。きびしいことはよくわかります。でも、どうか気落ちせず、辛抱し、協力しあって目標に向かって進んでください。いつかビルマが平和な連邦国家になり、チン州も発展するでしょう。Lさんの言葉を借りれば、それまで「そんなにかからない」でしょう。

ぼくはまだチン州へ行ったことがありません。みなさんがチン州へ帰られて、ぼくがそこをたずねて行ってお会いできればどんなに楽しいでしょう。ぼくはそんなピョーザヤー(楽しいこと)をいつも心のなかにおもい描いています…………