トップページ >  コラム:田辺寿夫(シュエバ) >  ビルマ人のスキップ >  よわい七十二、いまだ楽隠居せず~ドー・サンサン来日報告

田辺寿夫(シュエバ)

よわい七十二、いまだ楽隠居せず~ドー・サンサン来日報告
2004年7月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第37回(『恋するアジア』第44号)

おばあさんがやって来た

1932年1月生まれ、今年72歳のビルマ人のおばあさんが日本へやって来た。名前はドー・サンサン(Daw San San。Dawは成人女性につける敬称)、小柄で一見したところ、どこにでもいる田舎のおばあさんの風情である。しかし、このおばあさん、ただものではない。アウンサンスーチーが率いるビルマ最大の政党・国民民主連盟(NLD)の国会議員(1990年5月27日の総選挙で選出されたが、国会は一度も招集されていない。この選挙ではNLDは総議席485のうち392議席を獲得した)である。国会議員でありながら軍事政権によって二度にわたって投獄された。2003年には迫害の危険を察知して、陸路険しいルートをたどりタイ国へ脱出した「闘士」でもある。現在はタイ国メソートを拠点にビルマ民主化陣営の有力なリーダーの一人として活躍している。日本へ来たのは、韓国・光州においてアウンサンスーチーさんに授与された光州人権賞を、いまだ自宅軟禁の身で動けないアウンサンスーチーに代わって受け取ってきたその帰りに立ち寄ったものである。

5月29日(土)、5月30日(日)と二日連続で彼女の講演を通訳した。29日は池袋・エコトシマ(豊島区生活産業プラザ)で開かれたビルマ市民フォーラム例会で、ちょうど一年前の2003年5月30日におこったディーベーイン事件について講演した。ドー・サンサンはこの事件は計画的な「国家テロ」であるとして激しく非難し、それでも民主化活動をつづけるNLDの姿勢を語った。彼女はアメリカの上院でも同様の証言をしているだけに、事実に裏付けられた迫力のある話しぶりだった。翌30日には中野ゼロホールで開催されたビルマ政治囚救援協会(AAPP・B)主催の写真展で特別ゲストとして自らの獄中体験を語り、民主化への意欲を披瀝した。

ねずみと仲良し

およそ70人、日本人、ビルマ人ほぼ半々の参加者を前に、ドー・サンサンの語る獄中体験はあっけないほどささやかな話題で始まった。彼女が入れられたインセイン刑務所の房にはねずみが棲みついていて、数えてみると35匹いたというのだ。そのなかにひときわ体格の良いボスねずみがいて、集団を見事に統率していたとのこと。彼女いわく「軍事政権みたいね」。それにしても落ち着かないし、騒々しい、不衛生でもある。

ある時、政府の局長クラスのえらい役人になっていた彼女の大学教師時代の教え子が刑務所の視察にやって来た。ビルマではたとえ役人と囚人と立場が変わっていても師弟の関係はおろそかにはできない。「どうですか? なにか不自由はありますか?」と訊かれたので、「ねずみをなんとかしてちょうだいよ」とドー・サンサンは言ったそうだ。「わかりました。それでは猫をおとどけしましょう」ということになった。実際に猫がやって来た。彼女の隣りの房の女性囚はさっそく猫を房に入れてねずみ退治を実践した。ドー・サンサンはそうしなかった。猫の出入り口を塞いでしまった。「私は仏教徒ですもの。目の前で生き物が殺されるのを見たくありません」。以来、彼女は多少の騒々しさや不衛生には目をつぶって、ねずみたちと仲良く獄中生活をおくったという。

インセインというところ

この中野でのビルマ政治囚救援のための講演会・展示会はアムネスティ・インターナショナル日本支部が協力して、4月以来毎月一回日曜日に開かれている。小さなホールの入り口にはインセイン刑務所と書かれた手作りの看板がつけられている。イギリス植民地時代からある、ヤンゴン市内の悪名高いインセイン刑務所に入る気分を味わってもらおうというわけだ。ちなみにドー・サンサンによると刑務所での待遇はイギリス時代の方がはるかによかったとのこと。とくに政治囚は「Aクラス」という特別のあつかいを受けた。政治囚たちは刑務所のなかで毎日議論をし、時には政治学や歴史学・文学などの講座を開いていたという。

会場の小ホールに入ると壁一面に今も1000人以上いるという政治囚の顔写真がずらっと貼ってある。老若男女さまざまである。懲罰あるいは刑務所外へ出て重労働に従事する時に、手や足につけて自由を奪う鉄製の拘束具も展示してある。さらに獄中経験のあるビルマ人たちが「ポンザン!(もとの意味はカタチ。刑務所ではある一定の苦痛をともなう姿勢をとれ!という意味で使われる)」という警吏の掛け声とともにとらされる姿勢を実演したりもする。そして語られるのは、オカズはろくにない砂交じりの飯の話、その飯を入れる容器で10杯分しか水をかけられないシャワーの話……誰もが暗く、やりきれない気持ちになる。

それを察してだろう。ドー・サンサンは直接には悲惨な、暗い話は語りかけなかった。けれども淡々とした語りに耳を傾けながら彼女の心身の痛みを十分に感じることができた。息子さんとの別れの話があった。末っ子の息子さんがアメリカに行くことになり、面会に来てくれた。時間は限られているし、聞き耳を立てる監視がついているから、うちとけて話ができる雰囲気ではなかった。「でも、目と目でちゃんと気持ちが通じ合いました」と彼女は言う。息子さんは別れの挨拶をしてから、後ろ髪を引かれるおもいだったのだろう、何度も何度も母ドー・サンサンの方を振り返りつつ帰って行った。「私は投げキッスをおくってあげましたよ」。それでも、彼女はこれが息子との永の別れになるだろうという予感があったという。はたして、息子さんはアメリカで客死した。刑務所での別れ以来、この母子が会うことは永遠になかった。

何故そこまで頑張れるのですか?

中野での講演会で、彼女が監獄体験を語り終えたあと、しんとして聞き入っていた聴衆の中から一人の若い日本人男性が彼女の話しに胸をうたれたと感謝の言葉を述べ、あわせて質問をした。「そのお歳になって、投獄されても、外国へ逃れて苦しい目にあいながらも、何故そんなにまでして民主化運動を一生懸命おやりになるんですか?」。

もっともな質問である。ドー・サンサンはすでに古希を過ぎている。ビルマでは男女とも日本に比べて平均寿命ははるかに短いから、ビルマで七十二歳といえばとっくに楽隠居していて当然である。彼女にはなくなった息子さんのほかにもお子さんはいる。孫たちを相手に日がな一日のんびり暮らそうとすればできる。誰しもがそう思う。

質問を受けたドー・サンサンはにっこり微笑んで、やおら語りはじめた。それは一人のビルマ人女性の人生の軌跡であり、そのままビルマの現代史でもある。勉強好きの少女が学問を身につけ、国と民族を愛する心を培い、有能な教師・公務員となり、そして民主化運動に身を投じる。迫害と弾圧に立ち向かう。彼女いわく「自然にそうなったのよ。だから変わりようがないわ。苛酷であっても、弾圧があっても獄中にある同志をおもいつつたたかいつづけます。だって人権・民主主義は人間すべての望みでしょう」。

ドー・サンサンの半生の体験は、社会のありよう、人間の生き方について多くのことを私たちに示唆してくれる。以下に彼女の語りをモノローグふうに書かせてもらった。話が佳境に入ってくると、ドー・サンサンは身を乗り出し、手振りをまじえて語った。しばしば隣りに座った通訳のぼくの手を、叩くというのではないが、猫がじゃれるようににさする。「ねえ。ねえ」、「だから、だから」といわんばかりのその手の動き、感触は通訳にとっての貴重な宝物だと感じた。日本人の聴衆のことを考えて、時代背景やビルマの歴史的な事件などについて通訳としていくらか補う必要もあった。そうした部分をも含めて書かせていただいた。(文責筆者)

ウンターヌの波のなかで

私が生まれたのは1932年、ビルマはまだイギリスの植民地でした。でも1930年代からビルマの独立をめざす動きがはじまっていました。それをウンターヌ(国を愛し、民族を愛するとの意味。語源はパーリ語)運動といいます。私がものごころついた頃には「ビルマ暦1300年(西暦1938~39年)大闘争」と呼ばれる大きな国民運動がありました。学生や労働者が中心になってストライキやデモ行進を行ない、政治や経済の面での権利拡大をイギリス植民地政府に要求した運動です。この運動はのちにタキン・アウンサン(後のアウンサン将軍)たちが率いる反英独立闘争へと発展して行きます。タキンとは「主人」の意味です。当時、最大のビルマ人組織であったタキン党(正式にはドバマ・アスィーアヨン=われらビルマ人協会)の党員たちはそれぞれ名前の前にタキン(女性はタキンマ)とつけ、おたがいタキンと呼び合うことから日常的に民族意識を鼓舞したのです。

こうした時代のなかで育った私は幼いながらも「私たちはビルマ人なんだ。ビルマの言語・宗教・文化を学び、それを守るのだ。ビルマの主人(タキン)はビルマ人なのだ」という気持ちをごく自然に持つようになりました。

1946年、私は学生としてヤンゴンにいました。アウンサン将軍が率いるパサパラ(英語略称AFPFL=反ファシスト人民自由連盟。本来は日本ファシストに叛乱する目的で1944年に結成された統一戦線組織)などの政党や国民組織は、日本敗戦後、ふたたび宗主国としてもどってきたイギリスに対して、早期独立をめざして交渉を行なっていました。国民は一致してアウンサン将軍を支持しました。イギリスに対して圧力をかける目的で大規模なゼネストも実施しました。学生であった私もヤンゴンの中心部にあるスーレー・パゴダ周辺で開かれた国民集会に参加したことを覚えています。

私の父は当時イギリス植民地政府の管轄下にあった警察の幹部でしたが、ゼネストには警官も加わりました。警官であっても、公務員であっても、自分の国が独立できるかどうかの大事な局面なのだから、参加するのは当然だし、そうしなければいけないと父は言いました。このすべての国民がうって一丸となった独立闘争の高揚を体験して、国民が共通の目的に向かって力を合わせることの大事さを知りました。(ビルマの独立は1948年1月4日。その半年前の1947年7月19日にアウンサンは暗殺される)

議会制民主主義から軍事政権へ

ヤンゴン大学を卒業(理学士・化学専攻)したのは1952年です。その後大学で助手をつとめ、1955年にはユーゴスラビアへ留学しました。1959年にはすすめる人があって労働省という役所に入りました。大学にせよ、政府の役所にせよ、国のために、国民のために働くという気持ちに変わりはありませんでした。

私が役所に入った頃は、ちょうどネウィン(Ne Win)将軍が第一次クーデターのあと選挙管理内閣を組織して一年半ほどの支配をおえ、総選挙でウー・ヌ(U Nu。独立後の初代首相でもある)のパサパラが圧勝した時期です。ビルマが再び議会制民主主義を取り戻した時期にあたります。労働大臣は独立闘争でも活躍した経歴を持つウー・ラシッド(U Rashid)でした。彼はたいへん有能かつ実行力のある人物で、私たちのような下っ端の部下の意見に耳を傾け、それが正しいと判断すれば、どんどんやらせてくれました。私は国民のためにという気持ちで役所のなかで働き甲斐を感じつつ仕事をつづけました。

1962年3月2日、当時の国軍参謀総長ネウィン大将は、国政の混乱を救うと称して第二次クーデターを起こし、首相や大統領、少数民族指導者らを拘束するなどして、国権を掌握しました。ビルマは軍人が支配する国になりました。役所の仕事にも変化がありました。

当時私の仕事のひとつは失業中の労働者に仕事を斡旋することでした。私の受け持つ地域に新しい工場ができたので、いい機会だと思って、失業者たちに仕事を紹介しようとしました。しかし、ある日突然その新しい工場にトラックが横付けされ、そのトラックに乗っていた人たちがみんな従業員として採用されてしまいました。工場と利権でつながる高級軍人が顔をきかせて、当たり前のように、自分にすりよる人たちを採用するようにしたのです。ひどいとは思いつつも、あらゆる権力を握る将軍のすることですから私はなにも抵抗できませんでした。

デモクラシーを叫ぶ

1988年3月から軍人支配・一党独裁(政党は軍人を中心とするビルマ社会主義計画党=BSPPしか認められていなかった)に反対し、デモクラシー獲得を叫ぶ運動が首都ヤンゴンで始まりました。最初に動き出したのは学生たちでした。はじめ、私たちは役所の窓ごしに、学生たちのデモの隊列が大通りを行進するのを眺めて、手を振ったりしていました。そのうち、軍人による支配をこころよく思っていなかった私たちもこの民主化運動に参加しようという気運が盛り上がりました。そして労働省に職員の労働組合(当時は官製の労働者評議会しか認めれていなかった)を結成しました。当時副局長だった私が組合の委員長に就任し、デモにも加わるようになりました。政府は公務員としての服務規程に違反したとして私を含む組合のリーダー3人をまっさきに解職(強制退職)処分にしました。その後私はNLDに入党し、労働問題を担当するようになりました。

1990年の総選挙にはNLDの候補者として首都ヤンゴンの港に近いセイカン区(セイカンは港湾の意味)から立候補しました(選挙区はすべて当選者一名の小選挙区制)。名前のとおり港湾労働者の多い地域です。ごぞんじのように392人ものNLD議員が誕生するなか、私の選挙区は有権者の数が少なかったので、一番早く当選が確定し、そのことで私は有名になりました。

しかし軍事政権は選挙前の約束をひるがえし、国会を召集しようとせず、NLDへの政権委譲も拒みつづけました。8月にはNLDが党大会を開催し、国会招集を強く要求したことに難癖をつけ、私を含む30人以上のNLD議員を「並行政府」樹立をたくらんだとの罪名をきせ、終身刑を宣告して、インセイン刑務所に放り込みました。この時は恩赦(軍事政権の最高機関・国家法秩序回復評議会の議長がソオマウンからタンシュエに替わったことによる恩赦)があって一年六ヶ月ほどで出獄できました。その後1996年にも同じような罪名で投獄され、さきほどお話したように2001年8月に出獄するまで合計6年以上獄中生活をおくりました。

国外から民主化の声を

私自身二度も投獄されて活動がほとんどできなかった期間、NLDとしても軍事政権から「国家転覆を企んでいる」とか、「外国勢力の影響下にある」などと激しく非難され、政党としての活動はなにもできませんでした。それでもアウンサンスーチーへの国民の支持が衰えないことを恐れたのでしょう、昨年の5月30日、軍事政権はアウンサンスーチーとNLDに対して「国家テロ」を仕掛けました。ディベーイン虐殺事件です。軍事政権は死者の数を5人(最初の発表では4人)と発表しましたが、生存者たちの証言をもとにした私どもの調べでは犠牲者の数は282人にのぼります。軍事政権はNLDの抹殺をねらっています。これ以上ビルマにいては活動ができないばかりか、自分自身の生命すら危ないと考え、2003年のうちにビルマを脱出し、陸路タイに到達しました。

軍事政権はこの事件をきっかけに高まった国際社会からの非難をかわそうと、2003年8月には新たに首相に就任したキンニュン大将が「民主化7段階ロードマップ」を発表し、その第一段階にあたる国民会議を今年5月17日から再開しました。しかし、軍事政権にとって都合のいい憲法を制定しょうとする動きにすぎず、これが民主化に向かう道筋であるとは国民の誰一人として考えていません。

私は今タイのメソートにある国民民主連盟(解放地域)の本部で活動をつづけています。ビルマで活動を制限されている仲間たち、今なお獄中にいる仲間たちに代わって、国外でビルマ民主化の声をあげて行きます。今回日本へやって来て、いろいろなビルマ人の人たちから至れり、尽くせりの世話をしてもらっています。うれしいことです。ホテルなど泊まる必要はありません。みんなが喜んで泊めてくれます。少々狭い部屋でも、子どもたちが騒がしくても平気です。刑務所に比べれば天国です。

こうしていいおもいをしながらも、鬱々として心楽しまずという心境になることもあります。日本にはいろいろな食べ物があります。みんながおいしいものを作って私に食べさせてくれます。そんな時ふと思うのです。「ああ、この料理は刑務所で一緒だったあの人が好きだったなあ。まだ獄中にいるときいているけれど、健康を害していないだろうか」などと。そうなるとおいしそうな食べ物も喉を通りにくくなります。

テレビもそうです。日本ではチャンネルがたくさんあっていろいろなものが見られます。サッカーを見ても、映画を見ても、それぞれ、それが好きだった獄中の仲間を思い出してしまうのです。そして、そうした人たちの分までしっかり働かなければと自分を励ましています。

でも無理をしているわけではありません。民主的な国家を建設する、人権の尊重される社会を実現する、平和に暮らしたい、それがビルマ国民大衆の一致した希望であり、意思であることは明らかです。自分のおもいと国民大衆のおもいは重なっているのです。ですから、こういう仕事にたずさわるのは、私にとっては当たり前のことであり、何も特別なことではありません。