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田辺寿夫(シュエバ)

去年今年(こぞ・ことし)貫く棒のようなもの
2004年3月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第36回(『恋するアジア』第43号)

出会いと別れ

明けましておめでとうございます。年末年始どのようにお過ごしだったでしょうか。過ぎた一年のことどもをふりかえって、あれやこれや思いをいたし、来たる一年に向けてなにがしかの抱負や決意を胸に新たな一歩を踏み出されたことと存じます。

放送局の年末年始は普段よりかえって忙しくなります。それでもこの暮れ、正月は例年よりはおだやかに過ごすことができました。ここ数年来、年内に書いたことのなかった年賀状を暮れのうちに投函できたほどです。

そんな年末の一日、手帳を繰って、この一年、どんな出来事があり、どんな気持ちで、どんなことをしてきたのか、どんなことを考えたのかなどをふりかえってみました。土曜、日曜の欄は出会ったビルマ人の名前でうまっていました。それは例年のことですが、2003年の手帳を見ると、平日にも随分たくさんのビルマ人たちと会っていたり、相談事の電話がかかっていたりしていました。在日ビルマ人にとってはことの多い一年だったことがしのばれます。

もうひとつ、今までと違っているのは、法廷通訳とそれにともなう警察留置場での接見の通訳がほとんど毎週のようにあったことです。以前から難民認定申請を手伝ってきましたし、難民不認定取消し訴訟(民事)の法廷通訳もやってきてはいました。そのうえに2003年は放送局を定年退職し、ビルマ語番組制作の仕事は続けているものの、身分が職員ではなくなったのを機会に、刑事裁判の法廷通訳も手がけるようになりました。刑事事件というとなんだか怖そうですが、ほとんどが出入国管理及び難民認定法違反、いわゆるオーバーステイの裁判です。公判そのものは30分から40分のうちに判決言い渡しまで行ってしまうので時間はとられないし、通訳も難しくはありません。

ただ胸が痛むのは判決に執行猶予がついても、超過滞在者ですから、自由の身になるわけではなく、入管の収容施設に移され、一,二週間のうちに母国に送還される当事者たちの今後を想像してみる時です。ビルマに帰って職はあるのだろうか、日本へ来る時の借金はもう返し終わっているのだろうか、日本で政治運動をしたんじゃないかときびしく尋問されるのではないだろうか、日本の大使館に納める税金は済んでいるのだろうか、済んでいないとこれまた厳しく追及されるのでは……。神妙に判決をきくビルマ人たちを見ていてそんなことを考えてしまうことがよくありました。

裁判の通訳が増える一方で結婚式・披露宴の司会兼通訳の仕事は減りました。2001年と2002年には、それぞれ年間15回の司会・通訳をこなしましたが、2003年は9回しかありませんでした。「結婚式やってる場合じゃないんだよ」。ここにも日本に住むビルマの人たちの、楽ではない状況が出ているように思いました。

「出所祝い」のパーティ

12月19日(金)、日本人配偶者との間の離婚調停(結婚は減りましたが、こっちの方は増えているようです)にかかっているビルマ人男性に通訳を頼まれていた用件で家庭裁判所へ向かっていた時、携帯電話が鳴り、キンマウンラッさんが仮放免になったという知らせが飛び込みました。あとでくわしくきくと、野沢太三法務大臣の裁量による特別の措置であり、期限は一ヶ月間と限定された仮放免とのことでした。その一ヶ月間収入を得る仕事についてはいけないとの条件もついているとききました。それでもとりあえず彼は品川にある法務省入国管理局の収容施設を出て、家族(フィリピン人の奥さんマリアさんはカトリック教徒です)とともにクリスマスを迎えることができました。12月10日に渡邉弁護士と一緒に面会に行った時、キンマウンラッさんは元気一杯、闘志満々でしたが、「もうじきクリスマスだよね」と何気なく問い掛けた時、うつむいてしまい、ポツリと「毎年、クリスマスは妻や子供と一緒に過ごしていたんだけどね」とつぶやいたのが印象に残っていたので、まずはよかったという気持ちになりました。

12月24日、クリスマスイブの日、秋葉原のイタリア料理店で、9歳と6歳の娘さんも含めキンマウンラッさん一家4人を囲んでささやかなパーティーがあり、ぼくも出席しました。キンマウンラッさんの件で東奔西走、エネルギッシュに走りまわった渡邉彰悟弁護士が主宰するいずみ橋法律事務所(在日ビルマ人難民弁護団事務局であり、釈放署名運動を推進したビルマ市民フォーラム事務局も同居しています)スタッフの忘年会を兼ねたおよそ20人ほどの集まりでした。

報道を通じて国民の関心を高めてくれたTBSの記者の顔もありました。釈放を求める街頭署名運動にも参加したというビルマ市民フォーラムの山本宗補さんも姿を見せました。余談ですがフォトジャーナリストの山本宗補さんは2003年10月に第三書館から写真集『ビルマの子供たち』を出版しました。定価2000円です。大学図書館や公立図書館に購入するよう働きかけてくださいとお願いしておきます。表紙の日本語のタイトルの横にはビルマ語で「ニョウヌンチェー」と印刷されています。「元気のない星」、「しょんぼりする星」という意味で、星とはもちろん子どもたちを指します。今は元気がなくとも、頑張れよという気持ちをこめてビルマ人の友人たちがつけてくれました。

キンマウンラッさんの娘さんふたりはしょげてもいないし、人見知りする様子もありませんでした。次々と話し掛ける大人たちには適当に返事してあしらいながら食べるほうに一生懸命でした。キンマウンラッさんとマリアさんは、笑顔いっぱいでみんなの席をまわり、「ありがとう!」、「おかげさまで」、「これからもどうぞよろしく」などと挨拶に余念がありませんでした。

座がなごんできました。「それにしてもキンマウンラッはいい男っぷりだよね」と誰かが言い出しました。山本宗輔さんがそれを受けて「あなたの顔はビルマ人に見えないよ。いやじゃなかったら教えて。どんな民族の血が入っているの?」とききました。キンマウンラッさん答えて曰く、「ぼくはメイミョウ(日本でいえば軽井沢のような上ビルマの有名な避暑地。イギリス人メイ少佐が開発したのでメイさんの町「メイミョウ」と呼ばれてきました。もちろん「国粋的」な軍人政権はメイミョウをやめてピンウールインと改名しました)出身なんです。父は中国系、母はインド系です」。「そうなんだ。だから色白でハンサムなんだ」とまわりの声。もうひとつの声。「子供たちはスゴイことになるね。ビルマ、中国、インド、フィリピンの血をうけついでいて、おまけに話す言葉は日本語なんだから」。

社長さん奮戦す!

盛り上がってきたパーティーでは、出席者がそれぞれ短い挨拶をしました。白眉は奥さんをともなって出席されていたキンマウンラッさんの勤める吉田運輸機興(運送業で従業員は20人ぐらいとのこと)の社長吉田勝彦さんの言葉でした。吉田さんは10月29日にキンマウンラッさんが「退去強制令取消し訴訟」の二審(東京高裁)で敗訴し、品川入管に収容された後、釈放を求める署名運動の先頭に立ちました。会社のある、そしてキンマウンラッさん一家が住んでいる大田区西六郷の住民たちによびかけて2万人を越える賛同署名を集めました。地元選出の国会議員(自民党)もこうした市民の意見を無視できず、キンマウンラッさん釈放のために働いてくれたとのことです。

人権活動家でもない吉田さんが一外国人従業員のために奔走したのは簡単な理由からです。「キンマウンラッがいないとうちの会社の仕事がうまく運ばないのですよ。居ないと困るんです。配達については任せていましたからね」。吉田さんはさらに、「税金を納め、年金もきちんと払っているじゃないですか。日本で母国民主化の運動に参加していますからビルマへ帰れば身に危険が及ぶ、帰れない。幼い子供たちもいる。当然、政府は日本に住めるように配慮すべきですよ」。

ぼくたち、言ってみればNGO活動者や研究者たちが、在日外国人労働者の問題に言及する時、彼らが居ないと日本の中小企業が困るんだといった物言いをしますが、やはり現場にいる、それも社長さんの口から出ると、同じ内容でも重みが違うと感じました。真面目な社員のために立ち上がった、きわめてわかりやすい社長の行動に多くの市民が共感を示しました。その動きが国会議員など要路の人たちにまで届き、法務大臣に再考を迫ったと言えるのかも知れません。とつとつと話される社長さんの挨拶をきいていてそんな気がしました。

もちろん仮放免で話がめでたし、めでたしにはなりません。少なくとも、社長さんが指摘し、多くの市民もそう思っているように、キンマウンラッさん一家に在留特別許可が出るまで、多くの人々の協力でもりあがった運動を力を弱めずにつづけたいと思います。仮放免の期限である1月16日(金)を注目しましょう。(結局、仮放免がさらに一ヶ月継続ということになりました。報酬のある仕事についてはいけないという条件はそのままです。1月19日加筆)

私たちはまだ「独立」していない

明けて2004年1月4日はビルマの独立記念日(ルッライエー・ネ)でした。1948年のこの日(正確には午前4時20分48秒)イギリス植民地だったビルマはビルマ連邦として独立を達成しました。1824-25年の第一次英緬戦争から始まったイギリスの侵略・支配、さらには1942-45年の日本支配時代(ジャパンキッ)を乗り越えて独立を果たしたのはアウンサン将軍をはじめとする国軍、政党、大衆団体がうって一丸となって粘り強く活動を展開したからだとビルマの人々は考えています。

今年の独立記念日は日曜日、アウンサン将軍の娘アウンサンスーチー書記長率いる国民民主連盟(NLD)を支援するNLD.LA(国民民主連盟解放地域)日本支部は、池袋の豊島区生活産業プラザ(エコトシマ)で記念式典を開催しました。集まったビルマ人はおよそ60~70人。これまで見かけなかった人たちも数多くいました。

新顔を含めて参加者の数が例年より多かったのは、おそらく2003年5月30日事件(ディペーイン虐殺)のせいでしょう。この襲撃事件では、多くのNLDメンバーが殺害され、アウンサンスーチー書記長は自宅軟禁、ティンウー副議長はどこかは分からないけれど刑務所暮らし、NLDは政党活動がまったく出来ない状態です。これを見たオーバーステイのビルマ人たちが、国に帰りたくない、帰れるような状況ではない、送還されないためには「反政府」活動に参加して、日本政府に難民認定を申請する道があると考えて運動に加わって来たという事情があるようです。

式典は国旗(1974年に廃止された旧ビルマ連邦国旗)への最敬礼で始まり、NLD党旗(赤地に黄色の星とたたかう孔雀をあしらった図柄)への最敬礼、中央の壁に写真が掲げられているアウンサン将軍をはじめ、独立闘争に命を捧げた人たち、さらにはその後の民主化闘争における犠牲者への黙祷と型どおりに進行しました。演壇にはNLD.LA日本支部議長タンズィンウー(彼は獄中のNLD副議長ティンウーの息子です)をはじめ、在日のビルマ人団体やシャン、カレン、モン、パラウンなど各民族の代表たちが次々に立ち、軍事政権の下、基本的人権を抑圧されているビルマの現状にふれ、独立記念日にあたって「第二の独立闘争」の勝利をめざしてたたかいぬくという決意を披瀝しました。

「第二の独立闘争」とは1988年の民主化運動のなかでアウンサンスーチーが使いはじめた表現です。軍事政権を倒し、独立の本来の目的であった民主的な国家を建設しようとする民主化運動はいわば第二の独立闘争であるという意味合いです。同時に独立というビルマ語には「自由」という意味もあるので「自分たちはいまだに自由ではない。自由をめざしてたたかおう」との気持ちもそれぞれの演説にはこもっていました。

帰るも地獄、居るも地獄

日本人のゲストは和田宗春東京都議会議員(民主党)とぼくだけ。和田さんは挨拶のなかで、昨年8月に軍事政権が提示した「民主化7段階ロードマップ」が国際社会に受け容れられつつある現状に触れ、アウンサンスーチーやNLDがこの民主化行程にどうかかわって行くのかが明らかでない以上、日本政府も、国民ももっと厳しい目で見ることが必要だと強調しました。和田さんの挨拶をビルマ語に通訳したあとに、ぼく自身が挨拶をしました。

ぼくは固い話は避け「帰るも地獄、居るも地獄」という日本語を説明しながら、在日のビルマ人への連帯のメッセージをおくりました。ビルマの情勢は厳しい、国民の支持を得ているNLDですら自由に活動ができない状況である、その母国へ帰ることはとてもできない、帰れば地獄が待っている。一方で、昨年後半以来、日本では「不法滞在外国人」の摘発が一段と厳しさを増している。滞在期限を超過しているビルマ人たちは明日にでも捕まるかも知れないという不安の中で暮らしている。捕まれば地獄である……。

そんななかでさえ、母国民主化の運動を続けるビルマ人たちに敬意を表したいと述べるとともに、日本の市民がこうしたビルマの状況、在日ビルマ人の置かれている現状をもっと理解を深め、たとえば、キンマウンラッ一家の件で社長さんが働いてくれたように、たくさんの市民の理解と応援を得て、もっとまともな難民認定を実現し、そこから、ビルマ軍事政権への日本政府の政策にまで影響を及ぼして行きたいと、56回ビルマ独立記念日にあたっての日本人の一人としての気持ちを話しました。

これがぼくの2004年のビルマにかかわる仕事始めでした。この拙文のタイトルは独立記念日式典でお会いした和田都議会議員の奥さんが日本経済新聞の文化欄を示しながら教えてくださった俳句です。高浜虚子の句で「去年今年」が季語になるそうです。深い意味はわかりませんが、なんとなく自分のやっていることを示しているようだし、自分も、ビルマの友人たちも、しっかりした思いを持ちつづけられればいいなあと思って借用しました。