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田辺寿夫(シュエバ)

「習い性」となっていませんか?
2003年12月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第35回(『恋するアジア』第42号)

どうすればいいのでしょうか?

10月19日、名古屋で開かれたある集会にシュエバは講師として呼ばれた。集会のタイトルは「ディペーインの虐殺~アウンサンスーチー暗殺未遂事件の真相」とつけられていた。2003年5月30日、ビルマ北部ザガイン管区ディペーイン附近で国民民主連盟(NLD)の一行が襲撃され、60人以上が殺された。アウンサンスーチー書記長やティンウー副議長をはじめ多くのNLD党員が拘束され、NLD本部・支部は閉鎖、政治活動を封じられた。襲撃された被害者のうち、何人かがその後タイへ逃れ、「事件は軍事政権がアウンサンスーチーの暗殺を企てたもの」などといった内容の証言を世界に向かって語りはじめた。その証言ビデオを在日のビルマ人たちが入手、日本語版を制作し、公開することになった。ビデオ上映にあわせて事件の背景とその後の経緯、とくに日本政府の反応や在日ビルマ人たちの行動についてシュエバが話すことになっていた。

出席者は60~70人、日本人とビルマ人の割合は半々ぐらいであった。日本初公開のビデオの上映が終わり、シュエバの出番となる。冒頭に、「ビルマのみなさん、すまないけど、今日は日本人の方もたくさんいらっしゃるので主に日本語で話します。日本語の勉強のつもりで聴いてください」と断って話しはじめた。それでも、ビルマ人たちとも直接議論をしたかったシュエバは、30分ほど話し合える時間が残るように講演をまとめた。

質疑応答になるとやはりビルマ人の手が多くあがった。5月30日事件以後の日本政府の対ビルマ政策についての質問や日本国民のビルマへの関心のありようについての真摯な質問がつづいた。シュエバは張り合いを感じてアーヤ・パーヤ(勢いよく。力強く)答えた。そんなシュエバが思わず激しい物言いになって切り返した質問は最後の方に出た。

「サヤー(先生)、今、ビルマ情勢は膠着状態におちいっています。軍事政権は弾圧を続けているし、民主化勢力は動けない状況です。どうすれば打開できるでしょうか、先生のお考えをおきかせください」

「それは貴方がたが考えることではありませんか。自分の国のことでしょう。他人に訊くまえにみんなで知恵を出し合ってください。みなさんの意見がまとまってこういうやり方がいいとなったら私たちは出来る限り応援しますよ。ともかくあなた方が主人公なんですからしっかりしてください!」

シーンとした会場に緊張が走る。シュエバはあわてて「とは言うものの、私も一緒に考えますよ。また話し合いましょう」と口調を和らげてしめくくった。閉会後、質問をした青年がシュエバのところへやって来た。名古屋の大学で勉強しているという真面目そうな留学生だった。シュエバは切り口上で答えたことを詫びた。彼はさして気にしていなかった。シュエバにしても彼についてなんの含むところもない。いらついたのは彼個人のせいではない。このところ何人ものビルマ人の口から出る「どうしたらいいでしょうか?」に食傷気味にだったからである。

エライ人がどうおもうでしょうか?

シュエバは「難民不認定取消し訴訟」の通訳をよくつとめる。難民認定を申請して不認定となったビルマ人が、法務大臣の決定は誤りであるとして裁判所に訴え、不認定処分とそれにともなう退去強制処分の取消しを求める行政訴訟である。原告はビルマ人本人、被告は日本国政府(法務大臣)となる。原告側代理人の弁護士からは、原告が迫害を受けることへの十分に根拠のある恐れがある故に難民に該当すると立証するために本人の話を引き出す主尋問、逆に被告側代理人である法務省付き検事からは、原告は難民にはあたらないとする主張を立証する目的で反対尋問が行なわれる。裁判官からの質問もある。法廷での原告・ビルマ人の受け答えは裁判の行方、ひいては本人の運命を大きく左右する。通訳も緊張する。しっかり答えてくれよなと心の中で念じつつシュエバは通訳にあたっている。

ところが、みんながみんなしっかり答えるわけではない。シュエバが身もだえしたくなるような答え方もある。そもそも主尋問なり、反対尋問なりを控えて、弁護士と打ち合わせる段階からはっきりしないビルマ人もいる。弁護士は、本人がこれまでに受けた難民審査官のインタビューや、在留期限超過についての「違反調査」の調書を見ながら聞き質す。こういう問答がよくある。

「君は反政府活動をしたために、捕まりそうになったから日本へ逃げてきたんだよね。でも、入管では、お金を稼ぐために日本へ来ましたって言ったことになってるよ。これどういうこと?」

「あの日は体調が悪くて、インタビューが早く終わってほしかったんです。それで、インタビューする人の気に入るように答えれば、早く帰れるだろうと思って、そう言ったんです」

体の具合が悪かったり、面倒くさいこともあるだろうが、ともかく相手の気に入るように答えたというのである。さらには弁護士とのこうしたやりとりのさなかに、シュエバの方を見て、「こんな答えだと弁護士先生が怒るかもしれない。どうすればいい?」と、小声で相談を持ちかける人もいる。ヒトの顔、とくに目上のヒトの顔色をうかがうのである。法廷を前にしても「どういうふうに言ったら裁判官は気に入ってくれるだろう」と真顔で訊いてくる原告もいる。「キミが当事者なんじゃないか。ほんとうのことを言えばいいんだよ」とシュエバが気色ばんでも、暖簾に腕押し、おかしいことを言っているとは少しも思っていないビルマ人がいる。

五つの徳を大切に

「アナンドー・アナンダ・ンガーバー」はビルマ人なら誰でも知っている。この世で敬うべき、あるいは冒すべからざる五つの大切なものを謂う。それは仏・法(釈迦の説いた教え。真理という意味にもなる)・僧(僧伽=サンガ=仏教教団を含む)・親・師(サヤー)の五つである。五つ目の「師」の範疇には、直接教えを受けた学校の先生だけではなく、つき合う範囲での年長者や目上の人も含む。この五つを敬うのは、それが決まりだから従うというより、幼児から少年、青年へと成長して行くに連れて自然と身につくものであるように感じられる。

日本で働くビルマ人たちが職場では上司の言うことをきちんときいて、真面目に仕事をするのは、この社会道徳のせいだろうとシュエバは思っていた。シュエバがしばしば司会をつとめるビルマ人同士の結婚披露宴で、招かれた居酒屋チェーンやラーメン屋さんの社長さん、店長さんたちは異口同音に自分の店で働く花嫁・花婿を誉めそやす。「よく働いてくれる。素直だし、真面目だ。店の人気者なんです」。さもありなんと、シュエバはちょっといい気分にひたっていた。

この説明が間違っているわけではないが、これだけでは足りないのではないかとシュエバが思い始めたのは、二、三年前だっただろうか。非正規滞在者(オーバーステイ)を含む在日外国人の医療に熱心に取り組んでいる横浜・港町診療所のY医師から在日ビルマ人を対象としたアンケート結果をきいた頃からである。ビルマ人たちが日本でストレスを感じる、昂じてノイローゼになったり、神経障害に見舞われるのは、仕事が厳しい、習慣が違う、言葉がわからないといった要因よりも、むしろ、「自分の意見をうまく言えない」、「君の意見は?と訊かれることが苦痛だ」などといった理由から起こるというのである。

このアンケート結果を見ると目上のヒトや年長者の言いつけに従う方が彼ら、彼女らにとっては楽だということになる。明確な指示がなかったり、自分で考えてなにかをする方がかえって苦手だというのだ。そう言えばとシュエバはいくつかの体験を思い出した。たとえば職場で仕事の進め方についてアンケートがあった時、あるビルマ人同僚は「ぼくらは言われた通り、決められたとおりに働くんだ。自分の意見なんて言ったことはない」と言ってアンケートの意見欄にはなにも書かなかった。在日のビルマ人団体から声明文の日本語訳を頼まれたシュエバが、文章のなかでアウンサンスーチーの名前が出てくるたびに「ノーベル平和賞受賞者」と振ってあるのがくどいので、それをとって翻訳したら、組織の上の人が決めたんだから、やはりつけてくれと言われて唖然とした経験もある。

マサラからチャンプンへ 

いま日本に住むビルマ人のほとんどが20歳代から40歳代、1960~80年代に生まれた人たちである。彼ら、彼女らが育ってきたのはどんな時代だったのだろうか。ビルマは1962年3月2日、当時の国軍参謀総長ネウィン大将がクーデターによって、ウー・ヌ首相から政権を奪って以来、軍事独裁政権が続いた。1988年の民主化闘争によって、それまで26年間のマサラ(ビルマ社会主義計画党=BSPP)の一党支配はピリオドを打ち、独裁者ネウィンは隠退したが、その後継者たちによる軍事政権(国家法秩序回復評議会=SLORC。のちに国家平和発展評議会=SPDC)の支配は今も続いている。1962年から世紀をまたいで今年2003年まで41年。その間、国家と国民が被った軍事独裁政権による悪弊をビルマ人たちは数えあげる。

政治、議会制民主主義は姿を消し、政治活動の自由、言論の自由などは極度に制限されてしまった。経済、それまで隣国タイよりもむしろ発展していた経済は停滞・悪化、疲弊し、いまやタイのはるか後塵を拝するばかりか、最貧国の一つに数えられるありさま。社会、ヤミや賄賂やアウサイ(本来の仕事以外のところから収入を得ること=英語アウトサイドのビルマ語訛り)が横行し、人々のアチンザエイター(行為、ふるまい。倫理的な意味で使うことが多い)も地に堕ちた……。

時代がいかに悪かろうと人々は日々生きて行かねばならない。首をすくめて嵐が去るのをひたすら待つ人もいたが、多くの人は「寄らば大樹の影」に走った。身を寄せる大樹とは単一政党マサラであり、現在は大衆組織を名乗るチャンプン(連邦団結発展協会=USDA)である。

マサラは政党であったから、チャンプンのように誰もが簡単には入れたわけではない。しかし、マサラ傘下には農民評議会や労働者評議会といった職能別御用団体があったから、そこから近づくことはできた。年齢別の官製団体もあった。青年を結集した「ランズィン・ルーゲー」、少年層を対象にした「シェザウン・ルーゲー」、子どもを対象にした「テーザ・ルーゲー」などがそれである。

権力に近づきたいから、こうした団体に入ったのだろうと言われたら憤激する人が多いだろう。政府、行政とつながった官製団体に入ることで教育・就職・出世・配給から近所づきあいに至るまで、さまざまな生活上の利便が得られ、政府当局からにらまれないですむからと入った人、入らざるを得なかった人が大勢いたに違いない。誰だって自分の身はかわいい。

マサラを頂点とするピラミッド体制のトップは1988年7月までマサラ議長をつとめたネウィン(2002年12月5日死去)である。ネウィンは日本軍による軍事訓練を受け、日本軍の指導のもとに結成したビルマ独立義勇軍(BIA)時代からの軍人である。上意下達、上官の命令は絶対であるとする軍と、その軍が支配する体制のなかでネウィンは「上御一人」であった。マサラをはじめとする各種官製団体はこの上御一人の意志をつぎつぎと下部へ伝達する形で運営された。その意志に沿う範囲でしか個人の意見は述べられない。異をとなえれば、職を失い、悪くすると逮捕・投獄されるなど、身を危うくする。これらは普通の人々にとって恐怖である。

学校教育の場でも、地域社会においても、末端から中枢にいたる行政の各段階においても同様である。そうした環境で人は人間らしく成長できるのだろうか。自分の考えを言えない、自分の考えとおりに行動できない体制のもとでは、やがて自分の考えを言わずにすますのが当たり前になり、ついには、上のヒトの言うとおりに従い、行動することをおかしいとも何とも思わなくなってしまうのではないだろうか。習い性となると言うではないか。

在日ビルマ人たちとつきあっていて、シュエバが時にいらいらする言動に出くわすのはここに一因があるように思える。長年にわたる軍人支配は政治・経済・社会などあらゆる分野に悪影響を与えた。加えて、人間の思考・行動までゆがめてしまうという恐ろしい結果をもたらしたのではとシュエバは今考えている。同時にアウンサンスーチーはビルマ民主化という大目標のために、こうした国民の「習い性」ともたたかっているのではとシュエバのおもいは飛んだ。

金子光晴はどっちだったの?

シュエバは昔アウンサンスーチーから厳しい質問を浴びせられ立往生したことがある。彼女が京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として日本に滞在していた時期だから1985年か86年だったろう。質問は、シュエバが1985年に発表した日本=ビルマ関係史に関する論稿で紹介した金子光晴の「ビルマ独立をうたふ」という詩にかかわっていた。こんな詩である。

アジアは一つの家族 いたいけな妹ビルマは

永らく別れて他人の家で つらい悲しい日を送った。

待ち焦れた晴れの日 独立の日がビルマにも来た。

燦たる孔雀の旗が 瑠璃の空を飛翔ける日が

この詩は1943(昭和18)年8月1日、日本が大東亜共栄圏のもとでビルマに「独立」を与えた時に発表された。いうでもなくこの独立は後のビルマの歴史書や教科書には「偽の独立」と書かれ、日本軍部が実権を握ったままでの名目的な「独立」であった。それを当時の金子光晴は「日本は兄、ビルマは妹」とする大東亜共栄圏思想をそのまま肯定し、褒め称えてうたったのである。シュエバはこの詩を引用し、「抵抗詩人とされる金子光晴の作であるだけに、さまざまな想いをこめて、当時の状況が読みとれるであろう」と書いた。

アウンサンスーチーはそのシュエバの拙い論稿を日本語で読んだというのである。そして初対面のシュエバにいきなり質問を投げかけた。

「あなたは金子光晴ですら、自分の意思でこういう詩を書く時代だったと言いたいのですか? それとも、抵抗詩人と言われた人ですら、自らの意思とは異なる体制迎合的な詩を書くことで生活の糧を得なければならない時代だったと言いたいのですか?」

さあ困った、金子光晴について研究をしたこともなく、日本文学史についての知識も持ち合わせていないシュエバは「うーん、どちらともとれますね」などと無責任につぶやいて、「あなたの考えをきいているのよ。どっちなの?」とアウンサンスーチーからとっちめられた。鋭いなあ、それにずいぶんキツイ人だなあとその時シュエバはたじたじとなり、「勉強しておきますよ。今度会ったときにゆっくり話し合いましょう」と逃げを打ったのだった。

みなさん、自分の考えで動いてください

2003年5月30日の「ディペーイン事件」で軍事政権によって拘束されたアウンサンスーチーは、9月末にはヤンゴンの病院に入院、婦人科の疾患についてとされる手術は無事に終え、自宅に戻ったが、またしても自宅軟禁が科せられている。今、彼女の肉声は聞こえてこない。彼女が書記長をつとめるNLD(国民民主連盟)もその活動を封じられている。

ビルマ国営メディアを通じて聞こえてくるのは、もうおなじみになったチャンプン発の「国民の声」である。それも8月末にSPDC第一書記から首相に就任したキンニュン大将が発表した「七段階の民主化計画」を断固支持するぞという大合唱である。ちなみに、NLDが既に見限っている新憲法草案審議のための国民会議再開に始まるこのプログラムに実効性はないとほとんどの人が見なしている。その声を、シュエバはこれまで国民が「ムリムリ言わされている」としか受け取っていなかった。今はしかし、なかには「習い性」となり、「お上の言うとおりに行動することに疑問を持っていない人」もいるのではと思うようになっている。

2002年5月に二度目の自宅軟禁から解放されて以来、アウンサンスーチーは軍事政権の厳しい制限のなかで、精力的にビルマ各地をまわった。この旅行は地方遊説と報道されるが、実際は各州・管区のNLD事務所を訪れ、組織活動について話し合った程度である。それでも、彼女の動向は口コミで流れ、行く先々に群衆の姿があった。各地のNLD事務所の前で「ドー・アウンサンスーチー・テットー・ヤージョー・シェーバーゼー(アウンサンスーチーさん万歳! 直訳すると、100歳を越えて生きられますように)」と歓呼の声をあげる人々に向かって彼女が演説することもあった。

そんな時、彼女は、自分とNLDへの変わらぬ支援への感謝の言葉に続いて、国民の支持にこたえてたたかう決意を述べ、集まった人たちが、それぞれに不正・不合理に対して毅然として立ち上がることをうながし、それがみんなが望む民主化への道であると説くのが常だった。5月30日事件の直前には、彼女は不正・不合理の例としてチャンプンの妨害を指摘している。チャンプンは当局のお目こぼしのもとで、明らかにNLD潰しを企てていると看破していた。軍事政権に操られたチャンプンのNLD潰しの企てが事実であったことは5月30日事件が証明している。

地方を巡っている時にも、ヤンゴンの病院を退院する時にも、多くの国民が危険を冒してアウンサンスーチーを励ました。勇気をもって自分の意思を明らかにした人たちである。アウンサンスーチーにとっても、NLDにとっても心強い支援である。この人たちは「習い性」におちいらなかった人たち、あるいは克服した人たちであろう。1990年の総選挙では、圧倒的多数の国民がNLDを支持したのだから、ほとんどの人がこの範疇に入っていいはずである。ところが現実にはチャンプンに属して軍事政権から命じられた通りの声をあげる国民もいる。「習い性」は、そういうポーズをとっている人たちを含めてまだまだ蔓延していると言わねばなるまい。

かつてアウンサンスーチーは金子光晴に関してシュエバを鋭く問い詰めた。金子光晴はなんの疑問もなく大東亜共栄圏翼賛の詩を書いたのか、それとも、そのふりをせざるを得ず書いたのかと。「習い性」となっていたのか、「習い性」を装ったのかと。今、アウンサンスーチーのその問いかけはビルマの国民に向けられている。民主主義と自由を求めるたたかいについて、アウンサンスーチーは『恐怖からの自由』(アウンサンスーチー『自由』集英社1991所収)のなかでこう述べている。

……自由な人間とは試練を受けながら、自由な社会を維持する責任を負い、規律を守れるよう、自らを変えていこうとする人々のことです。(中略)民主制度に基づいて権力が行使される国家を築こうとする国民は、まず自らの心を無気力と恐怖から解放しなければならないのです……

金子光晴については、的確に答えられなかったけれども、軍事独裁政権時代に培われた国民の「習い性」を克服・根絶し、民主主義建設に向かうために何をなすべきかを考え、行動するアウンサンスーチーに、シュエバははるか日本からエールを贈りたい気持ちになっている。