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田辺寿夫(シュエバ)

一目見てから好きになり……
2003年6月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第33回(『恋するアジア』第40号)

おじさん、小説読みなよ!

ここ二、三ヶ月の間にシュエバはビルマの小説をつづけさまに七、八冊読んだ。短編集(ウットゥトゥ・バウンジョウ)もあれば長編(ロンジン・ウットゥ)もあった。ほとんどが恋愛小説である。こんなことは今までになかった。ビルマ語とつき合うようになって四十年以上たつが、その間にシュエバが読んだ小説など数が知れている。それも翻訳のためとか、何かの資料として引用するためにどうしても必要だからとやむを得ず読んだものがほとんどである。

もともと文学は専門外である。ごくたまにのんびり時間を過ごしたい時に小説でも読もうかと思うこともあったが、実は小説は読むのはたいへん難しい。新聞のニュースや論説に比べて、文章がワンパターンでない分、想像力で補わなければならない。新語や俗語(バンザガー)もいっぱい出てくる。普段馴染みのない動物・植物・食べ物など知らない単語が頻出する。比喩や諺・格言の類も散りばめられている。そうなると辞書を引かなければ読み進めない。結局、小説を読むのは手間ひまがかかり、かえって頭が疲れるからと敬遠することになる。

そんなシュエバが突然人が変わったように小説を読み始めたのは、Kがたくさんの本を紙袋に詰め込んで次々にシュエバの職場に持ち込んできたからである。Kのことをシュエバは以前に「恋するアジア」誌上で紹介したことがある。東京・板橋にある在日ビルマ人たちの「アハーラ図書館」の運営と文芸誌の体裁をとっている機関誌「アハーラ」の編集、発行に携わっている読書好きな若者である。母国民主化をめざす活動者の一人ではあるが、難民認定申請は蹴られ、在留特別許可ももらえないで、「滞在資格なし」の仮放免の身分で辛うじて日本に住んでいる。居酒屋の厨房で働いて生計を立てている。

Kはいま日本語能力検定一級試験をめざして日本語の勉強をしている。だから日本語がかなり読める。「恋するアジア」に掲載されたエッセイのなかで、シュエバが「自分にとって息子のような存在」と紹介したのが気に入ったとみえて、ビルマ人社会で「オレはウー・シュエバの息子だ」と吹いているらしい。もちろん、シュエバの息子だからどうだ、こうだと言うわけではない。冗談、洒落の類であろうが、まあシュエバとしても悪い気はしない。またそのエッセイの中でシュエバがKの持ってきた小説を面白がって読むくだりがある。「そうか、ウー(おじさん)も小説をちゃんと読むんだ」とKは気を良くしたのだろう、その後シュエバの職場へ頻繁に読み物を届けるようになった。それもシュエバの職場の日本人、ビルマ人の同僚たちに「コンニチワ。ぼくウー・シュエバの息子です」と愛嬌を振りまいてあらわれる。今や顔パス状態である。

愛の芽生えは電光石火

というわけでシュエバはビルマの小説にはまった。なかでもこれまで馬鹿にしていた恋愛小説にすっぽりはまった。読み進むスピードは格段に速くなった。無論、文学界や作家の状況を知ったうえで選択して読むわけではない。だから、自分の読んだ小説やその作者が現在のビルマでどんな評価を受けているのか、若者に好まれているのか、熟年層に読まれているのかなどはまったく分からない。ようするに文学研究者ではなく、気楽な読者として手当たり次第に読んでいてすっかり面白くなってしまったのである。

小説のほとんどは恋愛・男女関係・結婚・家庭生活がストーリー展開の主要な柱になっている。単行本であれ、雑誌であれ、最初のページに必ずSPDC(国家平和発展評議会=軍事政権の最高権力機関。ビルマ語略称はナアパ)のスローガンが刷り込まれていることからもわかるように、ビルマの言論・出版統制はきわめて厳しい。表現の自由はないと言ってよい。政権批判などもってのほかである。小説といえど検閲をくぐり抜けなければならない。そうした国の現状を反映しているのか、時代の風潮や社会問題を正面から取り上げたものは見当たらない。しかし、作家たちはそれなりに工夫を凝らしているのだろう。そのあたりはそこはかとなく想像をめぐらせて読み取ることになる。

軍事政権の支配下だからといって、男と女がいる以上恋愛がなくなるわけではない。時代を問わず、場所を問わず、恋愛はやはり小説にとっては描き甲斐のある重要なファクターであり、作家の腕の見せどころでもある。

何冊か恋愛小説を読んでいてシュエバは一つの傾向に気がついた。ビルマの小説には、愛はある時突然人の心のなかに電撃のようにきざして、一旦火がつくと、それはもう、その時点から永久不変・至高の愛に昇華してしまうパターンが多いことである。そうしたストーリーを人間の純粋さへの賛歌ととるか、大甘デレデレのメロドラマとうけとるかは、これは読み人次第なのだろうが。

愛の勇者たち

読んだ本のうちの一冊にマウンターチーという作家の「チットゥ・トゥイエガウンミャー(勇気ある恋人たち)」があった。二〇〇二年に出版されている。この小説はまさに「電撃的且つ至高・永劫の愛」を高らかに謳いあげていた。あらすじは次のようなものである。

……資産家の母一人、子一人の家庭で何不自由なく育った若者テッアウンはある日街で一人の女性を見初める。ウェーというこの女性を一目見た瞬間に彼女以外に自分の妻になる女性はいないと思いつめる。それからはおずおずと彼女をつけまわす。(ビルマでは未婚女性の男つきあいは品位を落とすもの、恥ずべきものとされるから、あからさまにストーカーまがいのことはできない。このあたりの描写はほほえましい)ところが母はテッアウンをやはり裕福な隣家の娘タラピーと結婚させようとする。テッアウンはタラピーについては、彼女を想っている友人トゥンニョウに話をとおし、二人を駆け落ちさせる。そして母と大喧嘩になる。その後テッアウンの消息は途絶える。実はウェーの方もまだ会話を交わしたことがないもののテッアウンのことは気にはなっていた。憎からずおもっていたのだ。しかし彼女の方から連絡をとるすべはなかった。そのまま一気に数年の歳月が経過する。この間、こつこつと小説をかきつづけたウェーは徐々に頭角をあらわし、いまや著名な女流作家として名を知られるまでになっていた。そこへ突然、出版社を経営している若手実業家としてテッアウンが再登場する。人前から姿を消していたのは大怪我をして失明の危険すらあるような容態になり、人知れず治療に専念していたからと説明される。作家と出版人は同業者である。やがて二人は再会する。わだかまりは氷解。愛はなによりも強し。めでたし、めでたし……・。

よくあるストーリーである。波風が立ちながらもハッピーエンドとなるという典型的なパターンでもある。それでもシュエバは面白く読んだ。うまくいってよかったな、若者同士の恋とはこういうものなんだと読み終わって一人にこにこした。気になったのは二人の出会いの描写である。Kとはこんな会話をした。

「いくらなんでも、名前も知らない、話をしたこともない、初めて会った女性を、一目見た途端に妻にするぞって決めるなんて行き過ぎなんじゃないの? 俺には考えられないなあ」

「ウー、それが男と女の愛というものなんだよ。理屈じゃないんだ。ビルマじゃ普通だよ」

恋愛経験などほとんど無いにひとしいシュエバはなにも言い返せなかった。ここはひとつ恋愛についても現役の「息子」の顔を立てて、まあそういうものかと思うことにした。

愛の破局

そのKの身に一大事が起こった。何ヶ月か一緒に暮らしていた女性が去ってしまったというのだ。Kは電話をしてきて、うろたえながら涙声でその経緯をくわしく話した。その女性もシュエバの知り合いである。直接訊いてはいないが、彼女の側にも事情はあり、言い分もあるだろう。Kとその女性のプライバシーにかかわることだからここではこれ以上事情の説明はできない。

それから二週間ぐらいのあいだ、Kは見るからに憔悴して落ち込んた。シュエバの職場にやって来ても、いつものように、顔なじみになった人たちがいるフロアまでやって来ないこともあった。受付からの電話でシュエバが玄関まで下りて行くと、そこに立っているのさえ辛そうなKがいた。酒の匂いがする。悲しくて、辛くて、人生に絶望して死んでしまおうかと包丁を手にしたりしながら、一晩中酒を飲みつづけたという。

「オレ、あの娘がほんとに好きなんだ。なんでも彼女のいうとおりにしようとしたんだ。彼女のためならどんなことでもするつもりだったんだ。オレのことなんかどうでもいい。彼女を幸せにしたかったんだ。ウー、おれ、これからどうしたらいいだろう?」

玄関前のコンクリートの床に座り込んで、搾り出すように話すK。並んで座ったシュエバは慰めようもなかった。ホームレスさながらに地べたに座り込んで、酒の匂いをさせながら話している二人を、たくさんの人たちが、なんだこいつらというような視線を向けて通り過ぎて行った。

シュエバは話をきくだけだった。時々、「早まるなよ。おまえは国のために働くんだろう」とか「いろいろ起こるのが人生なんだから」などと月並みな言葉をかけて肩を叩いた。それでなくとも日本でさまざまな苦労をしているKである。それに、愛については純粋な、無償の、至高の愛を信じている純情な青年Kである。「耐えるんだぞ」というよりなかった。

狭く、噂話の好きな在日のビルマ人社会でもこの話は広がったらしい。「かわいそうになあ」という同情がある一方で、「だから言わないこっちゃない。自業自得だ」というからかいもあっただろう。いずれにせよ、Kの体面、誇りは大いに傷ついたに違いない。少なくとも本人は傷ついたと思ってしまっただろう。弱り目に祟り目である。Kの父親を自認するシュエバにはせいぜい、心当たりのビルマ人やビルマ料理店に電話して、落ち込んでいるKを、これ以上傷つけないように見守ってくれよと頼み込むことぐらいしかできなかった。

ウーの本が出たぞ!

Kは落ち込んでいるときにもシュエバの元へ本を持って来るのはやめなかった。紙袋に詰め込まれた本の冊数はむしろ増えた。「オレは人生に希望をなくした、本を読む気もない、もう本なんか必要ないんだ、みんなウーにあげるよ」というのである。しきりに自分の受けた心の傷を強調する。でも自分の立場をそんなふうに口に出して言えるのは快復の兆しであったのだろう。だんだん元気が戻ってきた。

父親を自負するシュエバもKの立ち直りにいくばくかの貢献をした。シュエバが、東京外国語大学助教授でビルマ現代史の研究者である根本敬さんと一緒に執筆した角川新書『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』が五月になって出版された。そのなかでシュエバは在日ビルマ人たちの行動とおもいを書くことを受け持った。「恋するアジア」に掲載されたエッセイもKの登場するアハーラ図書館についてのものを含めて何本かがその本に収録された。Kは喜んだ。

「ウー、アハーラの機関誌で本のこと宣伝するから、ビルマ語でお知らせを書いてよ」

「だって、アハーラの読者はビルマ人じゃないか。日本語の本は読めないだろう」

「違うよ。読めなくたって、知り合いの日本人に紹介できるじゃないか」

シュエバはビルマ語で本の紹介を書いた。Kは来週の雑誌に載せる、ページの空きがなくても、ほかの記事をボツにしてでもオレが突っ込むからと張り切って紹介文を持って帰った。実際、その週の「アハーラ」には『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』出版のお知らせが掲載された。シュエバが書いたものよりきれいなビルマ語になっていた。きくところによると、Kはシュエバの原稿を持ち帰った日、高田馬場のビルマ居酒屋「ルビー」に立ち寄り、「ウー・シュエバの原稿、オレがちょっと手を入れてやらなきゃなあ」と言いながらとくとくとペンを走らせていたという。

本が書店に並んだのは五月十日、土曜日だった。その日の朝十時に場外馬券の売り場に居たシュエバの携帯が鳴った。

「ウー、本、出た?」

「ああ、気にかけてくれてありがとう。出たよ」

「じゃ、オレ、買いに行くからね。どこの本屋がいい?」

「買わなくっていいって。月曜日に職場においで。ちゃんとプレゼントするからさ」

月曜日、Kはシュエバのところへやって来た。シュエバはKの目の前で献辞を書き添えてから本を渡した。

「Kへ/日本語をしっかり勉強して、この本を読んでください。感謝をこめて/シュエバ」

付記 読者のみなさん、ありがとう

そんなわけで「恋するアジア」に連載してもらっているこのエッセイのうちの何本かが上記『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川書店)に収録されています。編集発行人春田実さんのご好意で、好き放題、自由気ままに書く場を与えていただいたことに心から感謝しています。読んでくださるみなさんにもありがとうございますとご挨拶させていただきます。これからもどうぞよろしく。