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田辺寿夫(シュエバ)

ビルマと日本のはざまで~還暦・シュエバは思い出ムード~
2003年3月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第32回(『恋するアジア』第39号)

バーモ長官はどうしましたか?

二〇〇三年二月から三月にかけての毎土曜日、五回にわたってシュエバは川崎市幸区市民館で開かれた「ビルマ(ミャンマー)を知ろう」という成人学校連続講座のコーディネーターをつとめた。朝十時から正午までの二時間、集まってくる男女半々、四十代から八十代ぐらいの三十人ばかりの人々にビルマの話をするのがシュエバの仕事だった。こういう催しに参加するのは、とくにビルマに関心はなくとも、暇があるから行ってみようかという人たちなのだろうと、はじめシュエバは軽く考えていた。ところがそうではなかった。

大学の非常勤講師の経験もあるシュエバからすると、要領の良さだけで単位をとろうとするいまどきの若者に比べて、この成人学校の受講生たちの熱心さは際立って見えた。頭が下がった。みんな一生懸命、一言もききもらすまいと耳を傾け、ノートをとってくれる。ホワイトボードにほんの戯れで書いたビルマ文字ですら、ここはビルマ語のクラスじゃないのだからと、すぐ消そうとすると、「先生、待ってください。いま書き取っているんです」と声がかかる。

話の内容は多岐にわたった。ビルマという国のありよう、地理・歴史・文化・政治・経済、日本とのかかわり、在日のビルマ人たちの様子などなど。川崎市在住のビルマ人女性ヘーマーウィンさんは日本での経験をふまえてビルマとの衣食住・生活習慣の違いを上手に話してくれた。高田馬場のビルマ料理店「ナガニ」の看板娘テーテーイースエさんは受講生と一緒にビルマ料理を作ったり、民族衣装を着てみようといった企画を手伝ってくれた。

教室は和室である。いつも一番前で座卓に寄りかかり、足が少し悪いので断って、膝を崩して座るおばあさんがいた。昭和一桁世代だという。映画『ビルマの竪琴』の話をしていてシュエバははたと気がついた。市川崑監督がおよそ二十年ほどの間隔をおいて二回にわたって作った『ビルマの竪琴』には、一人だけ二度とも同じ役で出演した俳優がいる。収容所の日本兵たちの所へ毎日のようにやってきては「おいしいバナナあるよ。コウカン(交換)、コウカン!」と叫ぶ物売り役を演じた北林谷栄である。最前列のおばあさんはその北林谷栄をほうふつとさせる。

そのおばあさんの口から意外な質問が飛び出した。

「昔、バーモ長官という人の写真を見たことがあります。その人、戦後はどうしたんでしょうか?」

シュエバは一瞬耳を疑った。この市井のおばあさんがバーモ長官を知っているなんて。バーモはいまバモオと表記するのが普通だが、かつては日本の新聞などにはバーモ長官として登場した。日本がビルマを占領していた時代、一九四三年八月にビルマに「独立」(ビルマの歴史教科書には偽の独立と書かれている。実権は日本軍が握っていて、いわば名目上の独立であった)を供与した時のビルマの首相(彼自身はアディパティ=総統あるいは大統領と名乗った)である。

一九四三(昭和十八)年十一月、東京で日本と親密な関係にあるアジア諸国(当時は枢軸国と呼んだ)の首脳が集まって大東亜共栄圏の発展を強調する大東亜会議が開催された時、バーモ長官も来日した。アルメニア系の血が入っていると言われるバーモは眼光鋭く、秀でた鼻梁を持つ偉丈夫であり、弁護士出身の雄弁家として知られていた。おまけにかなりのスタイリストで、カラフルな、ビルマの中でも一風変わった民族衣装に身を包むことが多かったから、カメラ写りも良かった。

この会議で最も注目を集めたのは、やはり雄弁家で、その演説は「獅子吼」と称された自由インド政府代表のチャンドラ・ボースだったが、バーモ長官もそれなりに日本のメディアを賑わせたのだろう。当時十歳ぐらいだった日本女性の記憶に残るほどに。おばあさんの記憶力を称えてからシュエバは説明を加えた。

「日本の敗戦とともに彼は日本へ逃げてきましてね。一時、新潟県の田舎のお寺に隠れ住んでいたんです。

その後、ビルマへ帰りましたが、戦後はずっと不遇だったようです。もうだいぶ前に亡くなりました」

バーモ長官が日本へやって来た一九四三年という年はシュエバが生まれた年である。もちろんまだもの心はついていない。しかし、古い話をしながらシュエバは「思い出ムード」とでもいうべき心境におちいって行った。シュエバの話の切れ目に、今日は所用があるからここで失礼をしたい、その前に一言感想を言いたいと前置きして発言した受講生のおじいさんの言葉がさらに思い出ムードをかきたてた。

上等兵のおもい

「さっき先生はビルマ戦線のことを話された。日本軍の負け戦になって、日本兵たちは算を乱してタイ国境をめざして逃れた。その時はすでにビルマの国軍は日本軍への叛乱を開始していた。ビルマ人から見て敵になった日本兵たちに対して、ビルマの村人たちは、一夜の宿に軒を貸してくれた、塩や食べ物も差し出してくれた、そのことに感謝し、今も忘れていない元日本兵はたくさんいる、というふうに話をされました。

実は私もビルマでたたかった元日本兵です。まさに先生が話されたとおりの経験をしました。忘れられません。私が今生きているのはあのビルマの村人たちのおかげです。彼らは恩人です。皆さんに私自身のおもいもきいてもらいたかったのでお話しました。この講座に来てよかったです。ほんとうにありがとうございました……」

おじいさんは訥々と語りかけた。会場はシーンとした。シュエバがなにやかや説明口調で解説するよりも、体験者の一言の方がはるかにインパクトは強い。

しかし実はこの日本兵たちはビルマの教科書では「ファシスト日本兵」と書かれている。日本軍は一九四二年から四五年にかけてほぼ三年にわたってビルマを支配した。この間、ビルマの国民は塗炭の苦しみを味わったと歴史の教科書には書かれている。ビンタをとる(相手の頬っぺたを手の甲と掌で折り返し殴ることを往復ビンタという)、家畜や食糧は無理やり奪って行く、兵補や労務者として引っ張られ、命を落とした人は少なくない……教科書の記述は必ずしも長くなく、詳細にわたってもいないが、日本兵の悪行の数々が行間からもにじみ出てくる。教科書にかぎらず一般の歴史書や小説のなかにもそんな話は数限りなく描かれている。

一方で、戦地ビルマをなつかしみ、ビルマの人たちを恩人だといまも感謝している元日本兵たちがいる。シュエバの身のまわりにも、かつての駐屯した土地に学校を建てたり、井戸を掘ったりといったボランティア活動に励む元日本兵グループがいくつかある。毎年、一人でビルマの村を訪れ、子どもたちに学用品をプレゼントしている元兵士も良く知っている。この人はそのために毎週、神田で在日ビルマ人のチェリー・マラートゥインさんが開いている「チェリー・ビルマ語教室」に通ってビルマ語を勉強している。そうした心のこもった奉仕活動がビルマの人たちから感謝されていることもまた事実である。

かつて、ビルマの歴史を学び始めた頃シュエバは、ビルマの歴史教科書のなかで、日本軍がファシストと書かれていることを金科玉条にして、ビルマにおもいを残す旧日本兵たちに、「あなたがたは憎まれているのですよ。侵略したことを反省しなければいけませんよ」と説教じみた口調で話したことが何度もある。歴史の事実は変わらないし、言ったことは誤りではないものの、ちょっと言いすぎだったかも知れない、ビルマ戦線経験者たちの気持ちをもっと理解しなけばいけなかったかなと、いまシュエバは思っている。若気の至りだったのかも。

シュエバの脳裏にはこの頃よく父親の顔が浮かんでくる。シュエバの父は、成人学校で発言したおじいさんと同じビルマ戦線経験者だった。ビルマ戦線に派遣された日本軍部隊のなかで、もっとも弱かったとされ、「またも負けたか安部隊」とからかわれる第五十三師団(通称名「安」)の上等兵だった。ビルマ戦線ではしょっちゅう体を壊し、野戦病院ばかりめぐっていた極めつけの弱兵だったと父みずからシュエバに話していた。戦闘についてはほとんど語らなかったが、イラワジ河はすごかったぞとか、アマラプーラ(マンダレーのすぐ南にある僧院の多い町)の看護婦さんはやさしかったなあなどとつぶやくように思い出を話してくれることもあった。

シュエバが大学でビルマ語を学ぶことになったきっかけのひとつは、そんな父がいたことである。ビルマ語なんかやってどうするのという世間の声が多い中で、父はたいへん喜んでくれた。それはシュエバにとって大きな励みだった。大学を卒業して、放送局でビルマ語の番組を作る仕事に就いたときも、父は喜色満面、戦友仲間に自慢しまくったらしい。その父は多分戦争中の無理がたたったのだろう、一九六八年に五七歳でこの世を去った。シュエバが孝養を尽くすほど父は長生きをしてくれなかった。せめてビルマについての本を一冊でも上梓するまで生きていてほしかったのに。たった一つの親孝行、それはビルマ語を学び、ビルマにかかわる仕事をつづけていることだとシュエバはいまあらためて感じている。背中に父を感じている。

戦争は昔話となった。父が亡くなってからでさえずいぶん歳月が流れた。父の戦友の一人から届いた今年の年賀状には、「みんなとしをとりました。人数も減りました。もう集まれません。戦友会はほとんど自然消滅・解散となりました」とあった。父と同い年(一九十一年生まれ)だったビルマの元独裁者ネウィンも昨年十二月にこの世を去った。そして元上等兵の息子シュエバは還暦を迎えた。

赤いちゃんちゃんこ

シュエバの誕生日は二月十六日、今年は日曜日にかちあった。なんと北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日)と同じだから、みんなに覚えてもらうには都合はいいが、そのために「首領さま」などとからかわれる羽目にもなる。誕生日は毎年めぐってくる。しかし今年は人生そのものはささやかであるにせよ、シュエバにとっては、ある意味で節目である。還暦でもあり、職場では定年退職を迎えることにもなる。

いままで誕生日に会を開いたりしたことはないが、今年はなにかやりたいなあとシュエバは昨年の暮れあたりから思っていた。それをきいたビルマ人の友人のなかには、在日ビルマ人団体にも呼びかけて、ビルマの歌や踊りもまじえた一大イベントとして「シュエバ還暦を祝う会」を開こうという話が出てきた。これはさすがにシュエバが固辞した。それほどの大物ではないから勘弁してほしいと。

結局、シュエバの職場・放送局の仲間たちがささやかに祝ってくれることになった。これは断る理由がない。落ちつくところへ落ちついた。場所はもちろん高田馬場のビルマ料理店、開店の頃からシュエバ馴染みの「ナガニ」。シュエバとは長年のつきあいのある畏友・フォトジャーナリスト山本宗補が命がけで撮った(彼はアウンサンスーチーやティンウーとインタビューした直後に拘束され、国外退去処分にあったことがある)アウンサンスーチーのすばらしい写真が壁を飾っている。ピンニータイポン(国産木綿の肌色の上着)とカチン・ロンジーという国民民主連盟の男性の制服化した民族衣装も壁にかけてある。民主化活動家たちの溜まり場でもある。

ビルマ語番組を一緒に作っている、あるいはかつてそうだった人たちおよそ二十人の集まりである。だから日本人であっても、ほとんどの人がビルマ語も話せる。ビルマ語と日本語が飛び交ういい雰囲気である。店の人たちもみな知り合い、みんな仲間である。店主ニュンスエは「俺は還暦まであと九年もあるぞ」と威張っている。看板娘テーテーイースエはシュエバを「パパ(ビルマ語ではババ。お父さん)」ともちあげながら、普段以上に客たちの面倒をみてくれている。費用はビルマ風にシュエバが全部持つというところまでは行かなかったが、かなりの部分をシュエバが負担した。

パーティーが始まったのは午後四時頃、なにしろ放送局の仲間たちの宴だから芸が細かい。自分たちも楽しむつもりの企画が盛りだくさんに用意されている。シュエバは赤いちゃんちゃんこを着せられたり、ケーキのうえの六本のろうそくを吹き消したりで大童だった。若いスタッフたちの合作だという「チエズーティンバーデー(ありがとう)ウー・シュエバ」の大合唱もあった。恥ずかしくてたまらないはずだが、その日は朝からビールの入っていたシュエバは愛想よく、大声で「俺もこの歳になって、急にもてるようになったぜ。うれしいな」と本気で喜んでいた。

ガドオ・バヤーゼ

シュエバがビルマがらみの活動でよく一緒になる「ビルマ市民フォーラム」などのNGOの人たちも何人か駆けつけてきてくれた。ビルマ人たちもやって来た。シュエバは職場の人たちの集まりだから、ビルマ人たちがたくさんくると収拾がつかなくなると思い、とくに声はかけていなかった。それでも来てくれるビルマ人はいた。

MさんとKさんのご夫婦もそうだった。実は当日の朝、シュエバの携帯電話にこのMさんから「お誕生日おめでとうございます」とのビルマ語のメッセージが入っていた。メッセージが吹き込まれた時間を見ると朝七時だった。そのMさんが去年結婚したご主人Kさんとともに「ナガニ」に顔を見せた。メッセージを聞いた時にシュエバは、このMさんにどこで会ったのか、思い出せなかった。ご主人と一緒のところを見て記憶がよみがえった。昨年の七月に中野サンプラザで結婚披露宴をしたカップルである。シュエバはその披露宴の司会をしたのだった。

「どうもありがとう。メッセージ、朝の七時に送ってくださったんですね」

「ええ。アンケー(おじさん)に朝一番におめでとうの気持ちを伝えたかったので」

ご夫妻はニコニコしている。お祝いだという紙袋をシュエバに渡してくれた。そして二人そろって言う。

「ウー・シュエバ、いつもありがとう。ガドオ・バヤーゼ(ガドオをさせてください)」

シュエバは一瞬とまどった。ガドオというの両親や恩師の前に膝まづいて拝むことをいう。例えばビルマの卒業式では、みんなが恩師にガドオする。嫁ぐ娘の両親との別れにもつきものでもある。ビルマではあたりまえの儀式である。シュエバ自身、何度か恩師や世話になった人たちにガドオしたことはある。しかし、場所がレストランである。しかも、大勢の人たちの前である。床は汚れているし、受ける方も慣れていない。はずかしい。それでもシュエバは喜んでガドオをうけることにした。彼らのせっかくの気持ちを無にしたくはないから。

いそいそと膝まづいて、祈拝をはじめる二人。シュエバは椅子に座って姿勢をただした。そして礼を受けながら言葉をかける。

「チャンジャンマーマー・シーバーゼー(元気でいるんだよ)」

「ピョーピョーシュインシュイン・ネーナインバーゼー(幸せに暮らせますように)」

「アミナインガン・ニェインジャンターヤーナインバーゼー(祖国が平和になりますように)」

さまになっていたかどうかはわからない。とくに最後の言葉は二人が民主化活動家だから付け加えたのだが、ガドオを受けるときにふさわしいかどうか自信はない。ともかく立ち上がった二人は満足した笑みを向けてくれた。

やりなれないことをしたせいか、責任を果たしてほっとしたせいか、はずかしくてビールをあおったせいか、シュエバは急速に酩酊した。そのあとシュエバの記憶は定かではない。当たるをさいわい、「ありがとう」を連発していた。「頑張れよ!」「しっかりやれよ!」とわめきつつシュエバはみんなの肩を叩いてまわっていた。