田辺寿夫(シュエバ)

週末には人生がある
2002年12月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第31回(『恋するアジア』第38号)

人当たり

秋たけなわ、食は進むし、行事が多い。日本の仲秋の名月のちょうど一月後の満月(今年は10月21日)がビルマではダディンジュッ月の満月で、雨季明けを祝う日である。在日のビルマ人たちはすでに10月6日に都内飛鳥山公園でダディンジュッ祭りを開催した。その次のダザウンモウン月の満月(11月19日)にはダザウンダインの祭りがある。いずれも本来は美しいイルミネーションで飾られたパゴダへおまいりする日で灯明祭りとも云われる。

さて、食当たりという言葉はあるが、人当たりという言葉はあるのだろうか? 人あたりがいい、人あたりが悪いという人づきあいについての表現ではない。多くの人に会って、さまざまな話をして、時には緊張し、時にはそれなりに気を遣って、挙句の果てにくたびれてしまうという現象である。このところ、週末になるとやたら多くのビルマ人に会う。それでなくとも月曜日は出勤がいやになるようなブルーな気持ちに襲われるのがサラリーマンの常である。加えて、土曜日、日曜日にあまりにも大勢のビルマ人たちと会った後となると、良くも悪くもその余韻が残っていて、仕事に向かう気持ちが湧いてこないことがしばしばある。

余韻だけならいいのだが、会って話をしたビルマ人のなかには、頼みごとや相談を持ちかける人が少なくない。それが後を引く。頼まれたことはなるべく果たしたい。そのために翻訳する時もあれば、弁護士や役所の人、あるいは知り合いのNGOメンバーたちと相談しなければならないこともある。そんなこんなで、奔走しているシュエバを見て、職場のビルマ人同僚は「まるでウエヤーウィッサー・アティン(本来は僧院やパゴダの維持・管理・運営にあたる信徒団体のこと。ここでは互助会ぐらいの意味)の会長さんだね」とからかう。本業の合間にそんなことを片付けているうちにまた週末がやって来る。

集まりはほとんど高田馬場か池袋周辺である。新宿から西へ30分ぐらいの私鉄沿線に住んでいる身にはせっかくの休日をつぶして都内へ出かけるのは楽ではない。かったるくなることもある。それでもまずほとんどは出かけて行く。シュエバの生きがいはここにこそあるというほどの思い入れはないが、ビルマ人たちに出会い、話をするのはシュエバの人生の普通の一部だし、他人から見ればシュエバはそれを楽しんでいるようにも思えるだろう。その見方は当たらずといえど遠からずである。そう、シュエバは忙しい週末の時間のなかで、心躍るような新たな発見を繰り返している。

アフルー・ブエ

水曜日に電話がかかってきた。国民民主連盟(解放地域)日本支部の幹部Yさんからである。

「ウー・シュエバ。今週の日曜日、空いてますか?」

「うん。午後の早い時間なら大丈夫だよ」

「よかった。アフルー・ブエをするので、都合のいい時間に顔を出してほしいんです」

「なんのアフルーだい?」

「かみさんのお母さんが亡くなって一ヶ月になるのと、娘の一才の誕生日のためなんです」

アフルーとは寄付・寄進・布施などを指す。ブエはあつまり・催しのこと。祝い事にせよ、弔いごとにせよ、その時、その時に、ご僧侶にお食事を差し上げ、それなりの寄進をして(あわせてスンジュエという)、それから親戚、友人、知人を呼び集めて食事をふるまう。これをアフルー・ブエと言い、上座部(テラワダ)仏教徒が大事にする慣わしのひとつである。ご僧侶にお食事をめし上がっていただくのは、戒律の定めから正午を越えてはいけないが、俗人相手の場合はほとんど一日中のふるまいとなる。呼ばれた人たちはそれぞれ適当な時間に来て、挨拶と食事をすませ、しばし歓談して帰って行く。原則としてアルコールは出ない。

「ア・ミンガラー(不祝儀)とミンガラー(祝儀)をあわせてやるの?」

「そうなんです。これ、かみさんの希望なんです。それに、ウー・シュエバはぼくらの結婚式の司会をしてくれたじゃないですか。ですから是非来てほしいってかみさんが言ってるんです」

愛妻家Yさんの最後の一言は決定打だった。そうだった。もう五、六年前になるだろうか、新宿の

レストランを借り切ったささやかな結婚式の司会をしたのだった。司会ばかりか、主賓のひとりとして二人の門出を励ますスピーチをした記憶もある。Yさんは相変わらずハンサムないい男だが、ここ数年髪がめっきり白くなって来ている。奥さんとも、ビルマ人の結婚式などでよく顔を合わす。二人のあいだに娘さんが生まれたというニュースもきいていた。シュエバの返事が「喜んで出席させてもらうよ」であったのは成り行きからしてけだし当然であろう。

シュエバといえば即ビール

Yさん夫妻主催のアフルー・ブエは高田馬場の「ルビー(ビルマ語名はバダミャー)」で開かれた。シュエバが顔を出したのは午後三時頃だった。三十人ぐらい入れる店はほぼ満席、あちこちで会話が弾んでいる。居酒屋兼ビルマ料理店というのが、「ルビー」のうりである。在日のビルマ人数人が金と腕と知恵を出し合って九月にオープンした。普段は勤め帰りの日本人サラリーマンたちのちょっと一杯の場所としてけっこう繁盛しているという。この日はもちろん終日貸切になっていた。

夫妻に挨拶をし、お母さんに抱かれて眠そうにしている娘さんにお土産のおじゃる丸の縫いぐるみを渡してから、空いている席へ座った。ルビーの店主Kさんが、さっそく食事を運んできた。料理はメインがチェッターヒン(チキンカレー)、それにアトウ(サラダ)とヒンジョウ(スープ)がついている。

「ウー・シュエバ、飲み物は?」

「とりあえず、いつものやつ。あ、待て。誰も飲んでないなあ。今日はダメか」

「ビールでしょう。いいよ。ウー・シュエバは例外だ」

そういってKさんはすぐに大瓶を一本持ってきてくれた。このKさんも10年来の知り合いである。すでに日本での難民資格を得て、ビルマから奥さんを呼び寄せている。在日のビルマ人民主化組織が大同団結したLDB(ビルマ民主化同盟)の議長でもある。

ビールで喉をうるおしてから、チェッターヒンにとりかかったところへ、白い料理服姿もりりしいコック長(ビルマ語ではポウジョウ)Pさんがやって来る。

「どう、ウー・シュエバ。俺の作った料理はいけますか?」

Pさんとは因縁がある。彼は来日後不法滞在で捕まり、一年以上もの長期にわたって茨城県牛久市にある入国管理局(ビルマ人はビルマ語呼称の頭文字をとってラ・ワ・カと呼ぶ)東日本収容センターに入れられていた。弁護士と一緒に何度も接見に行った。「何も悪いことなどしていない俺を、日本政府はなんでこんなめにあわせるんだ」と怒っていた彼、「東京で一人ぽっちになっている妻が心配でたまらない」と涙を浮かべていた彼を思い出す。やっとのおもいで仮放免。出所祝いに彼は友人たちを自宅に招いてモヒンガー(ビルマ風そうめん)をふるまった。そう言えばあの時食べたモヒンガーはおいしかった。そうか、Pさんは料理の腕に自信があるんだ。腕を揮える場所が見つかってよかった。よかった。

「やあ、ポウジョウ。ありがとう。おいしいよ。奥さんは? 元気かい?」

「今日はここで手伝ってますよ。ほら、あそこに」

奥さんはシュエバと目が会うと、ニコッと微笑んで、ちょっとふくらんだおなかをそっと押さえた。そうか、まもなく子供さんが生まれるんだ。よかった。

隣りのテーブルには日本人のご夫婦が二組、「ちょっと辛いな」などといいながら、けっこうおいしそうにビルマ料理を味わっていた。Yさんが難民資格をとるのを手伝った弁護士さん夫妻と、Yさんが今働いているそば屋チェーンの経営者のご夫婦である。ビルマ人たちのきわめてビルマらしい催しにわざわざ顔を出してくれる日本人は少ない。それだけに招いた方も気をつかっている様子がありありとわかる。シュエバはYさんから紹介されて、日本のお客さんたちの会話に加わる。こういう場で、ビルマの食べ物や衣服、それにしきたりなどについて、説明することがシュエバに期待されている。もちろんシュエバはその期待に応えるべく如才なく場を盛り上げる。日本の方々にも心地よい時間を過ごしてもらいたい。

出席した人たちが気持ちよく、楽しい時間を過ごしてくれれば、招いた人は「善行」を施し、「功徳」を積んだことになる。しかし、功徳や善行という概念が先にあって、そのために何かをなすという堅苦しい雰囲気ではない。友人、知人と会い、食事をともにしながら楽しく語り合って、苦しいこと、悲しいことを忘れ去り、めでたいことはともに喜び合って、清々しい心になる、それこそがアフルー・ブエであるとビルマ人たちは話す。

知識人たちが集まった

高田馬場のアフルー・ブエからそのまま足を伸ばして赤羽へ向かった。夕方六時から文芸講演会がある。

講演会のタイトルは「サウンウー・アトウェー」。サウンウーとは乾季の始まる頃、普通は秋(オータム)の訳語として使われる。アトウェーは思想とか考察、想いの意味だから、日本のタイトル風に言い換えれば「秋に想う」とでもなろうか。主催は以前にこのコラムで紹介したアハーラ図書館のメンバーを中心にした文芸サークルである。本国ビルマでも、ほとんど雨が降らず、過ごしやすい乾季になると有名な文学者たちを集めて各都市で講演会(サーソウドー・ネ=桂冠詩人の日などと言うこともある)を開くことが多い。それにならった在日のビルマ人たちの企画である。

三人の講演者がすごい。いずれも六十歳代後半の著名人である。日本でいえば文藝春秋の講演会をしのぐハイレベルといえよう。詩人ウー・ティンモウ、教科書にもその詩がのるという国民詩人である。一般に詩人の知名度は日本の比ではない。ビルマでは小学校一年生でカージィー、カーグェ(ビルマ語のアイウエオ)を覚える時すら、韻文で調子をつけて暗誦する。長じて、ちょっとした文学趣味の人たちはほとんど例外なく詩作になじむ。詩は生活の一部、だから有名な詩人ともなるとたいへんに敬われる。ウー・ティンモウといえばビルマ人で知らない人はいない。

次にウー・ウィンペイ。多才な芸術家である。映画監督としてビルマのアカデミー賞をとったこともある。画家としても当代一流、数少ない古典歌謡の研究者としても知られている。今は米国ワシントン近郊に住みRFA(ラジオ・フリーアジア)のビルマ語番組で自ら脚本を書き、ドラマに出演して、内外のビルマ人たちに親しまれている。

そしてウー・ウィンケッ。在日ビルマ人にはアバ(お父さん)と親しまれている。アウンサンスーチーの側近の一人であり、国民民主連盟の幹部として活躍した。現在の国民民主連盟(解放地域)日本支部を立ち上げた人物である。現在はオーストラリアに住んでいるが、日本を訪れることも多い。もともとは雑誌の敏腕編集者として名を売った。だから政治ばかりか、文学・芸術への造詣も深い。

ウー・ティンモウとウー・ウィンペイはアメリカ在住、ウー・ウィンケッはオーストラリア在住、いずれもその活動の故に軍事政権下のビルマには居られない、あるいは居たくない人たちである。同じような境遇の在日のビルマ人たちは、この著名人たちの来日を首を長くして待っていた。交通費・滞在費はみんなが出し合った。

会場は公共施設の大ホール。集まってきたビルマ人の数はおよそ200人。さして馴染みのない赤羽という土地柄を考えると信じられない数である。子供連れも多い。子供が泣き出したりして、聴衆に迷惑をかけるのはわかっていても、どうしても講演をききたかったのだろう。幼児をのせたベビーバギーを押す女性の甲高い声が響く。多くの人たちは開会前から興奮気味であった。

熱弁に酔う

開会前のロビーで講演者たちに挨拶をした。アバ・ウィンケツとはしょっちゅう会っているし、ウー・ウィンペイともインタビューをしたことがある。ウー・ティンモウだけが初対面である。

「サヤー(先生)・ウー・ティンモウ、お話が全部はわからないでしょうが、少しは詩の醍醐味に触れたいと思ってやってきました」

「おー、君がウー・シュエバか。名前はきいているよ。二年ぐらい前に東京で講演した時、君がいなかったから、通訳する人が困ったんだよ」

あっ、やばい。今日は通訳しなければならないのだろうか。しかし、見わたしたところ日本人の姿はない。日本人にはサービスを尽くすビルマ人のこと。たとえ少数でも日本人の参加者がいれば、通訳してくれというかも知れない。詩の通訳なんてできないのに、こりゃ困ったことになるぞ。

そのウー・ティンモウー、初秋とはいえ、けっこう気温は高いのに、セーターにジャンパーを重ね着して、パソー(男性のロンジー)の下からは股引がのぞいている。白髪頭を傾けてソファーにじっとうずくまっている。声にも張りがない。まったくのご老人に見える。大丈夫かな。心配になった。

ますウー・ウィンケッ、つづいてウー・ウィンペイがおよそ一時間ずつ人生を語り、芸術を語って聴衆を魅了した。その間も、ウー・ティンモウは最前列の椅子によりかかり、聴いているのかいないのか、今にも崩れ落ちそうな風情で目をつむっていた。

彼の番がきた。主催者グループの若者の肩を借り、どっこいしょとばかりに立ち上がる。一息もニ息もついてからよろよろとステージに歩を運ぶ。やっとのおもいで中央までたどり着き、演台を抱きかかえるように両手をつく。

最初の一声。おっ。よくとおる張りのある声。顔をあげ、子供たちに語りかける父親のように、口元をほころばせて聴衆と主催者に感謝の言葉を述べる。つづいて自作の詩を朗誦。見事である。会場は一瞬にして彼の支配する世界となった。賛嘆のまなざし、感激の表情が会場にあふれる。

冗談もうまい。アメリカから日本へ来るために、ビルマのパスポートが失効している彼は「トラベル・ドキュメント」をアメリカ政府から発行してもらう必要がある。それがすいぶん時間がかかったという。

「アメリカ人は水も飲まないんだな、これが。だから水も注げないんだよ」

ここでどっと笑いが来る。うん? なにがおかしいんだ。ちょっと考えたがすぐにシュエバにもわかった。

水を注ぐ(イエ・ラウンデー)というのは、役人に袖の下を使うことをいう。ビルマの役所では証明書一枚取るだけでも賄賂が必要である。それをアメリカと比べて笑い話にしたのである。ともかくトラベル・ドキュメントを手に入れ、シカゴ経由日本航空の便で日本へやってきたと話すウー・ティンモウ。旅は快適だったらしい。

「I(英語アイ)一つ無いだけで、ずいぶん違うもんだ。素晴らしかった」

これはシュエバにもピンと来た。みんなと一緒に手を叩いて爆笑した。ウー・ティンモウは反政府的な言動のせいで刑務所(JAIL)に入っていたことがある。その時の苦労をJAL(日本航空)の快適さと対置することで笑い飛ばしたのだ。

余韻のなかで

さいわいなことに日本人の聴衆はいなかったらしい。通訳をする心配をせずに聴衆の一人として、三人の大家の講演に没入することができた。会場の雰囲気がまた素晴らしかった。三人は、冗談や笑い話を盛り込みながらも、精魂を込めて聴衆に真正面から語りかけた。それが自分の責務であるというように。

専門分野での薀蓄ももちろんちりばめられていた。しかし、三人に共通したトーンは、詩や文学作品を通じてみずからの向上をはかりなさい、心にあるものを形にしなさい、それがみんなの共有財産になるのだ、それらが全体として高まって行けば、みんなでいい国を作って行くことにつながる……といったところにあり、それはとてもビルマらしい、またビルマの現状を反映しているものと受けとれた。

聴くほうのビルマ人たちの態度もまた見事だった。講演を一言もらさず聞き取ろうとしている。会場を走り回っている子どもがいても、うるさくないかぎり、誰もなんとも言わない。泣き出す子がいたら、さっと外へ連れ出す人がいる。講演者たちの話が彼らの胸を打ったのは間違いない。自分たちの置かれている状況のなかで、くじけず、たくましく生きて行くうえでの指針めいたものを得たことだろう。

講演会が終わったのは夜九時半。心地よい余韻を楽しみながら家路につく。忘れないうちに今日会った人たちの名前をメモしておこう。まずYさんのアフルー・ブエ。およそ四十人の名前でたちまち手帳の日付欄が埋まる。文藝講演会で会った人たちの名前は、裏の空いたページに書き込む。アフルー・ブエで会った人のうち、かなりの人がここにも登場する。こちらはおよそ五十人、言葉を交わした人のなかには、名前を思い出せない人もかなりいる。そういう人たちも入れると、たった一日でおよそ百人のビルマ人と会ったことになる。ほとんどが顔見知りだが、ウー・ティンモウをはじめ、今日始めて会った人もいる。次の週末にまた顔を合わせる人もいるだろう。一方、シュエバの手帳に名前が残るだけで、今後、会うことのない人もいるかも知れない。

電車のなかで、手帳に書き出した名前のリストをたどりながら、今度は会話の内容を反芻する。頼まれごともあった。詩を翻訳してくれという活動家が一人いた。詩集を出版するので、ビルマ語と日本語で序文を書いてほしいという自称詩人もいた。大丈夫かな。入管から届いた書類に何と書いてあるのかよくわからない、持ってゆくから読んでほしいというビルマ人もいた。これはすぐに片付くだろう。

そうそう。音楽の好きな男から、芸大へ行きたい、どうすれば入学試験がうけられるのか、という相談もあった。二月に結婚式を挙げるので司会を頼むという「予約」もあった。タイのビルマ人難民キャンプを訪問してきた女性は、そのうちゆっくり話したいといっていた。そうだ。牛久の収容センターから出てきたばかりの女性ともあった。時間がなくて話ができなかった。彼女ともつもる話をしたいものだ……・。

明日は月曜日。シュエバの一週間が始まる。そしてあっという間に時は過ぎ、またシュエバの週末がめぐってくる。