田辺寿夫(シュエバ)

14年目の8月8日
2002年9月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第30回(『恋するアジア』第37号)

八八八八は特別の日

今年の八月八日は木曜日だった。平日であるにもかかわらず、ビルマ人たちが一〇〇人も集まった。東京だけではない。群馬県や愛知県からやって来た人もいた。昼間に仕事を持っている人たちはみんな仕事を休んできたのだろう。集合場所は五反田駅に程近い真昼の五反田南公園である。暑い。じっとしていても汗が出る。二時半集合。三時デモ行進に出発。行く先は北品川のミャンマー(ビルマ)連邦大使館である。

十四年前の一九八八年の八月八日、この年三月頃から学生たちを先頭に広がってきていたビルマの民主化要求闘争は首都ヤンゴンをはじめ全国各地で最大規模の盛り上がりを見せた。午前八時八分に始まったとされるデモの隊列は首都ヤンゴンの大通りを埋め尽くした。数十万におよぶ学生、労働者、知識人、僧侶、主婦、公務員や兵士の一部までが、こぶしを振り上げ、「一党支配(ビルマでは一九六二年から八八年まで、軍人が指導するBSPP=マサラ=ビルマ社会主義計画党の一党支配がつづいていた)打破」、「民主化闘争勝利」の叫び声を挙げた。

国民の声に押される形で二六年間一党支配を布いたBSPPは崩壊し、独裁者ネウィンは議長職を辞した。八月八日の盛り上がりの直後、母の病気見舞いのために帰国していた独立の父アウンサン将軍の娘アウンサンスーチーが民主化陣営に加わり、すぐさま指導者として圧倒的な人気を集めた。民主化陣営の意気は高揚した。体制側に打つ手は見当たらず、八月の終わりごろには、民主化達成は時間の問題と思われる情勢となった。

しかし、軍はしぶとかった。権力を手放さなかった。「国が無政府状態におちいった」、「秩序を保つのは軍の役目」として国軍部隊が出動、実力を行使してデモを鎮圧、九月一八日には国権を掌握した。これが国家法秩序回復評議会(SLORC=ナワタ)であり、現在の国家平和発展評議会(SPDC=ナアパ)の前身である。以後、実力を背景にした支配のもと民主化勢力をは雌伏を強いられることになった。

そんな民主化勢力にとって、八八八八(一九八八年八月八日のこと。ビルマ語でシッ・レーロン=四つの八と呼ぶ)は、忘れ難い日となった。民主化達成までいま一歩と迫まった88年8月8日に思いを馳せ、あらためて運動の高揚を誓う記念日と言える。だから、忙しい仕事のさなか、たびたびヤスミを取ると解雇される危険も覚悟のうえで、在日のビルマの人たちが集まってくるのである。

歩きなれた道、見慣れた人たち

すでに一九八八年当時から、母国の民主化運動に呼応して、日本でもビルマ人たちによる民主化要求デモが行なわれた。大使館への抗議がデモの主な目的であるから、集合場所や行進するコースも似たようなものである。今年のデモ行進の終着点であり解散地でもある権現山公園は、初期には、よく集合地点として使われた。その時期にデモのリーダーをつとめ、参加者に注意事項を指示したり、門を閉ざした大使館の郵便受けに抗議文書などを投げ込んでいた人たちのうち、何人かは、すでに民主化活動から足を洗い、軍事政権に帰順している。また、日本ではなかなか難民(政治亡命者)資格が得られないため、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどへ出国した人たちもいる。病気でなくなった若者もいる。歩きなれた道をたどっていると、妙に姿を見せなくなった人たちのことが思いだされる。

メンバーに入れ替わりはあっても、ほとんどが顔なじみのひとたちである。おりから夏期休暇中だったぼくは、ヤンゴン大学のTシャツ、短パン、ルエエイ(ビルマ製の布製肩掛けバッグ)、それにビーチサンダルという軽装だった。このサンダルを目に留めた知り合いの一人が「これ、ビルマに入って来た頃は、ジャパン・パナッ(日本サンダル)って言われたんだぜ」と教えてくれた。ぼくが競馬好きなのを知っていて、デモが終わったら、ナイター競馬を見に大井競馬場へ行こうよと誘ってくれた男もいた。よく言えばなごやか、悪く言えばやや緊張感に欠けた雰囲気ではあった。

知り合いはデモの参加者だけではない。「先生、ご苦労様です」と声を掛けてくる日本人がいる。背広は脱いで手にもっているが、白ワイシャツできちんとした格好である。この人、デモのたびに顔を合わせる人だ。「あっ。こんにちわ。暑いのにたいへんですね。えーと、外事課でしたっけ?」と名前と所属を忘れているぼくはたずねる。「ええ。そうです。前に一緒に来ていた者は異動したんですが、私はまだ転勤にならないんですよ」。警視庁外事課の係官である。「どうでしょうねえ。この間、川口外相とアウンサンスーチーさんが会談をしたようですが、なにか変わりますかね?」。

普通、ビルマ人たちがデモや集会を行なうときは、所轄の警察署、公安調査庁それに警視庁外事課から担当官たちが顔を見せる。仕事熱心な人は、ぼくにまで話し掛けて情報を集めようとする。何度もビルマ人たちとつきあううちにすっかり彼らの純真さに魅せられ、国をおもう気持ちに理解を示す担当者も居る。ビルマ人たちの動向を探るという仕事はそれなりにはたすのではあるが、その過程でいまどきの日本の若者に比べて、ビルマの若者たちはうんと真面目だと感服してしまうことも珍しくない。彼らも息子や娘に手を焼いているニッポンのお父さんたちなのかも知れない。

デモクラシー・ヤシイエー・ドアイエー

デモ隊の先頭、旗を持った人たちのすぐ後ろを少々異様な集団が歩く。学生、僧侶、労働者の格好をした何人かが鎖で縛られ、兵隊に引き立てられて行く。軍事政権下のビルマを表現しているのだと云う。真夏の昼下がり、道行く人の数はそう多くない。それでも公園を出発してソニーのビルの間を通り抜け、御殿山の信号を右折するあたりまでは、日本語のシュプレヒコールがつづいた。「すべての政治囚をただちに釈放せよ」、「政治対話を促進せよ」、「一九九〇年の選挙結果(アウンサンスーチー率いる国民民主連盟=NLDが総議席の八〇%強を獲得した)を尊重せよ」、「日本のODAは中止せよ」、「民主化闘争は勝利するぞ!」……。

八つ山橋の手前、御殿山の信号を右折すると、一方通行の狭い道になる。その突き当たりがミャンマー連邦大使館である。この道に入った途端にシュプレヒコールはビルマ語に変わって、声は勢いづき、振りあげる拳にも力がこもる。なかでも「デモクラシー・ヤシイエー」と先導者が叫び、みんなが「ド・アイエ、ド・アイエ」と呼応するスローガンには一段と力がこめられているように感じる。

八八年以来のこの叫びはなかなか日本語のスローガンになりにくい。デモクラシー(民主主義)ヤシイエー(獲得)、ここまでは簡単である。ド(われわれの)、これもなんとかなる。これと、アイエ(問題あるいは課題、英語で言えばイッシュー)をうまくくっつけなければならない。言葉とおりに訳せば、「民主主義獲得(は)」、「われわれの課題だ」ということにはなる。しかし、デモで「課題だぁー」と叫ぶのはどうもしっくりこない。ここは、「われわれは、やるぞ!」とでも意訳したほうがさまになるだろうか。

やがて大使館の門前。通用門は開いていたが、警官たちががっちりガードしている。デモの許可条件によると、門前で立ち止まってはいけないのだが、どうしても足は止まる。叫びたいことがいっぱいあるからだ。もうリーダーの声に唱和するのではない。それぞれがおもいおもいに声をあげる。さっき、デモの後で競馬に行こうよと誘ってくれた男も、怒りの表情に一変して何か大声で叫んでいる。フィアンセがうまく来日できたんだとデレデレ顔になって、みんなに冷やかされていた男も、拳を思いっきり振り上げている。このあたりは樹木の多い地区。本来ならうるさいほどにきこえるはずの蝉時雨が、ビルマ人たちの叫び声、早く歩き去るようにうながす警官たちの声がいりまじってききとれない。

思いを残して

血の気の多い何人かの若者は警官たちともみ合いを始める。「早く歩け!」、「なんだよ、押すなよ。何にもしてないだろうが」。ちょっとした騒ぎになる。デモのリーダーがあわてて駆けよって興奮した仲間をなだめる。騒ぎの輪には入らないで、そんな様子をすこし離れた所でNくんが見守っていた。Nくんは、十年ほど住んだ日本を離れて、八月中にアメリカに向かうと云う。これが日本で参加する最後のデモになる。気のせいかすこしさびしそうである。

彼とは来日直後からの知り合いである。当時彼は難民認定を申請していた。ある夏、難民問題について勉強をしたいという弁護士事務所のスタッフの夏合宿に彼が呼ばれて体験を話したことがあった。ぼくは通訳として同行した。一九八八年当時、Nくんはたしかヤンゴン大学一年生で、民主化運動に積極的に加わったと話していた。軍が全権を掌握して、民主化組織をつぶそうと動いた時には、UG(ユージー=Underground=非公然)組織のメンバーとして活動したことなどを生々しく語った。

その夏合宿でみんなでテニスを楽しんだ。彼とぼくとでペアを組んで大活躍をした。二人ともテニスは素人である。ぼくは野球の経験があったから、とりあえずラケットにボールをあてることはできる。驚いたのは、テニスははじめてという彼の俊敏さである。ヤンゴンではバドミントン(ビルマ語ではチェッタウン・ヤイ)をかなりやっていたという彼の動きは、テニスの教則本にはないものが多く、跳びあがってボールを叩くなどの奇襲戦法で、相手ペアをびっくりさせた。プレーしているあいだ中、うまくいっても、ミスをしても、彼自身、ほんとうに楽しそうだった。ビルマでも、日本でも、のんびりとスポーツを楽しむことなどなかったのだろう。あの時のNくんの弾けるような笑顔は今も脳裏に焼き付いている。

Nくんは結局日本では難民として認定されなかった。アメリカに行けば、おそらく知り合いなり、親戚なりがいるのだろう。日本に滞在してからアメリカに行った人もたくさんいる。難民資格や滞在資格を得やすいのかも知れない。それにしても、住み慣れた日本におもいは残るのではないだろうか。難民として認定されなかったことをはじめ、いやな、不愉快な思い出ばかりがあってほしくはない。あの天衣無縫の笑顔でテニスを楽しんだときのような、心地良い思い出もすこしはあって欲しい。「Nくん、いつか機会があったら、また一緒にテニスをやろうよ」。彼の背中に向かって、声に出さずにそう話し掛けた。デモの隊列は徐々に大使館前の通り過ぎ、また蝉時雨がふりかかってきていた。