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田辺寿夫(シュエバ)

エラワンよ、天まで駆け上がれ~エラワン・ソウウィン奮闘記~
2002年6月20日配信 「ビルマ人のスキップ」第29回(『恋するアジア』第36号)

バンコクのエラワン

バンコクの中心街、そごうデパートのすぐ隣り、大通りが交わる四つ角に面した一角に、頭が三つある象の立像が鎮座する祠がある。エラワンである。エラワンの祠はあちこちにあるのだろうが、エラワンときいてまず思い浮かぶのは、このバンコク中心部のものである。三つの頭を持つ象はもともとインドラ神の乗り物だそうである。とすると、ヒンズー教が起源であろうが、タイでは守護神、あるいは霊験あらたかなものとして尊崇されているのかも知れない。

善男善女とりまぜてお参りの人がつぎつぎとやって来る。商売繁盛、家内安全、学業成就から、宝くじの当選祈願まで、さまざまな庶民の願いをエラワンは聞き届けてくださるという。願いはなんであれ、敬虔な祈りが捧げられる。パゴダのような静かな、広い場所はない。座り込んでお祈りしたりはできない。合掌をしてすぐに立ち去ることになる。あわただしくはあっても、祈りの飛び交う空間にはそれなりのゆったりした時間の流れが感じられる。

目の前の大通りを自動車の列がけたたましく駆け抜けて行く。その道路とエラワンとを、線香の匂いと人々の祈りがカーテンのように仕切っているようで、別世界の趣きがする。時に、満員の客を乗せた路線バスが通り過ぎるときに、運転手がほんの一瞬だが、両手をハンドルから放し、エラワンに向かってワイ(合掌)するのを見かけると、さすがにドキッとはするが。

一九八八年の夏、しばしばエラワンの前に立ち止まり、どんぐりまなこで象を見据える一人の男がいた。彼の名はソウウィン、民主化闘争まっさかりの隣国ビルマから、バンコクへやって来ていた。ソウウィンの両親は二人とも医師、ビルマでは極め付きのインテリであり、社会的地位も高い。恵まれた家庭に育ったソウウィンは「坊ちゃん」さながらに血の気の多い青年に成長した。まだ大学生だった1973年と74年、軍人主導の政治に労働者たちが不満をもち、決起してデモを行なった際に、これに参加し、軍の発砲を受けて、右手を負傷した。軍情報部(MI)に拘束され、弁護士もいない十五分ほどの裁判で禁固七年の刑を言い渡された。悪名高いインセイン刑務所からは、恩赦を受けて三年で釈放されたが、大学への復学はかなわなかった。逮捕歴の故に就職もままならなかった。

そして、一九八八年、ビルマ全土に民主化運動の波が広がった。血気にはやる息子がもう一度捕まれば、命すら危ないと心配した両親は八方手をつくしてソウウィンを外国へ逃す。バンコクを経て彼は日本へ到着する。日本でもソウウィンは母国民主化をめざすビルマ人の組織に加わり、活動をつづけた。

東京のエラワン

在日のビルマ人たちはエラワンをよく知っている。こちらは縁起物でもお参りをするものでもない。しかし、本物のエラワンがタイの人々から頼りにされているのと同様、こちらも多くのビルマ人から頼りにされている。「エラワン」。それは、東京で発行されているビルマ語コミュニティ雑誌エラワンである。

月刊誌「エラワン」は二〇〇二年五月発行の通巻九四号で創刊八周年を迎えた。一九九四年五月にこの雑誌の編集・発行を一人で始めたソウウィンは、スタッフが増えた今も主筆兼発行責任者である。創刊にあたってなぜビルマ語では必ずしも一般的ではない「エラワン」を誌名として採用したのだろうか? ちなみに大野徹著『ビルマ(ミャンマー)語辞典』(大学書林・2000)を見ると、エラワンという項目はないが、エラワン・スィンという単語があげられ、「帝釈象」と記載されている(スィンは象)。ソウウィンは情報誌にエラワンと命名した経緯をこう話してくれた。

「バンコクに滞在していたころ、あのエラワンの前をよく通りかかりました。ビルマでもエラワンは有名で、強壮剤の名前としてみんな知っています。ビルマの歴史書には、エラワンは王が乗る象として登場します。たたかいの時、王様がひとたびエラワンにまたがると、たちまちにして連戦連勝、敵の軍勢は蜘蛛の子を散らすように逃げて行くとされています。バンコクでエラワンを見るたびに、そのことを思い出していました。

東京で情報誌を出そうとした時に、ふとそのエラワンのことが頭に浮かんだんですね。王様を背中にのせたエラワンのように、勢い良く前進したい、堂々とわが道を行き、読者を増やし、世の中の役に立ちたい、そんなおもいでエラワンと名づけました」

チェーモンよりカッコいいじゃん!

八年前の五月、エラワン第一号は新聞のような体裁の折りたたみ八ページで登場した。発行部数は一〇〇〇部。新宿区中井や新大久保のビルマ人向け雑貨店に置かれたエラワンを見たビルマ人たちのあいだに衝撃が走った。記事に目を通す前に、紙質の良さ、すっきりした刷り上りとレイアウトがビルマ人たちをひきつけた。当時のビルマの国営新聞や雑誌よりはるかに垢抜けていた。「チェーモン」など当時の国営新聞は、ザラ半紙のような粗悪な紙に印刷されており、インクの質も良くないのか、じっくり読むと指が真っ黒になるような代物だった。その点、エラワンの方はいくらページをひっくり返して読んでも手が汚れることはなかった。内容もまた、味気ない国営新聞とは正反対、彼らが求める情報がいっぱいに詰まっていた。

ソウウィンは母国で刑務所を出たあと、ジャーナリストまたは写真家をめざしていた時期があった。八九年に来日してからは、大日本印刷系の写真印刷専門の会社で数年間働いた。そこでは、写真印刷をはじめ、コンピューターを駆使しての編集やレイアウトも身につけた。エラワンにはそうしたソウウィンの経験と知識が生かされた。

ソウウィンが月刊情報誌「エラワン」の発刊に踏み切ったのは、日本に住むうえで必要な情報を多くの在日ビルマ人と共有したいという願いがあった。彼はこう語る。

「在日のビルマ人からしょっちゅうきかれてたんですよ。母国の情勢はどうなっているのか? 日本の入管法が変わるそうだけど、俺たちオーバーステイはみんな捕まるのか? 職場でケガをしたんだけど、治療費は自分で負担しなければいけないのか? といったことをね。

はじめはひとりづつ答えていました。そのうちに、同じような問い合わせが多いので、「今日のおもなニュース」という感じでメモを作り、それをコピーして欲しい人に渡したりするようになりました。そのあたりから、情報誌を出したらいいんじゃないかと考えるようになったんです。

当時、在日の中国人やフィリピン人社会ではそれぞれのコミュニティ情報誌がありました。在日のビルマ人社会もかなり人数は増えてきていましたが、情報誌はなかったんです」

ビルマ人の喜怒哀楽をのせて

在日ビルマ人たちが求めている情報は、八年前に比べて基本的には変わっていない。本国での民主化勢力と軍事政権の対立は今もつづいている。インフレと物価高騰、通貨チャットの価値下落など、経済の悪化はすざまじい。家族を残してきている人たちにとって、あるいは近いうちに母国に帰ろうと思っている人たちにとって、母国の情勢は一日たりとも目を離せない。

また、在日のビルマ人たちの労働環境は相変わらず厳しい。在日ビルマ人総数およそ一万人のうち、半分以上はいわゆる不法滞在者・不法就労者であるから、入管法は直接生活にかかわる。さらに、政治活動を理由にした難民認定申請や日本人配偶者を得たことによる在留特別許可申請も増えてきたから、入管法とその適用状況を知ることは多くの在日ビルマ人にとって欠かせない。加えて、子どもが生まれ、学齢に達する家庭も増えてきた。日本で暮らすためには、教育、社会福祉、医療、さまざまな分野での情報が必要となる。

創刊から8年、エラワンはこうした要望に沿った情報を送りつづけてきた。部数は八年間で三倍になり、現在は三〇〇〇部に及ぶ。アメリカやオーストラリアにも購読者がいる。サイズも変わった。電車の中で広げていると、「この人、何人?」と不審人物を見るような視線が集まるからと、新聞形式から週刊誌のような体裁に変えた。表紙を含めて一部カラー印刷、ページ数も増え、最新号では三五ページになっている。

一部売りは三百円、予約購読は半年三千円、一年五千円。それで経営が成り立つのは広告のおかげである。広告掲載料は一件につき標準サイズで五千円。第九四号ではおよそ六十もの広告が掲載されている。「このごろのエラワンは広告が多すぎないか?」との苦情が多いとソウウィンも苦笑いしている。

広告が多いのは、在日ビルマ人コミュニティに活力があるからだろう。広告欄には、ビルマ料理店、カラオケ・スナック、雑貨屋にはじまって、美容室・理容院、運送業、チケット屋、結婚式などには欠かせないビデオ・写真プロダクションなどビルマ人たちによるビジネスが軒を連ねる。さらには、日本語、英語、コンピューターなどの講座。そのほかに「結婚しました」、「六畳間、あと二人居住可能、ルームメイト求む」、「中古コンピューター、格安で譲ります」といった個人発のお知らせもたくさんのっている。

意匠をこらしたさまざまなビルマ文字の宣伝文句を見ていると、住みづらい日本の社会で、懸命にがんばるビルマ人たちの群像が目の前に浮かぶ。見慣れた広告がある号をさかいに消えることもある。店がつぶれたのだろう。めげるなよ。すぐまた、新規開店の広告があらわれる。ルーキー登場である。気をひきしめて行けよ!。エラワンの誌面からビルマ人たちの喜怒哀楽が読みとれる。生活はもちろん、ビジネスもつき合いも、在日ビルマ人社会はエラワンにその多くを負っていることはたしかである。

ソウウィン(ソウは治める。ウィンは輝く)はよくある男子の名前である。姓のないビルマ人のこと、東京にもソウウィンが何人もいる。まぎれないように、エラワン主筆兼編集発行人ソウウィンはエラワン・ソウウィンと呼ばれている。日本社会になじんだソウウィンは印鑑も作った。漢字で創宇院と彫ってある。日本でビルマ人女性と華燭の典をあげ(その時、ぼくは主賓として祝辞を述べ、通訳もつとめた)、長男(カウンテッ君。意味をとって呼びやすい日本名はないかときかれ、良貴・ヨシタカがいいだろうと答えた記憶がある。貴乃花が元気な頃だった)はすでに三歳、もうすぐ第二子が生まれる。一九九八年には日本政府から難民(政治亡命者)認定を受けた。都内大塚の高層マンションの十階に住居兼エラワン編集局を持つ。エラワンの人気は上々、部数は順調に伸びている。順風満帆。あたかも王様をのせたエラワンの勢いである。

悩みもある。難民として認定されるまで五年ほどかかった。その間、ソウウィンは「不法滞在者」として、不安のなかで暮らさなければならなかった。今、彼は滞在について心配はない。しかし、どういうわけか、彼の配偶者については、いまだに在留資格が与えられていない。結婚をしたという公的な証明がないからだという。これはたいへん難しい。難民である彼は在日ミャンマー連邦大使館とは接触を絶っているから、大使館に届けるわけには行かない。

さらには、母国の情勢はいまだに民主化への道遠しの感がある。日本で情報誌を出して、それなりの働きをしているとはいえ、ビルマのジャーナリストとしては、母国で存分に腕を発揮したいと望むのは当然であろう。そのためには、言論・報道の自由はどうしても必要である。それは軍事政権下では望むべくもない。やはり、民主化を実現しなければ、母国ではソウウィンの働く場はない。

最後にはシュエバが勝つ

創刊八周年記念の「エラワン」第九四号には愛読者への謝辞が掲載されている。そのなかで、ソウウィンは、経済的困難やビルマ語をコンピューター化して編集する難しさなどを乗り越えて、エラワンがここまで来られたのは、読者のみなさんのご支援の賜物であるとお礼を述べている。同時に、自分も「シュエバは、最後には勝つ」との気持ちで困難を乗り越え、エラワンの編集・発行にあたってきたと述べている。

ここに出てくるシュエバはぼくではない。ぼくが名前をもらったビルマ映画史上に燦然と輝く大スターである。もう故人になって久しいが未だビルマの人々の記憶のなかには生きつづけている。シュエバは活劇映画のスターであった。いつも弱い人の味方をする。日本映画で言えば、悪代官や悪徳商人に苦しめられる庶民の側に立ってたたかうような人物である。ストーリーはいつも決まっていた。映画の前半ではシュエバはさんざん苦しめられる。しかし、最後の最後に、必ず勝つ。プロレスの力道山のパターンである。そんなシュエバ映画全盛期には、こんな逸話があった。

映画が始まってから、シュエバはずっと悪人たちに苦しめられている。形勢不利、シュエバびいきの観客は我慢できないで騒ぎ出す。なかにはスクリーンめがけてものを投げつける客もいて、場内は騒然としてくる。そんな時、場内アナウンスが流れる。

「みなさん、お静まりください。シュエバは最後には必ず勝ちます。どうぞ、しばらく我慢して見てください」

エラワン・ソウウィンの謝辞のなかの一節はこの「故事」をふまえてのものである。これからもそうあってほしい。日本のなかのビルマ人社会で地歩を築くことで満足しないでほしい。ビルマの民主化を達成するためにがんばってほしい。ビルマに言論・報道の自由を確立するために力を発揮してほしい。それが実現すれば、そこで存分にジャーナリスト・編集者としての腕を揮ってほしい。敵の軍勢を蹴散らすエラワンのごとくに驀進せよ。最後には勝つ。シュエバが応援しているぞ。