| 1945年6月19日 |
ラングーンに生まれる。父はビルマ独立の英雄アウンサン将軍、母は後の駐インド、ネパール大使ドー・キンチー。 |
| 1947年7月19日 |
アウンサン将軍、閣僚6人と共に暗殺される(現在の「殉教者の日」)。 |
| 1948年1月4日 |
ヌ首相の元でビルマが英国から独立。 |
| 1960年 |
ドー・キンチー、インド大使に着任。スーチー、デリーで学業を続ける。 |
| 1960〜61年 |
デリー市のキリスト・メリー修道会学校で学ぶ。 |
| 1962〜63年 |
デリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。 |
| 1962年3月2日 |
ネウィンによる軍事クーデター。 |
| 1964〜67年 |
オックスフォード大学セント・ヒュー・カレッジで哲学、政治学、経済学を学ぶ。学士号を取得。1990年に名誉フェローに選出される。 |
| 1968年 |
ロンドン大学東洋アフリカ研究所政治学部で研究助手。 |
| 1969〜71年 |
ニューヨークの国連事務局行政財政委員会で書記官補。 |
| 1972年1月1日 |
英国人研究者マイケル・アリス博士と結婚。後にアレキサンダー(73年、ロンドン生まれ)とキム(77年、オックスフォード生まれ)の2子を出産。 |
| 1972〜73年 |
ブータン外務省研究員 |
| 1975〜77年 |
オックスフォード大学ボーダリアン図書館で、ビルマ語文献とバラバイ(折り畳み本)の編纂研究員。 |
| 1985〜86年 |
京都大学東南アジア研究センターで客員研究員。 |
| 1987年 |
シムラのインド教育省の特別研究員 |
| 1988年4月 |
ドー・キンチー看病のためビルマに帰国(同氏は12月27日に死亡)。民主化運動の高揚に偶然立ち会う。 |
| 1988年8月26日 |
シュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説。 |
| 1988年9月18日 |
国家法秩序回復評議会(SLORC)によるクーデター。 |
| 1988年9月27日 |
国民民主連盟(NLD)を結党、書記長に就任。以後1989年7月まで全国遊説し、百回以上の演説を行う。訪問先はラングーン、パゴー(ペグー)、マグウェー、ザガイン、マンダレー、モールメイン、タボイ、メルギ、パコック、タウンジー、チョークパダウン、モンユワ、ミンムー、ミッチーナなど。 |
| 1989年7月20日 |
自宅軟禁される。アムネスティ・インターナショナルはスーチーを良心の囚人と宣言。軍政からの圧力を受け、また軍政によるNLDへの禁止処分を防ぐため、同党はスーチーが党書記長ではなくなったと発表。 |
| 1990年5月27日 |
総選挙実施。NLDは485議席中392議席を獲得する大勝。軍政は選挙結果に基づく国会招集を拒否。 |
| 1990年10月12日 |
ノルウェーのトロルフ・ラフト財団から最初の国際的な賞(トロルフ・ラフト人権賞)を受賞。 |
| 1991年7月10日 |
1990年のサハロフ賞(欧州議会人権賞)を受賞 |
| 1991年10月14日 |
ノーベル平和賞を受賞。ノーベル委員会は翌年、スーチーが賞金130万ドルを使い、ビルマ国民のための保健・教育トラストを設立すると発表。 |
| 1992年 |
タンシュエ将軍がSLORC議長に就任。 |
| 1994年1月21日 |
軍政、戒厳令によりスーチーの拘留は最長6年になる可能性があると発表。外務、内務、国防の各大臣からなる3人委員会が決定すれば、さらに1年延長の可能性があると付け加える。 |
| 1994年2月14日 |
家族以外との面会が初めて許可される。ジェハン・ラヒーム国連駐在代表、ビル・リチャードソン米下院議員、ニューヨーク・タイムズのフィリップ・シェノン記者がスーチーを訪問。 |
| 1994年9月20日 |
軍政のタンシュエ議長とキンニュン中将が自宅監禁後初めてスーチーと会談。 |
| 1994年10月28日 |
迎賓館でキンニュン中将と第2回会談。 |
| 1995年7月10日 |
自宅監禁から釈放される。以後週末に自宅前集会を行っていたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。 |
| 1995年7月11日 |
記者団に対しビルマの民主主義回復に一層専念すると話す。民主化勢力、ビルマ民族以外の民族グループ、軍政の三者による対話実施を求める。また外国企業に対し民主主義が回復するまでビルマ投資を行わないよう求める。 |
| 1995年10月10日 |
NLD、スーチーを書記長に再指名(89年7月の自宅軟禁後、軍政の圧力から解任を発表していた)し、軍政による党指導部の人事変更禁止命令に対抗。 |
| 1995年11月28日 |
NLD、軍政主導の制憲国民会議の運営に抗議し、委員の引き揚げを宣言。軍政、対抗措置として同党側委員を除名。現在、国民会議は休眠状態。 |
| 1996年3月 |
軍政による移動禁止令に対抗し、ラングーン外への移動を試みる。マンダレー行き電車に乗り込むが、氏の乗った車両は駅に残される。 |
| 1996年5月 |
NLD、スーチー釈放以後初の党大会を計画。軍政、国会議員235人を拘束する弾圧策に出る。 |
| 1996年12月 |
学生による座り込みデモ。軍政、大学を閉鎖(〜2000年5月)し、キャンパスの遠隔地への分散に着手。 |
| 1997年7月23日 |
ビルマ、ASEAN加盟。 |
| 1997年11月15日 |
軍政、SLORCから国家平和発展評議会(SPDC)に名称変更。 |
| 1998年7月〜8月 |
ラングーン郊外のNLD支部訪問を試みるが、バセインに向かう路上で警察に停車を命じられる。抗議の車内篭城を2度に渡って行い、路上で数日を過ごしたが、強制的に自宅に送還される。 |
| 1998年9月16日 |
NLD、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、当選議員10人で構成する国会代表者委員会(10人委員会、CRPP)を発足。 |
| 1999年3月27日 |
夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリス氏の再三の要請を軍政は拒否。再入国拒否の可能性があるスーチーは出国できず、夫妻の再会は実現しなかった。 |
| 2000年8月24日 |
ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。9日間に渡り抗議の篭城を行うが、9月2日に約200人の警官隊に取り囲まれラングーンに強制送還される。 |
| 2000年9月21日 |
ティンウー副議長と共にラングーン中央駅でマンダレー行きの列車に乗ろうとするが、支持者と共に逮捕される。 |
| 2000年9月22日 |
NLD幹部と共に自宅軟禁される。 |
| 2000年10月 |
スーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まる。ラザリ国連事務総長特使らが仲介。 |
| 2002年3月7日 |
元独裁者ネウィンの親族、重反逆罪容疑で逮捕される。 |
| 2002年5月6日 |
自宅軟禁解除。 |
| 2002年12月5日 |
ネウィン死去 |
| 2002年12月25日 |
アラカン(ラカイン)州へ遊説 |
| 2003年5月30日 |
ビルマ北部遊説中に軍政による組織的襲撃を受ける。以後ラングーンへ移送されて軟禁状態となる。 |
| 2003年9月18日 |
ラングーン市内の病院にて婦人科疾患の手術をする。退院後また自宅軟禁に戻る。 |
| 2004年4月29日 |
NLD中央執行委員会委員と自宅で会合。 自身とウーティンウー氏の解放などのNLDの要求を軍政が受け入れれば国民会議(制憲会議)に参加すると発表。 |
| 2006年5月20日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務次長(政治局長)と会談。 |
| 2006年11月11日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務次長(政治局長)と会談。 |
| 2007年9月 |
反軍政民主化蜂起(サフラン革命)が始まる。 |
| 2007年9月22日 |
自宅前まで行進してきた僧侶と市民の呼びかけに応じ、姿を現し僧侶に敬意を表する。公に姿を現すのは4年ぶりだった。 |
| 2007年9月30日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務総長特使と会談。 |
| 2007年10月2日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務総長特使と会談。 |
| 2007年10月25日 |
軍政がアウンサンスーチ氏との交渉担当に任命したアウンチー副労働相と会談。 |
| 2007年11月8日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務総長特使と会談。 |
| 2007年11月8日 |
国民会議について声明を発表。 |
| 2007年11月9日 |
NLD幹部4人とラングーンの政府ゲストハウスにて会合(2004年5月以来初めて)。 |
| 2007年11月9日 |
アウンチー副労働相と会談。 |
| 2007年11月19日 |
アウンチー副労働相と会談。 |
| 2008年1月11日 |
アウンチー副労働相と会談。 |
| 2008年1月30日 |
NLD幹部ーとラングーンにて会合。 |
| 2008年1月30日 |
アウンチー副労働相と会談。 |
| 2008年3月8日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務総長特使と会談。 |
| 2008年3月10日 |
イブラヒム・ガンバリ国連事務総長特使と会談。 |
| 2008年3月23日 |
軍政の憲法草案の是非を問う国民投票に自宅で不在者投票を入れたとされる。 |
| 2008年5月2〜3日 |
サイクロン「ナルギス」が襲来。自宅の屋根が吹き飛ばされるなどする。 |