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社会

ビルマ―軍政とアウンサンスーチーとの対話:その背景と今後の諸問題
2001年2月28日配信 根本敬(ビルマ市民フォーラム運営委員、東京外国語大学助教授)

本論稿は、2001年2月28日に地球産業文化研究所で開催された第6回「ASEAN統合と新規加盟国問題」研究委員会において、筆者が行った報告「対話が始まったビルマ」を基にまとめたものである。ただし、当日の質疑応答で出された論点と、その後に入手した情報を考慮し、内容を一部変更した。文責はもちろん筆者にある。なお、本稿が基づくビルマ情報は2001年4月末現在のものである。また、論文でなく論説形式で書いたので、出典・依拠文献は原則として省略してある。

1 軍政とNLD ― 対話の背景

(1)1994年以来の直接対話

 2001年1月9日、国連報道官は、ビルマにおいて軍事政権(国家平和開発評議会SPDC)と国民民主連盟(NLD)書記長のアウンサンスーチーとの間で、2000年10月から対話が始まっていることを発表した。それによると、2001年1月4日から9日までビルマを訪問したラザリ・イスマイル国連事務総長特使(ビルマ問題担当)が、軍政当局とアウンサンスーチー書記長それぞれと会い、両者間の対話の存在と継続を確認し、そのことをアナン国連事務総長に報告したというものである。対話においては、軍政側の中心人物の一人であるキンニュン第一書記がアウンサンスーチーと直接会っているということも確認されている。しかし対話の中身については、相互の信頼回復・醸成の過程にあるということ以外、いっさい明らかにされなかった。

 軍政とNLDとの交渉はこれまでにもあった。しかし、それはアウンサンスーチー以外のNLD幹部(アウンシュエ議長など)を、軍政側が日時と場所を指定して呼び出し、自分たちの見解やNLDへの指示を一方的に伝えるという形をとり、「対話」と呼べるようなものではなかった。軍政の高官がアウンサンスーチーと直接会うという過去の前例は、彼女が6年間の自宅軟禁に置かれていた1994年に2回あっただけで、1995年7月に軟禁が解除された後は、その期待がますます高まったにもかかわらず、一度として両者の直接対話は実現しなかった。とりわけ軍政は彼女との対話に消極的で、1996年11月にNLDが制憲国民会議からメンバーの引き上げを決意すると、その傾向はいっそう顕著となった。そして1998年9月にNLDが人民議会代表者委員会(10人委員会・CRPP)を発足させ独自に議会の「開催」に踏み切ると、軍政はそれまで以上にアウンサンスーチーに対する非難を強め、国営マスメディアを通じて激烈な反NLD・反アウンサンスーチーのキャンペーンを展開するようになった。

 このような過去の経緯から、両者の直接対話がこの時期に開始されたということは、それ自体が意外であり、大きな驚きである。軍政がこれまで(1994年の2回を例外として)アウンサンスーチーとの直接対話を徹底的に避け続けてきたなか、その姿勢を変えたという事実は、ビルマにおける政治の混迷が一気に打破されるかもしれないという国内外の期待を高めたと言える。また注目すべき点として、対話が1994年の時のように2回程度で終わってしまうのではなく、2001年4月末現在、7ヶ月にわたって継続されているという、その「長期」性と「安定」性がある。

 もっとも、「長期」「安定」の対話であるとはいえ、その具体的中身は前述の通り、相互の信頼回復・醸成の過程にあるということ以外、まったく伝わってこない(すでに国軍とNLDによる暫定連合政権設立の話にまで中身が進んでいるといったような噂はあるが、根拠は不明である)。さらに、この信頼回復・醸成過程なるものの実態も不明である。おそらく、
 (1)いままでの行き違いに関する双方のそれぞれの立場と理由の説明と聞き合い
 (2)1200人以上いると言われる政治犯の解放をめぐる交渉
 (3)NLD地方支部の活動再開をめぐる協議
の3点を中心に、時間をかけて話し合っているものと想像される。2001年1月以来、獄中のNLD関係者らが何度かにわたって数十名規模で解放されるようになった現実は、こうした交渉の成果の一部を反映していると言えよう。

(2)直接対話実現の背景

 ところで、軍政がアウンサンスーチーとの直接対話に、今回のタイミングで踏み切った背景にはどういう要因があったと考えられるだろうか。ここではそのことを国内的要因と対外的要因の二つに分けて説明してみたい。

 国内的要因としては、二つ考えられる。ひとつは、軍政がNLDや学生の政治活動を封じ込めることに成功し、そのことに絶大な自信を抱いたことである。これは国内治安に対する自信であると言い換えてよい。この国内治安の「安定」は、国連人権委員会で1991年以降毎年のように批判され続けている国民へのさまざまな形の人権抑圧と、高等教育に対する軽視によって実現されたといえる。
 1988年9月18日の登場以降、軍政はNLD党員や学生活動家らに対する逮捕・連行、捜査機関での拷問、一審のみの裁判、刑務所内における不衛生な環境、党員の家族や親族に対する生活妨害などを通じ、反対勢力を排除・弱体化させていった。また学生の政治活動排除のため、軍関係と医学関係・通信教育を除くほとんどすべての大学を、1996年12月から2000年7月まで47ヶ月にわたり閉鎖し、再開後も郊外にキャンパスを移転して学生が市民と合流できないようにするなどの強硬な施策をとった。このほかにも、道路・鉄道工事などの公共事業に地元住民を強制動員する体制を築きあげ、行政の要である公務員の思想統制を強めるなど、国民に対する引き締め強化にまい進した。
 これら一連の成果に自信を抱いたからこそ、軍政はこの時期において、アウンサンスーチーとの交渉を有利にすすめることができると判断し、対話に踏み切ったと考えられるのである。

 もうひとつの国内的要因は、長引く経済停滞である。ビルマでは1992年から外資導入に支えられたGDPの順調な成長が見られるようになったが、1996年後半には早くもそれは停滞に見舞われる。さらに翌97年後半以降は、東・東南アジアを襲った通貨危機により、それまでビルマに積極的に投資してきたシンガポール、マレーシア、タイなどのASEAN主要国の企業が撤退したり新規の投資を凍結したりした。この時期、米国も国内世論の高まりに基づき、人権抑圧への不快感表明の一環として対ビルマ新規投資を全面的に禁じる制裁措置をとった。よって米国資本の激減はもとより、米国との貿易やビジネスを優先する企業がビルマへの投資を手控えるという現象も一部に生じた。ビルマの国内経済は不振の一途をたどるようになり、年率40%台のインフレが進行、外貨準備高も危険水準に達するようになった。
 こうした経済の停滞は、ASEAN主要国が経済回復基調に戻り始めた1999年以降も基本的に変わっていない。そうしたなか、軍政としては、冷え込んだ海外からの投資を呼び戻すために、国際社会が注視しつづけている自国の政治状況の改革を図る姿勢を対外的に示すことが得策と考え、本来はおこなう気のなかったアウンサンスーチーとの直接対話に、今回敢えて踏み切ったものと考えられる。そして、そのとき、先述の彼らが築き上げた強力な国内治安体制は、軍政側に対話に伴う政治的リスクをさほど感じさせないだけの自信を与えたものと判断されるのである。

 一方、対外的要因としては、マレーシアの関与が指摘できる。ラザリ・イスマイル国連事務総長特使(ビルマ担当)はマレーシア国籍であり、同国のマハティール首相に近い人物で、同首相が彼の就任を強く国連事務総長に推したといわれている。ビルマの人権問題を原因とするASEANと米国・EUとの関係(特に経済関係)の停滞を克服するために、マハティール首相がビルマの軍政当局にアウンサンスーチーとの対話開始を進言した可能性は非常に高い。
 ビルマとしては、1997年7月以降ASEANの一員になっている手前、ASEAN全体の地域利益に反する事はできにくいという状況があり、また、米国やEUの圧力には反発しても、ビルマに対して「建設的関与」政策をとってくれるASEAN加盟国からの「忠告」には耳を貸さざるを得ないという面があったものと思われる。ASEAN主要国のひとつであるマレーシアとしては、ASEAN地域内の問題を、米国やEUの介入によって解決するのではなく、自分たちの(地域内の)力で解決させたいという思いが強く、それは微妙な温度差を伴うとはいえ、他のASEAN諸国も基本的に同意しているように見受けられる。

2 対話成功までの予想されるハードル

 それでは、今回の対話は成功の可能性が見込まれるものなのであろうか。キンニュン第一書記とアウンサンスーチーNLD書記長との直接交渉が対話の核となっているとはいえ、そのことだけで成功への道筋が保証されているとは言い難い。逆に、予想される対話成功へのハードルはきわめて高いといわざるを得ない。ここでは、そうした乗り越えなければならないハードルについて考えてみたい。

(1)第一のハードル
 まず、相互の信頼回復・醸成という最初の段階(現在の段階)に、いったいどのくらいの時間がかかるのか、そしてその成果は実際に挙がるのか否か、それが第一のハードルとなろう。これに失敗すれば、すべては水泡に帰すと言っても過言ではない。1-(1)で述べた3つの点を中心に、双方の信頼回復・醸成のための対話が進められているものと想像されるが、これまでの両者の対立における根の深さ、とりわけ軍政側がNLD、特にアウンサンスーチーを徹底的に敵視してきた経緯があったことを考えると、相互不信の溶解はそう簡単なことではなく、時間は相当にかかるものと思われる。そして時間がかかればかかるほど、国民と国際社会がこの対話に抱く期待も薄れ、逆に懐疑の度合いが高まっていくことになる。逆に、このハードルを乗り越えることができれば、対話の進展にかなりの期待が持てるようになるであろう。

(2)第二のハードル
 難しい第一ハードルを無事乗り越えた場合、次に直面するのは、NLDの制憲国民会議への復帰問題という、第二のハードルであると予想される。
 制憲国民会議(アミョウダー・ニーラーガン)とは、NLDが議席の80%強(定数485議席のうち392議席)を獲得して圧勝した1990年5月の選挙結果を事実上無視した軍事政権が、その後、新憲法制定の草案審議の場として、選挙結果とは別個に選んだ700余名のメンバーをもって発足させた会議のことである。
 軍政が示したシナリオでは、
 (1)まずはこの会議で軍政が提出した素案を基に新憲法の草案をまとめ、
 (2)その後、1990年選挙で当選した議員から構成される正規の人民議会(軍政の解釈によれば制憲議会)を開催、
 (3)提出された憲法草案を原案とする審議をおこなって可決し、
 (4)それを軍政側が再確認のうえ、正式の憲法案として国民投票に付託、
 (5)承認の後に公布・施行、という段取りをふむことになる。


 制憲国民会議は1993年1月に発足し、その後、何度もの長期休会をはさんで、現在まで継続している。NLDは1990年の選挙後、ただちに早期政権移譲を軍政に求めたが、拒否され、この軍政側のシナリオへの恭順を強制された経緯がある。軍政は制憲国民会議のメンバーに、NLDの当選議員から90名近くを任命した(会議メンバー全体の12%強)。
 NLDは当選議員による人民議会の早期開催を要求しつつも、当時の完全に活動を封じ込まれた環境の中で、軍政が用意したこの会議に参加する道以外、党の意思を政治に反映させる選択肢を見出せなかったため、加わることになった。しかし、発足後3年近くたった1995年11月、NLDは制憲国民会議における非民主的な審議方法へ反発を強め、党中央執行委員会の最終判断のもと、メンバー全員の出席拒否を決めた。それに対し、軍政はすかさず彼ら全員を除名するという対抗措置に出たため、それ以降、制憲国民会議にNLD関係者はいっさい関わっていない。

 軍政としては、政治改革に努力している姿を国内外に見せるためには、この制憲国民会議での憲法草案審議にNLD関係者を復帰させ、憲法草案が国内諸勢力の参加によって「民主的に」審議されていることを示したいという意向があると考えられる。しかし、NLDとしては、非民主的な審議のやり方を改革するよう軍政側に求めたにもかかわらずそれを拒否されたため、1995年11月、やむなく会議への出席を拒否するに至ったという経緯がある。
 したがってこの復帰問題は、同会議の審議の方法に関する具体的な改革案が示されない限り、アウンサンスーチーにとって前向きに考えるべきトピックとはなりにくい。また、現在、憲法草案はその3分の2程度までが審議を終えている段階にあるが、仮に制憲国民会議における審議方法の改革が民主化されたとしても、その新しい方法に基づいて、すでに審議を終えている部分についてもそれをやり直すのか、それとも未審議の部分についてのみ適用させるのか、という問題も生じてくる。アウンサンスーチーはすべての審議のやり直しを求めるであろうし、軍政側はそれに抵抗を示すであろう。

 さらに、アウンサンスーチーがもし、より原則的な立場に固執するのであれば、制憲国民会議そのものを認めないとする本来の姿勢に基づき、当選議員による人民議会の早期開催を強く主張し、会議への復帰問題自体を対話のトピックとして拒否することも考えられる。NLDは先述のように、1998年9月から、当選議員の過半数から委任状を得たことを正統性根拠に人民議会代表者委員会を発足させ、「議会」を「代行開催」している。これに対する軍政の反発は非常に強く、当然、今回の対話においてもこの委員会の解散を求めてくるものと想像される。しかし、アウンサンスーチーとしては、容易にこの委員会の解散に応じるとは思われない。この段階で、両者の対話が頓挫し、ふたたび敵対関係に入るという可能性も低くない。

(3)第三のハードル
 第二のハードルの延長線上には、当選議員によって構成される正規の国会、すなわち人民議会をめぐる役割の問題という、三番目のハードルが待ち構えている。これは1990年5月の総選挙時にまで遡る問題である。当時、総選挙の直前から、軍政はこの選挙で選ばれる議員は制憲議会の議員として扱われる旨、ほのめかしていた。実際に軍政は、NLDが圧勝したあと、当選議員によって構成される人民議会は新憲法の制定という役割のみを持つと言明し、さらにその憲法制定の役割についても非常に限られたものにした。
 すなわち、先述の制憲国民会議の開催を優先し、人民議会はそこでつくられる憲法草案をあとから審議し承認する場に過ぎないと位置付けたのである。制憲議会であるならば、草案段階から憲法作成にかかわっていくのが一般的だと思われるが、軍政はそうした考えをとらず、草案はあくまでも議会とは別個の制憲国民会議でつくると主張したわけである。

 アウンサンスーチーが原則主義に立ち続ければ、1990年5月の総選挙は人民議会の議員を選ぶ選挙であり、NLDが圧勝した以上、議会を開催し、政権委譲に関する議題を即時とりあげるのが筋であると主張するであろう。逆に、もし、現実の政治状況に鑑み、妥協すべきであると考えるならば、こうした主張は控えるものと想像される。ただ、妥協に応ずるにしても、人民議会が制憲国民会議から出されてくる憲法草案を審議するだけの議会であるという解釈には、そのままの形で同意するかどうか微妙である。
 彼女としては、人民議会は憲法制定に関する審議の後、1990年5月総選挙の当選議員によって引き続き立法府としての役割を一定期間担い、しかるべきのち、新憲法に基づく制度で総選挙を行うべきであると主張する可能性がある。
 また何よりも、総選挙後の10年間で軍政側が多くのNLD当選議員の資格を剥奪し(2000年5月27日現在、軍政側の発表で185人。ただし一部非NLD議員を含む)、そのほか圧力を加えて辞任に追い込んだ議員も数十名にのぼるなか、そうした議員たちの資格回復を彼女が強く求めてくることは必然と考えられる。その場合、軍政側にそれを受け入れ、これまでの彼らのシナリオを修正する決断が下せるかどうか、その度量が問われてくることになる。

(4)第四のハードル
 もうひとつのハードルは、新憲法承認のための国民投票に関する問題である。軍政は人民議会において新憲法案が可決されたら、それを軍政側がもう一度チェックしたうえで、最終的に国民投票に託し、承認を得るというシナリオを1990年の総選挙後に公表している。しかし、総選挙でのNLD人気は軍政に対する強い国民の不満表明でもあり、その同じ国民が、軍政主導でつくられた憲法案に対し、仮にNLDが多数を占める人民議会で最終的に可決されたものであるとはいえ、簡単に賛成票を投じるかどうかは微妙なところであろう。仮に賛成票が反対票を上回るにしても、過半数ぎりぎりであったりすれば、国民の承認を得る儀式としては対外的にみっともないことになる。軍政はここ数年、国民投票については口を閉ざしており、彼らの本音としては、おそらくこれを省略し、議会での可決と軍政側の承認をもって、新憲法の公布・施行に持っていきたいと考えているのではないかと想像される。もし、そうしたことを対話において示唆すれば、間違いなくアウンサンスーチーの反発を買うことになるであろう。

(5)連合政権?
 以上が対話の過程において予想されるハードルであるが、一方、信頼回復・醸成の第一ハードルを両者が乗り切った後、双方の和解姿勢が強まり、一気に国軍とNLDとの暫定連合政権づくりというレヴェルにまで話が進むという可能性も否定はできない。ビルマ国民の一部がそうした噂を好むのも、そうなって欲しいという期待があるからこそだろうが、まったく実現性のない話とは言いきれない。
 ただし、暫定連合政権の樹立は、軍政とNLD双方に単なる妥協を超えた大変な痛みと覚悟を伴う話となる。そもそもアウンサンスーチー一人の判断だけでNLD全体を説得できるのかという問題が起こりうるし、軍政も内部でキンニュン第一書記を中心とする派とマウンエイ副議長を中心とする派との対立を抱え、また国軍内に世代間の対立(若い世代ほど強硬派が多いと指摘される)が生じていると言われているので、一枚岩的に対応できる可能性が高いとはとても言い切れない。


 また、暫定とはいえ、もし連合政権を組むという話になった場合、それは軍関係者とNLDメンバーで内閣を構成することと同義であるから、国軍は国防にのみ専念するのが義務であると考えるアウンサンスーチーにとって、大きな譲歩をおこなうことを意味する。アウンサンスーチーは、どのレヴェルまで軍関係者を閣僚として受け入れるか、すなわち、国軍の政治関与をどの程度まで暫定的に認めるかという問題を考慮しながら、大臣ポストの割り振りという生々しいやりとりに巻き込まれることになる。
 軍政はまちがいなく重要ポスト(国防・内務・外交・教育・辺境開発・財政・経済関係)をすべて確保した上で、政治的にマイナーなポスト(労働・厚生・宗教関係)だけをNLD側に渡そうと考えるであろう。そもそも軍政が今回のタイミングでアウンサンスーチーとの直接対話を開始したのは、1-(2)で述べたように、治安維持への自信に基づいた政治的リスクの少なさという判断があったからであり、けっして閣僚ポストの多くをNLD側に割り振るような妥協を行うために開始したのではない。よって、軍政が閣僚ポスト配分の面で妥協に応じることは考えにくい。これに対し、アウンサンスーチーは抵抗するであろうから、両者の溝が埋まる可能性は少ないとしか言いようがない。


 このように、仮に対話が一気に暫定連合政権樹立へ向けたレヴェルにまで進んだとしても、両者が納得し、かつ両者が属する集団(軍政の場合は国軍、アウンサンスーチーの場合はNLD)を説得することが可能となるまでには、非常に高いハードルをクリアしないといけないことになる。

3 軍政とアウンサンスーチー ― 国家観と民主主義をめぐる両者の共通点と異質点

 さて、これまでは、対話の過程において予想されるハードルについて触れてきた。それは同時に、軍政とアウンサンスーチーとの間に横たわる認識の相違を示すことでもあった。しかし、ここで誤解のないように指摘しておきたいのは、軍政(=国軍)とアウンサンスーチーおよびNLDとの間に横たわるビルマの国家のあり方(国家観)と民主主義のあり方をめぐる認識には、本質的な部分で共通するものが見られるということである。両者の対立関係が強調される言説が多いなかで、このことは見落とされがちであるだけに、最後に触れておきたい。そして、その共通点を指摘した上で、あらためて両者の違いがどこにあるのかを見ておきたい。

 第一に、両者の国家観についてである。軍政もアウンサンスーチーも、ビルマ連邦はひとつであり、分裂はあってはならないと考える。これは、Burma as a nation (ひとつの国民としてのビルマ)という認識を大前提とする認識であると言うことができる。この表現は筆者によるものだが、「ビルマ国民」という「ひとつの共同体」が存在することを大前提とし、そのことをまったく疑わず、よって分裂はありえないとする、このBurma as a nationという立場は、ビルマが抱える少数民族問題の解決という観点から見た場合、大きな障害となりかねない。
 なぜならば、これまでの歴史的経緯から見て、独立以降長期にわたってビルマ中央政府を悩ませてきた少数民族のなかの反政府武装勢力とそれを支える人々の間では、連邦から分離しようとする場合はもちろんのこと、ビルマ連邦に残る(加わる)決断をする場合にしても、それは自らが「ビルマ国民」としてアイデンティティを確認するからそうするのではなく、自民族の政治的・経済的都合によってそう決断するにすぎないと言えるからである。

 国軍としては、いままでどおり、少数民族の分離指向や中央との武装闘争指向・非協力指向に対しては、徹底した武力による対抗措置をとるか、開発計画を持ちかけて停戦協定を結び、見かけ上の平和を作り出そうとするであろう。よって表面的な国家の物理的維持は可能となるが、問題そのものの本質的な解決はなされず、常に少数民族問題においてぴりぴりしたものを持ちつづけることになる。
 これに対しアウンサンスーチーは、連邦制の在り方をめぐる少数民族との徹底した話し合いの実施を1990年の総選挙の前から訴えている。この点が軍政(=国軍)と大きく異なる点であるが、しかし、この徹底した話し合い(アウンサンスーチーの表現によれば「第二のパンロン会議」)なるものも、ビルマに住む人々が「ビルマ国民」という「ひとつの共同体」であるということを前提とするものである。すなわち、人々が特定の(少数)民族であることを主張する前に「ビルマ国民」であることを認識し、そのことを大切にし、同時に人権の擁護と民主的な諸制度の整備に積極的に努力すれば、おのずと諸民族が相互に尊重・協調しあう関係ができあがるはずだ、という考え方に基づいているのである。
 そのアウンサンスーチーが、もし少数民族の中には「ひとつ」の「ビルマ国民」というものをまったく認めない立場があるのだということに気づかされた場合、その人々をも平和的手段で包み込んで、連邦の一員にしておくことができると考えるのかどうか、その回答は現時点では見えてこない。話し合いが決裂したとき、国軍同様、武力に訴えるという可能性はあり得るかもしれない。

 第二に、両者の民主主義観を見てみたい。ここでも、見落とされがちとはいえ、基本的な面で共通点が見られる。それは、軍政もNLDも、共に議会制民主主義における「党派政治(パーティー・ナインガンイェー)」を危険なものとして認識し、それが国家の分裂や衰退をもたらす、とみなしている点である。議会制民主主義体制において、党派の対立(党利党略)がはびこると、民主主義自体のみならず国力そのものが弱体化していくと両者はみなしているのである。「党派政治」への対抗概念として、軍政は「国民政治(アミョウダー・ナインガンイェー)」という言葉を用い、NLDは「国民の大義(アミョウダーイェー)」という言葉を使って、それぞれ、党利より国民全体の利益を優先させる民主主義を重要なポイントとして訴えている。

 こうした両者の共通する考え方を支える基盤には、共通の歴史認識が見られる。それはアウンサン将軍の時代、すなわち、抗日闘争を展開し、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が中心となって、復帰してきた英国とねばり強い独立交渉をおこなった時期(1945年~48年)、国民は「完全独立」という国民全体の利益を優先させて団結したので、力が強まり、早期に独立を達成することができたとする歴史認識である。
 これは一方で、独立後のビルマが、与党としてしっかり国造りに取り組むはずだったAFPFLが、党利党略と幹部たちの私利私欲のために分裂に陥り、国を混乱に陥れることになったという認識と対をなしている。こうした歴史認識は、両者の発言の中に共通して垣間見られる。ただしアウンサンスーチーは、独立後の混乱の原因について、AFPFLの堕落というひとつの理由だけに帰することはせず、1962年以降、国軍が政治の表舞台に登場して、本来介入してはならない政治に本格的に介入し様々な問題を起こしたからという、もうひとつの理由の方を強調している。この点は当然、軍政(=国軍)と異なる。

 軍政は、今後ビルマで議会制民主主義を復活させる場合、「党派政治」への堕落を阻止する監視役として国軍が必要であると考え、そのため、新憲法づくりにおいて、国軍の特別の権利と権力を認めさせようとしている(たとえば議会の定員のうち25%を国軍関係者に割り当てる、大統領と二人の副大統領のうち最低一人は国軍関係者にするという規定を盛り込むなど)。一方、アウンサンスーチーは、「党派政治」への堕落を防ぐ基本的手立てとして、「真理の追究」という概念を用い、国民の民主主義と愛国心への強い自覚に期待し、その自覚に基づいた全体の公益を重視する徹底した対話を通して、諸問題の解決を図るという姿勢を強調する。この点が国軍と異なるところである。

 ちなみに、彼女が言う「真理の追究」が何を意味するかについては、アウンサンスーチー(著)・大石幹夫(訳)『希望の声―アラン・クレメンツとの対話』(岩波書店、2000年)の第3章にわかりやすく説明されてあるので、参照されたい。この本におけるアウンサンスーチーとアラン・クレメンツとの対話は、読者に対し、彼女がたいへんに柔軟で、政治家としての資質を持ち合わせていることを感じさせるものとなっている。ビルマの政治に関心を抱く人々の中には「アウンサンスーチーは頑固で融通が利かない、政治家には向かない」といった言説に支配されている者をみかけるが、その認識が誤っていることを知らされる本でもある。

付記:なお、アウンサンスーチーについては、拙論「アウンサンスーチーの思想的特質―『恐怖に打ち勝つ自己』と『真理の追究』」(『アジア文化研究』別冊10、国際基督教大学アジア文化研究所、2001年3月、所収)において論じてあるので、必要に応じ参照していただければ幸いである。


(ねもとけい、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授)