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社会

檻のない刑務所~ある元政治囚の「日常」
1998年1月1日配信 ボーチー

檻のない刑務所~ある元政治囚の「日常」

ボーチー [1]

 周りに聞こえるように大声で叫んだ。「ドー・アウンサンスーチーと同じだ。俺は自宅軟禁されている!」 過去にこんな光景を見たことのある近所の人は少なかった。
 行動が制限され、生計が立てられなくなる。名誉が傷つけられる。自由に集まり、話そうとすれば厳しい嫌がらせが待っている。こうした状況は刑務所の中だけの話ではない。刑務所から「釈放」された後も、私はしばしば、母国の他の元政治囚と同じように、自分が依然として獄中にいるような気分になった。

見つからない仕事

 一回目の投獄から釈放された後 [2]、困難な状況はまだ終わりではないこと気づいた。私は生活のためにコピー屋でバイトを始めた。すぐに軍情報部の人間がやってきて、オーナーをこう尋問した。「なぜ彼を雇った? 政治家だったことを知らないのか」。

 市井の商売人にとってこれはかなり危険な言葉だ。店は私を解雇したくはなかったが、そうした。職と収入を失ったため、当然学業を続けるのが非常に難しくなった。私はラングーン文理大の学生でビルマ文学を専攻していた。

 次の仕事を見つけようと民間会社にいくつか応募してみた。書類には次の設問があった。「これまで政治活動に参加したことがありますか?」。「元政治囚」と書いた瞬間に就職はお断わりだった。会社で就職口を探すのが無理なことはすぐにわかったので、塾講師をやることにした。

 だがこうした類の仕事は情報部の気に入らなかった。彼らは可能なあらゆる手段を使って、私が学生に教えようとするのを妨害した。情報部は定期的に自宅にやってきて、あからさまにこう言った。「君が教師をやるのが気に入らないのだ。なぜって君が1988年の学生蜂起の指導者の1人だからだよ」。そして国営新聞に「獄中では非常によい待遇を受けた」という題で記事を書かないかと持ちかけてきた。国外で仕事を見つけてはどうかとも提案してきた。彼らは私をビルマから追い出したかったのだ。

 教師をやるのが気に入らないという最初の話題については「そっちが生活費を支払うのなら喜んで自宅にいてもいい」と答えた。そして提案についてはこう言った。「国営紙に記事を書くことはできない。いや実を言うと記事を書きたくてたまらない。ただし真実に基づいた記事を書く。嘘は書けない」。そしてビルマ人である私を国外に追い出す権利は彼らにはないと付け加えた。

 皮肉な答えに彼らは怒り出した。1人は私のことを心配しているふうを装い、脅迫を始めた。「もう一度刑務所に行きたいのか。こっちから君に話をしているのは、取引しようと思ってのことだ。君の身を案じているからこそ、こうやって話を持ちかけているんだろ」。

 私はこう返した。「出獄する前から俺を買収しにくるのはわかってたよ。答えは前から決まっている」。しかし独裁者というのは真実を決して聞きたがらない人間のことだ。

情報部の脅し

 私は言葉を続けた。「兵士と学生は敵じゃない。お互いに国を愛している。しかしあんたの上司は約束を守らなかった。約束を守らない組織や人間と取引するのはごめんだ。もし好き放題する権利があるのなら、持ってきた銃で俺を殺せばいいじゃないか。一発で十分だろ。逮捕したいならご自由に。だけど取引は絶対にしない」。家から出て行くよう大勢の前で言い渡した。いたたまれなくなった彼らは去っていった。

 こんな調子で話をしたことに感動した人もいて噂が広まった。役人にきつく言ってやりたいのは皆同じだが、怖くてできなかったのだ。友人と家族からは気をつけていないと捕まると注意された。しかしその翌日も授業を続けた。すると今度は教え子たちが警察署に連れて行かれ、私と政治の話をしたことがあるか、私から反政府のオルグを掛けられたかと尋問された。尋問された経験のない教え子たちはおびえた。しかも情報部は親まで呼び出し、なぜ子どもに政治家の授業を受けさせているのかと尋問した。にもかかわらず子どもたちは私の授業に引き続き出席した。

 その日は父も呼び出しを受けた。私を監視するように命じられ、監督は父親の責任だと言い渡された。

 しかしなぜ家族と私が今になって取引をしなければいけないのか。私は刑期を終えていた。しかも犯罪ではない行為への処罰によって投獄されていた。だが政治活動家は現政権にとって脅威なのだ。自分たちを守るため、政権は私たちを惨めにする必要がある。政治家になることを選んだのは私であって、家族ではない。私のせいで家族が苦しまなければいけないことを申し訳なく思った。

 仲間の多くもまったく同じ経験をしている。多くが現在タイに住み、自宅を離れている。家族を危険な状態に置きたくはなかったからだ。私たちは母国で囚人だった。そして今、国外に締め出されている。

 一連の脅迫が終わってからしばらくは、情報部とのトラブルも一切なく平和な日々が続いた。しかしある日、問題が再び持ち上がった。小さなレストランで友人の誕生会に出席していたときのことだ [3]。皆の間に楽しい雰囲気が満ち、「ハッピー・バースディ」を合唱した。しかしその楽しさも15分後には終わりを告げた。悪い知らせだった。

 全員が動揺し、不安な表情を見せた。同情のまなざしが私に注がれ、多くの質問がやってきた。「これからどうする?」「逃げようとは思わないの?」
 「なんで逃げなきゃいけない?」と叫んだ。何も悪いことはしていない。向こうには俺を投獄する権利などない。
 「今は家に帰るな。軍、警察、それに区長がガサ入れに来ている」。親友の1人が大急ぎで知らせてくれた。

 しかし私は家に戻った。そして彼らは私を見つけると、質問せずに前に座るように命じた。区長が捜索令状を持っていた。そして私は秘密の場所に連行された。そのことを知った両親は泣き出し、軍の人間になぜ私を連行したのかと尋ねた。「静かにしていろ」という返事だった。

 連行先では容疑者のような扱いを受けた。役人5人が私の向かいにテーブル越しに座った。私は足を組んでいた。彼らの叱責にあった。「被告人のように座っていろ」。
 「犯罪人のような扱いはやめろ。俺は塾の講師だ」と抗議し、「その書面によれば俺は話をすることになっている。尋問ではない。だから話をしよう」。身体は怒りに震えていた。

 議論を交わしていると、隣の部屋から元政治囚の声が聞こえた。取調官たちは、前日にラングーンの繁華街で起きた小さなデモの背後に私たちがいるのではと勘ぐっていた。しかしその話は聞いたことがなかった。向こうは私が関係しているかと尋ねた。
 尊厳を貫き、彼らの脅しには屈しないと心を決めた。「俺は関係ない」と言った。
 しかし彼らはその答えを信じなかった。そして「もしお前が関係ないのなら、誰が行動を組織したのか知っているはずだな」と言う。

 もう一度言った、「関係ない」と。そして「もし知っていたとしても、お前らには言わない」と付け加えた。
 「3年間の刑務所暮らしからちっとも学んでいないようだ」と別の軍人が口を開いた。彼は「もう一度ぶち込まれたいようだな」と続けた。
 私はとうとう彼にこう言ってやった。「もしあんたが俺を好きにする権利があるというのなら、好きにすればいい。俺はその件には関係ないから質問にはこれ以上答えられない。平和的なデモを誰が組織したか俺は知らない。軍情報部はそういうのを調べるためにあるんだろ。もし情報部を解散するっていうのなら、取引してやってもいいけどな」。

 この時点で、他の政治囚たちが、たった数分間尋問されただけで自宅に帰されたのが聞こえていた。連行されてからすでに4時間以上が経っている。釈放されないことに不安を感じ始めた。
 彼らはやり方を変え、今度はニンジンをぶら下げてきた。「君と取引がしたい。私たちは国民のために君を必要としている」と主任。
 私の答え。「軍と取引したいと本当に思っている。ただし軍人が約束を守ればね。でなければ取引はしない」。

 この答えに主任は激怒した。そして、それは自分たちが嘘をついているという意味なのかと尋ねてきた。私は「これまでのことを考えてみれば自ずとわかるはずだ」と怒鳴った。約束を守らない組織や人間と取引する気などない。上から次の命令があるまでこの場所で待機するように告げられた。

 小さな部屋に入れられ、完全装備した2人の兵士が私を監視した。私たちは言葉を交わした。1人は高校生だった。私が教師であることを知っており、とても敬意を払ってくれ、私のことを「サヤ」(先生)と呼んだ。彼は毎年英語の試験に失敗していると打ち明け、私に教えてくれるように丁重に頼んできた。こうして会話を交わしていて、私の中にこの若い兵士たちへの共感が突然芽生えた。彼は私に謝罪した。「あなたを監視したくはないのですが、兵士である以上は命令に従わなくてはならないのです。私には、教師であるあなたが連行される理由が理解できません」。

 私は彼にこう言った。「君のことはわかるよ。いつか国のために一緒に働く日が来るだろう。しかし今、君は自分の義務に従わなければいけない。もし君が私を殴るよう命令されたとしても、私は君に腹を立てたりはしない」。彼を面倒に巻き込みたくはなかったので、横になった。

 朝の6時、役人たちは私を起こし、基本的には自宅軟禁状態で過ごすという条件の下でなら、帰宅を許可するという提案を出してきた。私には毎日夕方に区長に一日の活動を報告する義務ができた。囚人でなく、何も悪いことをしていないにもかかわらず、彼らは私の行動を監視したいのだった。そして私は家に戻ったものの、命令には従わなかった。

 その2日後はビルマにとって歴史的な意味を持つ日だった。1962年7月7日、当時のネウィン政権はラングーンの学生会館を破壊した。1994年のその日、地元当局は私が何かしでかすのではないかと非常に神経質になっていた。区長に自分が何をしているのか見せたかったので、彼を家に招いた。他の話題でしばらく会話をしていたが、するとすぐに銃を持った一個小隊が自宅前の通りに展開した。まず私は言葉を発することなく様子を見渡した。そして兵士たちをからかった。「そっちの任務は俺を監視するだけだろう。だったら通りをうろつく必要はないじゃないか」。そして周りに聞こえるように大声で叫んだ。「ドー・アウンサンスーチーと同じだ。俺は自宅軟禁されている!」 過去にこんな光景を見たことのある近所の人は少なかった。

 その夜、司令官の書簡を受け取った。話がしたいのでラングーン郊外のチャイッカサン・パコダまで来るようにという内容だった。

逮捕理由:作詩

 その夜は寝付けなかった。朝早くに母が静かに私の部屋に入ってきた。部屋には家の仏像が置いてあった。母が私の蚊帳を上げていたとき、私は寝ているふりをした。仏像の前に座った彼女はお経をあげ始めた。だが集中できない。母は唱えるのを止め、私の方に再び目をやった。今度は私が目を開けた。静かに言葉を交わす。母は大佐との話し合いを目前にした私を励ました。そして「事を荒立てないように、逮捕されないようにできるだけ頑張るのよ」と言った。自分がどうしなければならないかはもうわかっていたが、母を心配させたくはなかった。そして大佐の言う通りにすると約束した。お願いだから、と言う母の柔和な顔は涙で一杯だった。その顔は今でも覚えている。

 私はある高官との個人的な会見の場に出向いた。席に着くなり、向こうは自分の手を私に見せてきた。占星術によれば、彼の手相には生涯で多くの人を殺害する相が出ている。
 私は「情け容赦なく大勢の人を殺す相が出ています」と言った。
 「そうだ。この相が何を意味するか私は知っている。私が瞑想するのはその悪い気質を抑えるためだ」と答えが返ってきた。

 私は言葉を続けた。「あなたは司令官です。あなたの言葉と願いは多くの人々の人生を左右します。しかし決定を下す際には気をつけなければなりません。もしあなたが人々を動かしたいと望めば、命じられた人々は動かなければならないでしょう。もし誰かを刑務所に入れたいと望めば、その力があります。たとえ投獄する証拠がなかったとしてもね」。

 彼と私は2、3時間、2人きりで話をした。彼は多くのこと、例えばSLORC [4]が現在何をしているか、を説明してきた。そして私になぜ、人々が国営新聞や国営テレビの情報を信用しないのか、BBC、DVB、RFA、VOA [5]を好むのかと尋ねてきたので、人々はSLORCがいつも嘘をついていると思っているからだと答えた。

 自分の手を顔の前に持ってくれば、あなたは一方の側、私はもう一方の側を見ることになる。私たちのどちらにもその手は違って見える。しかし手を横にすれば、私たちは手の裏表を一度に見ることができる。軍情報部は私が彼らに協力し、彼らの側に立つことを望んでいる。しかし私は彼らにもう1つの側、人々の側に立ってほしいと考えている。私たちはその両者の間で会わない限り、協力することはできない。

 彼は情報提供者にならないかと持ちかけてきた。彼がドー・アウンサンスーチーと会談し、ミンコーナインを始めとする学生政治囚を釈放するなら、そうしてもいいと答えた。しかし彼は私の提案を無視した。私も彼の提案を無視した。話し合いは平行線だった。私は家に戻り、塾講師の仕事を続けた。

 数日後、軍、警察それに情報部が令状なしに自宅に踏み込み、私を秘密の場所に連行して3編の詩を見せた [6]。1988年の反乱のとき、私は全ビルマ学生会連合(ABFSU)が発行するオーウェー誌の編集長だった。私はそのときの出版物をいくつか自宅に取っておいていた。彼が見つけた詩は私が書いたものではなかったが、私は自分のものだと言った。もし自分のものではないと答えたら、おそらく父が逮捕されただろう。そして彼らは私を逮捕しようとしている。

 その翌日はワールド・カップの決勝戦、ブラジル-イタリア戦が控えていた。私はどうしても試合が見たかった。彼らに試合が終わるまで逮捕を延ばしてくれと頼んだ。しかし願いもむなしく私は警察所に留置された。翌朝にはもう1つの、秘密の話し合いが待っていた。彼らはパゴダで会って話をしたときとまったく同じ脅迫と説得を繰り返した。しかし今回は新しい要素が加わった。彼らは私にこう尋ねてきたのだ。「君の家の借金ね、返済計画はどうなっている?」 もし彼らに協力するなら、向こうが家の借金を肩代わりするというのだ。

 2つの道のどちらかを選ばなければならなくなった。刑務所に行くか、闘争を裏切るかのどちらかだ。両親と妹弟たちのことが気になるのはもちろんだが、経済面での安定と引き換えに不名誉な人生を送るのは誤った取引であることもわかっていた。最終結論を出した。「刑務所に行く」。私たち元政治囚は刑務所内での生活の過酷さをよく知っている。再び投獄されることを誰よりも恐れてさえいる。しかし私たちに与えられたもう1つの選択肢、情報部の情報提供者になる道を選ぶということは、民主主義と人権のために死んでいった人々を裏切ることを意味する。

 その日の午後、警官は上司からの指令で私を留置所に入れた。第5条j項違反 [7]、詩3編で人心を惑わせた容疑だった。

 この3編の詩句を諳んじることができたらよいのだが、もう思い出せない。しかしその詩が私たちにとって持つ意味はしっかり覚えている。

 「一番悪いやつは誰だ」は、我が国を抑圧した3つの政権―英国政府 [8]、ヌ首相下のAFPFL(パサパラ=反ファシスト人民自由連盟) [9]、ビルマ軍事政権(当時はSLORC)―を比較している。私たちは国民を苦しめてきたこれらの抑圧的な政権のうち、SLORCが最悪だという結論に達した。

 「戦う孔雀は独裁制を粉砕する」は、ボー・アウンチョーら独立運動期に犠牲となった学生たちを称えたものである。彼は平和的なデモの最中に英国政府に殺害された。私たちは目標を達成するまで戦い続けることを誓った。目標は変わらない、抑圧的な支配者からの自由である。

 「三人の友人」は、ミンコーナイン [10]、モーチーズン [11] と筆者に言及している。この詩は雨季を描写している。とても冷えるとき、私たちは刑務所にいる同志たちが眠れているのかどうか心配になる。その同じとき、モーチーズンのような別の同志たちは湿ったジャングルの地面を床にする。そして私たちはといえば、恐怖の中で生活し、動物のように支配されている。現在もビルマ国内にいる「ボボ」というペンネームの同志がこの詩を作った。

 留置所の中で他の刑事犯と一緒になったが、彼らは私に触れもしなかった。私のことをVIPだと思ったようだ。すでに警官たちもまた、私に一言でも言葉を掛けることを恐れていた。なんと彼らは、私が彼らを叱責し、侮辱すると考えていたのだ。今度は非常にいい処遇を受けた。問題といえばサッカーの試合を見逃したことだった。

 1998年10月に釈放されるまでの間、私は4年半獄中にいた。獄中にいたときにひっきりなしにやったように、釈放後も情報部は私にたびたび意見を求めにやってきた。例えば、軍事政権が1999年にNLD批判集会へ市民を強制動員した後、彼らは私にどう思うかと尋ねてきた。私はこう答えた。

 「不公平だ。なぜNLDにチャンスをやらない?」
 「それで現政権をどう思うかね。」
 「クーデター政権だろ」と単純な答えを返してやった。

恋人との別れ

 幸せな未来への望みが絶たれていることに気づく元政治囚は多い。投獄されたときには恋人、婚約者そして家族に別れを告げなければならないからだ。

 高校を卒業してから(1983年)、私には恋人ができた。2人でいつか結婚するつもりだった。しかし私たちの関係は1988年に問題にぶつかった。私は政治に関わったが、彼女としては私が活動をやめ、民間企業で働くことを望んでいた。私たちの未来が明るいものとなるのを願ってのことだ。政治活動に関わる理由を説明し、彼女の理解を得ようと努めた。だが彼女はその翌年、私に決断を迫った。もし政治活動を続けるなら、私とは別れて別の人生を選択すると言うのだ。決断することができなかった私はこう答えるしかなかった。「自分で決めてくれ」。

 私は学生会連盟の仕事で忙殺され、ほぼ3カ月間連絡が途絶えた。そして1990年3月に私が逮捕されたとき、彼女はそのことを知らされなかった。家族が私の居場所を見つけ出し、インセイン刑務所に何とかして面会しに来たとき、彼女はすでに別の誰かと結婚していた。1993年に釈放されたとき、別の恋人ができた。しかしまたしても政治が2人の関係の邪魔をした。恋に落ちてから1週間しか経っていない時に、私は再び逮捕された。彼女は警察の留置所にいる私に会いに来たが、面会を拒否された。そのことを知った私は顔を真っ赤にして怒り、彼女と会うことが2人の将来にとっていかに大切かを警官に説いた。彼らは最終的には彼女との面会を許可した。

 「どれくらい刑務所にいることになるの」と彼女は尋ねた。
 「正確にはわからない。おそらく3年だろう。5年か、7年になるかもしれない。」
 「長すぎるわよ!」
 彼女は活動家ではなかった。それほど長い間待つことの途方もないつらさを、理解することも耐えることもできなかった。
 「君に誰か別の恋人ができたとしても俺は怒らない。釈放されるまで君には何もしてあげられないから」と私は言った。「だけど、もし君がその時まで俺のことを待っていてくれるなら、一緒に生活しよう」。1年か2年して、彼女は別の男性と結婚した。

 これは私だけの話ではない。多くの政治囚にも似たようなことが起きている。逮捕された当時すでに結婚していた男性もいた。こうした人の多くは、妻と家族が自分抜きでも生活していけるようにと供述書に署名をする決断をした。彼らは自発的に署名した。だが自分の名前を記すとき、彼らの目には涙があふれる。
 これは政治囚と元政治囚に常につきまとう避けることのできない現実である。1人の人への愛と祖国への愛の間の選択を迫られるのである。

眠れない夜

 元政治囚は出獄した後も長期に渡って苦しむ。「自由」をたやすく手にすることができない。私たちは様々な理由から生計を立てることに苦心する。政治活動家を雇えば情報部とトラブルになるため、私たちを雇う人はいない。さらに私たちには教育、特にテクノロジーや外国語といった今の時代に非常に重要なスキルに恵まれてもいない。

 政治囚は肉体的にも精神的にも拷問を受ける。私たちは何年にも渡って社会から隔絶される。読み書きが許されない。普通の人生に復帰することがきわめて困難なのは当然である。憂鬱になる。働き口が見つからないからだ。他人に対して怒りっぽくなり、他人と会うことを避けるようになる。時には自分たちが価値のない人間なのではないかという感覚に囚われる。これらは私たちの持つ、うつ状態を始めとする心的外傷の兆候である。釈放後に受け続ける嫌がらせによって、私たちは精神面・情緒面で苦しむ。釈放から何年も経っても、夜に家の外で物音が聞こえれば、もう眠ることはできない。ある種のショックを感じる。もう一度逮捕されるのではないかという恐怖に駆られる。

 元政治囚は自分自身および家族に対する脅威、行動制限、名誉に対する侮辱、言論・演説・結社による自己表現への検閲、個人的な生活の犠牲に対処しなければならない。こうした暗黒の経験から明るい面を発見するのは非常に難しい、しかし私たちはそれを見つけようとし続けなければならない。いまだ獄中にある友人たちを忘れることはできない。私たちはともに祖国の中の「檻のない刑務所」にいるのだから。(了)

(訳:箱田 徹)

出典:Bo Kyi, 'Prison Without Bars: The Daily Life of a Former Political Prisoner', Assistance Association for Political Prisoners (ed.) in Spirit for Survival, Mae Sot: Thailand, 2001, pp. 117-128.

注:

[1] 筆者のボーチー(Bo Kyi)は、1988年の民衆蜂起時に政治活動に加わり、全ビルマ学生会連合(ABFSU)の執行委員を務めた。同連合のミンコーナイン議長と共に89年3月23日に逮捕されたものの、その後釈放された。しかし90年3月16日に、あらゆる学生政治囚の釈放を求めるデモへの参加を理由に逮捕され、懲役3年を宣告された。93年に出獄したものの、94年7月17日に再度拘束され、懲役5年の判決を受けた。98年10月2日にタラワディ刑務所から出獄し、その一年後にビルマを出国した。現在はビルマ政治囚支援協会(AAPP)の共同書記を務める。(原注。以下断りがないものは原注)

[2] 1993年1月21日。28歳の誕生日だった。

[3] 1994年7月5日。コー・テッウィンアウンの誕生日だった。彼は現在サガイン管区カレー刑務所で16年の刑に服している。これはビルマの学生活動家に対する最長の刑期である。

[4] 当時の名称はSLORC=国家法秩序回復評議会。

[5] ビルマのニュースを流す海外のラジオ局は、英BBC、DVB(ビルマ民主の声)、RFA(ラジオ・フリー・アジア)、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)。

[6] 1994年7月17日。

[7] 1950年の緊急事態法第5条j項は、上官の裁量で罰金と7年までの服役刑を課すことができる。

[8] 英国植民地支配は1886年から1948年。日本占領期は1943年~45年の2年間。(訳注)

[9] ヌは47年のアウンサン暗殺後に政権を担い、48年の英国からの独立時の首相。AFPFLは58年に分裂し、一時ネウィンが選挙管理内閣を組織した。選挙に勝利したヌは再び政権を担当しようとしたが、62年3月のネウィンによる軍事クーデターによって政権の座から追われた。(訳注)

[10] ミンコーナイン(本名:ポーウトゥン)はABFSU議長で、88年の民主化運動を指導した学生指導者の1人。89年3月23日に逮捕された後、1950年の緊急事態法第5条j項違反で15年の刑を宣告される。その後に刑期が10年に減刑されたため、2000年3月時点で刑期は満了しているはずだが、現在も釈放されていない。当初はラングーンのインセイン刑務所に収監されたが、98年にアラカン州(ラカイン州)シットウェー刑務所に移送された。拷問と長期の独房拘禁によって、肉体面・精神面での健康状態の悪化が懸念されている。  ミンコーナインはビルマで最も有名な政治囚の1人で、民主化勢力と国際社会が繰り返し釈放を求めている。アムネスティ・インターナショナルは、彼を「良心の囚人」として長年釈放キャンペーンを展開してきた。最近では2001年4月に米下院議員49人がビルマ政府に彼の釈放を求めた。国連の恣意的拘禁に関する作業部会(UNGWAD)は、ミンコーナインの「自由の剥奪は恣意的なものであり、国連人権宣言9条、19条、20条に違反する」としている。ジョン・ハンフリー自由賞(1999年、モントリオール)、チェコ共和国ホモ・ホミニ賞(2000年)、国際学生平和賞(2001年、ノルウェー)などを受賞。(訳注)

[11] モーチーズンは88年の学生運動指導者の1人で元ABFSU書記長。90年総選挙時には「新社会のための民主党」(DPNS)を結党した。その後は全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)議長、副議長を務めた。米国に亡命中。(訳注)