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社会

刑務所にいる仏陀の息子たち
2004年12月1日配信 政治囚支援協会

刑務所にいる仏陀の息子たち
政治囚支援協会『僧侶が還俗させられ、投獄される国』(2004年12月)より
ナインチョー

 以下の記事は著者の刑務所での経験を回想したものである。著者(本名、テッナイン)は元政治囚で、現在はビルマ政治囚支援協会(AAPP)書記長を務める。

 ビルマは仏教国としての長い歴史を持つ。ビルマの仏教徒は仏法僧(三宝)を篤く敬い、僧を仏陀の息子としてあがめている。

 新聞やテレビなど国営メディアは、軍事政権=国家平和発展評議会(SPDC)が僧院やパゴダ(仏塔)を建設あるいは改修し、僧侶に托鉢し、薬を寄進する様子を年中報道している。

 だが、私が刑務所の中で見た僧侶に対する残酷な扱いは、普段軍政がメディアで流している情報とは全く異なるものである。

 私はインセイン、プロム(ピィー)、タイェッの各刑務所で通算約3年を過ごした。確かに辛い時期だったが、最悪の状況を予想していたので耐え忍ぶことはできた。しかし投獄されている僧侶らの日常生活と彼らに対する当局の残酷な扱いを目の当たりにして、私は言いようのない気持ちにさせられた。

 当時の経験や感じたことをことばで言い表すのは誰にとっても非常に大変なことだ。しかし私は皆さんにこのことを知ってほしいと心から願い、筆を執った。

 僧侶の大半は政治的な理由で投獄されていた。僧侶は刑務所に連行されると、ただちに法衣を強制的に脱がされた。刑務所以前の段階、つまり尋問センターの時点で強制還俗させられた僧侶もいた。しかし戒本によれば、波羅夷(はらい)を犯さない限り、僧侶は本人の希望以外の理由で還俗させられることはない(注1)。強制還俗が行われたからといって僧侶が世俗の人間に戻るわけではないのだ。

 刑務所では、僧侶用に早朝の食事が用意されることはない。にもかかわらず、僧侶たちは僧侶としての伝統的なしきたりのすべてに則った生活をしようと常に努めていた(僧侶は正午以降に食事をとることはできない)。こうした事情を考慮して、政治囚側が夕食の配給を僧侶用に少し残しておき、早朝用の食事として僧侶に寄進することもあった。当局はこれを発見した際、僧侶と政治囚の双方を厳しく罰した。

 僧侶は刑務所内でも様々な困難に直面する。水浴びの時ですら、刑務所が指示する水浴び態勢をしなればならない。水浴び監督役の囚人が「汲め」「かけろ」「やめ」という号令をかければ、僧侶も従わなければならなかった。僧侶の動作が号令とずれていると、罵声が浴びせられた。

 食事の時間になると、僧侶は配膳役の囚人から食事をもらうためにお盆を持って並ばなければならなかった。また就寝時には、房の監督囚の足を目の前にして寝なければならなかった。僧侶は座った姿勢での瞑想が許されていなかった。

 看守たちは自分のことを「主人」と呼び、僧侶にもそう呼ばせることで僧侶の地位を貶めた。

 当時、私はインセイン刑務所の第5房で、ラングーンのシュエポンプウィン僧院出身のオーバータ師、ワーヤマ師、ゾーティカ師、コータンラ師ら4人の僧侶と生活をともにしていた。彼らは1990年10月、覆鉢(注2)を行い、軍人とその家族からの布施を拒否する運動に参加していた。緊急措置法5条J項と刑法295条によって全員が懲役3年を言い渡された。皮肉なことに、刑法295条は宗教に対する侮辱を禁じている条項である。私たちが第5房にいたときのことだ。50人以上の看守がやってきて、当番の囚人(凶悪犯)を除いた全員に、緊急事態用の態勢であるポンザンジー座りをするよう命令した。1991年11月22日午前3時頃のことだった。次に看守は移送される政治囚の名前のリストを読み上げ、1人ずつ房の外へ出るよう指示した。名前が呼ばれたので、私は寝床を整え扉のところまで行った。そして、ここで別れることになる同房の僧に最後にお辞儀をしたいと思い、思い切って立ち止まり、視線を向けた。目に入ってきたのは、ポンザンジーの態勢、すなわち足を折り曲げて立ち、額を床につけ、手を前の方に伸ばしている僧侶の姿だった。まるで僧侶が刑務所の職員にお辞儀をしているようだった。私は呆然とした。そのままどれくらい経ったのだろうか。再び我に返ったのは看守に背中を3、4回叩かれてのことだった。涙が頬をつたったが、背中を叩かれた痛みからくる涙ではなかった。

 この時に計100人の政治囚(うち僧侶は6)がタイェッ刑務所へ移送された。74歳を超えていたメッギン長老もその一人で、高齢であるにもかかわらず、移送中は鉄の枷が手足にはめられていた。私たちはイラワディ川沿いのタイェッ船着場で渡し船を降ろされてから、刑務所まで2時間ほど歩かなければならなかった。看守と警官、国軍兵士が横を歩き、道中はずっと警棒や銃の台尻で殴られた。インセイン刑務所を出た際に草履は没収されていたので、棘のある草や藪、茂みの中を裸足で歩き通さなければならなかった。メッギン長老が片手に鉄製の足枷を、もう一方に寝具を持って歩いているのが目に入った。よく見ると、師の足は血に染まっていた。軍政は僧侶をこのように扱ったのだ。本当に耐え難いことだった。

 1991年10月のことだと思うが、インセイン刑務所の第5房にいたピィーチョー師が、この房を担当する看守のアウントゥンから何度も平手打ちを受けたことがあった。この看守が自分の前を通過する時にお辞儀をしなかったことが理由だった。政治囚はただちに上司のソートゥンのところに行って抗議したが、すべての囚人には刑務所の規則に従う義務があるという答えが返ってきただけだった。アウントゥンはピィーチョー師への謝罪を拒否した。結果として、政治囚と監督囚(刑務所当局から指名された凶悪犯)との間に摩擦が生じた。

 一部の裁判では、覆鉢に参加した僧侶が、緊急措置法第5条J項に基づく政治囚としてではなく、刑法295条の宗教侮辱罪違反で起訴された。こうした僧侶は強制労働収容所に送られた。例えば、ラングーンのコータッジー僧院に所属し、覆鉢に参加した僧侶は、刑法295条違反で懲役3年の刑を宣告された後、1991年10月にインセイン刑務所の第5房から強制労働収容所へ移送された。

 シュエポンプウィン僧院のゾーティカ師は1992年10月に健康状態が悪化し、インセイン刑務所内の病院に運ばれた。年は60歳近くだった。入院後も健康状態は悪化した。刑務所内の医師側が治療を断念すると、師はラングーン総合病院の地下にある監視付の囚人房へ搬送されたが、間もなく息を引き取った。足を引きづっていたこの長老はこのとき、白い囚人服を着て、4キログラムの鉄製の枷をはめられていた。

 ラングーンにあるタイェットー僧院のアーサラ師は35歳の時に、非合法結社法で10年の刑を受けた。師は1996年1月、タイェッ刑務所内で黄疸と慢性的な発熱におそわれた。刑務所当局は外部の病院へ搬送してほしいという師の要求を拒否し続けた。危篤になって初めて要求が入れられ、タイェッ総合病院へ移送された。刑務所側が対応を怠ったせいで、師に残されたのは瞑想をしながら死を待つことだけだった。移送の2日後に師は亡くなった。

 バッダンタイェワタ師は1990年10月19日、52歳で逮捕された。軍事法廷で裁かれ、僧侶らの反政府活動を指導したとして12年の刑を宣告された。師はマンダレー刑務所から新設のオーボ刑務所へ移送させられた。湿った床で眠り、薬はなく、十分な食事も与えられなかったため、腎不全を患った。師は1998年に釈放されたが、服役中に罹った病気が原因で1999年1月に亡くなった。

 仏陀の息子である僧侶たちは、尋問センターで、強制収容所で、刑務所で、強制労働収容所で拷問を受けひどく苦しめられている。「なぜこのような事が起こっているのか」「誰がこの責任を負っているのか」「一体誰が有罪であるのか」――疑問は尽きることがない。仏教徒が多数を占める国で、「仏教徒」の一部がこのような大罪をあえて犯しているのか。私はそのことが信じられないし、理解もできない。こうした人たちは、このような残虐な宗教迫害をはたらく邪悪な心をいったいどこで身につけたのだろうか。

 度々思い当ったのは、こうした無惨な出来事が起こるのは、軍の独裁者らの振舞いと国の状態とが鏡像のように同じであるからだということだった。このことに気がついた時、私は仏教徒であるかどうかは関係がないのだと気づいた。抑圧者が特権を持っている権力構造が、資本主義でも社会主義でも変わりはない。根本にあるのは、ビルマ社会では人々の間でいじめや差別が、とりわけ人権侵害が、常態化してしまっていることだ。このことと、権力を保持し、金銭的な富を得る人々が、そうした利権を維持するために人権を侵害することとは別のことだ。軍による独裁体制は、人権蹂躙やいじめを習慣の一部として容認するように人々を作り上げてしまう。

 歪んだ考え方を持つ人々がためらうことなく互いに嫌がらせや虐待を行う姿を私はたくさん目にしてきた。しかし私たち活動家は、独裁体制だけではなく、慣習となって受け入れられている人権侵害などの行為をいかにして取り除く事ができるのかを深く考えなければならない。私はこの責務を自分の出来得る限り果たしていくと心に決めている。

(翻訳:渡部沙織及びビルマ情報ネットワーク)

注1:戒本(波羅提木叉=はらだいもくしゃ)は、比丘と比丘尼の持する戒条の本文のみを記した経で戒律の基本となる。内容は各部派の伝持する戒本によって多少の変化はあるが、犯した罪の軽重によって波羅夷(はらい)以下8種に分類され、記述されている。上座部仏教の具足戒では比丘の守るべき戒として227条が定められている。波羅夷(四重、四重禁とも)とは、淫・盗み・殺人・妄語(自分が悟っていないのに修行が完成したと主張すること)の4つである。これらは戒律では最も重い罪となり、教団(サンガ)追放となる。
(参考:中村元ほか編『岩波仏教辞典』第2版、2002年、岩波書店、pp. 132l, 832l, 831r, 427l & 253l)

注2:覆鉢(鉢伏せ行、パッタムニックッジャナカンマ)の要件は、仏典上の該当箇所によれば以下の8つの行為である。これのいずれかに該当することを為した在家に対しては、覆鉢をなすことが許されている。またこの覆鉢を解く為には、本人が過失を認め懺悔し、仏陀がそれを過失として認め、受け入れ、作法に則って覆鉢を解くことが記されている(参考:『南伝大蔵経』第4巻、律、小品、190頁6行目~194頁9行目。大蔵出版、昭和15年)。
(1) 僧侶たちへの布施を妨げる
(2) 僧侶たちの福利を損なう
(3) 僧侶たちの住処を荒廃させる
(4) 虚偽の中傷によって僧侶たちに汚名を着せる
(5) 僧侶たちの和合を乱す(破和合僧)
(6) 仏陀を誹謗する
(7) 仏法を誹謗する
(8) 僧団(サンガ)を誹謗する

出典:Naing Kyaw (Tate Naing), 'Sons of Buddha in Prison,' in Assistance Association for Political Prisoners (Burma), Burma: A Land Where Buddhist Monks Are Disrobed and Detained in Dungeons, 2004, pp.74-76.